「ぼっちゃま、バーティ坊っちゃま、お食事でございます」
ウィンキーの涙声が耳を打ち、ベッドの上で目を開けた。ベッドのそばからちらりと見えるカーテンのゆらめきにぶわりと鳥肌がたち、情けなさに歯を剥き出して笑う。
母は自分のために死んで、アズカバンから救い出してくれたというのに、俺は未だあの幻影に囚われて満足に立つことすらできない。
ウィンキーはポリッジの乗った銀の盆を置いて、鼻を啜った。
少しすくって口に含み、鼻に皺を寄せる。なにかおかしかった。
「ウィンキー、どうしてポリッジを甘くしたんだ」
「ポリッジは甘いものですよ?甘すぎましたか」
なにかおかしい。何かが胸から落っこちて、そこを風が通り抜けているような感じがするが、もう落としてしまったから、そこに何があったかも思い出せない。
母が俺を生かしてくれた。母の愛に報いるためにも、俺は父親を殺さなければならない。父親のような人間を生む魔法界を。父親のような人間が支配する魔法界を。
「ウィンキー、俺の杖はどこだ」
「ぼっちゃま、ぼっちゃま、まだ起き上がってはならないでございます。とってもおやせになって、お弱くなっていらっしゃる」
「萎えた足は寝ていてはなおらない。ウィンキー、俺の杖はどこだ」
「杖をとってお前はどうするのだ」
硬い声が割り入ってきた。老け込み陰気な父親の顔が霞む視界に見える。そのまま死んでしまえば良いのに。
決まっているだろう、もうろくじじいめ。あのお方をすぐにでも探し出して馳せ参じ、お助けするのだ。あのお方にお仕えして、お前を殺し、お前のような魔法使いばかりの魔法界を破壊するのだ。
睨め付けたが、馬鹿ではない。何も答えなかった。口に出せば杖を折られることくらいはわかっていた。
しかし父親も馬鹿ではなかった。黙っているということがどういうことかよくわかっていた。
俺に杖を振り翳した。
「インペーリオ!」
その瞳には憎しみと怒りばかりが滲んでいた。
再開発で建設された高層ビルと、工場のような風格のスーパー、見慣れない不可思議な文字が並ぶ看板たち。パリ13区、ゴブランはラクランのアパルトマンのあるマレとはまったく違う匂いがする。
レギュラスがすこしソワソワしながら鼻を動かすと、隣で写真を撮りまくっていたクィレルがバ!と振り返った。
「やっぱり匂いますよね!?」
「
「貴重な薬草の匂いがします!アジア諸国の食べ物や植物が流通しているようですし、魔法使いや魔女も紛れ込んでいるのかも」
「それはいいね、君も目利きはできる?」
「それなりには......こ、交渉は少し苦手ですが......」
クィリナス・クィレルは年若い青年だ。ラクランが可愛がっていた後輩の一人で、文通を続けていたらしい。なるほど、いい人材だ。
「商談は私が請け負おう。もっとも英語やフランス語が通じるなら、だが」
「それなら......あのあたりの店はどうでしょうか?」
キョロキョロとあたりを見回した後、通りの向こうの一角を指でさしてからレギュラスの耳元に近寄ってくる。
「黄色地に三本の線の看板、きっとベトナムからの移民の方のお店です。今の国旗はあれじゃないですけど、臨時中央政府の旗ですから」
「フランス領だったところというわけだね?」
「は、はい。お恥ずかしながらフランスの地理には明るくなくて、具体的にどこにというのは知らなかったんですが。せっかく旅をするんですから、一応資料は調べていて......」
フランス領インドシナの崩壊に、ベトナム戦争。南北統一と社会主義国家の樹立。あちらの地域は動乱の時代で、難を逃れ住む国を追われる人々は多い。
どこにどんな恨みつらみがあるかわかったものではないから、声を顰めて話してくれたのは賢明だ。
レギュラスも一つ頷いて、ポンとクィレルの背中を叩いた。
「セマニフィーク!魔法使いで海外のニュースを耳に入れるなんて素晴らしいよ。その調子で頼む」
「は、はい!」
魔法界は魔法界だけで回っている世界ではない。
在学中も、ヴォルデモートの傘下にいた頃もまったく見えていなかった。一歩外に出ればあまりにも明白な事実だが、いまだ見えていない魔法使いや魔女は多い。半純血だと聞いているが、マグルにゆかりがあるだけでこうも見聞に差が出るというのは残酷だ。
食べ物にしろ生活用水にしろ、マグルの社会に下支えされているものは多い。電化製品のブロックによるマグル避けだっていつまで持つだろうか?
