TSお嬢様はミスター味っ子の料理を食べ尽くす!【完結】 作:寛喜堂秀介
時は1987年、バブル興隆期。
下町の商店街に、その店はあった。
【日の出食堂】。
下町情緒あふれる、昭和レトロな大衆食堂だ。
客は、
女性なら、一人で入るのが、ためらわれるような。
そんな店に、場違いな女性客がいた。
年の頃は二十歳前か。
童顔ながら、輝かんばかりに整った容姿。
胸元まで伸びたまっすぐな髪は、艶々として美しい。
白のシルクブラウスにチェックのロングスカート。お嬢様然とした恰好は、さながら掃き溜めの鶴だ。
と、誰もが思うだろう。
だが、お嬢様は、注文したカツ丼が来た刹那。
カッと目を見開き、カツ丼を男らしくかっ込みはじめた。
「あいっかわらずうっめーですわ!」
「だろっ!」
「きめっ!」とばかり、厨房でピースする少年──ミスター味っ子、【
彼女の名は、
ちょっと特殊な事情を持つ、日の出食堂の常連である。
彼女が、なぜ日の出食堂の常連となるに至ったのか。
それを語るには、まず歩夢の素性について説明しなければならない。
だがあえて、一言で言うならば。
安生歩夢は令和の世からこの世界、この時代に迷い込んできた……ただのSNSに浸りきったウマ娘*1オタクで、元男性のサラリーマンである。
情報量が多い。
◆
令和5年5月某日。
この日安生歩夢は、東京の下町に来ていた。
休日に、ご縁のある先生の勉強会に参加するついでに、母方の実家を訪ねるためだ。
歩夢の母の実家は、浅草の小さな居酒屋だ。
店自体は叔父に任せているが、祖父母ともに健在。
大学時代は、東京の大学に通っていたこともあって、頻繁に訪れていたのだが、地元に戻って勤め始めてからは、すっかり足が遠のいてしまった。
せっかくだから顔を見せに行き、ついでに叔父さんお得意の、ふわふわだし巻き卵を食べさせてもらおうと、うきうきで路地裏を通り抜けようとした、その時。
ふいに、正面から熱気を帯びた風が吹いてきた。
そのことに、小さな違和感を覚えながら、歩夢は路地裏を進む。
子供の頃から何度も通り抜けた、薄暗い細道。その先には懐かしい町並みがあるはずだ。
そう考えながら、細い道を抜けて。
眼前に広がった光景に、歩夢は絶句した。
曇り空の下にたたずむ町並みは、歩夢の記憶にある下町とは似て非なるもの。
全体的に古いし、東を向いてもスカイツリーが見えない。まるで昔の映画で見るような、何十年も前の下町だ。
通行く人の装いも同様で、ずいぶんと古臭い。みんな昭和レトロ*2の世界から飛び出してきたかのような格好だ。
「これは、いったい……」
異様すぎる光景に、思わず声を漏らす。
声の高さに、歩夢はようやく、自分の身に起きた変化に気づいた。
自分のものとは思えない、子供か、女のような声。
驚き、体を見れば、本来ありえない、胸元まで伸びた髪が目についた。
着ているスーツこそ、変わらず自分のものだが、これも微妙に体に合っていない。
丈はぴったりだが、胸がゆるくて、お尻がちょっとキツい。
約160cmの身長から、大きく変わってはいないだろう。
足のサイズも変化はなく、24,5cmの革靴はぴったりだ。
スマホ、時計、財布、カバン……所持品も無くなっていない。
書類やタブレットPC、ガチャガチャで当てたフィギュアなどなど……カバンの中の物も無事だ。
歩夢はスマホのカメラアプリを立ち上げ、画面側のカメラに切り替える。
画面に映し出されたのは……
わけがわからない。
歩夢は男だし、年齢ももう少し上だったはずだ。それがなぜ。
何枚か自撮りしてから、ひとしきり途方に暮れていたが、いくら待っても、状況は変わらない。
とにかく、情報がほしい。
そんな思いで本屋を探し、店先のラックに突っ込まれた新聞を見ると、
スポーツ新聞にはヤクルトサヨナラ勝ち、競馬新聞にはニッポーテイオーなんて言葉が見える。並んでいる名前は、どれもえらく古いものだ。
あらためて新聞の日付を確認すると、1987年5月17日(日曜日)。
バブル期*3──日本が狂った繁栄を謳歌した、狂騒の時代のまっただ中。25歳の歩夢は生まれてすらいない年だ。
「そんな、いや、まさか」
歩夢は衝動的にダッシュで路地裏に戻った。
だが路地裏を抜けた先は、やはり昭和の町並み。
あきらめきれずに何度か往復して、結局本屋の前に戻ってきてしまった。
「……どうしよう、どうする?」
ふたたび途方に暮れる。
ここが本当に、1987年の日本なのだとしたら、マズいなんてものじゃない。
なにせ歩夢は令和の人間だ。
見た目や性別が変わったといって、そこは変わらない。
そうなると当然、この時代には戸籍がない。
キャッシュカードの類も、当たり前だが使えない。
かといって現金も……紙幣はこの時代のものとは違うので、使用できない。
硬貨は、と確認すると、使用可能な──昭和62年以前の500円硬貨が1枚、100円硬貨が6枚、50円玉が2枚、10円硬貨が3枚あった。ガチャガチャのために、小銭を貯め込んでてよかった。
