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大きく膨れたエコバッグを二つも持っていても緑谷引子の足取りは軽い。スキップと見まごう足元は飛び立たんとする小鳥にも似ていて、夏の陽射しなどものともしない。無意識に奏でる鼻歌は、金曜ロードショーで観たミュージカル映画の主題歌だ。
今日、息子が帰ってくる。
かの有名な雄英高校に通う緑谷出久は、引子の一人息子だ。今年三年生に進級した。一年生の後期に全寮制となってから、息子が家に帰ってきた日数は数えるほどしかない。年末年始と長期休み。聞くだけなら妥当な帰省だけれど、雄英高校は自宅から通える距離にあった。母心としては、月に二度くらいは夕食を食べに帰って来てほしいもの。けれども、彼が一生懸命にヒーローを目指していることは、担任の先生や師匠であるスーパーヒーローから十分なほどに聞かされていた。時に自宅訪問、時に成績通知書、時に電話で。ならば応援してやるのが親というものだ。
「もっと帰って来れないの?」
息子の熱意に水を差す本音は、豊かな胸の奥底に仕舞い込んだ。
そうして息子の夢を応援する母親でいるからこそ、帰省の知らせを受けると舞い上がるほどに嬉しかった。
今日は何を作ってあげようか。考えれば考えるほど買物カゴは山盛りにして買いすぎてしまう。家に着くころには手が赤く痺れているだろうけれど、そんなことは気にならない。
帰宅してすぐに買ったものを収めるところに収めて、昼食の下拵えにかかる。
帰省の連絡は電話で受けた。その通話の最後に「なに食べたい? お母さん、何でも作っちゃうわ」と言うと、出久は迷ったような声を出しながら「炊き込みご飯」と答えた。
「蛸の炊き込みご飯が食べたいな」
「わかったわ。夕飯は、カツ丼でいい?」
「うん、楽しみにしてる」
夏が旬の水蛸。できるだけ美味しく旬のものを、と考えた結果、引子は蛸を炊き込みご飯にして食卓に出した。出久がまだ小学三年生の半夏生に。
昆布と鰹の合わせ出汁と、新鮮な蛸、生姜に胡麻、酒に薄口醤油。食べる時には小葱の小口切りをのせた。
食欲が落ちやすい暑い時期に重宝した炊き込みご飯は、息子と夫だけでなく、毎夏に遊びに来る幼馴染にも好評だった。
大きな蓮池のほとりで、父親に抱かれていた赤ん坊。彼は毎夏にやってきては出久の親友になってくれた。あまり活発ではなかったけれど、心の優しい子で、炊き込みご飯とカツ丼は彼のお気に入りでもあった。
「そうだ、クッキー缶も出しておかないと」
そう独りごちて、手を洗った引子は戸棚を開ける。取り出すのは宝石のような青が美しいクッキー缶だ。
去年から、七月十五日から三十日の間にイタリアから海を越えてやってくるようになった。送り主は息子の夏だけの幼馴染、沢田綱吉。蓮池のほとりで泣いていた赤ん坊が、いまでは異国で父親の仕事を手伝っているというのだから、時の流れは早いものだ。家に届くお中元はいつもならさっさと開封してしまうが、このクッキー缶は出久のために送られたものだから、こうして缶を開けずに待っている。国をわけても途切れないでいる友情は、母として、胸に込み上げてくるものがあるほどに、誇らしい。
引子は炊飯器の予約タイマーを設定してから、息子のアルバムを引っ張り出した。
一人息子であるから、写真は多いほうだ。赤子から三歳までは、幼馴染の爆豪勝己とのツーショットが多く、それ以降は綱吉を交えたスリーショットが殆どだ。けれども、出久が無個性だと診断されてからは勝己とのツーショットの数は減った。入学式や卒業式に親同士で無理矢理に撮らせたもの以外は、学校行事を除いて、綱吉とばかり写っている。
四角い枠の中で、夏祭りで買った綿飴を食べる出久と、りんご飴を食べる綱吉が笑っている。撮影場所は玄関、飴を持っていないほうの手はピースサイン。せっかくだからと、二人に浴衣を着せたのは引子だ。