「あっこれ、中国の植物絵図で見たことあります!サイシン、かな?解熱鎮痛作用があったはずです。あ!こっちはイチヤクソウ......あのう、ムッシュ?」
「ああ、汎用薬草が多くて素晴らしいね。難しいかもしれないが、毒性があるようなものをピックアップしてくれるかな。使いようによっては強力な薬にできる」
「そ!そんなもの、実験できるんでしょうか?」
「大丈夫だよ、人間より毒に強い人たちに手を借りる約束になっている」
「人間、ひと......?」
「ふふふ、君もまだまだ学ぶことがありそうだね」
「エェェ!鬼婆と!!」
「静かに、ここにいるミセス・ブラックもそうなんだよ」
「えぇぇぇぇ」
注意したからか、息だけでかすかすの声を上げるクィレルに、アニス・ブラックがちょっと舌なめずりした。いかにも若者っぽい反応で食欲をそそられたらしい。
やめてください、の意味を込めてテーブルをトントンとノックすると、すごすごとカーテシーして仏頂面で部屋へ引き上げていった。白粉をはたいているし、ああしていればちょっと見窄らしい服装の老女だ。
「彼女たちは新聞に寄稿して面接も通り抜けるくらい、普通にこなすのでね。しかも人間より丈夫で、魔法薬を煎じるのも上手だ。素晴らしい人材だよ」
「でも、子供を食べるんですよ!」
「最近近辺でこどもが行方不明になったという報道は聞かない。昔ほど簡単に攫えなくなって、ヤキモキしてるんだ。それを労働という暇つぶしに誘ってみたら、意外に乗ってくれてね。君もマネジメントに興味があるかい?」
ふざけてウィンクまでしてみたが、クィレルはまだ真っ青な顔でこちらを見てくる。"慎重派だがかわいい後輩"とラクランは言っていたが、これでは慎重というよりは臆病だ。
「なるほど、なるほど」
道理で目的のために最悪の場合手段を選ばない苛烈さを感じないわけだ。きっとこの子はレイブンクローだろう。そういう感じがする。
未知への恐れは強い知識欲になるから、彼の臆病さと勉強への強い意欲は表裏一体で、おそらく目的はない。さっきのだって、マネジメントをやってみたくて聞いたのではなくて、ただ私が鬼婆を雇用なんてする神経がわからなくて怖いから聞いてきたのだ。それは素直で確かにかわいい後輩らしいが......先々が心配だな。
「失敬だなあ、ちゃんと対等な契約関係を結んでいるのに。ほらご覧、もちろん契約書のサインだって本人直筆だよ」
「では彼女たちの社会参画が目標なんですか?」
「いや、別に私は雇用機会向上委員会をやりたいわけじゃない。死にかけの魂に対しては人間よりずっと鼻がきくので頼んでいただけさ。おっと、言ってしまった......」
わざとらしくハッという顔で口を押さえて見せると、契約書を覗き込むついでに話に入り込んで、少しだけ身を乗り出していたクィレルが目を見開いて固まっていた。
「と、いうのは冗談で。魔法族が思い上がるほど、人間が全てにおいて最も優れているわけじゃないからね。彼女たちの能力を有効活用してマージンを頂くのさ」
パッと両手をつまんで空間に線を引き、寸劇の終わりを告げればふっとクィレルの力が抜ける。油断するのが早いなあ、さらにパチンと目の前で指を鳴らした。
「しかしクィレル君!今なんとなく怖かっただろう?私があれで本当に口を滑らせていたら、よからぬことを考えるよからぬ人間だったら?」
「まさか!ラクランが紹介してくれたんですよ、そこは信頼しています」
「アーそうだな、しかしクィレル君!これは仮定の話だ。君の知識欲は素晴らしいが、わからないことを知ろうというときには、知った先で何が起こるのかも考えておくべきだ」
知るべきでないことも世の中には無数にあり、知ってしまったら取り返しもつかなくなるのだから。
「わかりました......。不躾にビジネスについて質問してしまい、申し訳ありませんでした」
「今回はさっきも言った通り冗談さ、気にしないでくれ。イギリス魔法界よりこっちはずっと広いから忠告にね」
「で、では......失礼を承知で、胸をお借りするつもりでお聞きしますが、マージンで稼ぐ本当の理由はなんですか?」
「ははは!本当に知りたがりだね。もちろん、雇用が続いたり彼女たちの生活手段の一つになったら嬉しいとは思っているよ。ただ最大の理由は、お......ご婦人の伝手でやり取りしていた相手が――そこのコウモリが教えてくれたんだが――こちらの連絡ミスでご大層な船でやって来てくれるそうでね。彼らには今後調査協力もしてもらいたいので、なんとか船旅の謝礼を用立ててるのさ」
コウモリ、ときいてピンとくる人たるものたちがいたらしく、クィレルはきゅっと首を縮めた。
久々のダイアゴン横丁はすっかり入学前家族で来た時のような賑わいを取り戻していて、イザベラは胸の前で帽子とバッグをギュッと握りしめた。
ラクランのしつこいすすめでグリンゴッツで口座を新しく開設し、そちらで給与を受け取れるよう手続きをしにきたのだ。ブルストロード家を勘当されていてもファーストネームと杖さえあれば登録可能というのはラクランの言う通りで、不安とは裏腹に手続き自体はスムーズだった。あんなにケンカして、ただの雇われ――しかもアニス・ブラックの後釜!――のくせ執着してたのが馬鹿みたいだ。
アイスクリームパーラーでアイスを4つ買った。
ラクランはパリのお土産はよく買ってきていたけど、魔法省の仕事に就いてからは仕事以外もいろいろできすぎるのか、かえって菓子さえ買ってこなくなった。気の利かない養父の自覚はかろうじてあったから、私がホグワーツ就職を勧めたらあんなに怒ったのかも。
ナンシーはラクランをとっくに大事な家族と思ってるし、今の教授がアメリカの大学に行くと言うのなら、ナンシーが入学してからホグワーツで一緒に過ごせる時間があるってことだ......これを一昨日教えてやったら、今の教授を一年待たせて来年から引き受ける交渉を始めた。ひどいお笑いだ。
ラクランは結局バーティもナンシーも、アランさんのことだって諦めないで済んでいる。私はどんなに抵抗したって、所詮今年いっぱいがどうなるかでしかない。
馬鹿らしくなってラクランの言うことに従ってみれば、たしかにあっという間に手続きは済んだし、漏れ鍋には色々な求魔法使い広告がある。魔女として働いて行く道は私が思うよりいくらでもあるらしいと、イザベラはスキップするように軽やかな足取りで歩いていた。
その足取りもマダム・マルキンの洋裁店の前を通りかかって、視界に驚きの光景が飛び込んできて止まってしまった。
他の人たちにとってはそう珍しい光景じゃない。幼い少女が母親らしき顔の似た女性にじゃれついているだけ。マグルも魔女も魔法使いも、誰も見向きせずみんなそれぞれの用事に一生懸命だ。
