退院してから一週間が経った。俺はひたすら怠惰な時間を過ごしていた。寝て起きてぼーっとしてを繰り返し、ただ生きているだけの生活だ。何か益になることをすべきなんだろうが、やる気が出てこない。
何かをやる気はない、しかし時間だけはあるのが今の俺の現状だ。大学の長期休暇は終わっているが、TS病での諸々を考えると休学を選択した。姿も変わり、周囲の奇異の目に晒されるのは耐えられるわけがない。自分の弱ってしまった精神を守るためにも仕方ないことだと思う。知人に今の姿を見せるのも嫌だ。
色々なことが頭に浮かんでは消えていく。暗い気持ちになり、頭をぐしゃぐしゃにしてしまう。長くなった髪の手触りは良いが、それでは暗い底に堕ちきってしまった気分を慰められない。現実逃避でもしなければ何をするか自分でもわからないのだ。
現実から目を背けるためにネットサーフィンでもしよう。ここ一週間での定位置となったベッドの上で毛布に包まりながら、スマホをいじる。片手で楽々操作できていたスマホだったのに、両手でないと使いづらい。メッセージアプリに溜まった連絡を全て無視して、適当なニュースを読んで気を紛らせる。ある芸能人が結婚したやら、パンダの赤ちゃんが生まれたやら、世間では明るいニュースでいっぱいだ。まあ意図的に悲しいニュースを目にしないように気を付けているのもあるが。
こうしてみると、俺がどれだけ苦しんでいようと世界は変わらず動いていくのを実感する。当たり前だが、結局変わってしまったのは俺だけだと突き付けられる。そう思うと、何もかもがつまらなく思えてくる。なんとも馬鹿馬鹿しい。いやだめだ、この思考の方向性はドツボにはまるパターンだ。精神衛生上よくない流れになるのは何度も経験している。
こういうときは何も考えず時間を潰せて、楽しくて、身にならないことをするのが一番だ。それは全く知らないソシャゲのリセマラだ。今後続けるつもりは全くないソシャゲだ。時間だけを浪費するが、楽しい遊びだ。
早速インストールして、無駄に長いダウンロード時間をわくわくしながら待つ。どんなソシャゲを選ぶかの基準は特にないが、今回はアプリランキングの上位のものを選んだ。軽く調べると凄惨な世界を仲間と共に戦い、生き抜く系のソシャゲのようだ。
チュートリアルをスキップして、ようやくリセマラの時間だ。この瞬間がたまらない。周年キャンペーン中で、通常時よりも多く無料ガチャを引けるようだ。すごいぜ、なんと諸々合わせると合計百連引けてしまう。つまりいっぱい引ける。
細い指でたぷたぷと画面を押していく。よくわからないが、大体は虹色に光るのが最高レアだろう。ならば狙うは虹色一択。引くぞ引くぞ引くぞ。
基本的には女の子キャラがメインのようだ。好みの女の子が出てくると嬉しいな。強そうな高身長巨乳なキャラがいい。意気揚々と十連引くと表示されたボタンを押す。押す。押す。押す……。全部引いた結果は最高レアが一つ。しかもキャラじゃなくて武器だ。課金をしているわけではないが、いくら何でも運が悪すぎないか?とか、確率おかしくない?とか色々な不満が頭を巡る。しょうがない、これもリセマラの醍醐味だ。もう一度だ。
それから二、三時間ほど繰り返しリセマラをした。試行回数は、数えるのが途中でめんどくさくなったが、たくさん。ある程度楽しめたと思う。とりあえずは満足だ、最後のアンインストールを終えると、無駄な時間を過ごした疲労が身を包んでくれる。少しだけ気分が上向きになったのを感じる。スマホをクッションに向かって投げ飛ばし、ベッドの上で目を閉じる。
結局のところ、人間は何もしない時間があれば、余計なことを考えてしまうものだ。ありもしないものに怯え、どうしようもないことに悲観する。元々、俺自身そういった考えに陥る傾向にあった。TS病になってからは特に顕著になったと思う。肉体と精神のぎこちなさがそうさせているのだろう。
