18
銀色に輝くヒーロー仮免許を持ってきたときは「よくやった」と心の底から褒めてやったというのに、危うげなくヒーロー免許証を持ってきた愛弟子に対して浮かんだのは、賞賛でも安堵でもなく、彼ならばという、深く根付いた信頼であった。
「緑谷少年なら当然の結果だ」
彼と出会ったのはまだ中学生の、体も心も何も出来上がっていない、どうしても諦めきれない夢に縋り付いていた、未熟で、だからこそ愛おしく、無限の可能性に満ちていた青い頃。
入学試験までにスパルタで個性を受け入れられるだけの土台を作り、腕を壊しながら何とか合格した。
雄英高校は入学してからが本当の試練の始まりだ。いくつもの、それこそ本来ならば彼らがまだ経験しなくても良いはずの困難を、たくさん、たくさん乗り越えて、ヒーローの卵でありながらそこらのヒーローよりもヒーローたらしめる決断と行動をやってのけた。
──さらに向こうへ。
あっという間の三年間だったけれど、歩いて来た距離は計り知れない。
自慢の弟子だ。自慢の生徒だ。
あの日の自分よ。後継者探しに躍起になり余裕を失っていた平和の象徴よ。よくぞ緑谷出久と出会ってくれた。
あの日の君よ。夢見るばかりの貧弱な無個性の少年よ。よくぞ私の目の前に現れてくれた。
『無個性でもヒーローになれますか』
今ならその問いに答えてやれる。
『なれるとも。君ならば、最高のヒーローに!』
ヒーロー免許に印刷された出久の顔写真を指先で撫でながら当時を振り返っていたオールマイトは、ひとつ鼻から息を吐いて、写真から本物へとゆるりと視線をやった。
「お母さんにはもう?」
「いいえ、まだなので、今日の放課後に外出届けを出してます」
「早く見せてあげると良いよ。喜ぶだろうね」
「はい、それはもう。心配ばかりをかけてきたので、これでようやく一区切りですね」
平和の象徴の後継に選んだがために傷つけてしまった負目は消えない。けれども出久はオールマイトの罪悪感などものともせず、自分の意思で、自分の足で、最高のヒーローになるという夢に突き進んでくれた。
出久が憧れたヒーローとして、出久の憧れの強さと輝きにどれだけ救われたかを、きっと彼は知らないし、オールマイトも知られたくはない。いつまでも憧れでいたいのは師匠としての小さな意地のようなもので。けれどもいつか出久がヒーローとして躓いた時には、オールマイトにとってのヒーローデクについて語るのも悪くないだろう。
引子に早く見せてやってほしい。誰よりも出久を愛し心を痛めている女性に、息子の三年間の努力の結晶を確認してほしいのだ。
そしてもう一人、オールマイトにはこのヒーロー免許を見せてやりたい人がいる。
「沢田少年にも見てほしいんじゃないかい」
ヒーローデクのファン二号だという少年は、このきらめく免許証にどんな顔をするのだろう。オールマイトのように昔の出久を懐かしむだろうか。それとも、当然として受け入れるだろうか。「だから言ったじゃないか」と、自分のことのように誇るかもしれない。
「──それが許されるなら」
「許されるとも。だって君たちはただの友人だ。幼馴染だ。誰が君たちを非難できよう」
オールマイトは断言する。たとえヒーロー委員会が、世界が彼らを認めずとも、彼らが心のままに向き合っている間だけは、誰も咎めることはできない。
そうして願うのだ。三人が永遠の友であることを。
それこそがヒーローが目指す理想の社会であると、信じている。
高校生活最後の文化祭は、ヴィランに脅かされることも、その他のトラブルに見舞われることもなく、学生らしく安全に終えることができた。
ヒーロー免許試験から日が浅く、入念な準備ができたとは言わないが、前々から張り切ってスケジュール管理してくれた委員長のおかげで、忙しさを言い訳に妥協することのない、最高の文化祭になった。
「拳藤さん綺麗だったねぇ」
備品室から教室までの帰り道、彼女のヒーローコスチュームに似た青いドレスを思い出し、麗日はうっとりと頬を緩めた。
「あのマーメイドドレスは彼女の鍛え抜かれた肉体の素晴らしさをより魅力的に演出してくれましたわね」
「うんうん!」