母親譲りの童顔や、線の細さ、言うことを聞かない癖毛、外で活発に遊ぶよりもヒーローの特番やゲームを好む性格なんかが、どことなく似ている幼馴染だった。父親が単身赴任しているというのも共通点のひとつだ。いつまでもベッドにいる二人を起こす朝は、まるで息子が増えたようで慌ただしくも愉快だった。
「また泊まりに来れば良いのに」
写真を眺めながら、引子は思い出にひたる。
端が折れないように注意しながら、そっと写真を引き出した。一枚目は夏祭りの写真。二枚目は、出久、勝己、綱吉の三人が写っている、綱吉の祖父母宅の庭で水遊びをした時のもの。背景の縁側にあるスイカ、庭の芝生に落ちている水鉄砲。真ん中にはずぶ濡れの三人の子供たち。あまりの可愛らしさに、頬だけでなく涙腺もゆるんでしまう。
流れそうになった涙に慌てて、引子は席を立つ。歳を取ると涙脆くなるというのは本当で、アルバムを眺めただけで涙が出てしまった。誰に見られたわけでもないのに気恥ずかしく、引子は豆腐と薬味の冷汁風の汁物と、単身赴任の夫から届いたロースハムを焼く支度をする。
炊飯器からは良い匂いが香りはじめている。もうすぐだ。
昔ながらの集合住宅、廊下の足音は聞こえてくる。ドアの開く音。
「母さん、ただいま」
続けて「お腹すいたぁ」という独り言はばっちり引子の耳に届いた。
「おかえり出久、ご飯できてるから手洗っておいで」
高校三年生の食欲とはすごいもので、出久はおかずをペロリと平らげてご飯もおかわりした。帰ってくるたびに食べる量が増えている気さえする。どうせ一人で食べ切るには冷凍しないといけないからと、引子は追加でハムソーセージを焼いた。
「ねえ、出久、また背が伸びたんじゃないの」
忙しなく動いていた箸がぴたりと止まって、のろりと蛸を口まで運び、出久は首をかしげる。引子に似た童顔だけは変わらないが、顎の辺りがいくらか細くなった。
「そうかな。秋に二回目の健康診断があるから、もしかしたら伸びてるかも。体重は増えたよ」
茶碗──というよりどんぶり──を左手に、箸を右手に持ちながら二の腕の力こぶをアピールするのが可笑しい。体重とは、つまりは筋肉だ。
雄英高校に入学して二年と三ヶ月。ヒーローに憧れるだけだった男の子は、自身が立派なヒーローになろうとしている。間もなく迎える、仮免ではない本試験、ヒーロー免許取得試験。それを乗り越えたら就活が待っている。雄英生はスカウトがほとんどで就活に苦労はないと聞く。
「出久と綱吉君て、身長同じくらいだったわよね」
「え──どうしたの、突然」
「今年も天使のクッキー缶が届いたから、懐かしくなっちゃって」
「たしかツナのほうが低かったけど、かっちゃんには、どんぐりの背比べだって言われたよ」
「ふふっ、どうしてるのかしら。イタリアでの生活なんて想像できないわ。また夏休みに遊びに来たら良いのにね」
「うん──そうだね。僕も会いたいよ」
下目遣いにそう言う切なげな息子──引子はそこに秘密を見つけた。母親の直感だった。足先がひやりとする。昔のようになんでも口に出してくれないことへの、母親としての憂いが、寂しさを連れてやってくる。
もっとたくさん帰ってくればいいのに。幼馴染に会いにイタリアへ飛んだっていいのに。なんでもない話をしてくれるなら、お茶とお茶菓子を用意して何時間だって付き合うのに。
足元から上がってくる寂しさに見て見ぬふりをする為に、引子は空になった食器を台所に下げに立ち上がる。事前に支度をしていたから洗い物は少ない。手伝いを申し出る出久にテーブルを拭かせて、食器をラックに干して湯を沸かす。クッキー缶に合わせるのはちょっと良い紅茶だ。こちらも茶葉が缶に入っている。金色に花鳥文が華やかで、蓋を開けるとふわりと良い香りが広がる。
