TSお嬢様はミスター味っ子の料理を食べ尽くす!【完結】 作:寛喜堂秀介
1988年7月10日。
中京競馬場第11レース、高松宮杯。
古馬混合のこのレースで、オグリキャップは前年の覇者、ランドヒリュウを差し切り、レコード勝ち。
地方時代から数えて13連勝。地方からの移籍馬としては、ハイセイコーの記録を超える重賞5連勝の新記録を達成した。
オグリキャップがその評価と人気を確固たるものとした、そんな頃。
歩夢のもとに、JRA日本中央競馬会からCM出演のオファーが舞い込んできた。
「?????」
毛利から話を聞いて、歩夢は頭の中をはてなマークで埋めた。
「……JRAのCMってアレですわよね? The WINNERとかThe LEGENDみたいな超かっこいいやつですわよね!? 登場するのも超名馬ぞろいの!」
「いえ、どちらかというとホースマン*1や観客に焦点が当てられたものだったような?」
歩夢が言ってるのは、2010年代のCMの話だから、毛利に通じるはずがない。
「人間が出るにせよ、こういうのはもっと有名なタレントを使うものではありませんの?」
「ちなみにお嬢様、いま現在お嬢様が出演しておられるCMの本数、数えられたことはありますかな?」
歩夢はそっと視線を横に向けた。
デビューなんてしてないのにブレイクしたのと、馬主繋がりで投げられたおかげで、下手なタレントよりCMや広告に出演している、という事実はともかく。
「……公営ギャンブルですし、わたくしみたいなギリギリ成人よりも、もっと大人の方々が出るものでは」
「そのあたりは、知名度向上により重きを置く方向で舵を切っているのだとか。ほら、JRAが全面協力した映画の“優駿”も、もうじき公開になりますし*2」
歩夢も見に行っていた去年のダービーで、映画スタッフがゴールシーンを撮り損なった映画である。
なんだかんだ競馬関係の番組に出ている歩夢も、この映画に関しては話を振られたり紹介したりで、よく知っている。
「……マジですの?」
「マジでございます」
信じられなくとも、すでに外堀は埋められている。
JRAが大乗り気で馬主協会が歓迎ムード。広告代理店に否やはないし、なんならレコード会社が「この際CMソングも歩夢ちゃんにしましょう。そしてメジャーデビューを!」と、かかり気味らしい。
声質と容姿、知名度を買われて前々からオファーはあったが、そんな暇ないと断っていたのだが。
──これが競馬ブームの一助になるのなら、断るって選択肢はありませんわね。
なにせ歩夢は馬主たちから、競馬ブームの旗手としての活躍を期待されている。
正直、素人の歌より、プロの曲を使ったほうがいいCMになるのではと思うのだが。
「エンジョイ・シング・ア・ソング! この際楽しんでやりますわ!!」
歩夢とてウマ娘の楽曲はすべて歌えるし、その上振り付けだって完璧だ。
増沢騎手だって田原騎手だって歌っていたのだ。なんならJ6みたいな騎手で構成された歌手ユニットとかもあった。いける、と歩夢はぎゅっと拳を握り込んだ。
それから、CMの話はトントン拍子に進んだ。
簡単なボイスレッスンを受けた後、楽曲の収録。
CM撮影の場所は、すでにシーズンを終え、秋競馬まで競争のない東京競馬場の芝コース。
「これ大丈夫ですの!? いろんな方面に怒られませんこと!?」
ターフに立った歩夢は、そんなことを叫ぶ。
体操服姿で、胸の部分には、1番と書かれたゼッケン。
紺のブルマは、上着に合わせたサイズなので、お尻の大きい歩夢には微妙にキツい。
そんな格好で競馬場のコースを走るとなると、絵面的には完全にウマ娘である。ウマ耳とか尻尾はないけど。
まあこの時代にまだウマ娘は生まれていない。
だからマズいのは大人が体操服を着ているのと、人間がコースを走ることだが、撮影班もJRAの広報担当も競馬場関係者もノリノリだ。なんならJRAの偉いさんまで見物に来ている。