八百万の賞賛に賛同すると、八百万を挟んで反対側を歩いていた耳郎響香が、ひとつ不服な声をもらした。
「私はヤオモモのミスコンが見たかったなぁ」
一年生から三年生まで、麗日の代は無事に文化祭を開催できている。その中で八百万のミスコン参加を望む声は学校中から多くあったというのに、八百万が挑戦することは一度もなかったのだ。
クラスメイトや友人としての贔屓目をなしにしても、八百万は美しい少女である。発育の良い体は耳郎がいつも無言で羨ましがるほどで、長い黒髪は艶やかだ。育ちの良さは所作に現れ、顔付きには聡明さが満ちている。そして何よりも魅力的なのが、クールビューティに見せかけて、笑顔が可愛いところだ。
八百万が参加すれば彼女が一番美しい。多くは語らない耳郎の本音が、麗日の耳には聞こえてくるようであった。
「いいんですの、私は。得意ではないですし、拳藤さんの優勝を見れてとても楽しかったです」
「私はヤオモモと競ってみたかったけどね」
廊下の角を曲がったところで三人の会話に混ざってきたのは、先ほどミスコンで優勝を果たした拳藤一佳と物間寧人だった。
二人の目付きが違うのは、少し前。ヒーロー免許試験後、文化祭準備期間という忙しいときに時間を貰って説明をしたからだ。
A組担任の相澤、B組担任の管赤慈郎、そしてオールマイト立ち合いの元、十二月二十五日に行われる護衛任務の概要のおさらいをし、その後にマフィア・ボンゴレ十代目ボスが出久と勝己の幼馴染であることを告白した。
物間は唖然としながらも「冗談だろう」と、タチが悪過ぎる冗談、もしくは季節外れのエイプリルフールを望んだけれど、A組は事前の話し合いで嘘偽りなく潔白であろうと意思共有を済ませていたから、誰一人とした物間を救ってやる者はいなかった。
黙っていたほうが親切だろうという意見は、B組に共有するかの話し合いで心操人使から出たものだった。彼は二年からの編入生だからI・アイランドの事件には関与していない。多くの者と同じように、沢田綱吉という少年を知らない。知らないものは怖い。未知への恐怖だ。そして得体が知れない。麗日とてそれが意地悪でも間違いでもないことはわかっていた。世の中には知らないほうが良いこともあると言ったのは、その個性から迫害と差別を経験している障子目蔵だ。それを否定できないのが、口田甲司だった。
物間をはじめとする、B組の皆の顔に広がる困惑を見ると、心操の意見の正しさを痛感し、自分達は選択を間違えたんじゃないかと、決意が揺れる。
「信じられないことを言っているのはわかるよ。僕たちだって、ツナがヴィランだと知った時はとてもつらかった」
「でも事実だ。おまえたちに共有したのは、俺たちに後ろめたいことが何もねぇからだ」
麗日でさえ心を痛めているというのに、気丈に顔を上げ続ける出久と勝己の痛みはどれほどのものだろうか。
彼らはB組を前にして断言する。自分たちはヴィランとは何の繋がりもない。その身が潔白であることを。幼馴染の正体がマフィアであったことは、汚点にはなり得ないと。
「そのボンゴレの十代目のことをさ、あなた達はどう思ってるの」
取蔭切奈からの問いかけにも、二人は心からの言葉を返すのだ。
「捕まえられねぇヴィランだっつうのは正直どうでもいい。あいつらがヴィランとして動いたその時は、俺たちもヒーローとして捕まえてやる」
「かっちゃんの言うとおりだよ。ヒーローとしてはね。ただの幼馴染として言うなら──僕たちはツナのことが大好きなんだ」
なんて残酷なことを言うんだろう。
──世の中には知らないほうが良いこともある。
勝己と出久を見守っていた麗日は、ぼんやりと障子の言葉を思い出した。
「拳藤さん、優勝おめでとう! 型のパフォーマンスが舞ってるみたいで素敵だったぁ!」
あちらから声をかけてくれたのだからと、麗日は今までどおりを意識して笑顔を向ける。
「ドレスもとても素敵でしたわ」
「おめでとう、一位は凄いよ」
三人に対し、拳藤は「ありがとう」と賞賛を受け入れてくれた。
ひとまず真っ当なコミュニケーションを取れたことに胸を撫で下ろしたが、拳藤の半歩後ろに立つ物間の表情はかたい。
制服のスカートの後ろで手を握り、麗日は意を決する。
