三匹の蛇   作:休肝婆

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 夏だと言うのに寒さに震え、他の狼人間たちから距離をとって穴蔵のなかほのかに暖かい小石に縋っていたはずが、知らない土地に着地した。
「ここは......」
 湖に、白い霧の立つ草原。霧の向こうに聳り立つ無数の猛々しい山。
 それから十数フィート先の湖畔にポツンと立つ、小さな赤い屋根の家。屋根から斜めに突き出る煙突からもくもくと煙が出ており、この一夏、いやもうしばらくずっと縁遠かった人間の生活の匂いを感じる。
 ラクランは、たしかフランスで仕事をすると言っていた。友人のいない家を訪ねるほどまでは落ちぶれていないつもりだ。おあいにく太陽には出会えなかったけれど、人里離れたここなら確かに羽を伸ばせそうだ。

 踵を返して適当な山の上へ歩き出そうとしたところで、ぐぎゅるるるるる、とものすごい轟音が腹から出た。ほのかに漂うサーモンとチーズの香りが、人間らしい空腹を唐突に掻き立てたらしい。腹を押さえ込んだところで、バン!と小屋の扉が開いた。
「何かと思えば、お前......人間か〜??」
「え、えーっと......ラクランの友人の、リーマス・ルーピンです」
「あいつの友達なのは見ればわかるわ!ゲホゲホ、さっきの声は一体なんだ!?」





三匹の蛇 26

 

 慣れた太陽より随分と眩い朝日に、唸り声を上げて寝返りをうつ。パリの朝は慌ただしい。下の通りの方からガヤガヤと人の声が聞こえ始めて、レギュラスはしぶしぶ体を起こした。

「おはよう!パン屋さん回ってみたけど、この辺は7時にならないと開かなそうだ」

 太陽に負けず劣らず朝から浴びるには苛烈な元気の良さでラクランがひょっこり顔を出し、またダダダダっと階段を駆け下っていった。レギュラスは髪を軽く撫で付けてから、眠っている間に少しだけ進んでしまった壊疽に杖を向けて止め、下へのんびりと降りていく。

 古い造りのアパルトマンの石は夏でもひんやりと冷たいけれど、きちんと人から人へ使われてきた歴史のおかげか階段やベッドのちょっとしたところが艶々と光って人の手のぬくもりを感じさせた。

 焼きたてのバゲットが手に入らなかったらしいラクランが渋い顔をして昨晩残ったバリバリのバゲットを薄切りにしている。

「おはよう」

「おはよう!悪い、マルシェにも行ってる暇がどうやらないみたい......」

 レギュラスが適当なボウルに水を溜めて顔を洗う間もラクランは忙しなく話しかけてくる。2回も挨拶するなんて......ともかく、なにかお願いをしたそうな雰囲気だ。

「...僕もおつかいくらいやるよ」

「本当かい!マルシェは野菜や魚が来るらしいんだけど、魚はみんな午後にはなくなっちゃうって昨日言われたんだ。ハタかなにか、新鮮なやつ2尾よろしく!」

 水をむけてみればあっというまに飛びつかれた。ラクランは言うがはやいか、家から持参したルバーブジャムをたっぷりのせて、少し塩を振ったタルティーヌを迷った末横向きに一口で口に収めてグッと力強く親指を突き出した。

「ちょっと、口を切るよ......行っちゃった。僕に魚の目利きは期待しないでもらいたいんだけど」

 レギュラスはぶつくさいって、ハタをフランス語でなんと言うか調べるためにマグルの英仏辞書を開いた。

 

 ラクランはあっという間に咀嚼を終えてカツカツと歩いていた。レギュラスは杖をほとんど抜かなくなり、最近は新聞や辞書を古本屋からかき集めてフランス語やマグルの世界を勉強している。マルシェも楽しんでくれたらいいんだけれど......。

 ポケットの中でルーンを入れた石がときたまカチリと音を立てる。このところ印が少しでも暖かくなると飛び起きてしまう。太陽が目に刺さってくるようだった。

 そうこうしているうちに豪華絢爛な建物があたりを取り囲むヴォージュ広場にたどり着いた。まだ早朝のためか閑散としているが、光の町と呼ばれるに相応しいきらめきだ。広場の中央から右角をみて左に数えて4棟目。建物と建物の隙間に歩みをゆるめずするりと入り込む。止まったり、あたりを見回したりしないのがコツだ。

「おはよう、その香水なに?」

「おはようございます、ムシュー・ルルー。アー...たぶん朝食のルバーブジャムです」

「メディでいいって。歯磨きしろよな!スコージファイ」

 

 建物と建物の間、魔法使い一人が通れるくらいの広さの空間には先客がいた。先輩補助研究員のメディ・ルルーだ。ハイランドではまず見かけない中東の濃い顔立ちで、太陽の光を集めたような肌に、ラクダのようなながい睫毛や芸術的に整えられた顎鬚が映える。ワックスをきちんとつけたカールする黒髪の先には昨日とは違うビーズがついていて、ジャラジャラと鳴った。肌も顔立ちも格好もどれも見慣れないから、ついついジロジロ見てしまう。慌てて逸らす間にスコージファイをまともに食らって、ラクランはうんざりした顔で口の中の泡を無言フィニートした。

「バリカタバゲットしかなくて時間かかっちゃったんですよ!」

「余裕をもって歩いてないとスリに遭うぞ。この辺は割と上品だけど、それでも移民街なんだから」

「そうでしょうか?移民街でも何代も住んできた人でも、物を盗む人は盗むでしょ」

「盗みたくて盗むやつなんてそもそも稀だよ。そう信じたいといったほうがいいか?真面目な人でも、生きるために犯罪をやっちまうことのが多いだろう。家や職や、これまで積み上げてきた学問が通用しないってのはなかなかつらいことだよ」

