三匹の蛇   作:休肝婆

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 老人は暗い湖に横たわる痩せ細った娘を、力無く見下ろした。
 青白く、濡れそぼった髪はくしゃくしゃで、引っ詰めて事務員をしていたある日の影もない。
 臍の緒を切った赤子をもう一度抱かせたかったが、じっとりと濡れた毛布では、弱り切った彼女を長くこの世に留めておけないことはわかっていた。
 赤子の鳴き声に駆けつけて湖から引き上げ、赤子を抱かせた時の、瞳の輝き。それが永遠に失われてしまったのをライトで照らして確認して、瞼をそっと閉じさせた。

 ここで駆け回って、時にはボートを出して釣りをして育った娘が、なぜこうも弱り果て、死ににきてしまったのかはわからない。自分でも死を悟っているようで、自分の助けより赤子の処置と、水を吐かせるのを先に願った。

 娘の血が混じった赤黒い湖は、依然冷たい星々の光を反射している。
 しかしその冷たい光景の中にあっても、腕に抱えた赤子は暖かかった。

 ラクラン。この子の名はラクランにしよう。
 湖の人。湖で生まれた子。この湖のように、悲しみを包む人。
 
 明日には霊柩馬車と神父を呼んで、葬式をしなければ。
 毛布で包んだ娘を、ボートに乗せ、幕を張る。火に当てない方が、まだ美しく見えた。

 すうすうと寝息を立てる赤子に額を擦り付け、老人は嘆息してから、背中を丸めて小屋へ戻った。




1973年〜1974年
三匹の蛇 1


 コットランド、ロッホアーバー。アーカイグ湖の支流、ピーン川の辺り。ここが何という名前の村だったのか、やって来る人々に教えていただろうボート型の看板は、風雨にやられて少しも読めない。看板の形と、そこに打ち付けてある端材で雑に作られた魚から、湖や川での魚業と水運を営んでいたことだけが読み取れた。

 

「ハァ、ハァ!......まったく!なんて場所に!住んでいるんだ!!マグルなのに!!」

 年々大きくなっていく腹を必死で持ち上げながら、いささか古臭い外套を引きずって男が歩く。真っ赤な顔からダラダラと垂れた汗が、ヒースの茂みに吸い込まれていくのを見届けて、ついに男は天を仰いで呻き声を上げた。

 

 男の名は、ホラス・スラグホーンという。

 名門ホグワーツ魔法魔術学校の魔法薬学教授であり、スリザリンの寮監の、れっきとした魔法使いだ。

 見た目が(普通のおじさんっぽくて)マグルを刺激しにくいという理由で、今年もマグルうまれの新入生とその家族への説明訪問に引っ張りだこ。

 (もうちょっと、人間っぽい見た目の同僚が増えないものか)

 種族や血筋に関して穏健派のスラグホーンも、この時期ばかりはそんな思いが幾たびか頭を通り過ぎる。

 

 穏健派ではあるが、スラグホーン家は聖28一族の一つにも数えられる、れっきとした純血の魔法使いの一族である。そんなスラグホーンがなぜ魔法を使わず、ただの中年太りのおじさんのように歩いているかというと、場所に問題があるからだ。

 

 渓谷と湖が連なり、牧羊とウィスキーの醸造くらいしか目立った産業がないお陰で、古くからの原野が多く維持されているこのハイランドは、もともと魔法族の住み着きやすい土地である。

 加えてグラスゴーは空爆にあい壊滅、若い男達は高地人部隊として、あるいは出稼ぎに外へ出る。戦前戦中主要産業だった造船はすっかり下火になり......という具合に、ハイランドの西側は、イングランドを中心とする戦後の経済成長に見事に置いてけぼりになった。

 世界大戦の始まるずっと前、ハイランド・クリアランスの頃から大して変わらぬ生活を維持しているイギリス魔法族にとっては、今この時代にあって、この辺り一体はこの上なく住みやすい土地なのだ。

 

 つまりはどうなるかというと、姿現しができない。

 

 ホグワーツ城も、"この辺りであって、この辺りでないどこか"にある。が、ホグワーツ城はその厳重な守りのために、姿現しできない。勝手に弾いてくれるから、バラバラになる心配もない。問題は魔法族の屋敷の方だ。

 特に、湖水地方の方ではなくわざわざこの人跡稀で車の音も届かない奥地に来ている、マグル嫌いな、気難しい純血の尊き一族のお屋敷。もちろんどこもかしこも魔法で幾重にも守護呪文をかけ、館自体の姿を隠して潜んではいる。マグルに見つからないように。

 