「物間君、言いたいことは言ったほうが良いと思うよ」
一見すると煽るような物言いだ。直球すぎる自覚はあるも、今わだかまりを残しては護衛任務に悪影響が生じる。そう感じているのは何も麗日だけではあるまい。
「なら言わせてもらうよ。君たちは二年前の夏にマフィア・ボンゴレに接触したんだろう。その際にどう感じたのか、身内贔屓なしの率直な意見を訊きたい」
身内贔屓というのは、出久と勝己のことを指すのだろう。第三者から見た次期ボンゴレ十代目への印象──困惑を隠そうとせずとも物間は冷静だ。
麗日たち三人は顔を見合わせる。最初に返答を用意できたのは八百万だった。
「私の意見を申し上げますと、今までヒーローとして接触してきたヴィランとは少し異なるところがありました。けれども、それは物間さんの言う身内、緑谷さんと爆豪さんがいたからでしょう。彼らがヴィランとして暴力を振るった時にどれほどの脅威になるか──それは私では計り知れません。公安がボンゴレに接触を続けるのもそうさせないための根回しのようなもの」
八百万はそこで一旦話を切り、そして間もなく再開させた。
「I・アイランドで私たちはヒーローとして事件解決に努めましたが、ボンゴレの皆様は協力的でした。悪戯に不安を煽ることも、市民を傷付けることもなく、立場の違いによる考え方の相違はありましたが、それは評価されるべき点だと考えます」
「つまり、ボンゴレは巨悪と呼ばれるだけあって、組織としての善悪が確立してるってことね」
拳藤の言葉選びは厳しいけれど、そこに偏見や差別は存在しない。彼らも彼らで話し合いをしたのだろうか。
「次は私の番かな」
耳郎はさらっと話し始める。
「正直なところ、緑谷と爆豪の関係って独特でしょ。距離感とか普通の幼馴染とは違うだろうし、皆で話してても二人にしかわからない幼馴染語をしれっと使う。だから私から見て三人のことはよくわかんない。けど、笑い合ってるあいつらは幼馴染に見えたよ」
「そうだね、私にも三人はただの幼馴染に見えた。立場の違いに苦しんで、それでもお互いを尊重して、信じたいと思ってる。そんな友達同士だったよ」
ボンゴレにはボンゴレの正義があることを、麗日たちはセントラルタワー屋上のヘリポートで耳にしている。黒髪の少年は、出久と勝己が未練であることも教えてくれた。沢田綱吉は巻き込まないために二人に何も話さず別れを告げたのだと。そして銀髪の少年は残虐を与えたのだ。
──平凡で、争いが嫌いで、お人好しの、そんなあの人だからこそ、巨悪に相応しい。
麗日たちはあの場において部外者だった。ボンゴレの人間の言葉の、真実と誤魔化しの割合もわからない。
彼らのことを何も知らないのに何かを語るのは間違っているかもしれない。
麗日にとっての真実──それは出久が綱吉を思って流したあの涙だ。勝己が綱吉に投げかけた言葉たちだ。繋がりを必死に繋ぎ止めた彼らの想いだけだ。
「沢田君のことを信じろなんて言わない。でも、デク君と爆豪君のことは信じてほしい」
「君は巨悪を名前で呼ぶんだね」
物間に指摘されて気がついた。部外者であると自覚しながら、過ぎた感情移入だろうか。
「ごめん、嫌な気分にさせちゃったかな」
「別にいいさ。君の何事にも向き合う姿勢は美徳だ。僕たちにはまだ理解できないけどね」
「物間君、ありがとう。でも私も気を引き締めないといけないんだ」
I・アイランドにいた彼は良き友人であろうと努めていたけれど、これから護衛する彼はマフィア・ボンゴレの十代目だ。
「そうですわね。私たちの任務はあくまでも継承式の警備です。相手がヴィランであることを忘れてはいけません」
「緑谷と爆豪はキツいだろうね。でもうちらはヒーローだからさ」
「──なるほどね、わかったよ」
顔も体も強張る麗日らとは対照的に、どうしたことか拳藤と物間の表情が和らいでいる。
「緑谷と爆豪を信じる。それなら私たちにもできそうだ」
「この三年間競いあってきた相手だ。彼らの言葉なら僕にも信じられるかな。あくまでも彼らだけだけど。ボンゴレはマフィアだ。マフィアはヴィランだ。幼馴染だろうと友人だろうと、有事の際は容赦しない」
