全てはフィクションです
24
この世界は、巨悪を必要としている。
師である志村菜奈の口からその言葉を聞いたのはただの一度きり、それもすぐに彼女が話題をすりかえてしまい言葉の意味を問うこともできなかったから、オールマイトはその言葉を記憶に留めてはおかなかった。けれども後日、思い出すことになる。それはオール・フォー・ワンではなく、マフィア・ボンゴレという真の巨悪を初めて認識したことによって。
ボンゴレ九代目は最初、ただの一般市民としてオールマイトの前に現れた。志村の葬儀に、彼女の忘れ物を届けに来た直感力という個性を持つ男性、彼は雄英高校の最寄駅の反対側にある喫茶店で何度か隣の席に座ったことがあり、志村の落とし物をマスターから預かってきたとして、彼女が宝物として大切にしていた家族の写真を入れたパスケースを差し出した。遺品の中に見当たらなかった時点で、身元を隠すために処分したと思われたそれは、残された側のオールマイトにとっては貴重な遺品であったが、師を思えば棺に入れてやるのが弟子の役目として、遺体と共に荼毘に付した。
火葬場の外で曇天を見上げる、直感力という個性によって導かれたという男は、オールマイトに問うた。
「若者よ、命を賭けることはヒーローの美徳かね」
師を失う前のオールマイトであれば、そうだと答えただろう。だがこうして喪服に身を包んだ今となっては、その考えに迷いが生じていた。オールマイトは口籠る。
「答えなくてもかまわないさ。私と君の胸の内にあるこの寂しさが、答えのようなものだからね」
涙をこらえることのできなかったオールマイトは、男の去っていく背中をぼんやりとしか見ていなかったが、男の残した「さらばだ、今度は、自由の国で会おう」という台詞だけは鼓膜に焼き付いた。
それから約十年後、オールマイトはヒーローとヴィラン組織の歩み寄り政策の制定のために訪れたアメリカ合衆国で、その男と再会することになる。平和の象徴と真の巨悪として。
九代目が届けてくれたパスケースは、どのような意図があったにせよ、気まぐれであったにせよ、間違いなく志村の弔いとなって、オールマイトは静かな心で故人の極楽浄土への道を祈ることができた。
「二十年越しになってしまいましたが、礼を言わせてください」
マフィアの正装であるブラックスーツが大聖堂を埋め尽くし、至る所に警備配置されている学生達がいる光景を、九代目はずいぶんとリラックスした様子で、その手には聖書を持って、中二階から後継者の姿を探すように眼下を覗きこんでいる。
ラテン十字架を形成するバシリカ型の、祭壇中央にそびえる聖母子像、見る者が見ればその歴史的価値に唸る、柱に溝のない装飾とは対照的なトスカナ式オーダーの建築、学生達に寄り添う数多の天使像、空気の流れに儀式用の太く長い蝋燭の先で炎は揺れ、パイプオルガンの音色が止むと、鳴り響くのはトランペットと鐘の音だ。
「師にとって離れて暮らす家族の写真はとても大切なものでした。届けて下さりありがとうございます」
一階にも九代目の姿があるけれど、そんなことでいちいち驚いてはいられない。
「なあに、爺の茶飲み友達になってくれた若者への手向けだ」
クリスマスミサが始まってから間もなく三十分が経とうとしている。カトリックの通常のミサは一時間ほどかけて行われるが、特別なクリスマスミサはゆっくりと時間をかけるため二時間に及ぶ。
罪のない人々を脅かし、この世に悲劇を誕生させる側にあるヴィランも神へ祈りを捧げるのか。
それは若き日のオールマイトの驚愕であり、学生達がいままさに直面しているものである。
平和の象徴として二十年有り続けたオールマイトは、カトリック教徒が年に一度、神の前で己の罪を告白し赦しをこう信仰儀礼を行い、己が犯した罪と向き合うことを知識として得ているが、ヴィランである彼らが何を己の罪とするのかは、それこそ神のみが知ること。
九代目が手に持つ聖書には隣人愛が記されている。すなわち、相手が罪人であろうともその人を赦し愛せよ、と。神は言う。ヴィランを赦し愛しなさいと。