だからイザベラも、一瞬目を奪われて足を止めた他は平静を装って懸命に歩きつづけた。歩き続けながらも頭の中では目撃した映像がぐるぐる回っていて、足はいまやひどく重かった。
女性の顔も少女の顔も、自分そっくりの"ブルストロード顔"。軽く頭に被せていた帽子のつばを引っ張って深く被る。
あれは妹だった。私はもうブルストロードじゃないから姉とは思っていないかもしれないが、確かに妹だった人だ。
いつのまにか結婚して子供も産んだんだ。
元気いっぱいに暴れる姪は頑丈そうだが引っ込み事案のようで、マダム・マルキンから隠れるように妹のスカートを容赦なくぐいぐい引っ張っていた。それを見守る妹の顔の変わりよう!少しふっくらしたのも手伝って見たことないほど柔和に笑っていた。
妹にとって唯一の、血を分けた子供。姪にとっても、妹は唯一の生みの親。お互いが特別。
お互いが特別な人たちはもう何度も見たことがあるけれど、妹にまで知らない間に追い越されていたと知って、イザベラは錘のついた足を引き摺るように下を向いてとぼとぼと歩いた。
埃やガラス、新聞の切れ端がそこかしこで音をたて、ネズミが目の前をよこぎってハッと顔を上げた頃にはノクターン横丁に入りかけていた。
「おい、道開けな」
「邪魔だ!どいたどいた!」
「ごめんなさい......」
耳元で怒鳴られ、慌てて半ば押しのけられるように道の端に寄っていくと壁に沿って積み上げられた木箱の上に、項垂れて座る人影が目に止まった。
「あなた、リーマス?リーマス・ルーピン?」
うっかり声を出すと、人影はぴくりと反応してボロボロのマントの襟からゆっくりと目だけ覗かせた。随分な態度だ。
「ごきげんよう......ではないようだけど」
「君は......イザベラか。これはまた不甲斐ないところを見せてしまったね」
恥ずかしそうに襟元を直し、髪をパラパラと整えたリーマスははにかんだように笑って見せたが、少しも取り繕えていなかった。くまがひどくて落ち窪んだように見える目元やこけた頬は、冬に腹を空かせてケイヒル家を訪ねてきた時よりもっと病的な印象だった。
「こんなところで何をしてるわけ?ラクランが紹介状を持たせたでしょ」
「彼には本当に感謝しているよ。まだ友人と呼んでもらえることを申し訳なく思うくらいに......紹介してくれた先は、私では不相応だったのでお断りした」
「あらそう、それで断っといてやっぱり食うに困ってるから合わせる顔がないって?あいつは気にしないでしょ」
「いろんなことで手一杯だろうに私まで彼に寄りかかるわけには......今更だが。それに彼の一番の友人まであんなことに......そうだ、手紙を出せずにいたんだよ、フクロウ便を使えなくて......できたらラクランに渡してくれ」
くしゃくしゃの羊皮紙を胸ポケットから取り出したリーマスに、イザベラは顰めっ面でしぶしぶ受け取ろうとして、自分が手に下げているアイスを思い出した。
「じゃあこれと交換。いきなりアイスはお腹を壊すかもしれないけど、ないよりマシでしょ。フォーテスキューのアイスだから溶けないよ。おじいさん用に甘くないレモンシャーベットも入ってる」
「そんな、いただけないよ......」
「いいの。皆で一緒に食べようと思ってたけどそんな気分じゃなくなっちゃったから」
ズイ、と箱を押し付ければ、リーマスは渋々と受け取った。それに頷いて手紙を受け取り巾着へ入れる。リーマスは相変わらず困ったように眉を下げながら控えめに笑った。
「いただいてしまうのは申し訳ないけど、実は甘いものに目がなくてね。このところ暑くなって来たし嬉しいよ、ありがとう......でも何かあったの?」
「まさか!家の方はアイスを食べるには涼しいかもって思っただけ。アイスにしたって震えて無理に食べられるより、飢え死にしそうな人に美味しく食べてもらったほうがいいでしょう」
フン、と鼻を鳴らすイザベラにニッコリとしたリーマスは妙に生暖かい目線を送ってくる。さっさと食べなさい、と手で促せば、リーマスは頷いてチョコレートソースのかかったバニラアイスを選んで食べ始めた。よっぽど久々の甘味だったのか目を閉じて味わっている。グリフィンドールの中ではましなほうだった監督生がこんなところでこんなふうにアイスを味わっているのは不思議だ。
「なんであんたみたいな人がうまく仕事に就けないんだろ。うまくいってほしいもんだね」
「嬉しいことを言ってくれるね、まあいろいろあって......」
「あいつの気持ちも少しはわかるような気がするよ」
「ラクランの気持ち?」
アイスクリームをきれいにカップからこそげとったリーマスは杖を一振りして綺麗にゴミをまとめる。見事な無言呪文だ。
「今日は口座開設しにきたんだ、前のはほら......私のもんじゃなくなったから。ラクランが言うんだよ、私は私の能力に見合う仕事に就くべきだってさ。みんなが存分に自分の能力を発揮するべきだと思っているし、それがいちばんの幸せだと信じて疑わない。でも実際、割とそうだと思う」
ラクランはやりすぎな気がするが、自分だから思いつくことや自分だからできる仕事があるというのはいい。生き甲斐をいつも感じるようなものだ。
聖マンゴでの生活は学生時代の憧れで、戦争時代はあそこがいちばんましだったが、給料を払わなくちゃならない屋敷しもべ妖精みたいな扱いで人生を終えるわけにはいかなかった。
ナンシーやアランさんを世話する生活も子供時代からの憧れの、温かい家族のやり直しのようで楽しいけれど、そもそもあの家は私がいなくたってちゃんと回ってる。誰かの特別になるってのは難しい。特に、なんにも特別じゃない私みたいなやつにとっては。
「他に大してやりたいこともないんだ。自分の能力で一番儲かる仕事に就いて、将来の不安もなく誰にも心配されないところで生活する。結構じゃないか。そういうわけで私もナンシーがホグワーツに行けばお役御免、晴れて自由なひとり暮らしさ」
あれこれ悩んでいたことをバッサリと切り捨てて、いっそ爽快な顔で言い切ったイザベラに、リーマスは目を細めてなにかをさぐるような顔をした。
「君はそれで本当に幸せかい?」
「やってみなくちゃわからないな。少なくともラクランは研究やマグル対応で世のため人のために働くのがこの上なく幸せって感じ。聞いた?あいつ今は魔法省にいるんだよ。私もあいつほど特殊な仕事にありつくことはないだろうけど、できることをやって生きていこうと思ってる。十分幸せさ」
「それは違うと思う」
「は?あんたが何をわかるっての、あいつはあんなに楽しそうなのに?」
論文についてしゃべっているときのギラギラした目を知らないんじゃないか?