沢田綱吉という、平凡で、争いが嫌いで、お人好しの、チワワを怖がり、球技が不得意な、祈るように拳を振るっていた少年を信じるのは、彼を信じようとしている幼馴染に任せれば良い。麗日たちが信じるのは、この三年間を共に過ごした出久と勝己だけで良いのだ。
大切な仲間だからこそ、彼らが信じようとするものを尊重したい。
どうか彼らが傷付きませんように。
麗日にはそうして祈ることしかできない。
19
それどころではないというのに、空港内にまで飾られたきらびやかイルミネーションは、相澤達の胸に溜まる重たいものを照らし、生み出される濃い影を否が応でも意識させられる。たとえそれが薄暗いものではなく、覚悟の強さによる重みであっても、華やかな灯りは眩しすぎる。
冬はアクティビティ観光のオフシーズンとなるも、クリスマスの時期はヨーロッパへの観光客が増える傾向にあり、ドイツで開催される世界最古のクリスマスマーケットなんかは、季節行事に疎い相澤の耳にも入っているのだから、マニアからするとたまらないものがあるのだろう。
キャリーケースを引きずる者達の足取りは軽く、その横顔には、これから十四時間以上のフライトを乗り越える心構えがすでに出来上がっていた。
「先生、これ知ってる? 有名な東京土産なんだって!」
芦戸と葉隠が袋から出して見せるのは、バターサンドと書かれた焼き菓子だ。バターのサンドか、胸焼けしそうだ、と歳なりに想う。
「土産をいま買ったのか」
「飛行機で食べるぶんだよ」
パッケージには小さく三十枚入りと表記があった。
「あと十分で集合時間だからな、遅れるなよ」
「はーい」
雄英高校三学年総勢四十名は、本日、日本を経ちイタリアへと旅立つ。目指すはチヴィタ・ディ・パニョレージョ、そこには捕まえられないヴィラン、マフィア・ボンゴレの総本山がある。
移動手段は飛行機であるも、乗るのは民間企業の飛行機ではない。移動の手配は依頼主であるボンゴレが担うということで、用意されたのはボンゴレ十代目のプライベートジェットだ。飛行機事故に見せかけて殺されたりしないだろうな、と強いことを言ってみる生徒がいたが、それならわざわざ自家用ジェットを用意したりはせず、民間企業に罪をなすりつけるのがヴィランらしいやり方だ。いくら捕まえられないとはいえ、日本一のヒーロー養成学校の一学年を皆殺し──飛行機からの落下で殺しきれるほどやわではないが──にすれば、流石の公安も見逃せないし、国際問題に発展させやすすぎる問題を犯すほど巨悪は馬鹿ではなく、そのような行為にメリットはない。他のヴィランが付け入る隙のないボンゴレの加護は、引率である相澤、ブラドキング、オールマイトにとっては、皮肉なことに安心できるものなのだ。
「なあ、イレイザー。ボンゴレの使者ってのは──」
「ヴィランだろうな」
言い終わる前にわかりきってることを答えてやると、ブラドキングは喉の奥で唸る。
「生徒達のことを考えると現地集合が望ましいけど、そんな甘いことばかり言ってられないしね」
オールマイトの言うとおり、生徒達はこれからヴィランの領域を足を運ぼうとしているのだ。継承式には国際指名手配級のヴィランがごろごろいるだろう。けれど今回に限り、ヒーローに彼らを捕らえる権限はなく、継承式に出席したヴィランによる騒動の全責任はボンゴレに降りかかるという。異例中の異例のこの対応がヒーローにとって動きずらいものとなるか、はたまた、生徒を守ることに繋がるのか、今の相澤達には判断のしようもない。
「ああ、駄目だなぁ。もう三年も教師をしているというのに、ヒーロー免許を取ったあの子達をいつまでも一人前として見れずにいるよ」
「俺達は教師であるまえにヒーローです」
ヒーローとしてはオールマイトのほうが先輩であるけれど、教師としては相澤のほうが経験を積んでいる。だからこそ、この言葉は教師としての相澤の言葉だった。
「でもね、教え子ってのはいつまで経っても手がかかるもんなんですよ」
ブラドキングは「違いねぇ」と腕を組みながら同意し、時計を確認する。
待ち合わせ時間まであと五分、空港散策に出ていた生徒達もほとんどが戻ってきている。
あと残るは──