「戸棚にあるわ。テーブルに運んでくれる?」
出久は青いクッキー缶を大事そうに手に取った。
食卓ではなくソファがあるローテーブルにそれは置かれた。紅茶を持って出久の横に腰かける。
「開けるね」
中央に獅子とイタリア語のブランド名が刻まれている以外はシンプルな蓋が持ち上がる。
「わあ、豪華ね」
引子は思わず声をあげた。
去年から送られてくるようになった、全七種類、四十枚ほどのクッキー。その前の年に手土産として綱吉が持ってきたクッキー缶の倍はあって、流石に一人で食べ切れる量ではない。手土産のクッキーを食べてしまったことに多少の罪悪感を抱いていたこともあり、去年から開封は出久にさせている。
「今年も美味しそうだ」
クッキーのために昼食を制限した引子とは違い、出久は腹一杯に昼食を食べたはずだ。だというのに、出久はお気に入りのビスコッティに手を伸ばす。
日本のクッキー缶は宝箱のように煌めくが、このクッキー缶はそれよりも素朴だ。その代わり、とても美味しい。小麦やバター、砂糖、卵、塩の、素材の味がひとつにまとまって舌を楽しませるのだ。
引子のお気に入りは中央にいる天使だ。斜めに細長く凹凸があるそれを、最初こそ何の形かわからなかったが、好奇心から手を伸ばした。後から、クッキーの写真を出久がクラスメイトのお嬢さんに見せたところ、イタリア作家が描いた宗教画に出てくる天使であることが判明した。
もう一枚、手を伸ばす。ウエハースのようなサクサクの生地にクリームを挟んだイタリアの伝統菓子、カネストレッリ。
「うふふ、美味しいね」
「うん、美味しいね」
息子とこうして美味しいものを共有するのは引子のわかりやすい幸福だ。爆豪家にも同じクッキー缶が届いているらしいから、きっと彼女も、旦那と一人息子と分け合っているに違いない。
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生徒たちを夏期休暇に送り出そうと、教師の仕事がなくなるわけではない。学生寮・ハイツアライアンスの設備点検の立ち合い、後期の授業計画の打ち合わせ、インターンで世話になったヒーロー事務所への挨拶まわり、八月の後半にはヒーロー免許取得に向けた最後の強化合宿が控えているし、試験のエントリーにその後を見据えた就職活動の準備と、あげたらキリがないのでここまでにしておこう。
このように相澤消太は忙しい。雄英高校は職場兼住居というワーカホリックには夢のような環境であるが、仕事は深夜をまわっても終わらない。
相澤は、聞けば地獄の地響きと勘違いしそうな、低い、深い、肺の空気を入れ替えるような息を吐き出す。二度、それをくり返した。ちらりとクリップボードに留めてある、透明な袋に入れられた豪奢な手紙に視線をやるが、すぐに逃げるように逸らして、また地獄の溜め息を付くのだ。
──まさか、まさか、自分の生徒の元にマフィアから手紙が届くだなんて。それも二通。
ドライアイ気味の眼を薄目にしてもう一度、宛名を確かめる。真黒の上質な封筒の表面には『親愛なる緑谷出久様』とあり、重なっているもう一通には『親愛なる爆豪勝己様』とある。問題なのは、封筒の口を閉じている封蝋だ。
血のように深い赤色の、溶かした蝋に押しつけられるシグネットリング──相澤はマフィアの象徴であるブラックスーツを想像する。男は紋章が刻まれた指輪を蝋に押しつけて手紙に封をするのだ。
一体どのような身分の男が、どういう目的で雄英生宛に手紙を送ってきたのか。
雄英でもベテランと呼べるだけの年数を教師としてやってきた相澤にも、それは推測できないものであった。
翌日、ハイツアライアンスのエアコン点検に立ち会っていた相澤は、業者の撤収を見届けてひと息、ソファに背中を預けたところで、耳に馴染む二人組の声を聞いた。
