【完結】女転生者ですが、親友(♀)がエロゲの主人公と発覚したので死ぬ気で貞操を守ります。# シスターアディと淫魔の恩寵_Append 作:家葉 テイク
第二四話 貧民街の女帝
──最初に見た時は、吸い込まれそうな闇だと思った。
「──『山を越え、降り立った方々と謁見した人の祖だったが、欲深き彼らはそれだけでは満足できなかった。降り立った方々と謁見して憧れを強めた彼らは、やがて彼女達の姿に近づき、そして彼女達と交わりたいと願うようになった』」
『導典』を片手にして、広場に座っているガキどもに読み聞かせをしているシスターを見て──アタシはぼんやりと昔のことを思い出していた。
シスターらしい黒衣の修道服に、黒のフード。そこから、衣服よりも遥かに漆黒の黒髪がまるで川が流れるみたいな清らかさで顔を覗かせている。
綺麗な
『導典』に記された文章に視線を落とす暗い紫の眼差しも、聖なる言葉を紡ぐ唇も、見る人を魅了する危険な美しさを孕んでいた。氷の様に冷たい白さの肌は、朝の光に照らされている。
アタシはその寒々しい眩しさに、思わず目を細めていた。
「『過ぎたる願いを降り立った方々がお叶えになることはなかったが、唯一人だけ、六番目の妹女神である『堕落の』
彼女は、子ども達一人ひとりの顔を見ながら語り掛けるように神話の一節を口にする。
「『あなた方がその浅はかな欲望に打ち勝ち、そしてわたし達の前に現れるのならば、わたし達もまたあなた達を受け入れましょう。その時は、あなた達と交わりましょう、と』」
子ども達は、まだ彼女の
そしてある時、まるで女神様に教えられたように、ふと気付くのだ。自分のいる世界がいかに不確かなものなのか。強大な存在と隣り合わせで生きているのか。今までそれと知らずに近くで過ごしていた者が、どれほど恐ろしい存在だったのか──。
エーヴァンネーリジュという少女と出会ったのは、殆ど記憶の原初の頃だ。
その頃のことは覚えていないという人も多いけど、アタシは覚えている。他のことは忘れてしまっても──彼女と初めて会った時のことは、よく覚えている。
最初に見た時は、吸い込まれそうな闇だと思った。
砂や埃にまみれボサボサなのが当たり前のスラムにあって、綺麗に梳かれた漆黒の長髪。粗末な衣服も、どういう訳か綺麗に手入れがされていて、彼女の姿だけを見ていると、まるでここがスラムじゃないどこかなんじゃないかと錯覚するほどだった。
自分と同じ小さな痩躯なのに、彼女のそれはこけた野犬というよりも研ぎ澄まされた刃物のような重い力強さを感じさせる印象だった。
……なんてことを、当時のアタシが思っていたわけじゃねぇけど。
でも、自分とは違う『何か』を当時の彼女に感じ──そして心のどこかで畏れたのは、間違いないことだった。
「ンだよ、てめぇ」
そして私は、その畏れがとても嫌だった。
スラムという場じゃあ、恐怖という感情は彼我の力関係を確定させる第一条件になる。
だから当時の私は、そんな自分の恐怖を誤魔化すみたいにして、彼女に掴みかかった。
「──そう。怖いんだ」
彼女は、痩躯とはいえ自分よりも一回り大きいアタシに詰め寄られているのに、にまりと楽しそうな笑いを浮かべていた。
アタシの心の中を、見透かすようにして。
彼女の深い紫色の瞳が、じんわりと笑みの形に歪む。暁の空のような暗い紫の瞳の中に映るアタシは、まるで囚われているみたいだった。
アタシがその一言で逆上するか、しないか。何か言い返そうとしたそのタイミングで──アタシの視界は、気が付いたら九〇度ほど傾いていた。
「へ?」
咄嗟に受け身を取った両腕と膝がジンジンしだしてから、ようやくアタシは自分が転んだことに気付いた。
「なァ、おい」
うつぶせに倒れた態勢のまま、何が起きたのかも分からない状態で──
信じられないほど荒々しい声が、アタシの上から降り注いできた。
「
どしん、と背中のあたりに小さな衝撃が走る。
最初、アタシはもう一人誰かが来たんだと思った。あの女の子は囮で、仲間が物陰に隠れて、ああやって喧嘩を売ったアタシみたいなヤツを袋叩きにして物を奪うんだと。
でも、そうじゃなかった。
「『
ゴボォ!! と。
アタシの口に、思い切り水が叩き込まれた。泥臭い。見てみると、そばの水溜まりの泥水が蛇の様にのたうち回って、アタシの口の周りに纏わりついていた。
「──!? むぅ、う、むぅむ、うご!?」
必死に暴れようとするけれど、それを罰するように口元に張り付いていた泥水が顔面を叩いた。