相澤が生徒の数を数えていると、出久、飯田、轟の三人が戻ってくるのが見えた。誰かと話をしながら歩いている。
「おい」
顎だけで訴えると、ブラドキングが視線をやり、つられてオールマイトもそれを確認した。出久と連れ立って歩くその女の顔には見覚えがある。ヒーローを職業とする者ならば必ず頭に入れておかなければならない、アメリカ発行の凶悪犯罪者についての記述書にのるその顔を、出久たちはまだ雄英生だから知らないのも無理はない。だが何故あんなにも親しげに話をしているのだ。
ぱっと顔を上げた出久が、相澤達に気が付き、女を連れてきた。
「紹介します、僕がまだ中学生のころにツナの家にホームステイに来てたビアンキさんです。イタリアからの留学生なんですけど、今日は仕事で来日したそうで、偶然会ったんです」
ただの幼馴染との思い出を語ることができる女との再会に喜ぶ姿が哀れでならなかった。よくよく考えれば、その時にはすでにボンゴレのボス候補として名前が上がっていたのだから、一般人の娘がホームステイに来ることなんてあり得ないと気付くだろうに、幼馴染としての意識がその判断力を鈍らせているというなら、それは相澤やオールマイトが恐れるとおり、この任務が出久と勝己を酷く傷付けるということ。
女は相澤達プロヒーローの内心の驚きに反応したのか、にっこりと微笑みを深めて、くるりと視線を転ずる。
「ねえ、あなたが勝己ね。ツナから話は聞いてるわ、幼馴染なんでしょう」
「そうだ、かっちゃん、こっち来て」
出久が女を紹介すると、峰田がこんな美人なお姉さんがホームステイなんて羨ましいと地団駄を踏んだ。女は静岡にも遊びに行ったことがあるらしい。勝己が女を知らなかったのは、勝己が出久と距離を置いていた時期であって、出久と仲の良い綱吉とも距離を作っていたらしく、綱吉と別れの挨拶を交わさなかったのは、口には出さずとも勝己の心残りであることが感じられる。
カチ、カチ、カチ、と秒針が時を刻み、待ち合わせ場所である時計台の分針が十二を指し示したことで、相澤は「毒蠍・ビアンキ──おまえがボンゴレの使者か」と毒殺のプロフェッショナルに問う。
「そうよ、イレイザーヘッド、ブラドキング、そしてオールマイト」
女は、ミニのタイトスカートを合わせて黒スーツを着こなすヴィランは、水々しい唇を左右に引き伸ばして微笑み、唖然としている生徒達を見渡す。
「はじめまして、雄英の子供達。私はボンゴレの殺し屋、毒蠍・ビアンキ。元々はフリーだったけど彼が十代目を継ぐというから契約したの。あなた達をボンゴレ本部までエスコートするのが仕事よ」
先ほどまで一般人だと信じていた者がヴィランであったという衝撃は、ヒーローという職業をしていれば嫌でも経験することになる。強いて言うならば、知り合いがヴィランになるということだって有り得るのだ。認めよう、残酷なことだ、ヒーローとは残酷な仕事なのだ。けれども、それに立ち向かえないのであれば、それはヒーローに向かないということ。
「あなたがここに来たのはツナの命令ですか」
行き交う人々の喧騒がどこか遠くに聞こえる、雄英生をかこう静寂を破ったのは出久だった。
「誰かを迎えにやると聞いて私が立候補したのよ」
「どうして」
「あなた達とツナの話をしてみたかったの」
「そりゃあどういう意味だ」
勝己のドスのきいた声にビアンキは微笑うと、時計を見上げる。
「スケジュールがおしてしまうわ。続きは飛行機の中にしましょうか」
十センチはあるだろうピンヒールが軽快に馬の蹄のような音を立てていく、その後ろに雄英生が続く。保安検査場の職員にビアンキがかざしたのはボンゴレのエンブレムで、それだけで手荷物検査を通過し、税関手続きさえも必要なし、パスポートを一度も開くことなく搭乗口まで進んでしまった。完全なるVIP待遇。ボンゴレの表の顔はどうやら航空会社の株主であるようで、その権力は計り知れず、日本の大手航空会社が倒産するとなれば公安も気安く手出しはできまい。
見せつけられている、ボンゴレという巨悪がどうして巨悪であるのかを、この世がどれだけボンゴレという歯車を必要としているのかを、ヒーローは、わからせられている。