「そうですね......」

 ラクランはプライマリーで習ったことがほとんど活用されなかったホグワーツ時代を思い出す。それでもレポートの筆記や魔法史の理解に少しずつ役立てられはしたけれども、仮にセカンダリーも終えてから魔法界に誘われても、きっと自分は魔法の世界の住人にはなれなかったことだろう。

「俺たち移民は違う国地域から来ている。父祖の土地では起こり得なかった民族や宗教の対立がここじゃしょっちゅうだ。でもその分カオスだから、魔法族も溶け込みやすいってわけさ」

 メディは陽気に締め括ったが、ラクランはなにか飲み込みづらさを感じた。故郷を離れてカオスに溶け込んだら、溶け込んだ瞬間違う人になるような気がする。それはいいこと、なんだろうか。自分もここに馴染んだら、また違う人になる?

 そこへ、ノリのきいた空色のパンツスーツを着たご婦人がツカツカと現れた。ゼナイド・ルーベンス、一度しか会ったことのない上司だ。小麦色の肌にたくさんのそばかす、そして眉間には皺が刻まれている。慌てて目礼するが、フンと鼻を鳴らされた。

「お前たちまだいたのか。早くボーバトンへ行かないと、調合の時間がなくなるぞ」

「マダム、今行き方を新人に教えるところだったんですよ」

「ああ、あんたは今日が初めてか」

 研究員であるゼナイドに少しビクビクしながら、メディに指し示されるまま、魔法使い一人分の幅しかない通路に一列で整列して壁面を見上げる。すぐに違和感に気づいた。

「ん?このシミって」

「そう!経路図だ。まずこのポイント、ヴォージュ広場からペルシュ自然公園へ、つぎにポワティエ...ここは公園じゃないけどのどかなとこだからどこに出ても大体大丈夫、つぎにランド・ド・ガスコーニュ自然公園、そしてピレネー山脈の山中ってわけだ」

「山からボーバトンまでは秘密の通路を知らないといけないから、ガスコーニュで落ちあう」

「了解」

 

 補助研究員としての仕事は、ボーバトンアカデミーでの錬金術の補佐をすることもあれば、先輩研究員の調合や錬金術の手伝い、実験用マートラップの世話に研究発表のための資料探しと多岐に渡った。

 フランスは大陸国ということもあり、イギリスよりずっと簡単に様々な地域の薬草や魔法生物、魔法が飛び交う。先日なんてアスフォデルの処理についての仮説を披露したら、何を当たり前のことを、という顔をされたくらい。

「錬金術はあまり詳しくないんだろう?先々何を研究するんだ?マダム・ルーベンスも鬼じゃないが、どんな目的があるのか共有しなければ物言わぬゴーレムと同じ扱いをされるぞ」

 ミネラルウォーターのボトルを一気に飲み干したメディが鏡をアクシオして顎鬚を整えながら問うてくる。ラクランはまだ飲み慣れない苦い水をゴクリと飲み干した。

「錬金術はボーバトンの指定教科書を読みながら勉強している最中です。研究したいことは...正直、まだ新しい情報が多すぎて見えていません」

 もちろんイギリスにはイギリスにしかいない魔法生物や薬草、古い魔法もあるけれど、生物の豊かさという観点でみたとき、ユーラシア大陸というのはあまりに強大だ。

 今日も今日とてラクランは、自動筆記羽ペンのチンタラした速度では間に合わなくなり、昨日の帰りがけアパルトマンの近くで手に入れた土産物のボールペンとフィールドノートでミミズのような文字列を量産した。

「いや、そうじゃないよ。そもそも何がやりたくてこの仕事に?」

「そうですね......」

 本音を言えば、第一の目的は生き延びること。続いて、面接で話したような魔法界の豊かな生き物たちの生き物の循環を明らかにして、それを手伝うこと...?

 そして、今の秘密の目的はレギュラスの治療。魂にかけられた呪いを解くこと。そのために魂を闇の魔術のようなものを使わずに変質させること。

 

「呪いをどうにかする方法、か...?」

「!」

 慎重にじわじわと閉心術を築いていたつもりだったのに、ふんわりとでも読み取られたことに思わず身構える。しかしメディはクスリと笑って、指を振ってラベンダーの香りを辺りに漂わせた。杖ではなく、指で魔法を...ということは

「その通り。察しがいいな、俺は父たちについてアルジェリアから移住してきたけど、四年生まではワガドゥーに通ってたんだ。お前の星を読んだだけだから変に身構えなくていい」

 ウガンダの魔法学校は変身術や天文学で名高い。自己申告だけで確証はないが、警戒をし続けてもかえって怪しい。ラクランは努めて深く息をして力を抜いた。

「すごいな、閉心術の制御がちゃんとしてる。なんの呪いかはわからないけど、お前が苦戦する呪いということはそうとう根が深そうだ......エジプトの呪い破りは知っているかい?」

「名前だけは」

 プライマリーのころに資料集の写真に載っていたピラミッドの写真を思い出す。古代文明があり、遺跡もたくさん残るエジプトでは、さぞ厄介な呪いがゴロゴロあることだろう。

「マダム・ルーベンスはモンペリエの出身でね、遺跡研究の手伝いでエメラルド・タブレットを研究したこともあるそうだ」

 地中海に程近い南仏のあたりを思い浮かべて、がっしりしたあごに小麦色の肌のゼナイドに頷く。なにかに似ていると思っていたが、思い返してみれば彼女の横顔はギリシャの彫刻によく似ていた。