とはいえ、使える現金はたった1230円。
身一つで、今晩泊まるあてはない。しかも女の体だ。野宿は危険を通り越して無謀というものだろう。
浅草の祖父母を頼ろうにも、話が荒唐無稽すぎる。とうてい信じては貰えないだろう。
母はこの時代14歳の中学生なので、そもそも頼りに出来ない。考えれば考えるほど絶望しかない。
「……いや」
考えに考えて、歩夢はふと思いついた。
さきほど見た競馬新聞には、安田記念*4の予想がデカデカと書かれていた。
ウマ娘好きが高じて、リアル競馬にまで手を伸ばした歩夢は、スマホやタブレットPCに競馬のデータを、ローカルで参照できるようにしている。
主にウマ娘化された名馬たちが活躍していた時期のものだが……1987年といえば、ゴールドシチーがクラシック戦線で活躍していた時代。同世代にはタマモクロスやイナリワンも居る。この時代のデータはあるはずだ。
歩夢は素早くスマホを確認する。
1987年5月17日……今日のレース結果がすべてわかった。
「これ、イケちゃうんじゃ……? うん……うん……きっとイケる!」
期待とともに、歩夢の胸の鼓動は高鳴る。
それを抑え込むように声を絞り、歩夢は拳を握り込んだ。
レースの結果がこの通りなら、うまくやれば大金をつかめる。
後ろめたさもあるが……下手すると貞操の危機なのだ。選り好みしていられる状況ではない。
「となると、府中の東京競馬場に……いや、たしか
むかし浅草の祖父に、そんなことを聞いた覚えがある。
いつの時代の話かまでは聞いてないが……正直ウインズには行ったことないから、敷居が高い。
競馬場なら、京都競馬場や阪神競馬場に行ったことがあるが……馬券自体は、応援馬券くらいしか買ったことがない。
「やっぱり多少遠くても府中に行くべきか。この時代は
なにせ生まれるはるか前の話だ。真偽の程はわからない。
返す返すも美人になってしまったことが悔やまれる。治安やら何やら、本当だったら気にする必要もなかったはずだ。
ただ、このままなにもしなければ、どのみち破滅だ。
ほかに短期間で稼ぐ方法など、歩夢には思い当たらない。
カラダを使えば、この時代馬鹿みたいに稼げるだろうが……当然歩夢は死んでもやりたくない。
腕時計は換金性が高いし、歩夢が持っているものはそれなりの値段だが……いかんせん未来のモデルだ。ニセモノ扱いされるだけだろう。
どう考えても、他に選択肢はない。
ままよと、駅に向かって歩き出そうとした、その時。
「おーい。さっきから様子がヘンだけど、なんか困ってるの?」
と、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは、サングラスに柄シャツ、スラックス姿の、どこか抜けた感じの青年。
──ご親切に……いや、いま自分女だった。ひょっとしてナンパ?
身構えた歩夢だが、青年の方も、歩夢の顔を見て目を見開いた。
「お、女の子……?」
女だと気づかず声をかけたかのような口ぶりだ。
不審に思ったが……よく考えれば、歩夢が着ているスーツは男物だ。
後ろから見れば、長髪の男だと勘違いしても、仕方がないのかもしれない。
「よっ、カレー屋のバカ旦那! 仕事サボってナンパかい?」
「うるへー! ナンパじゃねーよ! 若いあんちゃんが困ってると思って声かけたんだよ!」
道行くおっちゃんの冷やかしに、グラサン青年は顔を真っ赤にして反論する。
──うん。
青年の様子を見ながら、歩夢は考える。
素性としては、カレー屋の若店主。
バカ扱いされてはいても、周りからそれなりに親しみは持たれてそうだ。
困った人間に、下心なしに声をかけたことを考えると、お人好しの部類でもあるのだろう。
──頼ってみるか? 人柄を見るに、マズいことにはならないはず。
少し迷ってから、歩夢は彼に協力を仰ぐことを決意する。
頼るからには、失敗したくない。
いまの歩夢は文句なしに美人なのだから、そうそう断られることはないだろうが……
もうすこし、助け甲斐のある人柄を演じたほうがいいかもしれない。そう、どこかの名家のご令嬢のような。
「困ってますの──わたくし、困っておりますわ!」
はて、お嬢様言葉ってこんな感じだったか。
歩夢は内心首を傾げるが、もう引き返せない。
歩夢が訴えかけると、青年の顔は真っ赤になった。
汗もすごい。こうかはばつぐんだ。
「え、その……どうしたの? オレでよけりゃ力になる……ますけど」
その瞬間。
言質をとったとばかり、歩夢は勢い込んで要望を口にする。
「わたくしを、東京競馬場にエスコートしてほしいんですの!」
突拍子もない、そんな言葉に。
思考がフリーズしたらしい青年は、見事に固まってしまった。
おひさしぶりです。
不定期更新ですが、本日は2話まで更新いたします。
よろしくお願いいたします。