もとよりコースに関しては、イベントで一般開放することもあるので、許可さえ下りれば問題ない。
「大丈夫大丈夫! それじゃあ歩夢ちゃん、準備OKだからゴールに向かって走って!」
「ええい、やってやらあ! ですわ!!」
CMディレクターに言われて。歩夢は覚悟を決め、スタートを切る。
走る区間は、観客席正面、ターフビジョンの前を横切って、ゴールラインまでだ。
眼前に広がるのは、人1人が走るにはあまりにも広い、緑のターフ。
深々と刻まれていただろう、馬が大地を駆けた痕跡は、芝の育成期間にはいった今は、淡く感じられるのみだ。
気分はまさにウマ娘。
なのだが、走りまでウマ娘とはいかない。
「歩夢ちゃん、上体上げてぶらさないで! あとお尻振らないで!」
「お尻は意図してやってるんじゃありませんわ!」
飛んできたCMディレクターの声に、歩夢は走りながら返す。
体力は無駄にある歩夢だが、アスリートではないので普通に息は上がる。
それにお尻は振ってるわけじゃなく、サイズが大きいので、骨格の都合上、地面を蹴る時左右にブレているのだ。細かく振れるのは仕方ない。胸は揺れないのも仕方ない。
それでも。
巡航速度に達して、走りは安定してくる。
おりしも追い風で、体が軽く感じられる。
歩夢は意識して、体が上下に揺れないよう走る。
「歩夢ちゃん、どうだい! 普段競馬やってる場所を走るのは!?」
「最っ高に楽しいですわ! サクラチヨノオー*3様が、ヤエノムテキ*4様が、サッカーボーイ*5様が、そしてオグリキャップ様が、走ったコースを走れるだなんて、すっげーワクワクですわ!」
なおタマモクロスが東京競馬場を走るのは1988年秋の天皇賞。
スーパークリークは1989年秋の天皇賞を待たなくてはならない。というのはさておき。
──こうして走っていると、わたくし実はウマ娘だった気がしてきましたわ!
存在しない記憶である。
妄想の中ではシンデレラグレイみたいに走っている歩夢だが、実際は第一弾トレーラームービーみたいな直立走行である。
ともあれ。
そんな感じで撮影された映像は、上手いこと編集されて、歴代の名馬のレースシーンを思い描きながらコースを走るイメージに仕上げられた。
競馬熱の高まりもあり、CMは話題になった。
だが、それ以上に話題になったのは、CMで流れた歩夢の歌である。
軽快なリズムに乗った、力強くも透き通るような歌声。
歩夢自身の知名度に加えて、聞いていると、不思議と気分が晴れ、元気が出ると話題になって、シングルCDは売れに売れた。
ちなみにカップリング*6は1987年菊花賞実況の歩夢によるカバーバージョンだったという。
◆
7月中旬の、とある平日。
夕方早くに日の出食堂を訪れた歩夢は、うっきうきだった。
「陽ちゃん、こんにちはですわ!」
「歩夢さん、どうしたの。なにかいいことあった?」
あんまりうっきうきな様子に、陽一が尋ねる。
歩夢は笑顔で、懐から木製の箸入れを取り出した。
箸入れの中から出てきたのは、1膳の漆塗りの箸だ。
ただの塗り箸ではない。見るからに神々しい。
素材は、一本の木の、限られた部分からしか取れない
手彫で丹念に仕上げられた箸に塗り重ねられた漆は、透明感のある琥珀色。
貝の裏側、光沢を帯びた真珠層を埋め込む、象嵌細工で施された意匠は、下り藤。
「それは?」
「権三箸! ですわ!」
塗り箸を天に掲げ、歩夢はその名を唱える。
吉野杉四方柾目手彫総漆塗下がり藤象嵌細工。
表面があまりになめらかなため、その名の元となった食の達人、“神戸グルマン”編集長、
「そう、食い道楽にとって
「こんな定食屋で、上等なお箸を使うのは、大げさじゃないかなあ」
