何もない、
偏在する『無』に耐え得る存在以外は、何もない。
広く、どこまでも続き、しかし、世界は恐ろしいほど残酷だ。
ここに存在することが許される者は、尋常ならざる強靭な心身が無ければ、あっという間に呑まれてしまう。
そんな世界の中心が、彼の住処だ。
じっと、彼は待ち続けている。
無限に広がる闇を、見つめる。
己の名前すらも忘れ果てた彼は、ただ、己に課した役目をまっとうするのみである。
気が遠くなる時間を、耐え続ける。まるで、植物のように穏やかに。
しかし、内には、近付けば燃え尽きるほどの激情を隠す。
既に顔など失って久しいが、雰囲気だけは穏やかに。
何を思おうとも、隠し通した。
だから、秘めた想いは、今すぐにでも吐き出したい怒りは、表には出さない。
「……てなことがあったなー」
黒髪の、小柄な少女が居る。
その少女も、彼と同じく、尋常ならざる力を持つ怪物だ。
世界で唯一、彼と並ぶ存在である。
楽しげに笑う様子からは、決して想像できないだろう。
そして、目前の
楽しそうに、愉快そうにしている所も、幾度となく見てきた。
共にした時間は誰よりも濃密だ。
だから、その変化は、過敏に感じ取れる。
「ガキだけど、やっぱただのガキ共じゃねぇわ。力があって、その力を振り回す図太さがある」
「…………」
「面白いね。育てる、なんてしたことがなかったから、気付かなかった」
怪物同士、話をすることもある。
積もる話はいくらでもあって、他愛もない昔話をする間だけは、悪くない心地だった。
だが、定期的なお茶会で、その人物が放った話題は、彼とは関係のない話題である。
こんなことは、過去一度もなかった。
その人物のことは、よく知っている。
根本にある暴力性は、隠せないほど燦然と煌めいていたはずだ。力があれば、どんなことでもできると信じる者のはずなのだ。
穏やかに、緩く治めるような言い方は、彼の領分のはず。
粗野に振る舞うことは、その人物の元々の特質である。
それを改めるなど、己を殺すことに等しい。
自分の在り方を誰よりも重んじる、いや、そのように思われるよう振る舞っている。
だから、
「弟子なんて、冗談かと思ってたけど、案外悪くない」
心底楽しそうに笑うものだ。
散々見てきた、獰猛な獣のようなソレでも、強者が順当に蔑むソレでもない。
ただ、優しく微笑む姿の、なんと尋常なる様か。
まるで、年相応の少女のようだ。
その人物は、何も必要とはしないはず。
大義のために彼に使われ、考えることなく、必要であれば力を振るう兵器であるはず。
誰にも興味を持たず、そこらのゴミを踏み潰すように、人間を殺すことができるはず。
だから、
「気にかける必要すらない雑魚ばかり。でも、雑魚の中にも、目をかけて良い相手が居るんだな」
「…………」
「最近は、新鮮なことばっかりだ」
新しい玩具に夢中、という訳ではないだろう。
超越者のソレではなく、もっと人らしい、当たり前の執着だ。
変化など、いったい何百年ぶりか?
変わらないことこそを選び続けてきたというのに、何故こうまで変わるのか?
