ソレは、生まれた時から『神父』であった。
玉のように完全を体現し、弱点というものを持たない。
惑う信徒を導く役目を宿し、そのために必要な能力を持っている。
幼少から現在まで、力の大きさは変わらない。
誰にも負けず、誰にも劣らない、理想の『神父』の役目をまっとうしてきた。
大人になるまでに二十年の時を要し、その後、百八十年と少し、老いることなく生き続けた。
ソレは、人の形をした怪物だった。
人の皮を被っている。
人と同じ身体構造をしている。
人と同じく、理性というものがある。
人のように悩み、生を楽しみ、何かを欲し、何かを嫌う。
だが、彼は決して、人と同じではない。
全盛期から、彼は老いない。
通常、数十人がかりで行使する『奇跡』を、彼は単独で行える。
救いを求める信者の声が聞こえる。
星の外に在る『神』の存在を知覚できる。
他の信者たちの祈りを束ね、戦うことができる。
人に備わっていない数々の能力が、彼にはある。
信者たちを導かねばという、強迫観念じみた本能がある。
人に似ているだけで、その中身は、もっと恐ろしい何かでしかない。
その理由、彼の特異性は、彼の生まれにある。
だが、彼の出生を知る者は、既に全て死した。
知っているのは、過去を覗く権能を有する一部の存在だけだろう。
なので、この場では、クロノが目にした景色を写し出す。
彼は、人の胎から生まれていない。
彼が生まれるための胎は、脈々と受け継がれた信仰だった。
世界に遍在する信徒の数は、おおよそ十万前後といったところだ。
生まれたり、勧誘したり、離れたり、殺されたり。数は、この値を大きく上回ることも、下回ることもない。
毎年、毎年、生き残って、死んで。何百年も同じように増えて、減って。
だが、ただ一度だけ、大幅に人口が減ったことがある。
たった一日で、八万が死んだ。
普通に考えれば異常なことだが、彼らにとっては平常である。
ただ、『神』の持ち物である己の命を、返しただけのこと。その時、同時に返した命の数が、少し多かっただけのこと。
常に、彼らは『神』を降ろすために最善を尽くす。
その在り方は、蟻と同じだ。
絶対の『神』の元に、合一して動く。
システムに則って、己の役割を、知識や知恵がなくとも、自然と命じられたように、かくあるべしと、その通りに。
だから、己の身を捧げることに躊躇はない。
赤黒い血を目一杯敷き詰めた、人一人がギリギリ収まるほどの器があった。
彼らは額を地面に着けて、己の信仰を捧げ続ける。
何百年も、何千年も、気が遠くなる時間をかけて、彼らはソレを作ろうとした。
死んでは捧げ、生きても捧げ、戦いを続けられるギリギリの数を残しながら、少しずつ少しずつ力を高め、土壌を整え続けて。
八万を超える命を溶かして、『神』がその信仰に応えて。
ようやく、彼は産声をあげたのだ。
………………
彼が生まれてからの信仰は、信徒たちは、生まれ変わった。
殺される数が減り、救いを求める者を信徒に取り込んだ。
命を散らせる必要がなくなり、力を蓄えることができるようになっていたのだ。統率力に加えて、知識すらも付けられた。
最悪の場合は、『神父』が力付くで解決することもできた。
躍動は水面下で行われ、『神父』の戦いの記録は残っていない。
だが、この戦いによって、彼らは、『神』を信仰する集団は、凄まじい戦力を蓄えることができたのだ。
騎士団も、頭を悩ませた。この頃は、『教団』を相手取る機会が多く、雑多なその他大勢へ異端審問をする暇がなかった。
多くを神道へ導いた、『神父』という存在。
彼は、いったい何を想ったか。
さらに深い部分へ、視点を切り替える。
……………………
そもそも、彼に名前などというものはない。
望まれた役目があるだけだ。
はじめから『神父』として完成していて、それ以外の何もかもが必要ない。
異端と虐げられてきた彼らの統率力はさらに上がった。より強い秩序を得た彼らは、『神父』の手足として動き続けた。
過激な行動は避けて、活動は影へ潜むようになる。戦争という、手駒が減るだけの非生産的な活動を止め、周囲に紛れることを優先する。
密やかに、されど着実に。
信徒は数を増やし、彼が大人になるまでの二十年で、その数をニ十万まで増やしたのだ。
『神父』は何も悩まなかった。
己の使命を、忠実に果たしただけだった。
ただの子供のように遊ぶことに、憧れなんて抱かなかった。
友人とやらが居なくとも、同志の数は極めて多かった。
他の生き方になんて興味がなくて、選択なんて必要なかった。
彼は、本当に上手く『神父』をやり遂げた。