「呪い破りにコネクションがあるなんて心強いです。でも、エメラルド・タブレットはマグルにも有名な錬金術の遺物ですよね...?それが呪いとどう関係が?」

「おいおい、錬金術の目的は物質や力、精神、つまりは霊魂の錬成だ。錬成とは純化すること。呪いなんていうのはもともと物質や人の精神には存在していなかったものが付与された形だろう?錬金術無くして呪い破りもないんだよ」

「なるほど......」

 そこで、ふるりとメディは首を振って体をほぐす。

 流石にピレネー山脈では長話すれば尻が冷える。

「とにかく、一度マダム・ルーベンスに話してごらん。せっかく新天地に来たんだ!変化を恐れず自由を謳歌しなくっちゃ」

「自由、ね...」

「自由とは、より良くなるための機会である。一方囚われていることは最悪であることを確実にする!」

 白い歯を見せてカミュを引用したメディは、もう一度身震いしてそのままシュルシュルと渦を巻き小さくなる。

 思わず目を皿のようにして覗き込むラクランに構わず、キリリとした黒いラインを見せつけて、艶やかなアオサギはバサリと大きな翼を羽ばたかせて飛び去っていった。

 

 

 

 金術によるアイスランドスパーの錬成、脱狼薬の薬気について、古代守護魔法についてのレポート、死者の書におけるバーとカー、レシフォールドについてのフラビウス・ベルビーの記録、その他夥しい書物が積み重なる低いコファーに、レギュラスはふうとため息をついて膝をついた。

 コファーは、引っ越してきた初日にコーヒーテーブルを焦がしたために、ラクランが変身術とエンゴージオをトランクにかけたものだ。魔法が使えれば検知不可能拡大呪文を使って中に収めるだけだけれど、そうもいかない。

 どっこらしょと膝をつき、片足でコファーを止めながら右手で引き出しを一段一段引っ張り出して書物を引き出しにギューギュー収め、なんとかコファーの上面を空けた。これでなんとか朝食にできる。まだ一品しかできていなくて、たっぷりの湯を沸かして、そこへ卵を放り込んだ、ポーチドエッグとかいう料理だけ。

 いったい何時に帰ってきたのか、粗末なソファで丸まって寝入ってしまったラクランはまだぴくりともしない。

「ボンジュー」

 だいぶサマになってきたと感じるRの音をきちんと聴かせながらパン屋に挨拶すれば、あつあつのバゲットを差し出しながらブランチかい?と揶揄われた。

「まあね、同居人が起きなくて」

「寝起きに熱々のバゲットはやめてやれよ」

「問題ないよ、古本屋に寄るんだ」

 

 ヘブライ語の辞書を慎重に小脇に抱えてアパルトマンの階段を登ると、ラクランはすでに目覚めており、なんとソファに座ったままマントにくるまっていた。

「おはよう、寒いのかい?」

「ストーブがないからね。いちおう、瓶に火は入れてるけど......おれの文献はどこに?」

 ラクランがコファーへ身を乗り出したところで、レギュラスは手を挙げて静止した。

「引き出しの中に入れさせてもらった、まずは朝食にしよう。焼きたてのバゲットを買ってきたよ。卵に間違いがなければ、問題ないはずだ」

「すっかりパリジャンだな。美味しそうだ」

 レギュラスが買ってきたベーコンの塊を見せると、ラクランが頷いて杖を振る。コンロに青い小さな火が灯り、ナイフがするすると動いて火の上で踊るフライパンに4切れが飛び込んだ。カリカリの空飛ぶベーコンをカットしたバゲットで油も一緒に受け止めて、その上にポーチドエッグを乗せればエッグベネディクトの完成だ。ラクランはそのまま、レギュラスはさらにふんだんに胡椒をかけた。

 

「それで?今回の調査の成果はなにかあったのかい?」

「ああ、まあね。熱帯に生息するレシフォールドは知っているだろ」

「ディメンターと同じく、魂を奪ってしまうという恐ろしい魔法生物だね」

「古代からいてもおかしくないが、エジプトの人々が恐れていた記録が見つからなかったんで、それを探していた......結果は真逆、崇拝していた可能性を今回見つけることができた」

 だいぶ僕の病状に引っ張られている気もしなくもないが、彼の主たる研究テーマは魂の切り離しと、魂の純化についてだ。それで霊魂を現す人面のついたツバメのバーのことも調べていたのだろう。

「なるほど......たしかに、魔法生物を利用して魂を一時的に切り離したり、変質させることができるならそのような利用があってもおかしくない」

「うう、レシフォールドの話をしていたら寒気がしてきた。このところなんだか節々も痛むんだ。トシかなあ」

「一つ上の僕を馬鹿にしてる?おおかたエジプトとの気候の違いのせいだろう。それに連日ソファで縮まって寝てるんだから、体が痛むのも当たり前だ」

 そういえば、と手元を見下ろせばレギュラスはとっくに食べ終わっているのに、ラクランは半分ほど食べて止まっていた。ホグワーツで出会って以来、初めての事態だ。

「口に合わなかったか...?」

「いやとってもおいしいよ。でも時差ボケかな......あまり食べられないんだ」

 ラクランの目の下には淡いくまがある。仕事でも十分きりきり舞いなのに、そろそろ分身が必要そうだった。

 

「奇しくも、僕も近いエリアを調べている。君には休息が必要だ。調べ物は任せてくれないか」

「たしかに君の方が資料を読み込んだりするのは得意だけど......ちなみにどんな成果を?」

「死の呪文について調べていてね。他意はないさ、禁じられた呪文では魔法省や魔法省にいるスパイに捕捉される可能性があるけど、改変してしまえばそれを使って分霊箱を破壊しても捕捉されるまいと思って」

 レギュラスは淡く笑って、ヘブライ語の書物を取り出す。

「死の呪文だけがアラビア語などのセム語族であることに気づいて、アラビア語は総浚いしたあとに、ちょっと気になることが出てきたから別の角度からも検証しようと思ってヘブライ語の資料を借りてきたところ」