 そう、一般家庭はホグワーツのように姿現しや煙突飛行ネットワークを制限してはいないのだ。

 友人家族の訪問、職場への移動を考えれば当然だ。不便で仕方ないし、ルーモスのようにヒョイと操れる呪文でもない。

 

 どこにあるとも知れぬマグルの家を求めて姿現しを無闇にすると、偏屈なマルフォイ邸とかにダイナミックお邪魔しますすることになりかねないのである。

 未来ある優秀な生徒がすきなスラグホーンだが、自分に関してはそんなビッグさは望んでいない。

 

 純血主義なお屋敷は大抵マグル対策が入念に施されたお屋敷なので、徒歩で通ればまず敷地内には足を踏み入れないで済む。そんな理由で、スラグホーンはかれこれ数時間、マグル式で新入生の家を探していた。

 

「黒い湖に灰色の空。見渡す限りヒースだらけ。お〜ヤダヤダ!」

 

 悪態をついた先、ふと顔を上げて目を凝らしてみると、なんだか家らしきものが見える...?新入生の家とは限らないが、着地点がわかってしまえば、こっちのものだ!

 

 バシッ

 

 

 

 ――――バシッ

 

 破裂音と共にぐるりと視界が周り、足の下に地面が滑り込んできて、体重が戻ってくる。

 古ぼけた平家建ての家が、ようやっと目の前だ。残念ながら標識はないが、フクロウ便の宛名通り、赤い屋根だ。

 "スコットランド・ロッホアーバー・ロッホ・アーカイグ支流、ピーン川沿いの名無し村。アラン・ケイヒルの赤い屋根の傾いた二階建て、屋根裏部屋 ラクラン・ケイヒル様"

 うち宛じゃない梟が紛れ込んだと各屋敷から返送された手紙のうちの一つと見比べ、一つ頷いたスラグホーンは、咳払いしたあと、自信を持って苔むしたノッカーを手に取り叩いた。

 

 ドン、ドン、ドン。

 

 錆びたノッカーの軋む音が混じった、いやに重々しい音がした。

 

 

 

 日この日までラクランは、大人ってやつは泣けないもんだと思っていた。

 

 じいちゃんはよく夜遅く、大抵酒を片手にばあちゃんや母さんの古ぼけた写真を撫ぜているけれど、今にも壊れそうな雰囲気を出してるくせ、目はずっと乾いたままだったから。

 

 大人って、こんなにも無様に泣けるものなのだろうか?

 十一になったばかりのラクランは、衝撃に慄いていた。

 生まれてきたばかりのおれだって、これほど無様に泣き喚いたりしなかったんじゃないかな。

 

「だ、だから私は!」

「やはり尿検査が必要か?」

「手紙だ!手紙が届いたはずだ!ホグワーツから!」

「オグワーツゥ?」

 

 資料集の19世紀の写真から飛び出してきたような、妙ちきりんな外套はシワシワ。脂汗で禿げかかった額がテラテラとひかり、口端に泡をためている。

 見知らぬおじさんの真っ赤な顔が今にも破裂しそうで怖いけど、じいちゃんはそんなのお構いなしに、慣れた手つきでおじさんの両手を後ろに回してきっちり縛り上げて、ロープの先っちょをグイっと引っ張った。

 

「アレもお前の悪戯か!魔法!魔術学校!フン!妙なもの人ンチの郵便受けにつっこみおって!」

「...ウチに郵便受けなんてものがまだあったのか」

 

 おじさんは可哀想だけど、たしかに手紙というのは妙だ。

 世界大戦で若い人がみんな死んでしまったとかで、数世帯が住んでるだけの人口より墓碑が多いこの村に、わざわざ30マイル離れた街から配達へ来るなんて効率が悪すぎる。

 新聞や普通の手紙は街へ買い出しに行く時にそれぞれが自分で受け取るし、エディンバラへ出ていった息子が事故で危篤だとか、そういう急ぎの電報だって学校帰りにおれが受け取って届けるのが決まりだった。

 

 だからこの村で手紙が入ってたってことは、「誰かが悪戯で入れた」って場合しかあり得ない。その誰かは30マイル離れた街から未舗装路を走ってくる物好きってこと。つまり、おじさんは暇を持て余した物好き。

 ちょっとだけ後ずさって、でも喉に小骨が引っかかった感覚に、おれはじいちゃんを呼び止めた。

 