過去を振り返ることばかりが、お互いに共通することと思っていた。
今を想うことなど、時間の無駄だ。
だから、
「胸が熱くなったよ。認めたくないけど、認めざるを得なかった。彼らは、英雄足りうる素質がある。力だけじゃなく、心がね」
「…………」
「逆境に折れず、強者へ立ち向かい、そして彼らはいずれ……」
だから、
「いずれ、我々を打倒し得る、と?」
「……は?」
この変化を、彼は認められなかった。
「随分と、楽しそうだと思いましてね」
「……悪いか?」
「ええ」
彼は、肉体を失っている。
自ら『存在』を封印し、この世には居ないモノとなったからだ。
だから、表情、というものはない。
けれども、感じ取れる怒気は、隠そうとして隠れるものではない。
「貴女は、最近入れ込みすぎです。貴女に課した任務は、『神の子』を守り、育てること。断じて、それ以上は提示していません」
「……そうだな」
「貴女は、近付きすぎです。彼を手ずから育てる、それは構いません。ですが、今の貴女は、やりすぎです」
目前の人物の苛立ちを、彼は感じ取っていた。
唐突に何を言い出すのかと、本気で不愉快なのだろう。
だが、反論がない辺り、自覚はしている。
素直で、恐ろしく、愚かな子だった。
「関係性を守ることが、貴女の目的ではない。手段と目的が、逆になっている」
「ボクは、」
「弱くなりましたね、アイン」
一瞬、その人物は意味を図りかねた。
どういう意味か、と口は形を取り、しかし驚きの余り声が出ない。
強さに関する、無礼千万な物言い。
その人物にとって、存在否定に等しい言葉だ。
予想通りに、怒りを見せたその人物は、彼の胸ぐらを掴む。
「試してみるか?」
「やはり、弱くなった」
それでも、彼は怯まない。
彼以上に、その人物に対して、愛と執着を抱いている者は居ないから。
「貴女は、もっと冷酷で、もっと荒々しく、純粋な暴力装置であるはず。なのに、今の貴女は、とても
「…………」
「少し前なら、考えられませんでした。貴女にとって、私以外の全ては糧。使徒たちにも多生の思い入れはありますが、それでもいざとなれば平気で殺す。貴女は、甘さとは程遠かった」
変わるモノを、彼は嫌悪する。
「普段の貴女なら、既に『神の子』の仲間の内、三人は殺しているはず。彼らは、所詮、『神の子』を育てるための肥料にすぎない」
「……違いない」
「悲劇が人を強くする。そう言って、使い潰して然るべきだ。少年少女と見逃しておくには、彼らは力を付けすぎた」
前に進む意思を持つ子らが、目映く、同時に鬱陶しくて仕方がない。
「彼らは、私たちを敵と定めた。『神の子』の成長のためにも、ここは二、三、削っておくべきでは?」
「……止めておいた方がいい」
目を逸らしたのを、見逃さない。
「既に、クロノの成長は予想を越えている。下手に刺激しすぎるのは、良くない」
「貴女らしくない」
「何とでも言え」
何を思うか、彼にはお見通しだ。
「貴女は、弱くなりました。その理由は、貴女の心の隙、それ故です」
「…………」
「力の大部分を封印し、人の感性が戻りつつありますか? いえ、それだけなら、貴女は平気で彼らを使い潰した」
彼は、第一使徒のさらに上に立つ。
教団という組織を創り、何百年も、世界を相手にしてきた怪物。
純粋な戦闘能力こそ、その人物に劣るが、この世界で最も、全知全能に近い存在だ。
つまり、
「認められません、その感情は」
「…………」
「今をあの頃と重ねることも、とても不服です。しかし、『神の子』と
誰よりも、何よりも、『神』という
「神の力に、やられましたか? いや、■■の影響も少なからずありますね? 重なりすぎた偶然の産物として、貴女は弱体化しました」
全ての答えが、彼には分かっている。
分からないのは、砂漠の砂のほんの一握りほどの事象だけ。
「厄介。厄介です。敵なら殺せる。ですが、彼はどうにもできない」
「…………」
「貴女を弱くした彼には、是非とも、報いを受けていただきたいのですが……」
あらゆる今を見通す彼には、予想外は、起こり得ない。
「貴女の言うように、これ以上の刺激は必要ないのかもしれません」
「!」
人間は、背後を振り向いた。
いつの間に
「ご両人、計画実現を前に気が昂るのは分かりますが、どうか落ち着かれませ」
「……クソ神父」
神父と呼ばれた男は、鉄面を張り付けたようだった。
人外らしく、人の感情を覗かせない。
だが、
「我らは志を違えども、向く方向は同じはず。こうして、いがみ合うのは違うでしょう?」
「「…………」」
その人物も、彼も、何も言わない。
黙らされたのだ。
決死を誓った者を見抜けない二人ではなかったから。
「貴殿らは、我らの希望です。成し得ぬ理想を成すための道を示してくださった恩人です。争う所は、誰も望むところではありません」
神父の言葉に耳を傾けていた理由は、片や驚愕、片や敬意。
長らく組織に尽くした神父が抱いた想いは、計り知れなかった。
「一位殿。そろそろ、遊びは終わりの時間です」
「お前……」
「彼らを、騎士団へ案内なさい。本格的な戦争の用意は、できています」
その人物は、神父の目に見覚えがある。
人の情緒を知り、弱くはなったが、経験まではなくしていない。
無頼で生きてきた頃の記憶が、揺さぶられる。
神父のソレは、幾度も見てきた、死を覚悟した者の目だ。
「……神父」
「神の使徒よ」
呼び止める間もない。資格もない。
ただ、最後に、
「良い旅を」
その言葉に、大きな予感を覚える。
決戦の時は、着実に近付いていた。