 古くはユダヤ人街、90年代後半からはアルジェリアやモロッコ、アフリカの旧植民地からの移民が急増しているパリは、そうした言語の学習に最適だ。フランス語は比較的きちんと言語体系が整理されているおかげで、フランス語を習得すれば、中東やアフリカへの道がおのずと開けた。

 演劇やオペラばかり観ていたせいか、フランス語の言い回しが18世紀だとラクランに揶揄われてからはマルシェに繰り出して現在の発音や言い回しを耳に入れている。

「すごいや......言葉に関しての君の能力は、宝物だね」

「そうかもしれない」

 魔法ばかりの家に生まれたことをいっときは後悔までしたけれど、そこで触れてきた魔法道具や古い書物が、今の自分をたしかに支えているのだ。

 

 腹を満たしてまたすぐ仕事に没頭するところだったラクランをベッドに寝かせることには成功したが、時差ボケや寒暖差のせいと片付けていた体調は午後になっても夜になっても悪くなる一方だった。

 夜が明けて、ラクランは今やべったりと濃いくまを目の下につけている。額には玉の汗を浮かべて、青白い顔でシーツにくるまっている様は可哀想だ。でもどうしてやったらいいかわからない。情けないことだがラクランと朝に話していた時の心持ちから階段を転がり落ちて、また迷子の子供に逆戻りしてしまったようだった。まだまだ僕は知らないことばっかりだ。

 そうこうしているうちにもラクランはまた苦しげなうめき声をあげる。ろくなものを食べていないのに首元は異常に暑く、シャツがぐっしょり濡れるほど汗をかいていて、衰弱しているのは目に見えていた。

「ああ、もう!クリーチャー!頼む、来てくれ!」

 わらにもすがる思いで口から飛び出したのはクリーチャーだった。驚くべきことにすぐさまパチン!と音がして、見慣れた懐かしい屋敷しもべ妖精が現れる。

「クリーチャー!すまない、ラクランを聖マンゴへ!」

 

 

 

 んやりと眩しくて、だんだんピントがあってくる。白く微細なつくりの建築は、古びて何度も補強工事をいれられているアパルトマンとは程遠い。ここはどこだ?

 しばらくボーッと桟を見上げた後で、ラクランはゆっくりと身を起こした。シーツに背中を縫い付けられでもしているようにひどく体が重いが、なんとか起き上がる。自分はシングルサイズのベッドに寝ていて、近くのスツールにフードを被ったレギュラスが座って俯いていた。眠っているんだろうか?

 ラクランが何か声を発する前に、ベッドのそばのサイドチェストに置かれたベルが一人でにカランと鳴って、忙しない足音が聞こえてきた。

「気が付いたわね、慰者の代わりに読み上げるからよく聴きな。あんたはインフルエンザのB型の変異株に罹患。過労やストレスによる免疫力の低下により容態が悪化していた」

 イザベラだ。彼女のよく通る声でレギュラスも起きたらしく、フードの陰で目をこすってふうと息を吐いたのが見えた。インフルエンザなんて初めてかかった。イザベラがいるということはここは聖マンゴ。ずいぶん心配をかけたらしい。

「処置としてマグルと同じく生理食塩水の点滴と抗生剤、解熱鎮痛剤の処方。変異株なんてどこで貰ってきたわけ?」

「た...!?ゲホ、たぶんエジプト...」

 ガサガサの自分の声に驚きながら返答すれば、ツンケンした声でメモを片手に伝達事項を伝えたイザベラは2日ぶりだもの、しかたないわとケロリと言った。

「2日だって!」

「40度以上の高熱がずーっと続いて、せん妄のせいで魔法を打ったり、本当に大変だったんだからね!あんたの首につけてる魔法具かなんかを回収して収まったけど...かわりばんこに急患になるのはやめてよ!」

「本当に面目ない...ラクラン、メディさんにフクロウ便を出しておいたから、仕事は大丈夫だ。この通り、ルーベンスさんからも手紙が帰ってきてる」

 レギュラスが指を一本立てて会話をきり、現状報告をしてくれるがラクランとしては受け入れ難い。どれも身を削ってでも最高速度で進めなければいけない案件ばかりだ。

「はあ?マートラップの世話やおれの担当資料は」

「今は、とにかく、治すのが最優先!」

 

 翌日には熱が下がりきって、きちんとお給料でレギュラスの治療費含めお金を全部支払うことができた。イザベラはずっと怒った顔をしていたけれど、助けられたのに変わりはない。ラクランははにかんで礼を言った。

「......あんたたちはここにいないからわからないかもしれないけど、このところ、闇の陣営も闇祓いや()()()()人たちも、たくさん運ばれてくるわ。運ばれてくるならマシなくらい。なるべく、もうこっちを手間取らせないで」

「ああ、わかってるよ。お世話にならないよう頑張るさ」

 

 病院を出てバスを乗り継ぐ。バスの行き先を見て、グリモールド・プレイス12番地に向かっていることに気づいた。

「何をしに行くんだ?おれの髪、色落ちしてないかな」

「母は眠り薬で眠らせているから大丈夫だ。僕に隠れて頻繁に面倒を見に帰っていたのなら、色落ちを心配する必要などないだろう」

「......クリーチャーだな?怒ってる?」

 思わず、隣を覗き込む。レギュラスは顎をぴくりと動かしたが、穏やかに首を振った。

「怒ってない。もともと僕と父上が君に依頼したことだ。母上の容態をみれば君が頑張りすぎてしまうことくらい簡単に予測できた。強いていえば、合わせる顔がないという自分のプライドを優先した自分に怒ってる」