「あれがあなた達をイタリアまで送り届ける飛行機よ。九代目が十代目の誕生日にプレゼントしたプライベートジェット」
漆黒のボディに煌めくゴールドのボンゴレのエンブレム、大型旅客機の四十三人と一人を乗せるのに十分な、大きすぎるほどのスケールは、ヴィランの所有物とわかっていても感動さえ抱かせる。耳郎と八百万の「ヤオモモ、この飛行機っていくらするの?」「大型はチャーターしても一千万円以上するので、購入となると億単位かと──」なんて会話が後ろから聞こえてきて、財力という単純でわかりやすいからこそどうにもできない力に、相澤はため息を吐かずにはいられないのだ。
「席は自由よ、好きなところに座って」
内装は見た目を裏切らない、まるで高級ホテルのような造りになっていた。ゆったりとした座席の作りは個人のプライベートが約束されていて、シャワールームにバーラウンジなんてのもある。
「ここまでくるとファーストクラスじゃなくてスイートクラスというべきかな」
「あら、流石はオールマイト。でも残念ながら四十人規模にするとスイートに造るのは難しかったの。だからあくまでもファーストクラスよ」
そんなオールマイトとビアンキの会話を聞いたブラドキングが相澤に耳打ちする。
「おい、スイートクラスってなんだ」
「俺に聞くな」
「スイートクラスってのはね、石油王やセレブのための座席のことよ」
「子供に贅沢をさせすぎじゃないのか?」
ブラドキングが慄くのも無理はない。相澤とてファーストクラスに乗った経験などないのだから。
「いいのよ、これはボスから雄英生へのプレゼントだもの。素敵な空の旅を楽しんで」
プロ免許を持つヒーローとして必死に興奮を隠そうとして隠せないでいる生徒達を案内するビアンキは、それはそれは楽しげに、誇らしげに、艶やかな髪を揺らして、ボンゴレ十代目からのプレゼントだという機内を披露するその姿は誰の目にも美しい。
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護衛任務の移動手段がプライベートジェットであることについては財力を見せつけたいがための愚行のような印象を受けたが、十時間以上のフライトによるストレスを考慮すれば体を横にして眠れるのは良いことで、現地でのコンディションを整えるためにも、轟は意識を切り替えありがたく堪能することにした。
座席兼ベッドまわりにはパーテーションがあってプライベート空間が確保されているが、なんとなく女子は女子で固まり、必然的に男子も男子で、後方に、前方が女子──シャワールームルームが近いからだろう──というかんじで別れた。
機内には案内役だという毒蠍以外にも、雇われなのかヴィランなのかわからないキャビンアテンダントが三人いて、座席周りの操作──映画の再生方法、読書灯や座席からベッドへのリクライニング操作、ヘッドホンの音量調節──を教えられた。
それぞれが機内では使わない荷物と洗面道具などを仕分けしていると、軽食だというイタリア産のオレンジジュースとティラミスとビスコッティの盛り合わせが運ばれてきて、ドリンクはエスプレッソも選べるというから貰うことにした。
こうやって世話を焼かれて気付いたらイタリアに付いてるのかもしれない。豪華なもてなしを受けているのだろうが、完璧な空調管理、時間で決まった食事の提供、安全な娯楽などが、ペット扱いを受けているようであまり居心地が良くない、というのはこのようなサービスを受けたことがないからこその違和感なのだろう。轟家は金はあるが家族旅行に出かけた経験は一度もない。
エスプレッソは単体で飲むと眉をひそめる苦味に襲われたが、ティラミスと合わせるとちょうど良い甘さで、マスカルポーネチーズの爽やかさが苦味を帳消しにしてくれる。そういえばキャビンアテンダントが、ビスコッティはエスプレッソにつけてもお楽しみいただけます、とか言っていたから、細長いクッキーのような形をひとつ、黒に近い液体に浸して食べてみると、しっかりした生地にエスプレッソが染み込むことで程よいかたさになり、チョコレートチップの甘さとコーヒーの香りが合わさり、轟は素直に気に入った。ビスコッティはすべてエスプレッソにつけて食べよう、ともうひとつ手に持つと、出久と勝己が連れ立って轟の横を通り過ぎていった。