二時間をかけてキリストの降誕と復活を祝う典礼は、そのまま巨悪継承の儀へと進行する。
キリストは聖母の腹から降誕し、死して復活した。
そして今、ヴィランとは遠く離れた場所にいた無垢なひとつの魂が、巨悪として産まれ直そうとしている。
巨悪は神の足元に生まれ落ちる。
この聖祭は沢田綱吉の弔事であり、ボンゴレ十代目の慶事なのだ。
九代目が聖書を開く。司祭が福音書を朗読し、九代目もそれに続いて唱える。それが終わると、次は司祭による説教が始まり、オールマイトは邪魔にならぬよう声量を抑える。
「私はいまようやく確信しました。九代目、あなたにとってヒーローとヴィラン組織の歩み寄り政策は小鳥の囀りに過ぎないのですね。雄英生に継承式の警備をさせたのは、ヒーローからの要請があったからではない。そうなることをわかったうえで、仕向けたのではないですか」
オールマイトは凝とその横顔を見つめ、彼の内にある感情を読み取ろうとするも、そこにあるのは凪の静けさだけ。
「孫のように想っているよ。だから、できることならあの子に背負わせたくなどなかった」
後継者へ向ける眼差しの穏やかさは、決してヴィランなどではなく、ただただ孫の幸福を願う爺のそれである。
「しかしね、ボンゴレ九代目として言わせれば、彼以上に後継に相応しい者はいなかった。本当なら継承者として名前も上がらない立場にいた子──けれども、他の候補者が全員死んでしまえば仕方がない。わかるかい、若者よ。私があの子を巨悪にするんだ。ならばお願いのひとつやふたつ、聞いてやりたいのが爺心というものだ」
司祭の説教は続く。
「──今夜は、何も起こらないのですね」
「実に穏やかな夜になる」
「獄寺少年にも知らせていないのですね」
「超直感を持つ者だけが知る」
オールマイトは、ヒーローとしての責務を全うしようと、葛藤に打ち勝ち覚悟を示した教え子達に、今後どんな顔で接すればいいのかわからなくなってしまった。
「良い社会科見学になっただろう。あの子らがボンゴレ本部に足を踏み入れることは、もう二度とないがね」
「すべては緑谷少年と爆豪少年を招くためですか」
九代目は肯定も否定もせずに、静かに口角を上げる。
「三年前、沢田少年は問いました。ヴィランは悪かと。私は思います、ヴィランは悪であると。けれども彼らの友情は真実であり、私はそれが永遠であることを祈っています」
「ありがとう、若者よ。私もそう祈っているよ」
「私はまだ若者ですか」
「そうとも、私の半分しか生きていないのだからね」
さらさらと、九代目の肩が粒子になって崩れていく。粒子は霧となり、この秘密の対話のタイムリミットを知らせた。
「教えてください、九代目。あなたの直感力ならわかるはずです。いつか我々とボンゴレが正面からぶつかることがあるのでしょうか」
「その答えもまた、私達の胸の内にある」
霧となって飛散する直後、彼はその言葉を残した。
「忘れてはいけないよ、我々は秩序だ。秩序はいつでも世界と共にある」
──この世界は、巨悪を必要としている。
何もいなくなった場所から眼下へ視線をやると、キリストの血肉であるパンと葡萄酒を祭壇へ奉納するための祈りが始まるところであった。九代目は、後継者の横に立ち司祭と共に祈りを捧げている。
奉納されたパンと葡萄酒が、最後の晩餐にならい、キリストの御からだと御血である聖体に変化する。
『まことにとうとく、すべての聖性の源である父よ
今、聖書によってこの供えものをとうといものにしてください
わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますよう』
感謝の祈りを捧げ、教会に平和を祈り、平和の讃歌を歌う。そして拝領前の信仰告白、人々は唱える。
『イエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に復活した神の御子、救い主であることを信じます』
列に並んだ一人一人が、キリストの肉であるパン、ホスチアを司祭から拝領する。これは洗礼を受けたカトリック信者だけのものだ。ある人は手のひらに、ある人は口に、共通するのはすぐに口に入れること。