 心の中で番地を唱え、姿を現した館へ、堂々と歩みを進めるレギュラスについていけば、クリーチャーが申し訳なさそうな顔で出迎えた。クリーチャーはそもそもレギュラスに仕える屋敷しもべ妖精なんだから、命令されれば喜んで言うだろうし、彼にとっては裏切りでもないはずだ。それでも困り顔のクリーチャーに、ラクランは笑って気にするな、とジェスチャーした。

 

「さて、ここへきたのは君の数々の勝手な献身を糾弾するためじゃない。これだ」

「あ!」

 レギュラスが掲げ持った右手にはロケットが揺れていた。相変わらず、まがまがしい雰囲気を発している。レギュラスが負傷して以来、注意深くラクランが身につけてきたものだ。胸のあたりに手をやって、確かにロケットがないことを確認する。全然気づかなかった......つけている間は必ず閉心術を使い続けて、意識の俎上にも載せないようにしていたとはいえ......。

「危険性は僕が身をもって示したはずだ。どうして君はこれを首に?」

「外出している時だけだよ、フランスは大陸国な分、いろいろな魔法の使い方をする魔法使いがいる。もちろん、魔法を使わない人たちだって魔法みたいにスリをすることもある」

 メディたちも移民街の人たちも、気のいい人がほとんどだ。それでも食うに困って犯罪や、元いた国や地域の対立で暴力沙汰が起きることもある。外見や区画で人を判断して警戒するのは、嫌なことだった。

 ラクランよりマグルの中に身を置いていたレギュラスも財布をとられたのを思い出しながら頷く。悪人だってもちろんいるから、余計気が抜けない。警戒するのもそれで消耗するのも、誰でも一緒だ。しかしラクランは声を出さずに自嘲した。

「そういう環境にいたにしろ、自分だけでどうにかすることを選んだのはおれだ。今振り返ってみると、ずいぶん視野が狭かった。早めにレギュラスを頼ったり、メディやゼナイドに相談してみるというちょっとのことをできなかったな」

「ロケットが悪影響は与えている可能性が高い。本来そばにあるはずのない魂のかけらを身近に置いているんだから」

「そうかもしれないけど、これはおれのミスで弱さだ。悪かった」

 ピレネー山脈までとびとびで姿現ししたとき、そうやってドーバー海峡を渡るすべを思いついた。帰りがけに実践して、ずぶ濡れながらグリモールドプレイスに辿り着き、間に合わなかった鎮静のお香をクリーチャーに渡した。出来心でいろんなところに首を突っ込んで、レギュラスに無理をさせないように、魔法のことは全部抱えておれがやるつもりだった。持ちきれなくなって自分が倒れれば、ただ周りに多大な心配をかけるだけなのに。

 なにが足りなかったかと言われれば、バーティだ。これまでもいろいろ無理や見栄を張って頑張ることはしていたけど、バーティはどんなときも慎重派で大事をとるほう。さんざん諌めたり、いっぱいいっぱいになって代案に救われてきた。

 一人でどこまでやれるか、崩壊したらどうなるか。おれはちゃんと考えた試しがあっただろうか?

 

「ゴホン!それで、ロケットはどうするんだよ」

「ああ、我が家は骨董品が多い......闇の魔術を強く纏うものも。場所を知る者でなければ立ち入ることすらできない点も、隠し場所としてこれ以上ない場所だと思わないか?」

「しかしだったら君が一生懸命破壊方法を調べていた意味は」

「まだ呪文の開発はできていないし、世情や僕たちの生活が落ち着き次第実行に移せばいい。危険はあるが、クリーチャーは魔法に優れた魔法生物だし、母上はあれでも純血の歴史ある家の魔女だ。開心術や誘惑への耐性はともかく、単純な魔術の影響は受けにくい。変身呪文も感知してしまうだろう?」

「あ、ああ。それはたしかに...」

「クリーチャー、頼ってばかりで申し訳ないけど、やってくれるね?」

「ハイ、ハイ!もちろんでございます!」

 クリーチャーは久々のレギュラスにもう有頂天だ。耳をパタパタさせ、濁声を張り上げて胸をドンと叩いた。

 こんなに嬉しそうにしているのに仕事を取り上げては可哀想だと、ラクランもついに手を引っ込めた。

「次はどこへ?フランスに戻る?」

 公園の茂みのそばまで来て付き添い姿眩ましのために腕を差し出す。しかしレギュラスは軽く首を振って断り、また駅のほうをさし示した。

「実は今家にリーマスが来てるらしいんだ。リーマス・ルーピンだよ、友達でね。おしゃべりな人じゃないけど、会うのはやめておくか?」

「グリフィンドールの......ああ、それはちょっと遠慮しようかな、今回はフェリーでパリへ戻ろう。そうそう、エバンやバーティ、おじいさんに君の字で手紙を出してくれ。僕も動転して、つい手紙を送ってしまってね、きっと心配しているだろう」

「えぇ、そりゃ心配かけたな。ほんとにごめん。でもあいつら、印がよく熱を持つのにうんともすんともなんだ......もちろん手紙は出してみるよ」

「それがいい。謝罪より、こういう時はありがとうが正解だ」

「ありがとう!」

 

 

 

 念ながらラクランの予想通り、フクロウはちっとも飛んでこなかった。便りのないのがなんちゃら、と思っておこう。それくらいしか、信じることはできないから。ルーピンからは手紙が来て、ボーンズ家が襲撃にあったり、とにかく世情不安が続いているから君たちはどうか大陸にいるように、ということだった。じいちゃんから叱咤の手紙も同封されているから、また滞在しているらしい。手紙を読む限り人柄は変わりないけれど、グリフィンドールの人たちはそう簡単に疎遠になるのだろうか?

