professional of joker 作:たいたい35
「もう少しだけ、頑張らないと」
カラスの影が夜空に溶けていった。ファスリアンはそよ風の中で落ち葉やらゴミやらを丹念に竹箒で掃除している。牧場の魔物たちは多種多様で、もちろん夜の越し方も千差万別だ。穴を掘って巣を作るものもいれば、芝生にそのまま寝転がる大胆な魔物もいる。その雄大な景色を眺めながら、彼女は作業を進めていた。
「よし、あとは向こうだけ、って、あわわ!スラっちさん!びっくりしました、どうしてここに」
一人静かに牧場の手入れをこなす彼女のもとにスラっちがやってきた。視界が悪く、そのひんやりとした身体が触れるまで気づけなかったようだ。どうやらスラっちはファスリアンに懐いたようで、彼女の足に密着している。そんな様子が微笑ましくて、彼女は腰を下ろし、優しく撫でた。
「スラっちさんはユウリ君の仲間だというのに、いけませんね。やっぱりボクはまだ、未練があるみたいです」
彼女がつくる笑顔は少し不器用だった。唇は少し震えている。しかし、撫でられるスラっちは気持ち良さそうで、冷たい彼女の手のひらが心地良いらしい。撫でてはいけないと分かっているのに、未練と後悔が後押ししてくる。懐いてくれるスラっちが愛おしくてたまらない。
潔白な表情が胸に突き刺さったことでようやく、重たい手をなんとか持ち上げた。
「ダメなんです。ボクに君を撫でる資格はありません。ボクは、モンスターマスターではないですから……」
一筋の涙がスラっちにこぼれ落ちた。その意味も分からぬまま、不思議そうにファスリアンを見つめている。暗がりで彼女の顔はよく見えないけれど、何かを我慢するような小さな吐息の音がスラっちを通り抜けていった。スラっちに手を乗せたまま、数十秒が経過する。どうして撫でてくれないの?そんな顔をしているが、彼女はようやく手を離した。そして立ちあがろうとすると、小屋の方から誰かが走ってくる。
「よかった、スラっち、ここにいたんだね。散歩がしたいなら言ってくれればいいのに、一人だと危険だよ!あれ、ファスリアンさん、まだ起きてたんですね。掃除なら僕にも手伝わせてください!」
「いえ、ユウリ君はお客様ですから、掃除はボクの仕事です。明日も朝は早いと聞いています、ゆっくり休んでください」
闇夜の静寂を切り裂くように、ユウリの透き通るような声が彼女に浴びせられた。その姿はまるで山から顔を出す太陽のようだった。
「スラっち、すっかりファスリアンさんに懐いちゃって。やっぱりスラっちも、モンスターが大好きな人に撫でられたいって言ってます」
「ごめんなさい、ボクなんかが……」
「スラっちは僕とは違って賢いんですよ」
食い入るように言った。まるでその先の言葉を阻止するように。えっ、驚いた彼女は思わず俯いていた視線をユウリの方へ。しかし直視することはできない。相変わらずニコッと笑顔だった。
「危険な相手にはまず近寄らないんです。この人なら優しくしてくれる、そう確信してから身体を寄せるから!何を大事にしている人かどうかが分からないスラっちじゃないんですよ!そうだよね、スラっち?」
ピキーっ!空にこだまする高い鳴き声と共に、ユウリの胸に飛び込んできた。ファスリアンが魔物を否定し、愛情を注いでいないなら、スラっちが懐くはずがなかった。ユウリは彼女を心から尊敬し、知ろうとしていたのだ。ひと目牧場を見ただけで分かった、彼女はモンスターが大好きなのだと。
「ユウリクンにはモンスターマスターとしての特別な才能があるよって、ソレアさんが言ってました。モンスターが大好きで、野生の子にすら笑顔で向かってしまうなんて、ボクとは大違いだなぁ……」
冷ややかな風が続き、ファスリアンの耳はすっかり赤くなっていた。彼女のため息が空をさらに暗くする。
「ボクは、モンスターマスターになりたかったんです。野生のモンスターをスカウトして、一緒に冒険するのが夢でした。リングを着けて、タホドラキーを一匹借りて、初めて野生のももんじゃと対峙した時、その凶暴さにボクは絶句しました。牙を剥き出しにして、目は焦点が定まってなくて、ボクたちを食糧としか見ていなかったんです。その瞬間、何も考えられなくなって、途端に魔物が怖くなって、震えることしかできなかった……。それでも、噛みつかれたタホドラキーの叫び声で我に返って、急いで引き剥がして逃げ出しました」
彼女は虚な目をしていた。図鑑で見ていたモンスターは、野生とは似ても似つかない。スカウトをして一緒に冒険をしたいなどという夢がどれだけ浅はかだったのか思い知らされた。軽はずみな思いでモンスターと仲良くなりたいと言ってしまった自分がどうしようもなく情けなかった。
「それ以来、野生が怖くなって、でも、そんな経験をしてもボクはモンスターと触れ合うのを諦められませんでした。ここに牧場を作って、スカウトで凶暴さを失った子たちだけを相手にするようになったんです。そうすれば自分の知っている、『かわいいモンスター』だけを大事にしてあげられる、そう思ったから……。そんなボクに、モンスターマスターだなんて、魔物が大好きだなんていう資格はありません」