オールマイトは、司祭の指が、黄金の杯から十字を刻んだホスチアを取り上げて、巨悪になろうとしている少年の唇を割って、与えるのを、見届けた。
二十五日を迎えた合図に鐘が鳴り響く。
閉祭のあいさつでクリスマスミサが終わる。会衆は退場せず、その場でボンゴレ十代目の継承式の始まりを待っている。
「これより、継承の儀を執り行う」
祭壇前に歩み出た九代目によって、ベルベッドのリングケースから指輪が取り上げられる。オルガンは止み、人々は息を潜めてその瞬間を待ち侘びている。
十代目が右手を差し出す。
ボンゴレのレガリアと呼べる指輪が、九代目の手により、十代目の右手中指と小指に嵌められた。
ついに、新たな巨悪が誕生した。裏社会に生まれた新たな王、それすなわち新時代の幕開けである。
この若き継承者がどのような時代を作っていくのか、それは今日この場に立ち合った者達が見届けるべきものであり、オールマイトは心の中で九代目に語りかける。社会科見学などではない、彼らはこの経験を無駄にはせず己の眼で巨悪を見極めるだろう。
刹那──指輪が輝き、閃光の眩しさに手で作った影の向こうから、包み込むようなあたたかな空気が流れてくる。オールマイトがそっと手を避けると、そこには、大聖堂を埋め尽くすようなやわらかな炎が、燃え盛っていた。
25
しんしんと降り積もる雪が、闇の中に浮かんでいる。開け放った窓からは綿花のような雪が舞い込んでくるけれど、耐寒性に優れた冬用のヒーローコスチュームならば耐えられる。
シモンファミリーのボスである古里から受け取ったメッセージからすると、今夜二十時、綱吉はこの部屋に現れるという。
二人はじっと息を詰めるようにして待っていたが、そのうちに浅い呼吸が苦しくなってくる。扉のそばで待機している相澤とオールマイトまでもが沈黙を守っていることも原因のひとつだ。
「冬にツナに会うのって、なんだか変な感じがするね」
「まあ、ずっと夏だけだったからな」
無視されても良いと思っていたが、勝己も息苦しさを感じていたのだろうか、穏やかな返事だった。
初めて綱吉と出会ったのは夏の蓮池で、それからも彼は夏の間だけ静岡にやってきた。本当は春休みも冬休みも遊びに来て欲しかったけれど、それを言うのも、自分が行くのも色々と不都合があって、三人は夏だけの幼馴染であった。
「冬服のツナに会うのも初めてだね」
「なんだよ冬服って」
「だっていつもは半袖だったから」
「じゃあ、期待に応えられたかな」
その第三者の介入に、二人はそろって腰を上げる。窓枠にしゃがんだ格好でいるのは、三年ぶりの友である。
綱吉は重力を感じさせない動きで床に降り立つ。
「サンタクロースみたいだね」
白いシャツにケーブルニットを合わせた格好は良いところの坊ちゃんみたいだけれど、髪は見慣れた無重力ヘアだった。赤い衣装ではなくとも、クリスマスの夜に窓から侵入して来るのはサンタクロースか泥棒のどちらかで、どちらかと言うなら綱吉は前者である。
三年前、I・アイランドで再会した綱吉は小綺麗にセットされたヘアスタイルでいたから、出久のような癖毛ではなくとも、言うことを聞かないという共通する髪質がなんだか懐かしく、本当の意味で幼馴染の綱吉に再会できたようで嬉しくなる。綱吉も同じように思ってくれているのか、継承式の直前であっても表情に緊張は感じられない。
「おまえ、本当にヴィランになるんだな」
勝己は静かに言う。
「なるんじゃないよ、俺はとっくにヴィランだよ。マフィアの跡取りで、人だって殺しているんだからね」
「なんで殺したんだよ」
「俺が弱くて、未熟で、殺すという選択しかなかったから」
「今はどうなんだよ」
「そうだな。なるべくやりたくはない──でも、必要ならそれを選ぶよ」
「なんのために」
「俺の大切なものを守るために」
巨悪を継承するとなっても綱吉の表情は曇らず、必要であれば殺しを選択することもできる。それは、種類こそ違えぞ覚悟と呼ぶべきもので、出久が助けて勝つ、勝己が勝って助けると覚悟を示したように、それが綱吉にとっての正義である。