 

 パリ市民たちがいそいそと南へバカンスに出かけるようになったころ、マッキノン家襲撃のニュースをゼナイドが教えてくれた。

「ムシューへの用事でイギリスに行った時、たまたま号外を手に入れた。急先鋒として名の知れた魔法使いだったようで、ダイアゴン横丁は真冬のようだったぞ」

 手渡された日刊予言者新聞は、ズタズタに荒らされたショッキングな家が写り、大見出しは泣き叫ぶように暴れていた。

「教えてくれてありがとう。友だちが心配だ......」

「行って危険に晒されないほうが世のためになるが、もし休暇を取るなら早めに連絡をするように」

「ええ......」

 戦争は激化する一方。大陸の豊かな魔法資源や魔法族の多様性に比べれば、早急な文化継承や人口増加政策が必要な数字のイギリス魔法界で、殺し合いがどんどん激しくなっていく。バカなことを思うけれど、どうやったら平和な形で戦争が収束するのかなんてちっともわからないし、バカなことでも動かなければいけない友だちがいる。

 ゼナイドに礼を言った後はほとんど無意識で帰路につき、まだ明るい通りの中をぐるぐると考えながら歩いていた。辺りの音は湖を泳いだ後のように遠かったけれど、誰かに肩を叩かれた拍子にパッと耳に張っていた膜が取れて、あたりの騒音が一気に鼓膜を震わせてきた。

「......メディ」

「よ、死にそうな顔だな」

 

「揚げたてファラフェル!熱々ファラフェル!」

 熱心に叫ぶおじさんの前で歩調を緩め、メディは慣れたように素早い指文字でファラフェルを注文した。

「ファラフェル買ってけよ。火なくしてデザートはできない!」

「ファラフェルがデザートだって?」

「デザートてのは最高に良い食事の終わりだろう?ファラフェルはデザートじゃないけど、火を使う」

「またことわざかい?わからないよ......」

「まったく!いいか、火ってのは危ないだろう?危ないんだから注意が必要だけど、使わないわけには」

「はいファラフェルだよ!」

 おじさんの力強い声でメディが押しのけられ、ラクランはしぶしぶ熱々のが入った袋を受け取って、代金を払った。袋はずしっと重たくて、ひよこ豆のペーストを丸めて揚げた結構大きなファラフェルがゴロゴロとはいっている。

「ちょっと、どうして5つも」

「4つはお前と同居人君。1つは歩きながら食べる分!揚げたては最高なんだ、さあどうぞ、ボナペティ」

「そもそもおれが支払ったんだけど......」

 言われるままに熱々のファラフェルを一つ、袋越しに持って齧る。舌先を火傷するくらい熱かったが、スパイスと濃厚な豆の香りがすぐに鼻を抜けていった。温かいものが喉を通って胃に落ちていくと、自然気持ちは上向く。

「ほらな、効果はてきめんだ」

「ありがとう、悔しいけどおれは正直ものだ」

「そこがお前のいいところさ。しかしずいぶん買われたな?世のためだってよ」

「おれはそんなにビッグじゃない」

「そうだけど、たしかにお前にはセンスがあるぜ、降りないセンス。俺にはないな、俺は姿を変えてでも自由でいるのが好きだからな」

「変身術のこと?それは確かに。あ!」

 

 雑踏の向こうに、古本の塔を抱えるレギュラスを見つけた。うっかりレギュラスと言いそうになったのを慌てて取り繕う。

「それじゃメディ、ありがとうね」

「ああ、火をうまく使えよ」

 メディはどこか遠くを見てから、ニッコリ笑って手を振った。振り返るが、星はまだ空が明るくて見えやしない。

 

「おーい、持ってくのを手伝うよ!」

 ラクランはとにかくレギュラスの元へ走る。

「ラクラン?今日は早かったね」

「無心で帰ってきたか、ら.......!?」

 ファラフェルの入った袋を取り落として、ドサっと音がした。レギュラスのほうも本を放り出して駆け寄ってくるが、ラクランは構わずタックルして薄暗い裏路地へレギュラスごと飛び込む。

「捕まってて」

 バシッとふたりぶんの重い音を立てて、姿眩ましした。

 

 ルーアン、カレー、ロンドン、着地するたび途切れ途切れにレギュラスはなんだ!?どこへいくんだ!?と叫んだけれど、ラクランは右手でレギュラスの襟をしっかり捕まえながら、今までになく熱くなる左腕の印を見て集中するのに精一杯だった。

 エバンのところへ!どうしても!絶対に間に合わせる!

 

 着地した瞬間、炎に巻かれる邸宅が目を焼き、何も見えなくなった。一瞬で汗も乾いていく。

「アグアメンティ!」

「ここは......?ロジエール邸だな」

 ラクランが水を自分たちにぶちまけた。レギュラスが硬い表情で杖を取り出す。腕の呪いは進行するが、ここで死んではもともこもない。

 炎のゴオゴオという音に混じって、呪文を打ち合う火花が散る音や破裂音が聞こえてきた。ラクランはすぐさま杖を構え、その方向に突っ走る。

「ラクラン!待て、君は顔を見られては!」

 走りながら追いかけるが、レギュラスの鈍った足では追いつけない。印の状況はそんなにマズイのか?