それは、違います。それは芯の通った覚悟にも似た声だった。ユウリは、今の彼女の発言の全てを否定したのだ。
「大好きなモンスターと一緒に歩んでいきたい、その志をモンスターマスターって呼ぶんだと、僕は思います。みんなから家族を預かって、こんな夜中まで安静を見守って、魔物たちが暮らしやすいように整備をする、その原動力は紛れもなく魔物を愛する気持ちです。だから、ファスリアンさんは誰よりも立派なマスターなんです。だって、牧場から戻ったモンスターは、安全を願うファスリアンさんの思いと一緒にまた新しい旅を歩んでいくと思うから……!」
「ユウリ、君……」
夜天に輝くユウリの思いが彼女を激しく貫く。自分の行いを誰かに認めてほしかったわけでも、褒めてほしかったわけでもない。けれど、ユウリの言葉で彼女の重りが取れた気がした。気づくとファスリアンは目頭を熱くし、涙を流していた。本当は、誰かにすがりたかったのかもしれない。しかしそれからすらも逃げて、記憶の本棚の奥に閉じ込め、もう何も思い出さないようにしていた。ユウリは自分をマスターだと言ってくれた。それでも、怖くて怖くて仕方がなかった。あの日の幻影が具現化し、光景となって目の前に現れる。必死に前を向こうとするファスリアンを締めつけるのだ。
「でも、ボクは、野生の魔物が怖いんです……!あの日の光景が頭から離れない、助けてと苦しそうな声で鳴くタホドラキーに、ボクは何もしてあげられなかった……!足がすくんで、逃げることだけ考えて……!」
トラウマが鮮明にファスリアンを襲い、その場に泣き崩れてしまった。それを見たスラっちが震える彼女を必死に温める。身体をめいいっぱい広げて、自分の体温を伝えようとしていた。そしてユウリは彼女を否定することはなかった。むしろ頷き続け、共感を返していたのだ。
「野生のモンスターは、誰もが怖いと思って、恐れています。会話ができない、意思疎通なんて当然できなくて、人間より遥かに強い。そんなモンスターが怖いなんて当たり前です。僕のスラっちだって、街では迫害を受けました。野生の魔物が怖くない僕の方がむしろ異常なのかもしれないですね」
自嘲気味に言った。ファスリアンも何も言うことはできない。自分も迫害した人間たちと変わらないのではないか、そう思ってしまったからだ。大切な仲間を見捨ててしまったのだから。
「バトルGP協会会長のグラスターでさえ、モンスターを恐れているから迫害するんです。僕はそれが許せなかった。でも、リーヤに言われて気づいたんです。リングを手に入れた僕がするべきなのは、グラスターを倒すことだけじゃないんだって。もっともっともっとその先、人とモンスターが幸せに共存できる世界をつくるべきなんだって思いました。グラスターも、街のみんなも、そしてファスリアンさんも、みんなが野生の魔物とも分かり合える世界をつくるんです。僕が出来なくても、そのきっかけを僕が――――」
そんなことできるわけがないです、反論することもできないほど、彼は眩かった。ユウリがここにきた時からずっとそうだったのだ。今日まで悪夢を背負って生きてきたファスリアンにとって、彼の理想は目を背けたくなるほどに美しく光輝いている。
「だからもう、怖がらなくていいんだよ……!僕が必ず、ファスリアンさんの夢を叶えてあげるから!」
「ボクの夢……?」
ふと、一つの光景が頭をよぎった。牧場で預かったモンスターと、ファスリアンがスカウトしたモンスターが戯れ合っている様子だった。その中心に彼女がいて、歯を見せて笑っている。そっか、ボクは、ずっと心のどこかでこんな未来が来ることを期待していたんだ――。
ユウリさんならきっと、叶えてくれる。こんなボクでも、野生の子と分かり合える術を見つけてくれる――。
彼に自分の思いを託したい、未来を託したい!ボクは、モンスターが大好きだから……!ファスリアンはユウリの手をぎゅっと握った。今日初めて、二人は顔を見合わせた。その顔にはもう、一点の曇りもない。
「ユウリ君なら絶対できます!人も魔物も関係ない、そんな未来をつくれます!ボク、信じてますから……!」
彼女の冷たい手がユウリを包む。頬は少し染まっていた。ファスリアンの瞳からは濁りがすっかり無くなり、どこまでも青く澄んでいる。暗い雲の下でも、彼女の輝きが翳ることはない。
「バットの調子、明らかに良くなっていました。ファスリアンさんのサポートのおかげです。これからも僕の仲間たちのこと、お願いします」
「そんなの……もちろんですとも!」
彼女のくせ毛を押さえるように小鳥が乗った。こんな夜更けにどうやら寝ぼけているようだ。ファスリアン自身も少しウトウトしていて、それを二人で笑った。
「それじゃあ僕は戻りますね。ファスリアンさんもゆっくり休んでください」
「『ファスリアン』がいいです……。ユウリ君には、そう呼ばれたいなって……」
「うん、分かった!じゃあねファスリアン!」
ファスリアンの声は後半につれて小さくなっていった。一人満天に取り残された彼女は、頬を少し染めて鼻歌を歌っている。バサっ、箒で掃いた枯葉が宙を舞った。
「えへへ、ユウリ君はかっこいいなぁ……。ボクももっと頑張らないと!」
ランタンの灯りと共に、彼女は小屋へ戻って行くのだった。