蟻のように、ただ役目を果たした。
統率者として、信徒の声をつぶさに拾い、完璧を演じ続けた。
彼にとっては、とても簡単なことだ。
かくあるべしと生まれ、育ち、それに適した能力を有していたからである。
『救いを』
彼には、信徒たちの声を聞く権能がある。
全世界に、ひっそりと根付く信徒たちの苦しみを、悩みを、救いの声を聞き続けた。
彼がすることは、大局を見ながら、彼らを救うことである。
『救いを』『救いを』『救いを』
この世界において、『神』を信じることは異端だ。
かつて、『神』と敵対していた頃の記憶を、人間は本能のレベルで覚えている。
妙な動きをする隣人を、普通に排斥するくらいのことはする。
追いやられた者を保護することは、当然に行う。
『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』
排斥されるリスクを取ってでも、一部の人々は『神』へ縋る。
それは、恋路であったり、友情であったり、習慣であったり、教えであったり、憧れであったり、優しさであったり。
その道へ至る理由は、無数に在る。
だが、千古不易であったのは、彼らは総じて絶望していたことにある。
『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』
妻がある日、夫が別の女と楽しげに歩いている光景を見た。妻は、怒り狂って夫と女を刺し殺したが、彼らは妻への贈り物を選んでいただけだった。
学校で、イジメられている子供がいた。耐え続ける日々であったが、以前友人だった者が、自分に刃を向けられることの恐ろしさに、イジメに手を貸してしまった。
美しい湖を見ることが好きな男が居た。その地に根付き、変わらぬ湖と共に老齢を迎えた。だが、いつしか湖は曇り、魚も住めない毒沼と化した。それをしたのは、開拓によって近年生まれた村が流す生活汚水のせいだった。
騎士として、誇り高く主に仕えていた。主のためなら死ぬ覚悟を持っていたが、主はどこぞの誰かに殺され、己は死に損ね、復讐相手は手を下す前に、別の誰かに殺された。
生まれながらに疎まれている者たちがいた。彼らは、貧困に喘ぎ、差別に苦しみ、誰も助けてはくれなかった。
戦争は、多くの人間に等しく絶望を教える。子から親を奪い、人から職を奪い、尊厳を簡単に凌辱する。敗者側はもちろん悲惨だが、勝者側も、戦で負った傷のせいで、その後まともに生きられない者も多くいる。
病も、人々に絶望を植え付ける。薬は高く、貧民が子を失うことなど、ありふれた悲劇だ。
『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』
絶望した者たちが居た。
何かに縋らざるを得ない者たちが、世界には多く居た。
そんな彼らの背を、少し押すだけでいいのだ。
世界への鬱憤があるほどに、禁忌が甘美に見えるのだ。
この世界の仕組みに、『神父』は何も思わない。
滝のように流れ出る苦しみの声に、彼は何も思わない。
常人なら、頭が割れる苦痛だが、平気で耐えられる力を持って生まれてきた。生まれつき指導者として、屈強な精神を宿している。
憤る訳でも、悲しむ訳でもなく、悲劇が生まれる世界の仕組みを、苦痛を強いるこの仕組みを、『神父』はただ受容する。
『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』『救いを』
生まれてから、『神父』は眠ったことがない。
一秒だって休むことなく、『神父』は誰かを救ってきた。
これは役割を全うしただけであって、特別な感情を抱かない。
信徒たちにとっては、この救いが特別であるかのように微笑みかけるのだが、見せかけの仮面ではあったが、喜んでくれたので良いだろう。
救いを求める声に、彼は真面目に従った。奴隷のようでもあったが、蟻に、不満を考える脳などありはしない。
だから、彼は何も思わない。
やりがいも、思い入れも、何もない。
彼は、自分の役目に対して、背負った重荷に対して、特にどうとも思っていなかった。
つまりは、彼にとって、『救いを』の声から目を背ける理由がなかった。
ただ、『救わなくては』と純粋に思っていたのだ。
…………………………
彼は、決して疲れない。
肉体は全盛期から衰えない。
気力は落ちず、常に最高の状態から変わらない。
だが、ある時から、疑問で思考が埋め尽くされて、動きが止まる瞬間が生まれるようになった。
当然ながら、異端は殺される。
濃い絶望が、人を信者に変える。だが、強く縋れば縋るほど、バレやすくなる。