イザベラはちょっとおどけてリーマスの顔を覗き込んだが、その目は真剣そのものだった。
「いいかい幸せというのはね、ただ楽しいこととは違うんだ」
「なんだい急に」
「かつての私にとって、生きる理由は友人たちだった。彼らと新しく楽しいことをやるたび、ああ生きていてよかったと幸せだった。大袈裟に思うかもしれないけど、その友人たちと離れて、何のために生きたら良いか分からなくなったんだから本当のことだよ」
「ひどいやつだね、あいつはあんたの友達じゃなかったのかい」
「もちろんラクランも友達だけど......ほら、彼らはまた一段と特別な友人だったんだ。気づいたら特別になっていた。彼らがいるから私はホグワーツを卒業できたし、魔法使いとして生きていられた」
特別。イザベラはひとつ頷いて、黙って隣に腰を下ろした。アランさんに買ったつもりだったレモンシャーベットを取り出す。甘くないものにしたから、甘党だというルーピンの舌には合わないだろう。沈黙を誤魔化すようにひと匙すくって食べる。魔法で常に良い塩梅の氷は舌に乗せるとすぐにほどけて、爽やかな酸味と香り、そしてちょっとの苦味を残していった。
リーマス・ルーピンがつるんでいたのはポッターにブラック、その辺だ。だった、の言葉の通りみんな死んでしまったかアズカバンにいるのだ。
「バーティの裁判があってすぐのことだったけど、ラクランがこう言ったんだ。ハリーに――ジェームズとリリーの息子に――彼らの学生時代や、ハリーのことをどんなに大事にしてたか伝えられるのは私だけだと」
泣きそうに情けなく眉毛を動かしながら、リーマスはすすけた顔で精一杯の笑顔を作った。
イザベラはついグーをつくって、隣の腕を殴った。
胸に切ないものが湧き上がったが、またシャーベットのさわやかな味で洗い流した。
「特別な友達を作れた上にその友達を亡くしてもまだ友達が遺した特別があるなんて、超幸運じゃん」
「ああ......ハリーは宝物であり、希望だ。ハリーに思い出をきちんと伝えるのは、私にとって絶対に達成したい任務だよ。そういう生きなくちゃいけない理由があるというのは、すごく力になる」
任務と聞いて、イザベラの頭の中では表向き死んでるくせ一番生き生きと動き回ってるレギュラスが思い浮かんだ。たしかにあいつも、復讐と使命で燃えている。
身近に知っていてもイザベラにそんなものはないのだから、口を開けたっきり否定も肯定もできなかった。そんなイザベラをちらりと見て、リーマスは続ける。
「良い仕事にはなかなかありつけないけど、私は決して生きるのを諦められない。ハリーがいる限りね。だからかえって、ラクランが気になるようになった。彼は私にハリーのことを話した時、こうも言ったんだ。お互いしっかり生きようって」
指折り数えてから悔しそうに唇を噛んで、両手を握りしめ手の甲に爪を立てるリーマスは壮絶だ。だけど何を言いたいのか、イザベラは少しもピンと来なかった。
「......つまりどういうこと?何が言いたいわけ」
「ごめん。つまりね、ラクランも特別な友達を何人も亡くして、もうずっと生きる理由を探しているんじゃないかということ」
「ハ!」
ちょっと鼻の奥がつーんとなるくらい、強く息を吐いてしまった。
「そんなはずないでしょ?あいつはいっつもいろんなことに没頭して心底楽しそうで」
「
私も彼と私はまったく違った人間だと思っていたとも。困ってる人がいると手を差し伸べずにはいられない、生まれながらに気のいい人なんだと。でもバーティ・クラウチ・ジュニアが亡くなってラクランが出した追悼記事を見てから、あれは必死でやっているようにみえてきた」
ラクランが自分の生きる理由を、見つけられない?全然平気な顔をしてバリバリ働いてるってのに、何を言ってるんだろう?
イザベラは視線を彷徨わせて、やっぱり本気でわからないという顔で首を傾げた。
「ラクランはいいやつだというのもあるけど、ものすごく仕事に一生懸命だ。まるで役に立っていなければ自分に価値がないみたいに」
「そりゃすんごい。もし本当ならあいつの尺度で私は落第だ」
役に立っていなければ自分に価値がないと思い込んでいるのなら、裏を返せば優秀で社会に貢献していない人は生きてる価値がないって言ってるようなものだ。
「もちろん君が彼と仲良くやってるように、全ての人が優秀じゃなきゃ価値がないなんて思っちゃいないだろう」
「ちょっと、そりゃ私が無能って意味?」
「ゴホッ言葉の綾だよ、君は優秀な魔女だけどいい仕事につけてない」
「どうも。そりゃあんたも同じだね。でもあんたともあいつは友達をやってるよ」
「うん、だから彼は自分にものすごく厳しいんだと思う......自分が生きてていいって確信が、きっと彼にはない」
「不運だね、あいつも!自分の能力でもって自分は替えのきかない人間だと納得するには悪い時代だもの。ライバルがダンブルドアなんて」
冗談めかして言ってみたが、これは全く本気だった。
むしろイザベラの方が強く、自分に生きていなければいけない理由がないことを確信している。
産みの親は生きていて、イザベラにとっていまだに特別だけど、あっちは妹のためにも生きているんだろうし、その妹が子供を産んだ以上イザベラはもはやブルストロード家に必要のない人間だ。魔法でも生まれでも、イザベラはごく普通の魔女にすぎない。別に生きていなくたって誰も困らない。
自分が今生きているのは、たまたま生きているからだ。
「あんたの心配はだいたいわかったけど、大丈夫でしょ。私らは生きたくても死んでいった人をあんだけ見送ってきた。無駄死にできるほどの度胸はないよ」
「でも、それで君たちは幸せかい?あらゆる仕事を引き受けて、責任を負ってその重みで安心して?いつか体を壊してしまう......そうしたらラクランは......」
イザベラはバ!と立ち上がって、引っ叩いてやりたい衝動を抑えて右手を握りしめ左手で包んだ。はずみでおっことしたシャーベットが砂利と混ざって黄色い汁になっていく。それと同じようにじわっと目に浮かんだものに気づいて恥ずかしさで頬が熱くなったが、意地でリーマスの緑の瞳から目は逸さなかった。
「縁起でもないこといわないで!仕方ないじゃないか、特別な誰かなんてそうそうできない!幸せじゃなくたって、どう生きたって勝手だろう!?」
「じゃあ個人の自由だから、ちっとも幸せじゃない生き方を放っておけっていうのか!私だってもう友人を失いたくないんだ!」