 

 炎を駆け抜けた先で、一瞬緑の光が辺りを照らしたのを、シーカーの目が捉える。ラクランの足がピタリと止まった。レギュラスはそのままさっきの仕返しのように突進し、勢いに任せて姿眩ましした。渦巻く視界で、目を閉じて崩れ落ちていくエバンが見えた。

 

 どすん、と突進でそのまま倒されたように、ラクランは背中から着地したのかうめき声が上がる。草地で衝撃が吸収されたおかげか即座に立ち上がろうとしたラクランは、そのままかたむいて倒れた。ばらけだ、右足がズタズタになっている。腕も、背中もだ。

「畜生!動けよ!」

 杖を振り回して火花を散らすラクランに、レギュラスは久方ぶりの魔法に軋む腕を押さえながら近づく。ばらけるだろうとは思ったが、こんなにとは。即座にラクランのポケットに向かってアクシオして、ハナハッカのエキスをぶちまけた。

「〜〜〜!おれなんかいいから、エバンを!」

「見ただろう。彼は死んでしまったんだ。君はここで死んではいけない」

 はくはくと口を動かしたが、何も音は出なかった。

 レギュラスも今はエバンの最期を考えないように、ラクランの血や泥でぐしゃぐしゃの腕をみた。

 ラクランだって研究者の端くれだ。目でみた事実を否定などできない。緑の閃光がなんであるか、もうずっと調べ続けている。ひと目で遅すぎたことは理解できた。

 

「どうして、姿眩ましした。まだ間に合ったかも」

「仮に間に合えば、君は杖先に飛び込んでいた。でも君は間に合わなかった。あるいは死体に縋るためだけに、エバンやバーティが苦心して守ってきた君の潔白を台無しにするところだった」

「ううううう!」

 助けに行くのも、あの炎に巻かれないように遺体を取りに行くのだって、やっちゃいけないのは頭でわかっていた。あたりの草をつかんでむしって、地面に爪を突き立てる。爪の間にしっとりとした温かい土が入ってきて、故郷に飛んだのだと察する。ここをみんなの安全な場所にしたはずだ。家のように、大木の木陰のように、いつでも匿ってやると誓ったはずだ。

 ラクランは声も出せずに涙で顔面を濡らしていた。

 結局、ただ守られていた。戦えもしなかった。

「やめなさい、やめろ!!考えるな、自責するな、破れぬ誓いを結んでるんだろう?君まで死ぬわけにいかないんだ!!」

 ラクランの様子の変化にレギュラスが大声で叫ぶ。絶対にこんなところで死なせるものか。胸ぐらを掴んで揺さぶり、遂には1発喰らわせようと手を振り上げた。

『そうだぜまったく。シャンとしろ〜、フランスまでひとっとびしてやるつもりだったのに、ダセエとこ見にきちまいやがって』

「エバン......?」

 ラクランがドロドロの泣き顔のまま、弾かれたように顔を上げた。いるのは、青白い光の粒だけ。

『正確には、その魂のこだまみたいなもんだ』

 それが徐々に集まってきて、以前も見た犬の守護霊になった。

 

「一体どうなってる?」

『闇祓いの伝言をパクったって言っただろう?俺は魔法研究が大好きだが、さすがに戦時中で実用性のない呪文は鍛えねえよ』

 レギュラスは注意深く周囲を警戒しながら守護霊にむかって杖を構えていたが、眉を顰めながら下ろす。

「つまりこれをするために、初めから備えていたということかい?」

『自殺希望者みたいに言わないでくれる、元自殺希望者さん。俺は最期の瞬間に無意味な盾の呪文じゃなくエクスペクトパトローナムしただけだから。証拠にムーディの鼻も吹っ飛ばしてやった!アイツやべーよな、燃えちまえばわからないからって死の呪文はねえぜ』

 やっぱり死んでるんだ......とラクランが再びぐすぐすし始める。レギュラスはそれにティッシュを投げて、顎に手を当てた。

「わからないな......君が命より何かを大事にするなんて」

『なんてことはない、ディメンターの懐へ入るのが文字通り死ぬより嫌だった、それだけさ』

「それこそ意外だ。君が幸福な記憶に執着するなんて」

「意外なもんか!」

 

 犬の姿でエバンは楽しそうにくるりと空中を回り、一瞬かききえてからまた現れた。意図しない消滅だったのか、青白いモヤをいっぱい散らして動転している。

『あぶね!さっさとしないと。石はねえけど、"返しにきた"んだ。家に帰ってきたぞ〜さ、俺を入れてくれ』

「入れる......?」

 犬はラクランの周りを回って、仕方なさそうに顎を肩に乗せた。犬の鼻息も温もりももちろんなくて、エバンの気配だけかすかにあった。

『わからないか...?ひでえぜ、俺の幸せな記憶はお前たちとの思い出だって言うのに!違う方を向いて違うことして、違うものを好きでいても、一緒にいられる。俺はそういうお前たちといるのが幸せだ。.....生まれてから一番の、幸せだった』

 かなり照れ臭そうに、ペラペラと演説していた声が詰まった。本気でそう思っているらしい。こっちも照れくさくなって、ラクランは鼻を擦った。

『でも記憶は都合よく揺らぐんだよ。拷問をさせられた時、お前たちなら俺を赦すだろうと思ったんだ。そんなはずないのに!気持ち悪いだろ?だから、お前たちといっしょに生きたいと願う魂をとりわけた』

「記憶を取り出すように?ペンシーブに入れられた記憶は、頭から完全に失われることもないが、思考によって上書きされることもない。魂に同じことができるかはわからないけれど......」

 

 ある記憶の積み重ねが幸福。

 その幸福が人間に対して持つ効果は、守りたいものや生きる意味になることで、どう生きるかを定めること。  

 それを思い浮かべて頭を幸福な記憶でいっぱいにすることで、魂を守る守護霊を喚ぶ。

 魂を奪うレシフォールドやディメンターは、まず幸福を吸い取る。

 理屈は分かるが、仮に魂を取り分けていた場合、分霊箱と同じで魂は死後の世界へ旅立てなくなってしまう。分かれていても肉体やほかの部分が死んでしまえば、残りがエバンでありつづける保証はない。何より......レギュラスは口を開こうとしたが、エバンの守護霊と目があった。明らかに面白そうな目をして、それからラクランのほうを見る。