「え、かっちゃん食べてないの?」
「二枚食った」
「駄目だよそんなの、ぜんぶ美味しいんだから最低でも一枚ずつ食べないと! お母さんが小分けして持たせてくれた分があるから、後で一緒に食べようよ」
「けっ、なら茶も淹れろよ」
「そこは君が淹れるんじゃないの?」
背もたれに預けていた体を起こして膝の上で指を組む。
ハイツアライアンスの玄関を押し開ける緑谷出久と爆豪勝己は、幼馴染として、一年時よりもだいぶ良い関係を築けているようだ。
「おまえたち夏休みはどうした」
「相澤先生! ちょっと体を動かしに来ました」
勝己も同じ理由のようだが、思考回路が同じであることを認めたくないとその顔に書いてある。
「そうか。まあ良い。体育館を使うなら申請、トレーニングルームは十七時までだ」
礼を言う二人の足はすぐにトレーニングルームに向かう。
相澤はその背中に問いかけてみた。
「一年の授業でやったヒーローとヴィランの歩み寄り政策を覚えているか」
ほんの軽い気持ちだった。寝不足が判断力を低下させていた可能性はあるけれど「覚えてますよ、たしか、世界各国がヴィランの管理をマフィア・ボンゴレというヴィラン組織に求めたあれですよね」という簡単な解答を期待しただけの、教師としてのちょっとした戯れのはずだったのだ。
その予想を裏切るように、出久と勝己は勢いよく振り向いた。
「ボンゴレに何かあったんですか」
「まさかヒーローと揉め事か?」
あっという間に目の前まで戻ってきた二人に相澤は確信する。
「──おまえたち、マフィア・ボンゴレと何があった。一体どういう関係だ」
彼らを疑うわけではないけれど、相澤の眼が届かぬ場所で何かが起きているとわかって見過ごすことはできない。相澤は教師で、彼らは相澤が担任を勤めるクラスの生徒なのだ。生徒を導き、指導し、守る。そしてヒーローになるための手助けをする。それが相澤の仕事であり、命をかけた責務なのだから。
「すべて話しします。ただ、オールマイトを呼んでくれませんか」
「俺たちの一存じゃ話せない。言っとくが、オールマイトも俺たちも口止めをされてたから話さなかったんだ。必要だってなら俺たちは話す。そのかわり、先生も話してくれよ」
犬猿の仲のように見えた一年生の頃から、この二人は彼らにしかわからぬ繋がりを持っていて、このようにこちらを驚かせてはその自覚を持たないでいた。今もきっとそうなのだろう。わだかまりを乗り越えた二人はあまりに自然体だ。お互いの存在が肌に馴染んでいるようにそこにある。
人格形成に多大な影響を与える個性発現前から互いを知っている。それはすなわち、魂が最も無垢であった状態を知っているということだ。
相澤は予感する。ヒーローとして培ってきた第六感。教師としての経験が、予感させていた。
他の教師と同じく雄英に住んでいるオールマイトを呼び出すと、彼は神妙な面持ちで校長室にやってきた。
オールマイトは根津校長と相澤を見、出久と勝己を見留めると、それだけで何かを察したようだった。トゥルーフォームでもマッスルフォームに負けず劣らずの眼光は、元から引き締まっている場の空気に、さらなる緊張感を与える。
「まずは、これだ。おまえたち宛に届いた手紙だ」
呼び出した側として、相澤はまだ根津にしか共有していない黒い封筒を二通取り出す。
「なんだこの見るからに怪しい手紙は」
勝己は怪訝な顔を相澤に向ける。
「おまえたちが俺の授業をまともに聞いていたらこの紋章を覚えているはずだ」
そう言って、手紙を裏返して封蝋を示す。出久と勝己は手紙を手に取り凝と見つめ、その顔を驚愕に染めた。
「これボンゴレの紋章じゃ──!」
「なんで俺らに──」
「何か心当たりがあるんだろう。巨悪から手紙が届くなんて前代未聞だ」
互いに顔を見合わせる幼馴染を、根津が後押しする。