今の俺は、男なのか女なのか自分でも定義できないどっちつかずなんだ。存在自体がふわふわして、現実なのに現実ではないように思わされる、自分なのに自分ではない違和感はぎちぎちと心を締め付ける。
だからこそ今は、辛い。目をつぶっていたいし、耳も塞いでいたい。何も感じたくない。
ベッドの上で何もせずぼーっとする。天井の電灯の明かりじっと見つめるだけだ。楽しいとか悲しいとかの感情もなく、ただただ見つめる。無が存在するのなら、この状況こそが無だ。何の気なしにクッションに埋もれたスマホを見ると、ちかちかと光っているのに気付いた。マナーモードにしていたため、音が鳴らなかったのだろう。思いっきり手を伸ばし、スマホを手に取る。もたもたしながら画面を確認すると、夏と出ている。水島夏、つまりは兄からだ。
この瞬間選択肢が現れる。折り返し電話をするかしないかだ。退院してから一切連絡を取っていない状況だ。確実に心配をしている。履歴を見ると、家族からだけでも、直近で何回も連絡を取ろうとしていたのがわかる。その連絡のどれもに俺は反応していない。仕方ないので、とりあえず兄にだけでも連絡を取ろうか。
出なければそれでいいぐらいの気持ちで折り返し電話をしたら、すぐに出た。
「何ッ回も電話かけてんだから、さっさと出んかい!この馬鹿!」
相手からの開口一番がこれで怖い。当然全く連絡してなかった俺が悪いのだが。あまりの大きな声で目がギュっとなる。兄は普段は滅多に怒らないタイプの人間だから、余計に怖く感じる。しかし、強気な心で対応しよう。どれだけ怒られようとも負けないぞ。
「なんだよ……」
最近対人で話すことがなかったからか、思った以上に声が出てない。小鳥みたいな声で返答してしまう。いつもならもうちょっとはきはきとできるはずだ。
「どんだけ連絡しても反応がないし、メッセージにも既読がつかないし……何か自棄になったんじゃないかって心配したんだからなぁ……」
ものすごく怒られると思って身構えていたが、夏兄の涙交じりの声に申し訳ない気持ちだ。退院した家族から何も反応がなかったら、とても心配する。当然の話だ。しかも大病といってもいい病気だから余計に心配する。俺だって同じ立場なら同じ感じだろうなぁ。
「ちょっと色々しんどくて、連絡できなかった。ごめんなさい……」
「……大きな声出してごめんな。でもな父さんも母さんも、秋姉だって、どうしたんだろうって心配してたんだ。俺も含めて皆、春のことが大事だからさ……」
「うん……うん……」
家族に迷惑をかけてしまっている事実が重くのしかかる。自分のことしか考えてない自分がすごい情けなくて、悲しくて、まぜこぜな感情がぐるぐるする。夏兄の優しい声が涙腺を刺激し、嗚咽を上げながら泣いてしまう。しゃくり上げて泣き、何も言葉が出ない。我慢しようにもとめどなく涙がこぼれる姿は、容姿も相まってまるで小さな子どもになったようだ。
最終的に二十分そこそこ話していたみたいだが、そこから先の記憶は曖昧だ。ひたすら泣いていたような気もするし、電話越しで年甲斐もなく夏兄に甘えてしまっていたような気もする。もしかしたらどっちもなのかもしれない。これが成人した男ならもちろん恥ずかしいのだが、中身はともかく見た目だけなら可憐な少女だから大丈夫だと思う。そう思うことにする。
泣きはらした目をこすりながら、スマホにタッチしてメッセージアプリを起動する。文を送れるほど心の状態は良いわけではない。一応の生存報告のつもりで、家族にだけスタンプで返信していく。それだけしかしない。何かまたスタンプに対する返信がきそうで怖いので、今日のところはスマホの電源を切ることにした。逃げるようでよくないことだとは思う。心の平穏を保つためだと、自分を納得させつつ、何がかはわからないが前進した気がする。それが実際は停滞だとしても、俺の気持ちだけはほんの少し救われたのだった。