突然始まった問答だが、勝己は満足したのか一人がけソファに腰を下ろし、出久も倣うと、綱吉は出久が座る長椅子に座る。
「やっぱりツナはサンタクロースだよ。こうして会いに来てくれたんだから」
たとえヴィランでも、これから巨悪を継承しようとしているとしても、顔を見れて嬉しい。その覚悟にふれることが許されている喜び。彼が多忙だろうスケジュールの合間を縫って作ってくれた時間こそがクリスマスプレゼントだ。
「実は二人にお願いがあるんだ」
視線だけで扉の前でこちらを見守っている保護者二人を確認した綱吉は、どこか照れくさそうに、それは夏休みの宿題を教えてくれと頼んできたときと良く似ていて。
「ヒーロー免許を見せてもらえないかな」
もう二度と、許されないものだと思っていた。
──なれるよ、出久なら。素晴らしいヒーローに。
涙を流しながらまだ無個性であった出久の夢を本気で応援してくれた唯一の友に、プロヒーローとなった証である銀色の免許証を、ずっと見せたいと思っていた。恩師と母の次に見て欲しかった。
二人がそれぞれにヒーロー免許を取り出す。
「漠然とした憧れだった頃からね、俺にはわかっていたんだ。君達が素晴らしいヒーローになるって」
「おまえの個性は昔から薄気味悪かったな」
「子供にとっては特にね、勝己は野生の勘が鋭いし」
「誰が野生だこの野郎」
出会った当初こそ勝己の横暴な態度に怯えた綱吉だけれど、その態度が常であると知れば適応し、弱個性だと揶揄われながらもガキ大将に負けなかったその太々しい精神力は、こうして落ち着いて継承式に臨む姿勢に現れている。直感の個性は、勝己が凶暴なだけの子供ではないことを伝えていたのかもしれない。
「出久、勝己、おめでとう。見せてくれてありがとう。これでもう心残りはないよ」
そう言って笑う綱吉は、花火大会の夜にお小遣いで出店を周り、もうお腹いっぱいで何も食べれないね、と満足そうに神社の階段に座り込んだ彼だった。
いつだって綱吉は綱吉だった。ヴィランとしての彼の顔を知らなかっただけで、知ってしまえば、幼馴染の彼も、ヴィランの彼も、一人の沢田綱吉という人間にすぎなくて、だからこそ、出久が大好きな綱吉がすぐそこにいるのだ。知らないものは知れば良い。そうすることで恐怖や不信感は消えていく。
「ありがとう。えっと、ツナはボンゴレ十代目になるけど、それってお祝いされて嬉しいことなの? まだちょっとわからなくて」
素直な気持ちを伝えてみる。綱吉は大きな眼を見開いて、それからうーん、そうだな、と呟く。
「組織としてはめでたいことだけど、二人に祝われるのもなんだかね。ああでも、門出という意味では祝って欲しいかも。うん──お祝いしてくれる?」
「もちろんだよ。ヒーローとしては口に出せなくても、今の僕たちはただの友達だからね」
勝己が振り返ってオールマイトと相澤に視線をやると、二人は静かに頷いてくれた。それは二人がこの場を邪魔しないこと、そしてこの場でのやりとりを口外しないという約束が込められている。
「おめでとう、綱吉」
「チッ──せいぜいヒーローに捕まらないようにするんだな」
「ありがとう」
その笑顔は、十月にある綱吉の誕生をどうしても祝いたい出久が、綱吉が帰ってしまう最終日にお小遣いでケーキを買って来た時と同じもので、それは、子供達と約束したからではなく、出久の心からの言葉だった。
「ヘリポートで伝えたことをもう一度くり返すよ。ツナが巨悪になってもね、僕はずっと友達でいたいんだ」
「俺はもう知ってんだよ。幼馴染の縁つうのは呪いに近い、そんな簡単に切れると思うなよ」
グワッと険しい顔で出久を睨みながら言うものだから、出久と綱吉は声を上げて笑った。これも懐かしい。まだ出久が無個性だとわかる前は、こんなふうに笑いあっていた。まさか今になって、ヒーローとヴィランという別々の道を進むことになったにも関わらず、こんな素直な気持ちでいられるなんて。