そして、バレれば、殺される。
なぶり殺される信徒の数が、年々多くなっていることに気付いたのだ。
魔女狩りの熱が、たまたま強かった年が続いただけかもしれない。
バレるような間抜けが、たまたま多かっただけかもしれない。
だが、いつからか、着実に身内の死者が増え始める。
信徒とは、ただ『神』を讃えるだけではない。
いつか、『神』を降ろすための活動をするし、『神』の力となるように信仰を捧げる必要がある。
かつての世では、戦争を起こすこともあったが、人目につく前に、騎士団に鎮圧されていた。『神父』の意向もあったために、ながらく、活動の全てが後者に傾く。
信仰を捧ぐ行為は、至極簡単なことだ。
いくつか、方法はあるのだが、代表的なところを挙げると、日に三度ほど手を組んで祈るであったり、食事に肉を入れないことであったり、庭の北に背の高い植物を植えたり。
ほんの少しでも、構わないのだ。
ほんの少し、些細な行動をするだけで、信仰は捧げられる。
異端を異端と知っていれば、ほんの少し、違和感を覚えるような行動で構わない。
流れる日々の中で、違和感を覚える人間も、少なくはないだろう。
魔女狩りも、決して無いとは言えない。
信者の数は、減っていく。
上手く『神父』がかなりの数を引き入れるので、トータルで微増に落ち着いている。
だが、どうしても、減っていく。
絶望に沈み、代わりとなる希望を得て、日々を懸命に生きてきた彼らが。受けた理不尽を前に歯を食い縛り、受けた痛みを返してやろうと願った彼らが。
何も知らない、ただ偶然、社会に踏みにじられなかっただけの衆愚に、殺される。
石を投げることは、楽しいのか?
小さくとも、石はとても硬いのだ。だから、人が全力で投げたものが当たれば、とても痛い。
普通の人間は、当たりどころが悪ければ死ぬのだ。
集団で少数をなぶり殺すことは、何か得なのか?
少なくとも『神父』は、人を一方的に虐待することに、喜びは感じない。殴っても、蹴っても、別にどうとも思わない。
ただ、加虐に嗤う姿の醜さだけは、一度見ただけで完全に覚えた。
何故、人は暴力に酔ってしまうのか?
人が暴行を繰り返す姿は、とても醜いというのに、何故それが分からないのか?
人間という種族の未熟さは、十分理解した。
独立した種として社会を敷くには、足りないものが多すぎる。
理由は、十分すぎた。
『神、さま……』
消え入りそうな声は、いつも聞こえた。
ごうごうと響く、嵐のような信者たちの声の中でも、微かな想いは聞き逃さない。
老若男女関係なく、命の灯火が消える時は、淡くなるものだ。
彼らは、『神』に救われたことへの感謝を、己の生の儚さを、そして、
仇敵への憎悪を託して、この世を去る。
『死ね』『こんな奴ら、皆、死ねばいい』『偶然、社会に噛み合っただけの連中が』『なんで、こんな目に遭わないといけないの?』『ざまあ、みろ。いい気味だ』『人なんかより、「神」様の方がずっとマトモだな』『なにが、世界の敵だよ。それなら、よっぽど……』『うんざりする。本当に、心底うんざりする……』『なんで、こんなに悪い人間が多いんだろうなあ?』『皆、地獄に堕ちろ』『今の世界が、ほんの少しでも変わりますように』『世界は、はじめから間違っていたんだろうなあ』『もう少しだけ、生きたかっただけなのに』『苦しい』『生きたかった』『幸せに、生きたかった』『皆が、踏みつけてくる』『なんで、こんなことになったんだよ』『許さない、許さない』『どこにも、行けないだろう、お前たちは。なのに、どうして、人の邪魔をする』『どうか、この愚か者たちに天罰を』『どうか、私の大切なものを奪った者たちに天罰を』『贅沢なんて、願ったこともないのになあ』『せめて、子供が、幸せに生きられますように』『これまでの道筋は、間違いじゃない』『きっと、新世界の礎に』『よくも、よくも……』『ただ「神」を信じてただけなのに、何が敵だよ』『お前らだけだよ。悪魔なんて、お前らのことだろ』『自分の頭でモノを考えることもしない連中め』『悪夢だ。ずっと、悪夢が覚めない』『助けて』『死んでも、死んだ後も、「神」のために』『同志よ、戦え』『殺してやる』『この呪いは、消えないぞ、衆愚共』『殺すこと、ばっかりか。排斥すること、ばっかりか』
こんな声が、いつも聞こえた。
代行者として、『神』と人の間に立つ者として、無視する訳にはいかない。
同志へ、怨差を届けて、火を着ける。
また、肉体なき同志たちが穏やかに『神』の御元へ逝けるよう、ささやかながら、復讐を実行してやる。