思わず、動きを止めてしまう。
そこでようやく鼻で呼吸ができることに気付いて、私は鼻呼吸でなんとか息をつなぐことができた。……同時に、それを塞ごうと思えばこの人なら簡単に塞げることにも思い至った。
「私はエーヴァンネーリジュ。
言ってから、彼女は──エーヴァンネーリジュはアタシの口元を覆っていた泥水を離してくれた。
次の瞬間に自分が言うべき言葉は、もう分かっていた。顔のすぐ近くをちらつく泥水に怯えながら、アタシはすぐに答える。
「れっ、レルオーティエっ、レルオーティエ、ッスっ」
犬が腹を見せるように、アタシはすんなり答えていた。
もう、虚勢はとっくに剥がれ落ちていた。今はただ、彼女に従わなければいけないという一心だった。
魔法持ちだったなんて聞いてねぇよ──そんな負け惜しみのような言葉を心の中で吐き捨てる余裕はあったけど。
「よろしい。レルオーティエ、私に言わなきゃいけないことがあるわよね? 道端で会っただけの人にいきなり掴みかかった悪い子は、可哀想な被害者の子になんて言わなきゃいけないのかしら?」
「ご、ごめんなさい」
「よし、良い子良い子」
馬乗りになられたまま、アタシはエーヴァンネーリジュに頭を撫でられた。
今思い返せば猫が鼠を甚振るような示威行為にしか思えない恐ろしい挙動だったけれど──当時の私は極限状態で与えられた優しさ
ああ、許してもらえた。これ以上痛い目を見なくていいらしい。
──そう思ったことは覚えている。
「素直な子は好きよ、私」
エーヴァンネーリジュ──いや、姐さんに助け起こしてもらいながら、私はそんな彼女の言葉を聞いていた。
そして、気付く。
物陰や道の隅からこちらの方を見ている、子ども達の視線に。畏れを含んだ、その感情に。
「友達になりましょう? レルオーティエ」
「……ウッス、姐さん」
その時から今に至るまで。
アタシにとって、この女性は貧民街の女帝だった。
「──ィエ。……レルオーティエ。……ねぇ、聞いてる?」
「……はぃ!?!?!?」
ぼんやりと思案していたら、気付けば目の前に姐さんがいた。
あれ、いつの間に!? 説教……もう終わってた? 見渡してみると、もう広場にはアタシと姐さんの二人しかいなかった。……しまった!! 姐さんの説教聞いてなかったのバレた!!
「す……すんませんッス! ぼーっとしてて聞いていませんでしたッ!」
「ハァ……。読み聞かせも聞いてなかったの? 一応周りの大人に聞かせる意図もあったんだけど」
「面目ないッス……」
「まぁ、いいけどね。読み聞かせは
姐さんはそう言って、ふいと視線を逸らす。
多分、アタシが自分の視線で気圧されることを察して、アタシが落ち着く時間を作ってくれているのだと思う。姐さんはそうして一旦アタシに気を取り直させてから、
「それで、だけど」
と、ざっくばらんに切り出した。
そこで、アタシはようやく気付く。さっき視線を横に逸らしたの、アタシを落ち着かせるのもあっただろうけど、それにプラスして周囲の様子も伺ってたんだ。
つまりは……
「この間依頼した件。フラムエティオス教区の司祭連の動きだけれど……」
こちらの答えを待つ姐さんに対して、アタシは頷いてから顔を寄せる。
アメジストのような瞳の中に、アタシの顔が映し出された。
「はい。姐さんが睨んだ通り、裏でフィルズヴィラ伯爵にカネを回していたっぽいッス。これで確定ッスね」
「『
姐さんは頬に手を当てて、物憂げに溜息をついた。
現在、マニカナ教区は政争の真っ只中……らしい。なんでも他の教区が、マニカナ教区の
姐さんもその流れを抑える為に色々と動いているらしいけれど、なかなか結果が捗々しくなかった。そこでアタシに裏の情報を探ってみてくれとお鉢が回った形だ。
そう。
司祭としてもう一度スラムに戻って来た姐さんの為に、アタシは情報屋として手となり足となり働いていた。
向かうところ敵なしだったとはいえスラムの人間には違いないはずの姐さんが、どうして司祭なんかになれたのかは分からない。
姐さんが突然いなくなって、一時期は事故で死んだって噂が流れていたけれど──まさか姐さんが死ぬはずないって分かってたんで、最初から信じてなかったし。かと思えば、しばらくして『修道女になった』とか言って戻ってくるし……。その後も司祭になって司祭長になってと、トントン拍子で出世するし……。
……改めて来歴を並べてみると、本当によく分からない人だなこの人???