「チビ達が世話になったね。まさか二人のところに行くなんて」
「あのフゥ太とかいう中坊、良い度胸してやがるな」
「頭の良い子だから周りの顔色を伺って動けてしまうんだ。そんなに気をまわさなくても良いのにね」
「あの子達には勇気をもらったよ。背中を押してもらったんだ。良い子達だね」
「俺の守りたいものだよ」
いったん伏せられた目元は、幼馴染の知らない何かを思い出しているようで。
「俺の守護者になってくれた皆はさ、クラスメイトだったり学校の先輩だったり、俺を殺しに来た脱獄犯だったりするんだ。ランボは俺の家庭教師を狙った殺し屋で、そのポテンシャルを見込まれてスカウトされたんだ。結構、めちゃくちゃだろ?」
「うん、かなり」
「あの獄寺って野郎は?」
「彼はね、俺がボンゴレ十代目に相応しいか見極めに来たって言って、初対面でダイナマイトを投げつけてきた」
雄英というヒーロー学校に通う二人とて平凡な日常を過ごしてはいないけれど、綱吉の語る日常は明らかな非凡だ。
「俺の人生に少しでも関わった人達を皆殺しにしようとする奴もいた。守護者ではないけどね、継承式に来てるよ」
「とんでもねぇイカれクソ野郎だな」
「そうなんだよ。そいつが俺が初めて殺した男だよ。色々あって今は生きてるけどね」
多分、その色々というのは訊いてはいけないのだろう。語ってくれることを聞くことはできても、踏み込むことは許されていない。
「そうやって色んなことが、二人に全部話してしまいたい、本当に色んなことがあってね、最初はマフィアなんて絶対になるものかって思っていたはずなのに──いつしか、大切なものになっていたんだ」
照れくさいから本人には言わないけどね、皆と出会わせてくれた家庭教師をとても尊敬しているんだ。出久にとってのオールマイトだね。まだまだ彼から教わりたいことが沢山あるし、返したい恩もあるし、立派なボスになった姿を見て欲しいとも想う。ファミリーに守られるんじゃなくて守れるボスになりたいって言ったら、道のりは長いなって鼻で笑われたけど、先を示してくれる先生なんだ。出久と勝己と友人でいることもあいつは許してくれた。一度として縁を切れとは言わないでくれたから。今日、正式にボスの座を継いだら形式上は家庭教師ではなくなってしまうんだけどね、俺にとっては彼以上の先生はいないから、彼の教え子として、恥じない男にもなりたいな。
心なしか顔を赤くして、はにかみながら語る綱吉の様子に、出久の涙腺は刺激される。感動したのだ。大切な皆のことを語る友の姿に、たとえその道が巨悪に続いていたとしても、幸せそうに、楽しそうに、未来を語れるならば、綱吉は大丈夫だ。裏社会という出久には理解し得ない場所だとしても、彼はきっと彼のままで生きていける。彼が大好きだというファミリーの皆が、彼の心を守ってくれるだろう。出久に直感力なんて個性はないけれど、それでも確信せずにはいられない、それほどの感激が、津波となって、出久の心からその言葉を押し出した。
「おめでとう」
友の門出に、祝福を。
できることならいつまでも語らっていたかった。雄英高校で過ごして感じたことを綱吉にも共有して欲しかった。出久の秘密を話してしまいたかったけれど、神がかった直感力を持つ彼ならば知りながら言わないでいるのかもしれない。
窓から部屋を去る前に、綱吉は出久を抱きしめた。これは別れの抱擁で、夏休みに綱吉と向き合うことをしなかった勝己は思うところがあったのだろう、静かに綱吉の背に腕をまわした。
時刻は二十一時に迫っていた。オールマイトが用意してくれたサンドイッチを慌てて口に詰めた出久と勝己は、警備位置につくために大聖堂を目指す。
十字架を模した大きな空間の至る所に整備の者が立っていた。飯田と轟の姿も確認して肘のあたりで軽く手を振り、すぐに意識を切り替える。
開始時刻が近づくと聖堂は招待客で埋まり、パイプオルガンの旋律に讃歌を口ずさむ声が聴こえてくる。仏教の簡単な教えくらいしか心得がないからこそ、出久は彼等の儀式の邪魔をしないよう気配を消しながら、意識だけは会場全体に張り巡らせた。町や城内で警備にあたっていた者達から、ボンゴレ十代目を軽んじるうっすらとした敵意の報告は上がっており、飯田と轟達も夕食の席でマフィアと一悶着あったらしい。獄寺の身内こそ警戒対象という危機感は間違っていなかったのだ。