それも、『神父』の仕事のひとつでもある。
殺して、殺して、殺して。
見送って、見送って、見送って。
どれだけ募った仕事をこなしても、『神』の降臨にはまだ遠い。
救いを求める声に耳を貸し、怨差の声に耳を貸し、願いが叶うように動き、戦い、殺して。
救った数も、殺した数も、それぞれ十万は優に超える。偉業も、悪行も、数えきれないほどに積み上げてきたのだ。
それでも、『神』の降臨には遠い。
こんなに繰り返しても、こんなに凄まじくても、ゴールは遥か遠くにある。
歩いて、月を目指すようなものだった。
だが、彼は一歩一歩、踏みしめるしかない。
それ以外のやり方なんて、彼は知らない。
幾千万という屍を積み上げて、腐臭が漂う呪われた道を作り出し、空の彼方の月へと歩むしか。
ただ、漠然と、このままではいけないと思っている。
だが、それ以外のやり方なんて、知らなかった。
…………………………
「辛くならないんですか?」
ふと、そんな疑問を投げ掛けられたことがあった。
絶え間なく働き続ける『神父』だが、信徒たちと語らう機会ようにしている。
既に、『神父』が生まれてから五十年近くが経過したが、信徒の言葉に興味を抱いたのは、初めての経験だった。
思考を止めて、毎日毎日、信徒の理想の救世主を演じていた。
何十年と続いたルーティンの中に、差異が生まれた。
『「神父」様は凄いお人と聞きました。皆、『神父』様を褒めてます。ずっと、信徒のために戦い続けてきたんですよね? でも、それって、スッゴく大変そうだなって』
その少女は、篤い信仰心を抱く両親を持っていた。
だが、少女自身が熱心な信徒であるという訳ではない。親の影響から、なるべくして信徒になっただけのこと。
こうした、影響を受けただけの信徒も、大勢居るものである。
だから、『神父』は対話の機会を設けて、自身に敬意を抱かせ、信仰心を高める。基本、事前情報によるバイアスと、『神父』の異質な雰囲気に呑まれてしまう。
同じ年頃の少年少女より、空気が読めないほど明るいのか、それとも底抜けにお人好しか。
想定外の問いかけに、少々戸惑った。
川面に波紋が広がる程度ではある。理想を演じる『神父』は、小揺るぎもせずに言の葉を紡ぐ。
「問題でもありませんよ。小生は、『神』と、貴女たちのために生まれてきたのですから」
『んー、そうなんですねぇ。私なら、絶対無理だなって思って。だから、『神父』様も疲れるんだろうなって』
柔和な微笑み、優しい言葉。
全部含めて、計算付くだ。
完璧な理想を演じて、『神父』は少女にあたる。
だが、少女の表情は優れない。
『やっぱり、疲れてますよ。偶にで良いので、休んで欲しいです』
見当違いの認識だと、『神父』は思った。
この役目のことを、良いとも、悪いとも感じていない。
ただ、当然に果たすべき義務だ。思うことなど、何もない。
それに、『疲れた』という感情、精神状態は、ただの人間からしか生まれない。そうした機能は、備わっていない。
だから、少女は間違っている。
「小生は、疲れなど感じません。だから、安心して良いのです。貴女たちが、安心して暮らせる世界を創るため、いつでも、いつまでも戦える」
『…………』
たった、十年やそこら。
それだけの時間を生きた分際で、何を知るか。
だが、道を惑う信徒を導くは、彼の役目であり、望むところ。
目の前の少女も、同様に導いてやろう。
当然に、彼は少女の幸せを願っていた。
『じゃあ、私は、「神父」様が頑張らなくてもいい世界になるようにしたいな』
だが、惜しむらくは、『神父』は『信徒の幸せ』しか知らなかったことだろう。
『皆、知らないから怖いんだよ。分かりあえる機会もあるよ』
『暴力なんて使わなくてもいい』
『違わないんだ。何も。ひとつ、たったひとつ。信じるものが違うだけ』
『優しさで報いれば、優しさを返してくれるよ』
五年だ。
交わした言葉は少なく、邂逅した時間も、雫のように微かなもの。
おかしな少女との時間は、たったの五年で終わってしまう。
どうにも、おかしなことらしい。
肉を食わないことが、祈りを捧げることが、夜に会合へ赴くことが。
どうにも、おぞましい罪であるらしい。
手足をへし折られ、顔の形が変形するほどなぶられ、ついには殺されるほどの。
何も、悪いことはしていないはずだ。
他人に優しく、誇りと敬意で接していた。
歓迎こそされども、決して、疎まれる存在では、いや、疎まれていい存在ではなかった。
違った少女も、最後は他の信徒と同じだ。
苦痛の中で、虚しく死んでいく。
人を信じ、信徒の他に気の置けない友人を作ったのは、間違いではない。