連れションだろうか、トイレは複数あるようだったけれど。轟がもそもそとビスコッティを齧っていると、後ろから切島がやって来たのだが、なんだか様子がおかしい。轟が見上げると、切島はこそっと顔を寄せてきた。
「なぁ轟、爆豪と緑谷、前に行ったろ?」
「ああ、さっき通ったぞ」
「多分だけどさ、あのヴィランの姉ちゃんのところに話しに行ったんじゃねぇかな」
時計台の下で毒蠍は言った。あなた達とツナの話がしてみたかったのだと。
あれは一体どういう意味だったのだろう。
轟と切島は友を想うも、ただただ前方を見つめることしかできないで、いた。
離陸から一時間ほどすると一回目の食事が運ばれてきたが、二人が戻ってくることはなかった。
食事のメニューは若鶏と蓮根のおこわ、ビーフシチュー、冷製蟹しんじょ、さつまいものオレンジ煮、オクラの白和え、フレッシュサラダ、デザートはアイスクリーム。飛行機に乗ったことはあるがファーストクラスは初めてだという飯田が、これがファーストクラスかと突然の贅沢を噛みしめるも、出久の食事は出久の席で食べてくれる人の帰りを大人しく待っていて、このままでは冷めてしまうだろうし、轟も飯田も、出久が心配で食事に集中できないでいる。
「飯、持っていってやろうかな」
幸いにも食事はプレートに載せられているから、飲食店で働いたことがなくても何枚もの皿を運んだりしなくてすむ。
「だがまだ話をしているんだろう? 爆豪君もいるし、それに先生方が付いてるだろうし──」
話の邪魔になることを飯田は危惧するも、切島が勝己の食事を持って来たことで、轟も出久の食事を運ぶことにした。
女子達が使うエリアとシャワールームを越えても二人の姿は見えなかった。ビアンキと教師達もいない。この先にあるのはコックピットとバーラウンジ──轟と切島はさらに歩みを進めた。
「今日は時間をくれてありがとう。私はツナのことを実の弟のように想っているから、こうしてあなた達の口から話を聞けてとても楽しかったわ」
バーラウンジから聞こえてきたのはビアンキの声だった。口調から間もなく終わろうとしている気配があって、轟と切島は顔を出すのを躊躇した。飯田の言うとおり邪魔をしないで済むならこのまま帰ったほうがいいだろう。
「僕たちもツナの近況が知れて嬉しいです。ありがとうございました」
「あいつに言っとけ。せいぜい恥かかねぇようにしっかり式の練習しとけって。あと、なんか問題起こしたら覚悟しろともな」
勝己の強気な言葉にも怯まない楽しげなビアンキの微笑い声に、轟と切島は知らず知らずのうちに力んでいた肩から力を抜く。なんだか毒気まで抜かれて、ここにいることがバレぬようにそっと踵を返す。
「大丈夫よ、ツナはどうしてもあなた達に参列して欲しかったんだから。十代目の継承式──それはつまり、あの子の葬式と同義なのよ」
──駄目だ、これは、耳にしてはいけないものだ。
当事者ではない轟と切島が関わってはいけない、どうしたって共有することのできない痛みなのだ。
どうやって席に戻ったのかは覚えていない。
「あれ、轟君、気分悪いの?」
そう緑谷に声をかけられて自分が座席に腰かけているのだと自覚した。どうやら俯いてぼーっとしていたらしい。
「俺は平気だ──おまえこそ、大丈夫なのか」
訊かずにはいられなかったというよりも思わず訊いてしまったものだから、動揺がばれないように「話に行ってたんだろう」と何も知らないふりをした。
「大丈夫だよ、轟君。僕はもうヒーロー免許を持って現場に出てるんだから、大丈夫じゃなきゃいけないんだ」
「そんなことねぇんじゃねぇか」
大丈夫じゃなきゃいけないって、なんだよ。
「え?」
「沢田はおまえ達にとって大切な友達なんだろう。たとえば、俺はおまえが実はヴィランでしたって言われたら大丈夫じゃねぇぞ。プロだとかそんなことも関係ない、友達なんてのはそんなもんだろ。それでも前を向こうとしてるのは緑谷の強さだけど、大丈夫じゃないなら大丈夫じゃなくていいんじゃないか。少なくとも、俺達の前では無理しなくていいんだ」