ボンゴレ九代目ファミリーと十代目ファミリーがやってくると、空気の質が明らかに変わって、多国籍な囁きは彼らを称えているのか非難しているのかは判断できない。けれども、確かな緊張だけは肌を通して伝わってくる。
クリスマスミサは司祭の登場で始まった。
宗教的な知識を何も持たないからこそ、ただただ純粋に神に祈るための儀式は美しいものであった。他宗教にふれるこの機会も、きっといつかの出久のヒーロー活動の糧となるだろう。
二時間のミサが終わると、そのまま継承式が行われる。ブラックスーツを着て髪の毛も整えた綱吉は、もう出久と勝己の知らぬ男ではない。ヒーローとヴィランの歩み寄り政策がなければ叶わなかった、巨悪誕生の儀式。今日、出久の友は裏社会が認める巨悪となる。けれども彼は孤独でも不幸でもなく、守護者の皆に囲まれて、大切な人達に見守られながら継承するのだ。見届ける覚悟は、とうにできている。
九代目の手によって十代目の指に継承の証である指輪がはめられる。そして灯るのは、ヘリポートで目撃したあの炎である。
会場中に燃え広がる炎に包まれた傘下のファミリーは、瞬く間に敵意を焼失し、我先にと膝をついて頭を垂れる。
それは、轟々と燃え上がる、透き通る炎の美しさの前に、世界中のヴィランが忠誠を誓った瞬間であった。
出久の思ったとおり、その炎は柔らかく、とてもあたたかい。
26
八年ぶりに顔を合わせたその人は、こちらの姿を確認するとわずかに眉尻を下げて、初めて出会った十五歳の少年の面影を濃く残しながらも、組織のトップに相応しい立派な青年に成長していた。ノーベル個性賞を受賞した博士の娘として様々な有名人と顔を合わせてきたが、その中でも上位に食い込む仕立ての良いスーツを着こなすには、見目の良さだけではなく佇まいや所作のひとつひとつに説得力が必要となる。東洋人は老い知らずという魅力を持っているから、西洋人に囲まれた彼はさぞ若々しいだろうと思っていれば、容姿だけは予想通りで、下手すれば未成年と間違えられるだろう若さに反した洗練された雰囲気は、先代の教育の賜物と言える。
「こんにちは、ボンゴレ十代目。この度はI・エキスポにご来場いただき誠にありがとうございます」
「お久しぶりです、メリッサ嬢。出迎え感謝します」
ボンゴレ十代目・沢田綱吉は、以前にこの島にやって来た時と同様、獄寺と山本の二人を護衛として連れている。
「私の出迎えは助手に任せても良かったのに」
柔らかい声色に嫌味はなく、会いに来たことはやはり正解だった。
「いいえ、十代目。これは支援を受ける科学者として当然のことです。それに、お話したいこともありますので」
I・アイランドの科学者は研究のお披露目会であるI・エキスポを目指して研究成果をまとめる。メリッサ・シールドはここ数年でこの島の科学者達としての地位を築いており、大切な支援者の出迎えは仕事の一環と言える。が、十代目の言うとおり、助手のほうがパビリオンの案内は有意義──科学者という生き物は自分の研究に夢中であるため──だろう。それでもこうして、他科学者の展示品の知識を頭に入れてまでメリッサが来たことにはもちろん理由がある。
「デヴィット博士の研究も順調そうですね」
「そうですね。お時間はいただきましたが、新しい研究に集中しています。次回のエキスポでは成果を報告できると思います」
あの事件でヴィラン犯罪に加担したメリッサの父、デヴィット・シールドは、九代目の思惑通り罪に問われることはなかった。無罪釈放ではない。彼の罪は法廷で審議されることなく闇に葬られてしまったのだ。そうして与えられた自由は、平和の象徴の親友を自負する男にとっては罰そのもの、九代目はそれを理解しながらメリッサという愛娘の存在をも罰として、デヴィットはそれらの罰を受けながら研究を続けることを強要されたのだ。けれどもメリッサはボンゴレを残酷だと非難はしない。