立ち上がったリーマスの怒声が路地に響き渡った。
一瞬びくりとしたイザベラに、リーマスも怯んだように硬直して、また腰を下ろした。
一瞬静まり返った通りの人々が二人をチラチラと見て、コソコソと話しながらまた各々の人生に戻っていく。
勢いを失ったリーマスはオドオドと上目遣いでイザベラを伺ったが、イザベラが目を逸らさないで睨みつければ覚悟を決めたように目を閉じて大きく息を吸い、それからイザベラの目をまっすぐ見て口を開いた。
「私がハリーに話をするという任務を生きる理由にしたように、ダンブルドアのような力がなくたって意外と自分にだけにできることはあるものだ。
君の生きる理由が今の所見つかりそうでないなら、ラクランのそばにいるのを君の任務にしてくれないか」
「はい?なんだって私の生き方を指図されなきゃならない」
「もちろん指図じゃなく、提案だ。それでも野暮なのは変わらないけど......君はラクランにとってものすごく貴重な人材なんだ。在学中からの、数少ない存命の友人」
「いやいや、あんたもでしょ?そんなに言うならなんだって」
「
それじゃまるでルーピンは側にいることができない人みたいな口ぶりだ。遮られたイザベラはからかってやろうとしたけど、その口が無理に笑おうと引き攣っているのをみてやめた。
「ホグワーツのころは簡単だったのに、家も仕事も離れると、信頼が崩れるのはあっという間だ。知らないうちに信用を失って、果てに私は友人をみんな亡くしてしまった。君たちはせっかく今そばに居るんだ、努力して離れていくなんていうのは、どうかやめてほしい」
「そりゃあそれであいつの役には立ってやれればいいけど......どうやって?」
ロンドンのサヴィル・ロウを、精一杯魔法で調整した安物スーツで歩くのはなかなか恥ずかしい。
「やっぱりジーンズにしたら良かったんじゃないですか?」
「でも、あれはごわごわして着心地が悪いので」
自分よりずっと上にある顔をちらりと見上げてラクランは言ってみたが、顎を引いて深い声で断る闇祓いは、あきらかにラクランが提供したウールフランネルのパンツを今すぐ脱いで重厚なローブに着替えたそうだった。
ビートルズという有名バンドが創設したレコード会社もあるせいか、意外と軽い装いの若者がフラフラしているんで、やっぱりジーンズが良かったと内心ぶつぶつ言いながら、ラクランは足の長さで遅れを取らないように大股で歩いた。
「あまり真新しい建物はないんですね」
「この辺は品格も大事でしょうからね、ガラスのショーケースはありますけど。さ、ここです」
再開発の手をほどよく逃れた古臭いテーラーの名店が並ぶ、スーツの名所だ。超有名なマグルのテーラーに歳上の闇祓いを連れてくるのは変な感じだったが、きちんと鍛えているらしい闇祓い、キングズリー・シャックルボルトは肩幅も大きく立ち姿もカッコいいので様になっていた。
次々採寸して確認されるたび、明らかに落ち着いた雰囲気のシャックルボルトに年下のラクランがアドバイスするのは変なので、フランス語でいくばくか話すふりをしながら相談して、ラクランが通訳というテイで質問や注文を仲介した。注文がまとまるとあっという間に地下階に伝票が渡され、ビスポークの仕立てが始まったようだ。
あんまりお値段が大きいと直視するのも怖いもので、ラクランはなんとか経費で落ちることになったのをいいことに、思い切り札束をドンと置いてちゃっちゃと支払いを済ませた。
まだ手に残る札束の重みでドキドキしたまま、一般マグルの社会見学ついでにカフェへ入る。
「マダム・マルキンの店より早かったな......あの採寸、魔法のようだ」
「ええ、ええ、職人技は時に魔法にも勝るんです」
腰を据えた途端、闇祓いがボソリというのに、ラクランは破顔した。
マグルの護衛につくという時大事なのは、相手を心の中で見下していない人をいかに見つけるかなのだ。言葉や態度で出したつもりはなくても、対等な存在への尊敬が欠けていると、まばたきの速度一つでバレてしまう。
侮っていると、そんな当たり前のことにも頭の回らない魔法使いや魔女が多い。そっちのほうが阿呆だと思って、ついついラクランも研修者をいびってしまうので、後進育成はなかなかうまく行っていなかった。
「きっと完成品を着てびっくりしますよ!上等のスーツは特別動きやすいから.....体型が変わっても仕立てが良ければマダム・マルキンが素晴らしい調整をしてくれるだろうし、そうしたら立派な首相護衛もできます」
ひとつ、頷いたキングズリー・シャックルボルトは採寸が終わってすぐに身につけた、黒い肌によく映える金のイアリングを手でいじった。なにか考えているふうな横顔が気になったが、ラクランは黙って待つことにした。少なくとも否定的な反応を即座にしてこないだけ、今までの候補の闇祓いたちよりずっとマシだ。
「あなたは......そんなにマグルの大臣のもとに魔法使いが必要な状況に見えるかね?」
「正直現状はあまり。でも円滑な関係を保っていないと、これから先の魔法界は危ういと思っています。首相の護衛はそのための布石です」
「ほう。というと、戦争が起こるのかな?」
「いいえ。戦争にはならないでしょう。どのようにこの一連が決着するかわかりませんが、双方本格的な戦争にならないよう細心の注意を払っていると思います」
興味を示してくれた上に、北アイルランド紛争についてもどうやら調べているぞ!ラクランは相応しい人を選べたようだと確信して、ちょっと涙が湧いてきたがなんとか堪えた。
「ではいったいなんのためにマグルの首相に仕えるというのですか」
「未来のためです」
黒々とした真剣な瞳を、ラクランも正面から見つめ返す。魔法界はごく小さく、資源や一次産業はほとんどマグルに依存している。だから魔法省はイギリス魔法政府ではなく一省庁止まりなのだ。魔法族がどんなにマグルの世界との断絶を望んでも事実上それは不可能。だからこそ関わり続け、円滑な関係を維持しなければいけない。
マグルとの関係以外にも課題は山積だ。闇の帝王を生み出してしまった魔法界の歪みを直せなければ、早ければナンシーたちの世代、ああいう戦争の痛みを忘れた頃に次の過激な勢力が誕生するだろう。闇の帝王復権だってもちろんなんとしても阻止したいが、それ以上に魔法界でもマグルでも、社会のありようが変わっていかなければ失われた命はすべて無駄死にになってしまう。