「我々は君たちを信じている。だからこそ、話しておくれよ」
二人は相澤と根津、最後にオールマイトを見、三人で頷き合った。オールマイトは既に彼らの秘密を知っているらしい。
そして語られる、驚愕の真実。
マフィア・ボンゴレ九代目ボスの後継者として内定している少年の名を、沢田綱吉という。彼は緑谷出久と爆豪勝己の夏の幼馴染で、二年前の夏にマフィアとヒーローの卵として再会を果たしている。
二人の話に、オールマイトは付け足しをする。最高のヒーローを目指す二人の汚点になることを綱吉自身が恐れ、オールマイトの友が科学者であり続けるために九代目があの夏の夜の事件の揉み消しを決めたことを。
相澤はすぐに何かを返答することはしなかった。巨悪との繋がりがヒーローを目指す二人の汚点になる可能性は十二分にあり、巨悪から口止めされていれば、オールマイトの一存で事件の真相を周知するわけにもいかない。彼のことだ。心苦しかっただろう。
「話してくれてありがとう。現時点で二人は沢田綱吉と連絡を取り合っているのかい?」
「電話番号、アドレス、SNS等の繋がりは一切ありませんが、お中元が届きます」
出久は家から持ったままでいた紙袋をそっとテーブルの上に乗せる。
「このクッキーです。おやつに食べようと家から持ってきたもので」
「俺が言ったんだよ。送れって。あいつあのままじゃ絶縁しそうだったからよ」
ジップロックに小分けされたクッキーをテーブルに並べると、袋と袋のあいだから一枚の写真がひらりと落ちてきた。
「あれ、なんだろ」
そばに落ちたそれをオールマイトが広い上げる。
「──緑谷少年のお母様が用意したのなら、なんとも数奇なものだね」
出久は写真を受け取ると、わかりやすく顔を歪めて、覗き込んだ勝己でさえ普段通りとはいかないようだった。
「彼が、綱吉です。僕たちの幼馴染で、親友で、マフィアになった、大切な友人なんです」
相澤と根津はそれを見た。
三人のずぶ濡れの子供たちがカメラに向かって水鉄砲を構えている。両端に立つ二人は出久と勝己だ。高校一年生の二人の面影がある。
その真ん中に一際小柄な少年がいる。勝己よりも深い蜂蜜色をした髪の、大きな瞳が優しげで、争いごととは無縁そうな風貌をしている。だがこれは子供の頃の写真だ。そうやって、動揺する心に鞭を打つ相澤を知らぬ出久は、紙袋を探ってもう一枚を取り出すのだ。
「これ中学の時のだ」
「ハッ、てめぇら貧相だな」
そこに勝己はいなかった。出久と距離を保っていた時期なのだろう。いるのは、綿飴を食べる出久と、りんご飴を持つ綱吉だ。二人とも浴衣を着ている。マフィアともヴィランとも関わりを持っているだなんて想えない、ただの中学生だ。
「この頃にはもう、自分がマフィアの後継者だって知ってたのかな」
「だろうよ」
二人の眼には確かな友情が宿っている。懐かしさを覚えるものから、相澤はそっと目を背けた。直視するにはあまりに眩しすぎるのだ。
「あくまでも個人的なやり取りなんです。僕たちが出すお中元はツナの実家宛で、ツナのお母さんは何も知らない、何の関わりのない一般人だから」
「巨悪の母親でありながら何も知らない、だと?」
「はい、そのとおり。ツナもツナのお父さんも、彼女を自分たちの世界に巻き込まないよう必死なんです」
このような奇妙な話は聞いたことがない。そもそもがあり得ないのだ。
個性発現前から裏社会を牛耳ってきたヴィランの中のヴィラン。個性発現後の混沌に満ち満ちた世界にあっても巨悪であり続けた恐るべき組織力。裏社会全土に根を生やす長い歴史、血統主義で受け継がれてきた伝統と個性、一万の傘下を従わせる絶対的な畏怖。
国家にさえ干渉する影響力を持つヴィランの血縁が遠い東の島国で生き延び、後継に選ばれた。というのに、その母親が何も知らずに一般人として暮らしているだなんて。