彼らはヴィランでありながら、慈悲深かった。
エキスポの見学を終えてカフェテラスに移動したメリッサは、目玉のアトラクションに招待客が集っているのを確かめてから、正面に座る青年を観察する。
これは九代目にも共通することであるが、もしも彼がパーカーや何の変哲もないシャツを着ていれば、誰も巨悪などとは思わないだろう、そんな穏やかな空気感があるのは、表情からか、それとも容姿か。表社会では大企業であるボンゴレカンパニーの代表取締役として一般人と接していたとしても、人を殺していてここまで普通でいられるものだろうか。メリッサには不可能だ。罪を犯した父の憔悴をそばで支えたからこそ、わかる、ただの人は裁かれない罪に耐えることはできない。
目の前にいる、部下を立たせるのではなく座らせて、暑くなってきたからアイスコーヒーにしようか、イタリアの豆があるのは嬉しいけどせっかくだからエジプトの豆もいいね、運ばれてきたアイスコーヒーを飲んで美味しいね、と微笑う、柔和で、悪意のカケラの感じられない、聡明さを瞳に宿す男は、もしかしたら向いているのかもしれない。何がヴィランの素質かなんて知らないけれど、裏社会で変わらずにいられるのもまた、一種の才能ではないだろうか。
メリッサはアイスレモネードが喉を通る心地よさにほうっと息を吐く。
そして、彼がボンゴレ十代目で良かったと思う己の心を受け止めた。
「いまさらになってしまいましたが、お礼を申し上げてもよろしいでしょうか」
言うと、真っ直ぐにこちらを見て次の言葉を待ってくれる。
「継承式の辞退を受け入れて下さり、誠にありがとうございました」
ボンゴレから多額の支援を受けるデヴィットの元にボンゴレ十代目の継承式の招待状が届いたころ、デヴィットはようやく集中して取り組める研究テーマに出会い、熱中することでどうにか立ち直ろうと奮闘していた。親友のためというのは免罪符で、本当は自分の研究を取り戻したかっただけなんだ。そう懺悔するデヴィットは、メリッサが愛した父ではなかったけれど、それもまた、デヴィットという人間の知らなかった一面でしかない。親友のために始めた個性を増幅させる研究が、理不尽に奪われたことで科学者としての自意識に脅かされてしまった。最初から自分にならこの研究を成功させられるという気概もあったのだろう。メリッサにとってはどちらでもいいこと。ただ、親友を想う自分がいたことを忘れないでいてくれたなら、それだけで。
ボンゴレの紋章が刻まれた黒い招待状は、デヴィットにとっては死神からの手紙に等しく、顔面を蒼白にした父の狼狽に、聡い娘は、ヴィランと関わることを恐れているのだと悟った。
どうにか心の箱の中に罪悪感をしまうことを覚えたというのに、招待状のせいで増幅した罪悪感はとうてい箱に収まらなくなり、そんなデヴィットの代わりに手紙を開封したのはメリッサだった。
継承式のお知らせが一枚目、二枚目には参加・不参加の選択があって、選択肢が与えられた事実に、メリッサは泣くのを堪えるのに必死だった。
それは一般人に与えられた慈悲である。
「顔を上げて下さい」
彼の母国の文化に倣って深く頭を下げたメリッサにかけられる声はどこまでも柔らかく、彼と似た話し方をする一人の少年の声とリンクした。今はもう少年ではないけれど。
「先代は博士の発明を愛するがあまり、彼の心を疎かにしてしまいましたからね。これ以上の圧力は耐えられなかったでしょう」
「はい、娘の私もそう思います。しかし、支援を受ける者としては果たさなければいけない義務でした」
デヴィットがノーベル個性賞を受賞できたのも、ボンゴレからの支援のおかげなのだ。十代目の継承式にデヴィット・シールド博士がいたとなれば、それはある程度の箔になるという自負はあり、継承式はその恩を返す場であったのに。
「実のところ、博士の不参加を許可したのは九代目の計らいなんですよ。無理をさせた詫びだそうです」