間違ったのは、その友人は、己が信徒であることを聞いてもなお態度を変えない、本当の友であったか。
彼女は、それを見誤った。
「何も、分かりません。何も」
そんなことは知らないから、少女の言葉は最後まで理解できなかった。
特段、悲しくはなかった。彼には、そんな機能は備わっていない。捉えたのは、清貧に生きた善人が、当然のように殺されたという事実だけだ。
心に生まれた波紋が、自然と大きくなっていく。
「無為に、虐げられるのです。無下に、殺されるのです。無意味に、不幸なのです。ただ、貴方を信じているだけなのに」
いつか、波紋は波となる。
『「神父」様が居なければ、今の私たちはありませんでした』
『「神父」様に最上の感謝を』
『「神父」様に拾われた命だ。アンタのためなら、死んでもいいぜ』
時を経て、幾度も『神父』は信徒の中の『変人』に出会った。
信仰対象である『神』を敬いながらも、最上の敬意は『神父』へと払う、ズレた者たちが。
例えば、それは戦に負けた傭兵団であったり。
例えば、それは家族を亡くした老婆であったり。
例えば、それは浮浪者であったり。
彼らは全員が、善人と呼んで差し支えない善人であった。
捨てる神あれば拾う神あり
この時代から、『神父』がずっと後に聞く言葉だ。
当時こそ、『変人』と思いはした。だが、彼らは彼らで、当たり前の想いを抱いたのだろう。
誰が、前者を愛おしく思うか。誰が、後者に仇を為そうか。彼らは彼らなりに、自分にできる恩返しをしようとしていた。
恩人に誇れる己であらんと、彼らはただ、善き人で在ろうとした。
だが、殺された。『神』を信仰していたという、それだけで。
波は、いつか大波へ。
思い悩む時間が増えた。
ここ八十年以上、信徒たちは戦争を起こしていない。
もちろん、その他人道に悖ることもしていない。
だが、信徒は忌み嫌われ、殺される。
来るべき日に備えて、力を蓄えるため、そして、信徒という存在を忘れさせるために、不戦の時間を続けてきた。
それなのに、一向に憎悪は消えない。
自分達が何かされた訳でもないのに、この虐殺には憎しみがある。
大波は重なり、荒れ果てた海がただ残る。
そして、彼は、思い至った。
「愚か者め」
何度、己を罵倒しても足りない。
どれだけ、己を否定しても足りない。
数十万という命を乗せた方舟としての責務を、甘く見ていた。
これまでの繰り返しではいけない。
なおかつ、暴力を使うことを躊躇ってもいけない。
はじめからあったこの溝は、想像していたよりもずっと深く、大きい。
支配、暴力という方法以外を取ることは、誤りであった。
「愚か者め」
信徒のことだけを考えねば。
アプローチが間違っていた。
信徒以外の全てを支配し、『神』を降ろすための場を整えねば。
しかし、そのためには力が足りない。
数を整えようにも、それだけ多くを集めれば、すぐに見つかって殺される。いや、そもそも、十万人単位を集めても、世界の総人口からすれば、世界征服実現には程遠い。
「愚か者め」
ならば、もっと力を得なければ。
世界を支配する力を得なければ。
そうしなければ、
「いったい、誰が
だから、彼は力を求めた。
より大きく、より激しい、絶対の力を。
裏の世界に潜む、『教団』の門戸を叩くことは、自然な成り行きであった。
………………………………
ザザ……
最初に『教団』への庇護を求めたのは、裏の世界で跋扈する彼らを食い潰すためだ。
遥か昔から存在するこの組織は、唯一、騎士団と正面から戦争ができる。この戦力を取り入れ、世界征服の第一歩とするためだ。
だが、想定が甘かったと言わざるを得ない。
信徒の理想である『神父』は、当然ながら、無敵の存在だ。
一秒たりとも休息しない『神父』は、信徒たちを救う傍らで、自己研鑽も欠かさない。さらに、英雄を相手に幾度も渡り合い、ただの一度の敗戦もない。
この時点で、一人で国を滅ぼせる存在だった。
驕っていた、とは言わない。
相手が悪すぎたと、言う他にない。
ザザザザ……
「貴方の力。私の元で振るっていただきたい」
ソレは、『かたち』を喪っていた。
黒曜石のように黒いローブを纏い、大仰な杖を携えているのは理解できる。
ここだけを見れば、伝説の大魔法使い、とでもイメージしていただろう。
だが、ソレを『伝説の大魔法使い』と思えない。
例えば、ローブから覗けるはずの顔は、深淵のような闇に包まれていた。例えば、袖から延びるはずの手はなく、杖は支えもなく垂直に立っていた。
ソレの生身が、どこにもないのだ。