「なるほどね。マフィアボンゴレという組織が持つ統率力だからこそ、そんな芸当ができるのかもしれない」
そのひとことには、相澤を襲う混乱の渦を消滅させる聡明さを宿していた。
頭の奥がスッと冷えていく。
「爆豪、緑谷。この手紙を開けてみろ」
「それがいいね。そうしないとはじまらない」
出久と勝己は慎重に手紙にふれる。まるで爆発物を前にした緊張感だが、内容によってはそれよりもよほど危険なものとなりうる。
「これは──」
それは呪いの手紙でも脅迫状でもない。
招待状であった。
白地に金縁があしらわれた豪奢な紙に、優雅な字体が流れるようだ。
マフィア・ボンゴレ 十代目継承式のお知らせ
二○××年 十二月二十五日
イタリア チヴィタ・ディ・バーニョレージョ ボンゴレ本部にて
──マフィア・ボンゴレ十代目継承式への招待状。
出久と勝己の手紙は同じ内容であった。ボンゴレは、沢田綱吉は、幼馴染の二人を自分の継承式に招待するためにこの手紙を用意したのだ。
「まさか──こういうこと?」
「いや、でもよ、無理だろこんなの」
オールマイトでさえ口を覆って唸ることしかできずにいるなかで、幼馴染はお互いにしかわからぬ言葉で会話する。
「プロになろうってのに、どの面下げて参加しろって?」
その声色には無念があった。
無念なのだ。勝己も出久も、この招待を受けられないことを残念に思っている。
ボンゴレ十代目への二人の認識を確かめるべく、相澤はちらりとオールマイトへ視線を送る。
すると彼は視線に気付き、ほんのわずかに口角を上げた。もしかしたら唇をぐっと閉ざしたことでそう見えただけかもしれない。それぐらいにささやかな、相澤でなければ見逃していたかもしれない、優しい微笑みだった。
──どうか二人を否定しないでやってほしい。
そう、頼まれた気がした。
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夏休みの終わりはいつも悲しかった。大好きな幼馴染が東京に帰ってしまうからだ。
「いやだなぁ、帰りたくないなぁ」と毎夏の終わりに彼は言ったけれど、最後の夏だけは違った。帰りたくないという言葉は、出久からすると「もっと一緒にいたい」と思ってくれていることの現れであったから、今年もきっとその口から聞けるだろうと漠然と意識していた。そしたら出久も「冬休みも遊びに来たら?」と無理を承知で誘って、二人して眉尻を下げながら「また来年だね」と別れを惜しむことができたのに。
その夏が今までと違ったのはそれだけではなく、彼は新しい家族を出久に紹介した。フゥ太、ランボ、イーピン。イタリア人の二人の少年と中国人の少女。そしてホームステイ中だというビアンキという名のイタリア美女。さらには家庭教師だという赤ん坊。驚いたけれど、個性社会に生きていればそんなこともある。
兄としての彼が見せる表情はどれも初めて眼にするばかりのもので、出久はさらに知ることができた新たな一面に嬉しくなった。
だと言うのに──綱吉は突き放すように微笑うのだ。出久が知らない表情で、一人だけ大人のような顔をする。
「さよなら、出久」
黄金色の焼けるような陽光が鈍くなり、葡萄色の夕焼けに赤みが増すのを見つけると、出久の胸は切ないほどに締めつけられる。悲しみが溢れて溺れてしまいそう。
夏が終わる。
そしてやってくる。友を連れて行ってしまう秋が。
静岡県にある高等学校の夏季休暇の平均は四十日であるが、雄英高校に通って三年目にもなれば、夏休みの短かさなど気にすることではない。
高校生活最後の夏休みは二十一日で終わりを告げた。筋トレに通っていた出久からすると十日ほどのようにも感じられるが、もちろん課題とてやり残しはない。