彼らはヴィランで、巨悪で、メリッサとデヴィットは研究者という肩書のおかげで彼らの加護下にある。言うなれば運が良かっただけの関係性だ。デヴィットは昔から何度も娘に言い聞かせてきた。彼らがヴィランであることを忘れてはいけないよ、と。
メリッサは胸の内で父に語りかける。忘れたりはしないわ、彼らは父さんから罪を償う機会を奪った。けれども飴を与えることも忘れない。彼らはどこまでもヴィランで、自分勝手で、気まぐれな慈悲に涙が出るけれど、大切な友人がいるただの人であることも知っているから。
もう一度、メリッサは深く頭を下げた。
十代目の宿泊先であるホテルのロビーで解散し、身支度を整えてからセントラルタワーで待ち合わせると、彼らは清々しいまでに堂々とブラックスーツを着こなしていて、ここまで潔いとメリッサの肩の力も抜けるというもの。集まるヒーローの視線だけが痛いが、すべては研究資金のため、メリッサは胸を張ってベロニカ色のナイトドレスをひるがえす。
今夜は特別な夜になる。
その緊張が、パーティ会場に一歩足を踏み入れた瞬間から場を支配している。皆の視線がメリッサと十代目を追う。その先にいるのは、平和の象徴と呼ばれる男、ヒーローデクと、ヒーローランキングで第一位に輝いたヒーロー、大爆殺神ダイナマイト。
「こんばんは、まさか平和の象徴とナンバーワンヒーローに会えるなんて、思い出深い夜になりそうですね」
「こちらこそです、ボンゴレ十代目。メリッサ博士もご無沙汰しています」
十代目はそれぞれと簡単な握手をして、開会の挨拶に呼ばれた二人の背中を見送る。彼らの関係を知るメリッサからすると他人行儀で、知らない者たちからすると十分過ぎる接触だ。
開会に間に合うようにやってきたデヴィットも合流し、司会者の進行に耳を傾けながらメリッサは小声で問いかけた。
「後で個室を用意しましょうか」
多くを語らずとも、彼ならばメリッサの意図がわかるだろう。
「私が十代目を引き継いですぐに、先代が世界一周の旅に出かけたんですよ」
脈絡のない話だった。
「数年ぶりにようやく帰ってきたかと思えば、またすぐにどこかへふらりと出かけて、私としてはまだまだ指導をお願いしたいことがあるのに、ぜんぜん帰ってきてくれない。ボンゴレのボスという肩書きから解放されて好き勝手してるんですよ」
十代目は壇上に登る二人の幼馴染を見上げる。
「いいですよね、気ままに好きな場所に行って、好きなものを食べて、会いたい人に会いに行って。私もそんな老後を過ごしたい」
まだ二十代である彼が語るには早すぎる話だというのに、メリッサの口から出たのは、まだまだ気が早いですよ、十代目のご活躍を皆が期待しています、なんて社交辞令ではなくて。
「憧れますね。幼馴染に会いに行ったりしてみてはいかがですか」
「それは名案です、流石はメリッサ博士だ」
八年前、ここセントラルタワー屋上にあるヘリポートでの一部始終は、父の罪と共にメリッサの豊かな胸の内にしまってある。
ヒーローを目指す二人の幼馴染の汚点にはなりたくないと何も告げずに身を引こうとしたマフィアの十代目。
ヴィランであろうと大切な幼馴染だからと繋ぎ止めた平和の象徴とナンバーワン・ヒーロー。
彼ら三人の友情の証人になれたことは、ヴィランから多額の支援を受けるメリッサにとってこの上ない誉れである。
今はそれぞれの道を征く彼等だけれど、いつかまた幼馴染として再会できる日がきっと来る。たとえそれが何十年という長い月日の先で、彼等の道が二度と交わえないと錯覚するような悲劇があろうとも。彼等ならばきっと、ヒーローとヴィランの間に立ち塞がる前人未到の壁もぶち壊していくと、信じている。
「おかげで老後がとても楽しみになりました」
ちらりと横目で盗み見た、彼の晴れやかな微笑みは、メリッサの祈りが現実となることを裏付けていた。
さらば友よ、すべての肩書きを脱ぎ捨てるその日まで。
さらば友よ、幼馴染として笑いあえるその日まで──
さらば友よ【完】
これにて完結となります。
お付き合いいただきありがとうございました。
感想等いただけますと次回作の励みになります。