「待てよ、じゃあじいちゃんはおれに見せもせず、ウチに初めて届いた手紙を捨てちゃったってこと、か...?」

「わかってるだろラッキー、届いたんじゃない、入れられたんだ。ああ捨てたとも!ストーブで燃やしてやった!ご丁寧に"魔法魔術学校"なんぞとお名乗りあそばされてたんだぜ、中身は宗教勧誘以外あるまい。そうとわかっていて、孫のお前に見せるわけにもいかん」

「でも......人生初のおれへの手紙だぞ、アラン・ケイヒル!」

「なんだ?ラクラン・ケイヒル」

 

「ラクラン?やっぱり君がラクランか!!」

「え?なに?!」

 しゅんとしていたおじさんが突然蓑虫のように動き出した。じいちゃんが慌ててロープを引っ張り、おれは今度こそ飛び退る。

 

「背が高いから間違いかも、と思ったが.....手紙は君宛なんだ!私の用も君宛だ!君が魔法の力を持っているから、私はここに来た!」

「魔法の力?」

「チッ、ほらみろ孫よ、やっぱりコイツはヤクをやってやがるんだ!顔色がナスみてぇじゃねえか。聞く耳持つな」

「なにか不思議な現象が起こったりはしなかったか!イライラした時や、悲しかった時!」

 

 不思議な現象。今まさに、関節をキメられながら真面目な顔して必死こいて意味不明なことを叫ぶおじさんに遭遇してるけど......たぶん、そうじゃないんだよな。うーん。

 ああ、小さい頃、真夏にぬるいラズベリーソーダを飲むのが嫌でカップを握ってたら、下から急に凍ったことがあったっけ。

 

「ええっと」

「もういい!とにかくこれを見てくれ!」

「おいテメェ、何しやがる!」

 うんうん考えるおれに焦れたのか、おじさんが後ろに回された手を懸命に伸ばして外套のポケットを探る。じいちゃんは凶器だろうとアタリをつけたのか慌ててポケットを抑えようとした。

 

 カラン、コロン、コツン。

 

 木の棒だ。おじさんの外套から引っ張り出されて、じいちゃんの手によってはたき落とされ、ちょっと傾いた廊下を転がってきたそれは、細工されてるだけの、ホントにただの木の棒だった。

 

「じいちゃん、これただの木の棒だぜ!でもなんかものすっごく細かく細工されてる...おじさん、もしかしてホントに魔法使い?」

「お前みたいなクルクルパーを勧誘する小道具だろ。いいから、そいつを拾ってこっちに渡せ」

 ほら、と差し出された大きくて分厚い手に渋々頷いて、木の棒を拾い上げようと手を伸ばす。

 

「熱!?.......わ!?」

 木の棒に触れた指先がカッと熱くなったと思ったら、握った途端にスルッと体を何かが巡っていく感覚がした。

 

 シャーッ

 

 陰からするりと足元に這い出たのは特大の蛇。ぐっと背を丸め、警戒たっぷりにとぐろを巻いている。ぬらぬらと光る闇色の体からは、錆びのような臭いが漂っていた。蛇は生まれて初めて見る。この辺りには生息していない。

 じいちゃんが後ろ手で猟銃を持ち直して構えようとした。ハッとして射線に入って遮れば、銃口をちょいちょいと動かされる。でも、初めて見る蛇だぞ!

 

「サラマンダー?!いや違う、オルフェーシュチか??...ええい、どっちか知らんがとにかくケイヒルさん、銃なんかじゃ話になりません、縄を解いて!ラクラン、杖を!私に杖を!」

「お、おじさん......?」

「杖を!私に!!!!」

「え、はい!これの、こと?!」

 ぽぉんと放った木の棒は、回転しながら綺麗な弧を描いて背中を向けて後手に縛られたままパタパタしていたおじさんの手に収まった。しゅるりとひとりでにロープが動いて解ける。

 ゆったりとした足取りで振り返ったおじさんは、ブレのない、熟練した動きで棒を構えた。

 

「エバネスコ!――消えろ!」

 

 聞いたことない単語をおじさんが発した側から、デカい蛇はしっぽの先からチリになっていく。パチパチと開閉する下瞼に、無垢な真っ黒の瞳が、いやに網膜に焼きついた。

 

 おじさんはホラス・スラグホーンなんて――なめくじ、なんてラストネームがあるだろうか?――ふざけた名前を名乗った以外は、れっきとした先生らしかった。少なくとも先生の担当するという魔法薬学は、聞くかぎりはマトモな学問だった。材料がちょっとヘンだけど。