 ラクランの身体をすり抜けて、レギュラスが驚きの声をあげるのに尻尾を振って煽った犬が、ラクランの正面へ回った。

 

 ラクランは一度、目を閉じる。バーティたちにカバーしてもらっていたおかげで、今まで無事に魔法界を生きてこれたのだと感じたばかり。衝動に突き動かされてまた無鉄砲に動いて、レギュラスにも無理をさせた。

「......わかってるよレギュラス。彼の言うとおりこだまなら、おれのそれとぶつかってただ掻き消えるかもしれない。本当に魂の一部を運べているなら、おれが分霊箱のようになってしまって、彼はちゃんと死ねなくなる。でも、君はそれを望んでる」

『ハハ、ああ』

「待て、ラクラン、それだけじゃ」

「言ってなかったかもしれないけど、おれはこう誓ってるんだ」

 でも今このときは、メディの言っていた最良の結果を得るために危険を冒すべき時だ。

「私、ラクラン・ケイヒルは、友である君たちのいかなる窮地にも助けとなり、困難の嵐から守る家となる、てね。だからおれの答えは決まってる」

『俺は生まれついた血筋、身体のために、魂で望んだ生き方をできなかった。だから魂だけ自由になった今、死後の世界になんかいかず、お前たちと旅を続けたい。俺が俺でなくなっても、一緒にいればそれで十分だ』

 

「えっと、じゃ、じゃあ......どうすれば?」

『フン、約束破りかけて悪かったな、帰ってきたぜ』

「おかえり」

『ああ、ただいま』

 

 




一気に半年以上進んでます(わかりにくいですが)そのため長いです〜

・Newオリキャラたち
 メディ・ルルーとゼナイド・ルーベンス(上司たち)
 二人ともフランス人ですが、ちょうど移民が増えてきた頃合いなのでメディさんは移民ルーツ。ゼナイドさんも地中海寄りなのでまたパリジャンとは違った雰囲気。ヨーロッパはもちろん、アフリカの広大で奥深い魔法の可能性を見せてくれました。

・インフルエンザ
 フィジカル強めなラクランですが、魔法禁止しばりしてるレギュラスとの共同生活と研究、初の社会人、初の完全自活でパンクしました。移動をすればするだけ、感染症はじめいろいろなリスクが伴います。

・マグルの視点も活用し始めたレギュラス
 ホークラックスに自力で辿り着いちゃう人だし、新聞のスクラップ壁に貼るような人なので、資料を読み込んだり情報を整理するのが得意そうです。パリを一番謳歌できるんじゃないかな...。二度の分霊箱との相対を終えて限界を知り、視野が広がってきています。
 ロケットは原作と同じ場所へ、ひとまずは隠されることとなりました。

・守護霊魔改造
 不死鳥の騎士団が使う守護霊の呪文による伝言は、短いメッセージを託した守護霊を特定の場所に矢のように移動させて(飛ばして)、持ち主の声で話させます。アーサーの守護霊による伝達が顕著ですが、感情を廃した情報にみえます。でもそれは機械による事実の記録ではなく、守護霊の持ち主の思考をシンプルにまとめたもの。思考の断片を宿して移動できるなら、持ち主の形を持たぬものなら他のものも運べるかも...?ということで、エバンにとって最も幸福だった思い出、幸福だと感じた心、叶えられなかった願いを宿して走ってもらいました。
 エバンの習得当初の目的は単にディメンターへの対抗策かつ魔法への純粋な関心で、伝言術を目撃しなければ全力で戦って魂も肉体と一緒に死後の世界に旅立ちつつ、破れぬ誓いを破らせないために守護霊だけなんとか家に向かわせたはずです。このお話のエバンは幸い(?)伝言術を使うところを目撃し、一年弱かけてじっくりと研究することができました。

・エバン・ロジエール
 登場させた時はこんなに存在感を放つ予定じゃなかったエバン。
 アズカバンを固辞して最後まで戦ったという事実のみがあり、その目的や思いは想像するしかないキャラクターなのですが、拙作ではこういう人物になりました。
 魂も死後の世界に旅立つのが「正しい」のだとしても自分にとってはどうでも良いし、血筋や家のしがらみによって自由のなかった身体も、粘るけれどもないならないでそれでいいという感じ。知らず知らずのうちに、エバンにとってなにより恐ろしいものは死ではなく、記憶の喪失や友との永遠の別れになっていたようです。
 魂のかけらでもひっつけたのか、それとも本当にこだまで、ラクランの魂と同化して消えてしまったのかはまだ不明です。でも、これからも一緒に旅を続けます。

 ※完全に蛇足なので読んでいただかなくても大丈夫ですがなぜレギュラスは助けられてエバン(肉体)は無理だったかというと、エバンを書いているうちに、ロジエール家という血に縛られていて心で何をどう望んでも身の振り方を動かせない生きづらさがあるなと思ったためです。実はスリザリン三人衆の中で唯一身内がデスイーターなんですよね(ブラック家もベラトリックスがいますが、直系家族ではない上、ドロメダやシリウスという先例がいる)。
 あと、裁判でのカルカロフによる密告と死亡事実の発表以外に出番がないのに印象的なところは、やはり「マッドアイの鼻を持ってった」ところだろうという......ここは外せなかったです。
 マッドアイはニセモノがやばい授業をしても噂で済むし、生徒を強制変身させてもアラスター!で済んでいる、逆に言うとまあマッドアイならやるだろう、という意識がふんわり不死鳥の騎士団勢の教員側に存在している人なので、許されざる呪文も必要なら使ってきた人のはず。
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