透明になる程度なら、『神父』は容易に見抜いてしまう。ただ、今回は、その例には当てはまらない。
ザザザザザザザザザザ……
「『神』の力の研究もしたかったのですが、専門家が居なくて困っていました。これで、ようやく、全ての禁忌を究めることができる」
これは、『無』だ。
そういう呪いを、恐らくは己にかけている。
そして、押し寄せる『無』を押し退けてなお、コレはこの世に存在している。
このレベルの封印を受ければ、『神父』は簡単に、永遠に封じられる。それでも、なお、肌を突き刺すような存在感がある。
ザザザザザザザザザザザザザザ……
「ご安心を。ここでは、馴れ合いの必要はありません。各々が、己の利を求めれば良い」
ザザザザザザザザザザザザ……ザザザザ……ザザザザ……ザザザザ……
「さあ、共に世界を変えましょう」
ザザザザザザ……ザザザザザザザザ……ザザザザ……ザザザザ……ザザザザザザザザ……ザザザザ……ザザザザ……ザザザザザザザザ……
「ご安心を。我らには、切り札がある。この星の全てを焦土にして余りある、最強の兵器を」
ザザザザザザザザザザザザザザザ……ザザ……ザザ……ザザ……ザザザザザザ……ザザ……ザザザザザザザザザザ……ザザザザザザザザザザ……ザザ……ザザザザ……ザザザザ……ザザザザザザ……ザザザザザザ……ザザ……ザザ……
「ご覧ください。これが、我らの切り札です」
感動に、嘘を吐くことができなかった。
この『絶対』を前に、震えを止められない。
最強という単語が、いったい誰のためのものなのか。
世界が滅びていないのは、コレの気紛れだ。
なるほど、コレさえあれば、どんな戦いでも勝つことができる。
コレに比べて、自分のなんたる小さなことか。
真の意味で、高み、というものを初めて見た。
だから、初めて理解することができた。
「嗚呼……」
ザザザザザザザザ……ザザ……ザザザザ……ザザザザ……ザザ……ザザ……ザザザザザザザザ……ザザザザザザザザ……ザザ……ザザザザザザザザ……ザザザザザザザザザザザザ……ザザ……ザザ……ザザザザザザザザ……ザザ……ザザザザ……ザザ……
「貴女が言っていたのは、こういうことだったのか……」
凡人とは。
重い責任とは。
弱さとは。
思い悩むとは。
理想に、ヒビが入った音がした。
…………………………………………………
狂ったように、研究を進めた。
これまでに学んだことを活かし、アプローチを変えた。
もっと直接的に、『神』を降ろす。
より過激に、より凄惨に。倫理を踏みにじる行為こそを、積極的に行った。
遺伝子実験やクローンによる、人員作成。
人体改造による戦力強化。
吐き気がする実験を幾度も行った。
下手に出ていれば、ただ食い潰される。
ならば、舐めた態度が取れないよう、恐ろしき外敵であるべきなのだ。
ならば、そのように振る舞う。
自己研鑽も、怠らない。
己を虐め抜く覚悟が、これまではなかった。
死の淵に触れずして、強くはなれない。
だからこそ、研究を行いながらも、技を磨く時間も欠かさない。
戦い、戦い、戦い抜く。
体術や剣術まで、なるべく多くの技を学ぶ。
幸い、疲れを知らない体であるため、学びにブレーキはかからない。
己の立ち位置は、嫌というほど理解した。
血の滲む努力をして初めて、なりふり構わず上を目指す。幸い、手本も鍛練相手も、
凡人が天才を目指すような姿だ。
これまでの『理想の神父』からは、かけ離れていただろう。
自他に対して、より一層冷酷に、残酷に。
足りないことを知ったのだ。だから、そのように振る舞う。
時々、歩みが止まりそうになる。
完全無欠であると、勘違いすることができていた時とは違う。
打ちのめされた。
叩きのめされた。
順風満帆と思っていた過去と比べて、ずっと惨めだ。
己の道は誤っていたから、過去の自分の否定ばかりに精が出る。高潔であることを目指していたはずが、今や逆の道を歩んでいる。
手を汚してこなかったとは、断じて言えない。だが、こんなにも人の道を外れてはこなかった。人でなしでも、一線というものがあった。
これまでの道理を捨てて、怪物に成り果てて、守るべき者たちすら切り捨てながら戦って。守ってきた誓約を捨て、ずっと自由に振る舞えているはずなのに、息苦しくて仕方がない。
分かっている。
分かっている。
苦しいと感じる理由は、明らかだ。
「羨ましい」
苦しいのは、知ってしまったからだ。
己が持っていない側だと気付いた。理想なんて、紛い物だと気付いた。どれだけ踠いても、足りないと気付いた。