「そうだとも、緑谷君。僕だって緑谷君や轟君といった親しい友人がヴィランになってしまったら悲しいだろう。想像するだけで切ないのだから、当事者である緑谷君と爆豪君の想いは計り知れない」
パーテーションからにょきっと首を生やした飯田の格好が面白いけれど、轟は素直に同意の頷きをする。
「プロとしての勤めと友達としての気持ちは別物だからな」
「──そういうものかな」
「僕たちは今の君よりも客観的に物事を捉えられているはずだからね」
当事者である出久と、部外者である轟と飯田の一対二だ。出久は白旗を上げるように眉尻を下げて、冷めてしまった食事は温め直してもらった。
その後に仮眠の時間が設けられた。二回目の食事、自由時間に軽食、やはりペットのような心地で、十四時間と二十分のフライトを終えた。
「電車とバスを乗り継いでも良いけど、今回は時間の短縮と利便性を考慮して飛行機を乗り継ぐわ」
ビアンキの案内の元、雄英一行はフィウミチーノ空港で小型旅客機に乗り換えた。今回はひとクラスごとに別れて乗り、座席もファーストクラスとはいかなかったが、一時間ほどの飛行らしい。
「見えてきたわ、あれがボンゴレ本部よ」
そのひとことに窓際の生徒が外を覗く。轟は出久越しにそれを見た。
断崖絶壁に古城がそびえ立っている。周囲の大地の様子からかなり高所にあるようだ。
「やっぱり、おかしいわ」
「どうしたの梅雨ちゃん」
「衛生写真を見てるんだけど、こんな場所にお城なんてないはずよ。チヴィタ・ディ・バニョレージョは死にゆく町と呼ばれていて、度重なる地震や雨風の被害で崖が削れ、このままでは近い将来消滅してしまう──と言われているけれど、どうやらそれは表向きなのね」
「ええ、そのとおり」
毒蠍は不敵に微笑う。
「古城なんて絶好の観光スポットでしょう、だから一般人には認識できないようにしているの。あなた達の眼に映るのも今回が特別。この任務が終わればボンゴレが招かない限り二度と見ることは叶わない」
認識を歪める個性は耳にしたことがあるけれど、ここまで巨大な建造物を丸々隠してしまうだなんて、生半可な個性では不可能だ。
「いいのか、隠されてることを知ってしまえば、そういう個性は破られやすくなるぞ」
「巨悪と呼ばれるボンゴレが、知られた程度で突破されると本気で思ってるのかしら」
轟のかまにも動じない女の微笑みは美しいけれど、だからこそ一瞬の恐怖となって、生徒達の身体をヴィランへの警戒心が支配し、機体がゆるやかに高度を下げ始めると、シートベルト着用サインが点灯し、重たい空気のまま着席するしかなく、着陸を待っていると、どこからともなく霧が集まってくるではないか。機体の外ではない。機内に、濃い霧が集まり、それは人型となって実体化する。
現れたのは三年生と同い年くらいの少女である。片目を眼帯で隠し、ビアンキと同じ黒スーツ姿の女は、長い睫毛を瞬かせてA組を見渡した。
「出久と勝己にボスからの伝言を預かってる」
「ボスってのは、ツナのことか?」
言いながら勝己が席を立ち、出久が続く。
「そう──私がボスと呼ぶのは彼だけよ」
「君は、誰?」
出久の問いかけに、少女は「クローム・髑髏」と名乗った。
クロームはビアンキをちらりと見て確認し、出久と勝己に向かって言う。
「遠くから来てくれてありがとう。すぐにとはいかないけれど、三日間のうちに必ず時間を作るから、出久と勝己と俺の三人で話がしたいと思ってるよ」
伝言を聞き届けた出久と勝己は目配せし、それだけで何かに納得し、学生としての保護者にあたる相澤に自分たちの意思を伝える。
「これがツナと話せる最後かもしれない──お願いします、先生」
「別に問題はねぇだろ。俺達はただ幼馴染と話すだけだ」
I・アイランドで初めて出会ったときは轟の大切な友人を傷付ける極悪人のように思っていたというのに、出久と勝己の覚悟にふれて、二人を通して綱吉という自分と同い年の少年を多少なりとも知ることで、ここまで来ても二人が友人として接することが、何故だか嬉しくてたまらなくなり、彼ら三人が最後の最後まで幼馴染として、友としてあれることを、轟は二人の友人として見守ることを、決めた。