「1981年、私はウィゼンガモット法廷で声高に反論して一時勾留されました。覚えていらっしゃいますか?それ以前から、魔法省には課題を感じていた......同じ年の爆発事件から」
「はは、なかなかの暴れようだったとか。あの頃クラウチ氏はほとんど乱心といっていい状態だった。私は仕事で恨みあいはなしと決めているので、ご心配なく。爆発事件とはシリウス・ブラックの?」
「ええ」
一つ頷いて、いまだ穏やかな目の前の男をもう一度観察した。高級スーツを作りにきたのだ、取り消しなし、この人に今後の首相警護は一任したい。
変な選民意識や所属先への忠誠心、そういう固執はなさそうだ。きちんと考えてくれるかどうか。
ラクランは唇を軽くなめて口を開いた。
「あの事件で亡くなったマグルのうち二人は、私の大切な友人でした。今はその二人の娘を引き取っています」
「なんと......そうですね、魔法界では哀れなピーターをもっぱらいたみますが、12人ものマグルも亡くなったんでした」
「彼女を絶対に不幸せにしないことはもちろん、二度とあのような事態が起こってはならないと私は思っています。あのような戦況を生み出したこともそうですし、より具体的にはマグルの多い立地で戦闘を繰り広げる抑止力の不足に反省はないのかと」
心を寄せてくれたようで、身を乗り出してきていたシャックルボルトはまた少しだけ顎を引いた。
マグル密集地帯での魔法の使用自体を禁ずるといった対応策を練るべきでは、とラクランは暗に言ったのだ。それは政府による強い監視と制限であるし、不自由さを魔法使いや魔女は特に嫌う。
「実行が難しいのはわかりますよ、あなたが慎重で安心しました」
「申し訳ない」
「いえ!しかし考えても見てください、人の多いところで攻撃魔法を放って複数のマグルを手にかけるのはやろうと思えば簡単なことです。そうしたら当然、マグル世界と魔法界の軋轢を生みます」
言いながら、ポケットに杖ごと手を突っ込んで、レギュラスにもらったル・モンドの切り抜きをアクシオした。
「これは......?」
「ご存じありませんでしたか?これはほんの一例ですが、マグルは我々が一騎打ちをしている間に、木星の近くまで機械を飛ばして、衛星の写真を撮って地球に送っているんです」
「これがあの、四衛星の一つということですか?」
「イオですね。望遠鏡でも火山があるって説はあったけど、今回の探査で証明されました」
「それでは地球の周りから山や海を撮影した映像もあるんでしょうな。カメラの技術も良くなっていくと、建物まで写せてしまうかもしれない......」
「爆発物だって積めてしまう日が来る。月からは69年に、それはもう美しい地球を撮影していますよ。あなたのおっしゃるようなことが可能になってしまう日もそう遠くないでしょう。マグルの技術は日々進歩しているのに、いつでもあらゆる魔法使いが戦争の火種を生める状況であり続けている。危険性が伝わりましたか?」
シャックルボルトはいちおう一つ頷いてから、ゆっくりと目を閉じてフーと息を吐き出し、左手で顔を覆い、目元から顎にかけて撫で下ろした。
ラクランはゆったり背もたれに身を預け、黙って彼を見守った。
闇祓いが魔法界のために戦ってきたこと、その矜持はわかっている。問題がないわけではないが、彼らは良い仕事をしたつもりだった。魔法戦争という大きな問題が一旦終わった安心感で増長している闇祓いも少なくなかった。
「知らなかった......恥ずかしい、ことだが。考えたこともなかった」
「私も同じですよ、あの爆発事件で大切な友人たちを永遠に失って、ようやく気づいたんです。知らないことは罪ではありません。知ってそれから、どうするかです」
友人を失って初めて憎しみを覚えた。実をいうと爆発事件が初めてではないが、まあそれはご愛嬌だ。
エバンの死で魔法界へばかり目を向けていたそばで、リチャードとアニーを亡くし、ナンシーの悲嘆に触れた。あのとき感じたのは恐怖だ。
ナンシーが前を向くためにも学ぶことを薦めたけれど、本音をいうと6割はナンシーを止めるためだった。実際魔法界のことを知らないままであれば、ナンシーはきっと簡単に突っ走ってしまっただろう。本当の罪の重さも知らずに報復としてひどい罪を犯して、自分で傷ついてしまうのを防がなくてはいけなかった。
「魔法使いが魔法使いの方だけ向いていれば良い時代は終わりです。ずっと前から終わっていたのかも。魔法界の治安維持のためには、マグルも魔法界の悪意から守られなくては」
重々しく頷いたシャックルボルトは、腹をきめた顔をしていた。
ブライトンから外れたドーバー海峡の荒波で削られる白い石灰岩の岩壁、セブン・シスターズ。
開けてはいるがだだっ広いのどかなところで、パリへ姿眩まし通勤していた頃の中継地の一つだ。ハイキングコースから離れた岩陰にバシッと音を立てて姿現ししたラクランは、うーんと伸びをする。
「お〜背景がいいと、スーツも一層映えるね」
「なぜわざわざ移動するんだ?」
一緒に姿現ししたキングズリー・シャックルボルトは真新しいジャケットを少し迷ってから脱いで、こちらも伸びをした。今日は彼の初めての長期護衛だ。
「息が詰まるから休憩だよ、本番は一番人の移動が少なくなる夜間だし。伸びをするなら今のうちだ」
ホムナム・レベリオ、カーベ・イニミカムしまくってるし、警報が聞こえたらすぐさま転移する所存だ。
女首相はメディアの誇張でなくたいした肝の太さな政治家だった。ラクランはうまいこと調整しているつもりだが、この不安定なご時世で魔法を良いように使っている。それでマグルと魔法界の対立を回避できるなら安いものだが。
「次の出番はいつ?」
「ホテルにも防衛呪文は張っているが、悪意ある人物の気配はなかった。周囲への放火も警戒はしてるが、あとは......爆発だね。79年にも要人暗殺が起こっている」
「シリウス・ブラックの件、私も調べてみたがファッジが次官としてやった最後の大失態というくらい杜撰な対応で......あれで混乱が起きなかったのは、そういうわけか」
「まあね、おれも魔法事故・惨事部の端くれだが、時にマグルは雑な嘘の方が、理不尽な現実として受け入れやすかったりするのさ。マグルのテロも大概なんの前触れもなく、ゴミ箱や病院で爆発が起きる」
「厄介だな。安価だし、いろいろなタイプがあって」
「アクシオ爆弾!てできたら良いんだけど、伝えた通り振動で反応して爆発するものもあるから魔法をかけるのは得策ではない。警察犬もなにも探知しなかったようだし、我々も数日前から張って不審な人物はいなさそうだけど。どうだい、守る側の心境は」