己の役割が、己にとって重すぎるものだと、気付いてしまった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
曲がって、歪になって、終わった。
純真無垢で、使命をただ果たしていた頃が、目映かった。
ただただ、疲れてしまった。
苦しいのは、自分に嘘を吐いているからだ。
自分よりもさらに優れた者たちが居た。
手も足も出ないのだ。こんなにも苦しんでいるのに、何も届かないのだ。
あまりにも、理不尽がすぎる。
彼らを否定したいという、暗い感情に支配される。そして、その感情すらも、己を貶めてしまう。
だが、これを認めれば、もう動けない。
自分を否定しきってしまうことが、怖くて仕方がない。
強くなりたい。
身も心も、己や信徒に恥じぬほど。
だが、それがどうしても、叶わない。
もっと、もっと、もっと、もっと。
力を、力を、力を、力を。
やれることは、やり尽くさねばならない。
焦りと奇跡が生んだ、祝福された忌み子が、産声をあげる。
………………………………………………………………………………………………
「クソムカつくぜ、テメェはよ」
負の感情を込めて、生まれた子だった。
だから誰よりも、『神父』の見たくないモノを知っている。
どうにも、彼女と折が悪い。
命を握っているというのに、こうして口答えをしてくるのだ。
彼女の強さと、『神父』の弱さ故。彼女は、己を曲げる弱さを見せない。『神父』は、外道に堕ち、高潔であることを諦めても、この程度のことで彼女を縛るような狭量な真似はしたくない。
どう在るべきか、どう在りたいか。
その答えが、いつまでも出ない。
己の弱さにうんざりしながら、彼女の苦言を聞く。
「いっつも、理由は自分の外かよ。なんで、テメェのために戦えねぇ奴が、こんなに強ぇんだ」
知っている。
この世界の最高傑作が、何のために強くなったか。
他の使徒たちが、どう強くなったか。
モノが違うと、心底思う。諦められずに、踠く己のなんと小さなことか。
彼女の言葉は、凄まじく正論だ。
「どうせ自分なんか。今が自分の限界だ。そんな、くっだらねぇテメェの声が聞こえるぜ」
知っている。
何をしても追い付けない高みを、知っている。
言い訳にもならないが、純然な事実として、追い付けないと理解している。
その上で、みっともなく足掻いているのだ。
出来ないと自分に言い聞かせながら、戦う己の愚かさを、自覚している。
「いつか、殺してやる。弱い親なんて、あたしには要らねぇ」
期待していなかったと言えば、嘘になる。
本当に、いつか自分を越える何者かになって欲しかった。
彼女が『神父』を越えられないことは、決まったことだ。機能として、持って生まれたものとして、それは摂理なのだ。
だが、もしもがあったなら。自分にできずとも、子でも良いから、そんな奇跡があったなら。
願ったことは、何度かある。
いっそ、死んでしまえればと。
なのに、いつまでも生きながらえて。
責任から逃れることができず、それに殉じる以外の死に方を知らない。
だから、自由に生きる彼女が、目映く、目障りだった。
だから、いつかは、自分の手で始末をつけようと思っていた。
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怪物も、悩む時がある。
どうしようもない『絶対』に、苦しむのだ。
なまじ、『絶対』という太陽に近付いたばかりに、焼かれ続ける。届かない領域に、届いてしまうと夢を見て、現実から目を背けてきた負け犬たち。
彼らは、自分たちを、そう正確に評価していた。
「このままじゃ、ダメだ」
第三の使徒は、粗雑な男だった。
上に立つ『絶対』に最も噛みついたのは、この男だ。何も悩んでいないような、見るからに愚か者である。
力だけはあって、不撓不屈の精神を持つこの男は、敵として凄まじく恐ろしい。
そう、思えれば良かった。
「このままじゃ、永遠に目的に辿り着けない」
凄まじい男だ。
この男の過去を知り、今、この場に立っている奇跡に感服した。
不撓不屈の精神を知りはしていたが、こんなにも気高い魂であったとは。
こんな強さが、欲しかった。
純粋に、羨望していた。
「業腹デハアル。ダガ、今ヲ変エタ先ニシカ、ナニカヲ得ルコトハ叶ワナイ」
第四の使徒は、怪人だった。
どこに居るかも、在るのかも不確かだ。
間違いなく、『神父』のように、持っている側の存在である。
違うのは、『神父』よりも強いこと。
より苛烈で、より純粋な怪物だった。
おぞましき怪物であると、そう信じていた。
「ダカラコソ、使オウ。敵ノ手モ。忌ムベキ『絶対』ノ権能モ」