「調和ってやつですわね! 場所と雰囲気によっては、上等な箸より割り箸を使ったほうが食事を楽しめる! 上等下等より合う合わない! さすが陽ちゃん、真理ですわ!」
そんなこと思いもしなかったのだろうが、褒められて陽一は上機嫌になる。
「まあいいよ! そのお箸を使うとして、今日はなにを食べたい!?」
「そうですわね。そろそろ時期が近いですし……こってり味のうな丼で、お願いいたしますわ!」
「あいよ! ちょっと時間かかるけど待っててね!」
そう言って、陽一はうなぎを割く準備に取り掛かる。
権三箸を手に入れたハイテンションのまま、フライング気味に訪れたため、まだ他に客はいない。
陽一と、香港旅行の話をしながら、待つことしばし。
「──さあ、出来たよ! お待ちかねのこってり味のうな丼だ!」
どんっと置かれた丼鉢の蓋を開けると、現れたのは、真っ白なとろろ。
権三箸を差し入れると、中から出てきたのは肉厚のうなぎ。黄金のうなぎではないが、名店鰻浜の極上品だ。
なめらかすぎる権三箸と、とろろのせいで滑るうなぎを、頑張って口に入れる。
「うっめーですわ……!!」
淡くも濃厚な旨味が、口の中に広がった。
濃厚なタレに包まれ、見事に焼かれたうなぎの濃厚な味わい。
それをふわりと包み込むとろろは、うなぎのコクを引き立てつつ、とろけるような舌触りをも加えている。
うなぎととろろ、タレを含んだ白米の取り合わせは最高。
体の奥から広がってくるような美味さの波は、痺れるような幸福感を指の一本一本にまで……否、箸の先まで行き渡らせる。
──馬利権三さまも、権三箸とともに、数多の食の修羅場を潜り抜けたと申しますが……わたくしも、この箸とともに、食の思い出を育んで参りますわ!
歩夢は心に決めて、うな丼を完食した。
「ごちそうさまでしたわ! 陽ちゃん、最高に美味しかったですわ!」
「へへっ、どういたしまして!」
歩夢が手を合わせて、陽一が返す。
それから、陽一はなにかを待つように、歩夢にじーっと視線を送る。
なんだろうと内心首を傾げながら、歩夢はにこっと笑顔を返すと、陽一はちょっと照れながら、こほんと咳払いした。
「そういえば、歩夢さん、オレに言うこと、なんか忘れてない?」
「用事……ああ」
問われて、歩夢ははたと手を打った。
「この前のアイスクリーム、めっちゃ美味しかったですわ!」
陽一はずっこけた。
「──もう、そうじゃなくて! 歩夢さんオレ以外のやつらに声かけてるでしょ!? 一馬とか、中江くんとか、虎峰とかっ!」
「あ、クッキングフェスティバルのお話ですわね」
「そう!」
ようやく思い至った歩夢に、びしっ、と指さしながら、陽一は強くうなずく。
「──イベントのことは知ってたし、歩夢さんもいろいろ話してくれてたけど……いつ誘ってくれるのか、オレ待ってたんだけど!」
力強く主張する陽一。
対する歩夢は「ふっふっふ」と不敵に笑う。
歩夢は、なにも陽一を誘うのを忘れていたわけじゃない。というか陽一の参加は大前提だ。
「陽ちゃんがいままで戦ってきたライバルたちを勧誘して、陽ちゃんを誘わないわけはありませんわ。誘うのが遅れたのは、準備が整ってから、最高の形でお誘いしたかったから! なのですわ!」
「最高の形……?」
「そう! 9月2週目に催されるクッキングフェスティバルは、わたくしがやりたいこと100%詰め込んだイベントですけれど……陽ちゃんがいままで戦った、最高のライバルたちと、もう一度腕を競える場にもなっておりますわ!」
ミスター味っ子で登場した、数々のライバル。数々の料理。
それを味わい尽くす、夢のお祭りの場は。期せずして、陽一にとって最高の勝負の場になっている。
「いかがですか陽ちゃん! 来てくださいますわよね!?」
「もちろんさぁ!」
歩夢の、火の玉ストレートな勧誘に。
陽一は目を輝かせて、元気よく応じた。