「裏金を回しちゃうのは、流石に反則よねぇ」
姐さんの口元には、いつしか三日月のような笑みが浮かび上がっていた。
獲物を食らう蛇のような笑み。あるいは、船に変わった無礼者を見て無邪気に楽しむ『恐怖の』ヴィーンティオ様のような、破滅を誘う笑みだった。
そうしながら、姐さんは口元にその細くて白い指先を当てて思案する。やがてふいにその笑みを一層濃くすると、姐さんはアタシの方に向き直った。
「……よし。考えはまとまったわ。これなら大丈夫そう。いつもありがとうね、レルオーティエ」
「いえ……。他でもない姐さんの頼みでしたし……それに、結局アタシらの為ッスし」
そう。マニカナ教区管轄の
景気が悪くなれば治安も悪くなるし、その煽りを一番最初に受けるのはアタシ達の暮らすスラムなのだから。
……そしてそれこそが、姐さんのやり口でもあった。
このスラムは、もう既に完全に姐さんの手中だけれど──姐さんは決してスラムに『借り』を作らない。姐さんの言う通りに動くのが、結果的にスラムの益になる。姐さんがスラムの力を使う時は、決まってそういう盤面が完成しているんだ。
それを『これだけスラムの為に働いても恩に着せない聖女』と受け取る人もいれば、『決してスラムを優位に立たせない冷徹な立ち回りの悪女』と受け取る人もいる。
アタシは、当然姐さんの本性が後者だと知ってるけど。
知っている、けど。
「度し難いのは人間の欲深さね。その欲深さのせいで、永久に女神から遠ざかってしまったっていうのに……」
「まぁ、神話の人間達が溺れたのは金欲じゃなくて性欲ッスけどね……」
姐さんのぼやきに、アタシは苦笑しながら答えた。
そうすると、姐さんの目が意外そうに見開かれた。……新鮮なリアクションだった。そういう意外そうな顔を、姐さんがアタシに向けるなんて本当に珍しい。
「……な、なんスか?」
アタシはちょっとはにかんで問いかけた。
姐さんはすっと表情を戻して、
「いや。……なんだ、ちゃんと聞いていたんじゃない。読み聞かせ」
……ああ……。
「っていうか、流石に『創世記』くらいは覚えてるッスよ。何年姐さんの説教を聞いてると思ってるんスか」
『導典』の内容を諳んじる……とまではいかないけど、それでもある程度の内容くらいならちゃんと覚えてる。
『堕落の』トーレイラ様の誘いに乗った人の祖は、トーレイラ様の権能によって今の人と同じ姿を与えられた。しかしトーレイラ様はその時、人を男と女の二つの姿に分けた。女神と交われる姿と、女神によく似た姿に。
人間は女神様と交わりたいその強い欲望ゆえに、女神様の許へ到達する前に人同士で交わってしまい──誓いが破られたため、
人間と女神様が共に暮らした時代の最後で、『創世記』の最終章。人の欲の愚かさを戒めた神話だ。
「確かに。特に、『創世記』は何度も読み聞かせの題材になってるしね。流石に、知らないって決めつけるのは失礼だったわ。ごめんね」
「いえいえ! アタシみたいな学のない人間なら知らないって思ったって当然ッスし……」
「レルオーティエ」
慌てて否定したところに、姐さんの声が差し挟まれる。スッと、自然にアタシの背筋が伸びた。
「今のは私が悪いの。貴方が自分を卑下することはない」
「……はいッス」
「よろしい。素直な子は好きよ」
そう言って、姐さんは雪の様に微笑んだ。
スラムにいたあの頃はなかった笑みだ。──でも、スラムにいたあの頃よりもずっと冷たくて、恐ろしい。
その恐ろしさに吸い寄せられるように見つめていると、姐さんはさらに続けて、
「じゃあ、私はそろそろ戻るわね。遅くなったらアディがむくれるし」
「……お嬢ッスか?」
──アディ、シスター・アディステア。
たまに姐さんの話に出てくるけど、会ったことはない。一度会ってみたいと言ったら、『貴方はあの子に合わせるにはガラが悪すぎる』と突っぱねられてしまったし。
一度、隠れて礼拝堂に行って見に行ったこともあるけど……花の様に無邪気に笑う、苦労なんて知らないような天真爛漫な雰囲気の──女神みたいな女の子だった。
それこそ、神話の世界の人間だったらいの一番に交わりたいと願うような、そんな。
「そ。今日は午後からアディと約束があるのよ。……ああ、言っておくけど」
「『私のスケジュールを外部に漏らしたらただじゃおかない』ッスよね? 分かってるッスよ」
「よろしい。気が回せる子も好きよ、私」
上機嫌で言って、姐さんはアタシに背を向けて歩いていく。
頭に被ったフードの裾から出た漆黒の髪が、まるで残り香のように風に揺られて靡いた。
「いってらっしゃい、姐さん」
その後ろ姿に、アタシは呟くように言葉をかける。
この女、女の顔を見すぎだろ……。