 いくつかの証拠を持ち出されて何度か目の前で魔法を実演されたら、じいちゃんだって流石に信じる。お詫びに秘蔵のスコッチウィスキーを引っ張り出してきた。

 じいちゃんのとっておきは本当に上等だから、俺が軽く焼いたトマトとスモークサーモンを持って行く頃には、先生はすっかりご機嫌だった。ほどよく塩を効かせたから、おつまみにはちょうどいいはず。じいちゃんが合格とばかりウインクしてきた。

 

 じいちゃんも、料理は多少するけど、老眼だから火を使うのはほとんどおれの仕事だ。

 火や工具、ボートは昔から馴染みの遊び道具で、おれは隣村の鍛冶屋兼時計屋のじいさんの徒弟になって、この村の郵便配達をつづける予定。楽しいけど、まあ、通学途中のテレビで見るようなサッカーやラグビーはできない。

 不満はなかったけど、外を見れるチャンスがあるなら、それは楽しみだ。

 

 でも、じいちゃんが心配だ。おれが物心つくまではばあちゃんが生きていた。母さんは、おれを産んで死んでしまったけど、それまでは生きていた。

 おれが"予定"を放り出して、じいちゃんはどうなるだろうか?

 

「......先生、ありがたいことだけど、おれやっぱりここを離れるのが怖いです」

「そうかい?しかし制御を学ばなければ」

「でも、一度だって制御できなかったことは――さっきあったけど、でもそれだけです」

 そうだ、今までラクランは「ちょっと面白いことをしたくて」霧を起こしてみたり、雨の日に歩いて孔雀の歩く城に忍び込んだりはしたが、意思に反して何かが起こったことはなかった。

 それを説明すると、先生はまた汗をハンカチで拭って俯いてしまった。

 うまれた沈黙を重々しい咳払いでじいちゃんが破る。

「ラクラン。わしを理由に行かないことにするのなら、わしは今ここで銃口を飲んで脳漿をぶちまけたるぞ」

「な、何を言って」

「本気だ!わしは夢や大成することより、ただ生き延びることがどれほど大切で、優先すべきかという話をお前にした。自分の仲間がそれをできなかったからだ。大事なものを自分の側で慈しむことが、いかに得難い幸せかということもな」

 

 じいちゃんはそこで一旦言葉を切って、ウィスキーといっしょになにか苦いものでも飲んだみたいに、口をモゴモゴと動かす。

 しみじみと話すじいちゃんはアランという彼の名前の通り、ベン・ネヴィスの岩から切り出されたみたいなゴツゴツの顔をしている。

 雪焼けした赤黒い肌は風でできた細かい傷でいっぱいでひどく硬くて、目はいつだってその中でギラギラ輝いていたけど、今それは、鋭さはそのままに、どこか遠くを見ていた。

 

「...だがなラクラン、それは何もしないのとは違う。どこへもいかないのとも違う。いざと言うときは、生き延びることを優先しなくちゃならん。そらそうだ。ああ、そうとも」

 ジロリ、鏡を覗き込んだみたいに俺のとそっくりなじいちゃんの目が、不意に鋭くこっちを射抜く。そうそうされないことだったので、慌てて背筋を伸ばした。畜生、これじゃ怒られる犬だ。

 

「だが生きるのに困っていないとき、どうして自分が生きているのか、その意味を探さにゃならん」

 肩をそびやかして言いきったじいちゃんは、火の入ってないパイプを少し咥えて、パイプを持つ手をおれに振るって続けた。

 

「昔、お前のいうような人生を歩んだ爺さんがいた。安全だから、必要ないからといって、家の中に篭りきり。すぐ外の雄大な山を見もしなかった。家にずーっとこもりきって、結局階段から落ちて死んだ。どこにも足跡を残さず、誰にも爪痕を残さずな。そりゃ一体、なんのための人生だったんだろうな?外を見て回れ!って言うための、反面教師にしかならねえ生き方はよう」

「おれはここでも鍛冶屋で働く!」

「フン!新しいことはなんにもしないだろうが!いいかラック、どこにも行かない人生ってのは、生きてないのと変わらないんだ。遠くへ行けラクラン。行ける時に、できるだけ遠くへ」

 

 

 

 ンドンの片隅。古ぼけたパブの中は、不思議なことに外見よりずっと広い宿屋になっていた。

 宿屋の主トムに、おいしい夕食とサービスのココアのお礼を言ってから、2階へ上がったラクランはふかふかのベッドに沈む。

 

 スラグホーン先生の「姿現し」という難しい魔法はすごかった。朝焼けの中じいちゃんに手を振ってから先生と手を繋ぐと、ぐるりと勢いよく世界が回って足の裏に石畳の道が差し込まれ、あっという間のロンドンの裏路地だった。