静岡住みのクラスメイトとはトレーニングルームなどで顔を合わせていたから、久しぶりなのは麗日お茶子や飯田天哉などの県外組だ。短い夏休みを堪能した者は肌を焼き、旅行を楽しんだ者は土産を配る。
青山優雅のフランス土産の大箱のチョコレートから一人ひとつだという宝石のようなボンボン・オ・ショコラ──フランス語にはオが入るらしい──をつまんだ出久は、どこからか香る異国の香りにお中元のクッキーの味を思い出さずにはいられなかった。
「ボンボン・ショコラってお酒入ってるやつじゃないの?」
「フランス語でボンボンとは、ひとくちサイズの砂糖菓子を意味する言葉さ!」
チョコレートを舌にのせれば、転がすだけでたちまち蕩けていく。
「わぁっ、美味しい!」
「この美味しさがわかるとは流石だね緑谷君」
入学当初からバチンッ! と星が飛ぶ青山のウィンクは、この三年間でさらに磨きがかかっていた。
チャイムが鳴る気配に瞬時に席に着くのも慣れたものだ。
「よし、そろってるな」
校長室での話し合い以降、何度か相澤と顔を合わせる機会はあったが、その後にボンゴレからの接触があったかは訊いてない。勝己からも何もないということは、彼も出久と同じく触れない選択をしたのだろう。この問題は一人で抱えるには重すぎて、二人で抱えるにしてもキャパシティをオーバーしてしまう。ヒーローになるための最終関門を前にして迂闊に手出しはできない。と、言うのは、話し合うまでもない二人の結論だ。
「今日のホームルームは夏合宿に向けての予定だったが、急遽、公安からの要請を受けての特別任務について説明をする」
一年生であれば教室中がわっと盛り上がったことだろう。だが、最高学年としての自覚とヒーロー免許取得を目前にした今、彼らは堂々と着席したまま、相澤の次の発言を待ち構えている。
「十二月二十五日。イタリアでマフィア・ボンゴレの十代目継承式が行われる。ヒーローとヴィランの歩み寄り政策の一環として、雄英高校三年生全四十人には継承式の護衛任務に当たってもらう」
先ほどと同じように静かであるが、先ほどとは打って変わって、生徒たちの眼にあるのは熱意ではなく困惑だ。
出久は視界の端で、前の席に座る勝己の肩が揺れるのを見た。
「先生、質問を良いかしら」
「許す」
すっと手を上げた蛙吹梅雨が皆の疑問を代弁する。
「護衛対象は継承式への参加者なのかしら。それとも、マフィア・ボンゴレ?」
「その両方だ。継承式が滞りなく行われるよう、当日を含めた三日間、泊まり込みでの任務になる」
「──まさか、ヒーローがヴィランを護衛する時代が来るとはな」
常闇踏影はごく小さな声で囁いたが、静まり返った教室内では全員の耳へと届く。
ヒーローとしての理性と自覚から『ヒーローとヴィランの歩み寄り政策』が公安主体のプロジェクトであること、このプロジェクトが犯罪件数に結果を出していることに葛藤しながらも、説明されなくとも巨悪の存在がどれだけのヴィランに理性を与えているかは授業でも取り上げているため、どうにかヴィランを護衛するという不信感と格闘する生徒たちに、彼らを導く存在として、わずかながらに手を差し伸べてやるのが相澤の役目だ。
「マフィア・ボンゴレは前に授業で取り扱ったとおり、巨悪の中の巨悪と呼ぶに相応しいヴィランだ。何故だか覚えているやつはいるか」
一番先に手を上げたのは八百万百だ。
「はい、先生。ボンゴレが巨悪である要因はその長い歴史にあります。個性発現前──少なくとも三百年の歴史を持つボンゴレは、現存する世界最古のヴィラン組織です」
「そのとおりだ。じゃあ何故、ボンゴレは公安の介入を受けてなおヴィラン組織として有れると思う」
出久は立ち上がる。座ってなどいられなかった。