「いるのかいないのかわからない相手に向かって警戒を続けるのは、骨が折れる」
「はは、では骨折り損にならないよう、無事に終えよう」
IRAの囚人たちが待遇改善を求めたハンガーストライキで何人も餓死している。訴えに答えなかったサッチャー政権への憎しみは新鮮で、泥沼となっているIRAやUVFの攻撃と報復の応酬にさらなる勢いを生んでしまった。
そのようなタイミングで、保守党大会だ。代表者や役員の選出、公約や方針の決定を行う場であるから、当然党員が一同に会する。さしもの首相も魔法界に助力を請う程度には警戒を強めている。
あと少しだが、本当に油断できない状況だ。
ホテルへ戻ったラクランとシャックルボルトは、再び防衛呪文を幾重にもかけて、お互いに精度も確認した。その旨を首相に報告し、室内のパイプ椅子に腰掛ける。
個人秘書のロビン・バトラーは即席の応援秘書(という名の護衛)にまだ納得のいっていない顔をしていたが、防衛呪文の警報は術者に聞こえるので、敵意や危険が迫った時素早く知らせるためには同じ部屋にいる必要があった。サッチャーは自分が頼んだこともあって素直に受け入れたし、彼女の夫も物分かりが良かった。
時計は午前1時を回っているというのに、サッチャーは挨拶回りを終え眠るかと思えば、スピーチの原稿を練り始めた。彼女の政策方針は好きではないが、彼女が昼も夜もなく尽力しているのは護衛につけば否定できない事実だ。
時計の針が動く音と、腰掛けてうつらうつらするデニス・サッチャーの息の音、たまにぶつぶつと小声でやりとりする個人秘書と首相。
シャックルボルトは毅然としていたが、さすがに目の奥に疲れが見えてきた。1時間に一回は廊下へ出し、私服警察官と情報交換をお願いしつつ小休止を入れてもらうようにしているが、魔法使いにはなかなか苦行だろう。
「異常はないそうです」
「残念そうに言うな。何も起こらないのが一番いいんだから」
案の定、戻ってきたシャックルボルトが耳元でつまらなそうに報告するので苦笑する。少しジョークを言う余裕が出てきたのか、シャックルボルトも苦笑いして囁いた。
「こんなに早く朝が来て欲しいと祈るのは生まれて初めてだ」
事態が動いたのはもうすぐ午前3時という頃だった。ようやくあらゆる書類を片付け、仮眠をとることがもっとも優先度の高い仕事になった首相は、手洗いに行った後、ラクランたちにもコーヒーを勧めながら隣接するバスルームが悪くないから風呂に入るべきかどうか、夫と雑談していた。
コーヒーに口をつけたラクランは、不意にカーべ・イニミカムの効果である警報が耳に鳴り響くのを感じ、片耳を塞いで素早くカップを置いた。同時に破れぬ誓いの印が熱くなり、杖を抜いてシャックルボルトの方を見る。シャックルボルトはラクランの方を向いて驚いていた。
すなわち、侵入者ではない。
「首相、申し訳ありませんが入浴は諦めてください。警報が鳴りました。侵入者ではありませんが、危険が迫っています。非常口は――」
ドンッ
ラクランの早口を遮って、まず大きな揺れと鈍い音がした。唯一すぐさま爆発と理解したラクランは、音の方向からシャックルボルトごと三人のマグルを反対方向へ押しやりつつ杖を構え、バスルームの方向へ向く。
直後、バスルーム寄りの天井が轟音と共に降ってきた。
反射的に妨害呪文でシャックルボルトの背中を押す。彼らが壁に密着するのを見る前に、視界は瓦礫に包まれた。
あの建物の雪崩のようなものは数秒で止まったが、永遠のように感じられた。
「ケイヒル!」
轟音が収まってすぐ、火災報知器のベルやどこかで断裂したらしいパイプから水が溢れ出る音が傾れ込んできた。その中で座り込んだ秘書と首相を立たせながらキングズリー・シャックルボルトは叫ぶ。
「ケイヒル!!」
応答はない。上から時折木材やレンガがめちゃくちゃに降ってくる。
シャックルボルトは鼻から息を吸って大きく吐き、ラクランの魔法によって自分ごと壁に押し付けられていたマグルの要人たちに向き直った。
「立てますね!?すぐ避難をしましょう」
東側非常口はどうみても使えず、通路の瓦礫を魔法でどかしながら西側の裏口へ案内する。ラクランのいた場所は、下手に動かすとさらに崩れてしまいそうで手をつけられなかった。廊下は断裂したパイプから水が吹き出し、粉塵と混ざって白くけぶっていて、端のほうで警官たちが折り重なって倒れている。
「おい!首相だ、お連れするのを手伝ってくれ!」
意識のあった警官たちとともに裏口を通って建物の外へ避難すると、すでに東棟のほとんどの客と従業員は避難していて、警察車両も現れていた。首相の視線を追ってホテルを振り返って、シャックルボルトは軽い目眩を覚えた。
まだ西端バルコニーには宿泊客がぶら下がって泣き叫びながら助けを求めており、ちょうど自分たちがいたホテル中央付近の西側が大きく崩壊していたのだ。あそこにラクラン・ケイヒルもいる。
「首相のスイートルームにいた秘書が瓦礫の下敷きになるのを見た。一階のナポレオンスイート、バスルームの付近だ」
シャックルボルトは救急隊を捕まえ、唸るように状況を伝えた。
自分のやるべきことは、避難先でも首相を護衛し、明日までを安全に終えさせることだ。
上階の宿泊者たちは部屋ごと崩落してめちゃくちゃな状態だったが、下の階だったこともあってラクランはそれほど時間をかけずに、救助隊によって粉塵と血に塗れた手を探り当てられた。
ラクランは崩落の衝撃で地下階へ落ちかけていて、太い梁で運良く止まっているような格好だった。重たいレンガや壁などが彼に降り注いでいて意識はなく、右半身を木材で押し潰されていたが息はあった。
脊椎損傷の可能性も考慮されたのだろう、事前に意識回復を試みられたおかげで、揺さぶりによってうめきながら意識を取り戻すと、白く霞んだ視界の中でヘルメットのライトがチカチカした。
「あなたの名前や所属は?」
「う......ラクラン・ケイヒル......ゴホッ保守党の臨時秘書だ。スイートルームで話していて、ゴホッ、爆発音の後、天井が崩壊した」
「あなたは上階の爆発と崩壊で、瓦礫の下敷きになりました。現在重症者から搬送しています。足の感覚は?」
「左手、左足、右手は動く。痺れた感じはあるが、右足は......動かない」
「脊椎の損傷はなさそうですが、右足を中心に重傷です。外へ担架で避難を」