 人波に揉まれながらキングズ・クロスを確認して、それから学用品を買って。本当に大忙し。体力には自信があったけど、今日は気力の方を削られた気がする。

 スラグホーン先生が帰り際私のお気に入りなんだって渡してくれた砂糖漬けのパイナップルをつまみながら、砂糖のついていない方の手でじいちゃんに渡された小さな聖書のページをめくった。

 

 まさか、じいちゃんがこの聖書を手放すなんてな。

 

 物心ついた頃から、おれの家族はじいちゃん一人だった。

 ばあちゃんも母さんも、古ぼけた写真立ての中にいるだけで、声も、目の色も知らない。

 ばあちゃんはインフルエンザで死んじゃったんだって聞いた。

 母さんのアイビー・ケイヒルは、衰弱して家へ帰ってきて、おれを産んですぐ、死んでしまった。それだけ知ってる。おれの父親については、じいちゃんも、村の誰も名前すら知らなかった。

 

 あの晩、じいちゃんがお詫びに出したスモークサーモンとスコッチウィスキーに舌鼓を打ったスラグホーン先生はご機嫌で眠りについて、いびきがうるさかった。

 ちっとも寝れないまま青い時間がやってきて、夜の虫と朝の鳥が鳴く間の、沈黙で目がはっきりとする。まだ聞こえるいびきに階段を軋ませないよう気をつけてリビングへいけば、じいちゃんが昨晩と同じ格好でストーブの世話をしていた。

 

 このあたりは大昔から住む人の少ない、静かな土地だ。そのぶん、魔法使いの隠れ家も多いらしくて、スラグホーン先生はうちに辿り着くまでに随分手間取ったらしい。手紙もなかなか送れなかったと。

 だから、じいちゃんに鋭い目でせっつかれて、自分に嘘をつかないことに決めて、入学したいですと言ったら、「よし、じゃあ明日ロンドンに行こう」と言われた。

 時間の余裕はなかったから、昨日の夜に自転車で町へ回って、もう郵便配達ができないことを伝えなくちゃいけなかった。

 

 鳥の声の聞こえ始めた朝靄のなか、じいちゃんと二人で湖まで歩く。

 初めて長い間会わなくなる。しかも急にだ。何を話せばいいかなんてちっともわからなかったし、俺もじいちゃんも黙っているのが得意だった。

 なんとなくおれは霧の向こうに向かって石を投げ、水切りして遊んだ。

 

「お前にやる」

 

 石が12回跳ねた時、不意に横から、小さな本をズイとじいちゃんが差し出してきた。小さくて分厚いから、表紙は曲がって丸っこくて、一見するとポケットで潰れたホットサンドみたいな本。

 それでも手に取ると、きちんと油で手入れされた革のカバーに覆われて、ずしりとしているのがわかった。手に持ったのははじめてだけど、見覚えはあった。

 

「これ、なんで?」

「わしのじゃない。本当はお前の、母さんのものなんだ。持っていけ」

「どうして今渡すのさ?」

「さあな。わしには文字が小さすぎると前々から思ってたが。タイミングがなかっただけだ」

 母さんは、病気なのかそうじゃないのかわからなかったけど、おれを産みに戻ってくる前、とにかく弱りきっていたらしい。だから、母さんが持っていた荷物はごく僅かで、

「形見だ。大事にしろ」

 

 短く言って、じいちゃんは石を投げた。横回転する平たい石が、勢いよく水面を跳ねていく。いち、に、さん、し...

「十六回!!ねえ、見たじいちゃん!」

「ラクラン」

 

「楽しんでこいよ、我が家の魔法使い」

 

 

 

ゴーン、と壁掛け時計が優しく鳴って、はたと目を開けた。ベッドに寝転がった後、考えごとをしながら寝入ってしまったみたいだ。

「スラグホーン先生が、明日は早いっていってたな」

 キングズ・クロスへの行き方はしっかり確認したし、先生がかけてくれた魔法のおかげで、荷物は全部トランクに収まった。

 歯磨きをしながら窓辺へ寄って、ロンドンの汚い空を見上げる。

 冷たく澄んだ空気はなく、排気ガスの匂いと、遠くの喧騒の気配がした。こうも人がうるさければ、星は息を潜めてしまう。

 

「ホグワーツは、静かだといいなあ」

 

 




マグルをびっくりさせないために、「ふつうの人間に近い見た目」の先生てきっと夏休み大活躍だし、マグルがただのマグルじゃなくて、フィジカルエリートだったら大変だよね、というイメージでつよつよジジイを描きました。スラグホーン先生かわいそう。
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