だが、理解できてしまった。
怪物として産み落とされた苦悩も、辛酸も、『神父』は強く知るところだ。
彼と己の違いは、そう在れと願われたか否か。
無頼で世界を生きた孤独な怪物は、何を想って二百五十年の時を生きたか。
敬意を払うべき相手と、心から決めた。
「……幸い、実験のための素材はいくらでも用意できます」
「エネルギーも、汲めるだけ汲めばいい。あのクソ野郎は、気にしねぇ」
「己ガ目的ノタメ。己ノ為スベキヲ果タス」
辛く、苦しい道のりだった。
誇るべきことのない、無為な二百年であった。
それでも、足掻くことができた。
理由のひとつは、初めて同士というものに出会い、対等の関係を得られたから。
もうひとつは、
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「安心しろよ」
「この世に『絶対』はある。誰より理不尽に、誰より冷酷に、世界の全部を見下し続けてる」
「お前だって、『絶対』の下に居る雑魚のひとりだ。挑むのなら、ちゃんと、踏みにじってやる」
「何があっても、誰が相手でも、負けてやらない」
「人間も、この世界も、『神』だって、お前たちの切り札が平等に下してやる」
「だから、良いんだぜ」
「お前らがしくじっても、――が、何とかしてやるからさ」
この強さが、とても眩しくて。
そして、
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「だから、小生は戦います」
暗闇に、意志が広がっていく。
どんな時にも見失わない、灯台のような光だ。
柔らかな、そして力強いモノ。
コレに引き寄せられて、過去を見たのだとクロノは自覚する。
垣間見た記憶の断片たちは、全て、『神父』が見せて良いとしたものだけを見せてきた。組織の正体を暴く決定的な情報ではなかったが、『神父』という個人を示すには十分なもの。
想いは、しかと伝わった。
「小生の重荷は、小生には重すぎました。幾万の信徒たちの理想を叶えることも、幾億の屍によって作られた道を無駄にしないことも、小生にはできませんでした」
足元に群がるのは、小さな灯りだ。
蟻のように小さな、吹けば飛ぶような光だ。
群がり、群がり、灯りは川を作る。
全てが『神父』の元へと集まっていく。
「ですが、小生は信じることができました。小生たちの『絶対』が、小生たちにそうしたように、無慈悲にそう在ってくれると」
「ただ、在るだけ? 意志を引き継ぐとか、そんな期待はないのか?」
「ありません。それは、我が同志たちの役目。『絶対』の役割は、ただ在ることです」
報いなど必要ないと、そう言っている。
ただ在ることだけが重要だと。
「アレに比べれば、小生は大したことがない。だから、役目を果たせずとも仕方がない。そう思えたから、もういいのです。ほんの少しだけ、それで楽になれました」
忍耐の日々を歩んでいた。
重荷を背負い、荒野を進む日々だった。無残に蹴散らされたこともあろう。
そんな中、休める岩場であったこと。
この岩場は、何も優しくはしてくれなかったが、在ったことだけで良かった。
勝手に有り難がっただけだ。だから、これ以上は求めない。求められるほど、傲慢にも、浅ましくもなれなかったのだ。
「……ですが、気休めを真に受けたりしません。最期まで、小生は『神』のため、信徒のために戦い続けます」
「重荷を、下ろしたいんじゃないのか? こんな、生まれた時に背負わされた役目、関係ないって放り出したいんじゃないか?」
「ですが、小生はこの二百年余り、止まることなく、ここまで歩めた。なら、もう歩ききった方が楽です」
光は、大きな光の元へ運ばれていく。
これは、祈りの結晶だ。そして、この祈りは、命がけの供物だ。
きっとこの後の世を生きられない、深くまで『神』に浸かった者たち。ここで『神父』が敗れれば、もう社会で生きられない信徒たちだ。
「血にまみれ、過ちばかりの生涯でした。折れて、歪んで、理想は演じられませんでした。ですが、最期くらいは、望まれた責務を果たします」
その意志は、燦然と煌めいて。
その姿はまさしく、『神』の遣いに相応しく。
素晴らしき強敵だと、誰も疑わない。
「クロノ・ディザウス」
「教団第五使徒『神父』」
名を名乗った途端、世界は形を変える。
クロノの視界が現実へ引き戻された。
現実の傷と痛みと血が、体へのしかかる。
そして、
「この世界は変わります。貴方たちには、止められない」
空には、『神』の遣いが、悠然と構える。
正念場は、ここだった。