「マフィア・ボンゴレは、捕まえられないヴィランだからです。世界中の数多の企業を支える株主であり、ボンゴレ・カンパニーという表の顔は大企業です。仮に経営破綻すれば世界経済が受けるダメージは計り知れない。それだけではなく、恵まれない子供たちへの多額の寄付、支援学校の経営、才能ある若者たちの支援活動。十年ほど前からは科学者として革命的なサポートアイテムを発明してきたデヴィット・シールド博士の支援者となり、個性社会の飛躍に多大な貢献をしています。なにより、個性発現直後、秩序が崩壊した世界でボンゴレがヴィランを統率しなければ、社会がこんなにも早く復旧することはありませんでした」
友がヴィランだと知ったあの夏から調べ上げた知識が、激情に押し出されて止まらない。
「これはオールマイトから聞きましたが、タルタロスの防災設計の一部もボンゴレから提供されてるんですよね」
「ヴィンディチェと呼ばれる、マフィア界で最も強固な牢獄のことだな」
「相澤先生」
「緑谷、座りなさい」
「先生!」
勝己が立ちがった反動で、椅子が机にぶつかり大きな音を立てた。
「無理だぞ、先生。そりゃあねぇだろ」
「二年前の夏、I・アイランドで事件に巻き込まれた何人かは知っていることです。雄英がこの護衛任務を受けると決めたなら僕たちはヒーローとしての責務を全うします。ただ、皆を騙すような真似だけはしたくありません。説明をさせて下さい」
「私もそのほうがいいと思います!」
麗日が立ち上がり、八百万と耳郎響香がそれに続く。
飯田が綺麗な挙手をして「緑谷君と爆豪君は素晴らしいヒーローです。だからこそ共有すべきではないでしょうか。事実は彼らの汚点にはなりません」と意見する。轟焦凍が「俺も飯田に賛成です」と言えば、上鳴電気と峰田実が「この護衛任務が公安とボンゴレどっちの発案かわかんねぇけど、ボンゴレが雄英の介入を許したんならそういうことだろ?」「そこだよそこ! 相手だって絶対こうなるってわかってるだろうし」と、わかる者にしかわからない会話を展開した。
「先生、A組にはこんだけ知ってる奴がいる。B組に共有するかはともかくとして、爆豪と緑谷がこう言ってるんスから、俺たちとしても共有しとくべきだと思います!」
切島鋭児郎が最後のひと推しをすると、相澤は髪をうねらせ眼光鋭く睨みつける。そして一喝。
「おまえら全員座れ!」
相澤の行き届いた教育によって生徒たちは大人しく着席する。だがその眼のうるさいこと。事情を知っている者たちは勿論、知らぬ者たちからの圧がすごい。
数秒の熟考の後、相澤の鋭いままの眼差しが出久と勝己を捉える。
「責任を持って授業時間の内に説明を終わらせろ。俺からは以上だ」
そう言うと、二人を黒板の前に追いやった相澤は勝己の席に腰かけ聞く体勢に入った。
授業が終わるまであと二十分。どこから話そうかと一瞬だけ勝己と視線を交わしたが、それだけで結論が出る。包み隠さずに話をしよう。出久と勝己には恥じることなど何ひとつないのだから。
かつて、綱吉は汚点になりたくないと言ってくれた。マフィアとして生きると決めたところで彼の本質は変わらない。いいや──心優しい彼だからこそマフィアとなることを選んだ。彼だからこそ、巨悪に相応しいのだと、そう言う者がいたではないか。
「えっと、まずは二年前の夏の話からしようと思う。I・アイランドで開かれた個性研究の祭典、I・エキスポに参加した皆は知っているよね」
出久があの夜を戦い抜いたメンバーの顔を見渡すと、皆が力強く頷いてくれる。なんて心強い仲間たちだろう。そしてI・アイランドには行ったものの、事件とは関わらなかった者、そもそも知らぬ者たちも、誠意を持って出久の話に耳を傾けているのが伝わってくる。
「おい、まどろっこしい言い方すんな」
舌打ちをひとつした勝己が、両の手をポケットに入れたまま、言う。まるで世間話でもするかのように。
「マフィア・ボンゴレ十代目ボス、沢田綱吉は、俺らの幼馴染なんだよ」