早口で何を言われているかわからなかったが、殴り書きした黄色いタグを貼られた。担架でゆられると、自分がひどく重たくなったような、不思議な重力を感じる。ぷらぷらと揺れる赤黒くなったパンツごしの右足がどういう形をしているのか見たくなくて、日の出が近づき白んできた空をひたすら睨んでいたら気持ち悪くなった。
ホテルの外に出て芝の上に下ろされると、自分たちがいたあたりの上階が徹底的に破壊されていて、脱出した後になって恐ろしくなった。
敵意や危険を魔法の力によって察知できなければ、もしかすると、首相は風呂で亡くなっていたかもしれない。あるいは仕事が終わるのが少し遅ければ、トイレで亡くなっていただろう。
バイクで現場に急行したというファースト・レスポンダーのサセックスの医師が、出血箇所の確認をして止血をしてくれる。
「足が本当にひどいし、かなり出血しています。でも意識ははっきりしていますし、応急的に止血したので大丈夫です。できるだけすぐに病院に搬送します。座位も問題ないようなので、パトカーで搬送かもしれません」
「それはいいんですが、あの、首相は?」
「無傷だそうですよ、本当に鉄製なのかも」
「アハハ」
魔法でもって"鉄の女"のあだ名に真実味を与えてしまったらしいことに、乾いた笑いを漏らす。いや、ちょうどあのタイミングでバスルームにいなかったのは彼女の運もあるのだから、あの人は本当にあだ名の通りなのかもしれない。笑い事じゃないですよ、と言われたが、笑うしかなかった。
パトカーに乗せてもらうと、より詳しい話がわかった。警察署に避難した後首相や秘書たちで相談があり、なんと朝の9時には党大会を継続開催すると発表したらしい。暴力で議会は止められないことを示すためのパフォーマンスなんだろう。秘書たち、ということだから、キングズリー・シャックルボルトはちゃんと仕事をしてくれているようだ。なにか連絡が取れたら良いんだけれど。
「すみません、腰掛けられる電話ボックスがあったら、途中で電話をしたいんですが。仲間に生きてるか死んでるかくらいは伝えないと」
「えええ、すぐ搬送って話ですけど」
「でもこの通り、黄色タグですし。なんとか頼みますよ」
言っている間に赤い電話ボックスの前を通り過ぎたおかげで、パトカーを横付けして電話を引っ張ってもらえた。対マグル用連絡手段が絵画以外魔法省にないのはなかなか困るな、なんてくだらないことを考えながら、震える手で家の電話番号のメモを渡してかけてもらう。
「はい、ケイヒルです」
「イザベラか!君でよかった実は爆破に巻き込まれてね、キングズリー・シャックルボルトと分かれてしまったんだが、おれは生きていて治療を受けるというのを......省経由で伝えてくれないか?なに、たいしたことはないから」
聞こえてきた声に喜んで、元気な声が出せた。何か怒られる前に一息に話す。そう何度も警察官にコインを投入してもらうわけにはいかないし。
案の定怒っている声が聞こえてきたけど、ズキズキする足をどうにかしなくちゃいけないことだし、悪いけど大丈夫だから、と言おうとして舌が妙に重たく絡まることに気づいた。
「あれ、ええっと、じゃあごめん、大丈夫だから」
なんとかそう言って、窓の外で待ち構えていた警察官に受話器を渡す。お礼をいってから力が抜けてしまって、前の座席に額を預けてふー、と息を吐いた。
遠くで呼ばれているような気がしたが、顔を上げようとした時には視界は真っ白で、そのまま微睡むように意識を失った。
〜大人の魔法使い/魔女のこれから〜的な回でした。
◽️クィレルの旅のはじまり
就職活動のかわりに、所謂グランドツアー(大規模国外旅行)をして見聞を広めていると想像して登場してもらいました。きっと旅前に「〇〇の歩き方」とか熟読するタイプ。
旅にこなれてきたレギュラスはここでもフランス紳士として楽しくやっています。鬼婆たちの魔法薬調合ギルドを運営して旅費を稼ぎ、吸血鬼と船旅して東欧に渡るつもりのようです。
鬼婆や吸血鬼はBeing(日本語訳ではヒトたる存在)です。定義「魔法社会の法律を理解するに足る知性を持ち、立法に関わる責任の一端を担うことのできる生物」上雇用契約を結ぶこともできそうなので、うまいこと協力しています。
◽️イザベラとルーピン
あまり社会的な活躍ができていない二人。魔法戦争を生き残っても、全てが元通り順風満帆というわけにはいかず、そのなかで各々が自分の人生をしっかり生きようと踏ん張っています。
ルーピンのセリフを書いていて気づいたのですが(遅)、ルーピンから見たラクランの状況は実はとてもルーピンのそれと似ています。自分と同じになってほしくない、というのがルーピンのテーマかなと思っています。
イザベラはホグワーツを卒業しておらず、またマグルの生活に憧れつつも魔法族であるため、イマイチ良い職に就けません。一方で幸せの形はいろいろで、ラクランもルーピンもそれが正確に見えているわけではなく、提案をしています。何を選ぶかは彼女次第です。
◽️キングズリー・シャックルボルト
「まとも」にこだわりのあるダーズリーおじさんを唸らせ、次代マグル首相に手放しませんぞ!と言われるキングズリー。シャックルボルト家は聖28一族なので、ご本人がマグルに偏見を持っていないということ以上に、マグルの生活や仕事ぶりに関して教えられる友人がいたんだろうと想像しています。その一部をラクランにやらせてもらいました。
超有能ですが、物事の優先順位をバッサリ決めて決断できるところがポイントだと思っています。
◽️ラクランの動向
魔法省に出向したのはいくつかの狙いがあるためですが、出版のおかげか同時期にダンブルドアからお声がけをいただき、ナンシーの在学中にマグル学の教授職を目論んでいるようです。
出向も期限があるものなので、対マグル首脳陣対応の大切さやふるまいを伝授する使命感を持っています。
ルーピンのいうとおり、若干ワーカホリックかもしれません。
すごく迷ったのですが、今回実在の爆破テロを扱いました。実際に複数の方が亡くなっている事件で、生き残った方の手記なども参考にしました。首相の動きはラクランとキングズリーがいること以外、なるべく変えずに書いています。
被害に遭われた方の安らかな眠りをこの場であらためてお祈りするとともに、発端となったハンガーストライキによる壮絶な主張はじめ、自分たちを守るための武力闘争が必要のない世界に一歩でも近づけるようにお祈りします。