TSお嬢様はミスター味っ子の料理を食べ尽くす!【完結】 作:寛喜堂秀介
1988年7月11日。
世界ではブラックマンデーの傷が、ようやく癒え始めたそんな折。
いわゆるBIS規制が公表された*1。
BISとは国際決済銀行の略称であり、中央銀行をメンバーとする組織だ。
この国際決済銀行の常設事務局であるバーゼル銀行監督委員会で合意された、銀行の自己資本比率規制を、BIS規制、あるいはバーゼル合意(バーゼル1)という。
簡単に言うと、自己資本比率を上げて銀行の倒産リスクを減らし、みんなで金融危機を防ごうね、という規制である。
のだが、伝統的に株式の含み益を資本金の柱としてきた日本は、それを含めて自己資本比率を算定できるようにして*2、要求水準を満たそうとした。
欧米との財政形態の違いで、これは仕方ないのだが、そのため日本は、「不況になり、株式の含み益を計上できなくなると、国際決済から弾き出される」というとんでもない爆弾を抱えることになった。
バブル崩壊後、炸裂したこの爆弾は、銀行だけでなく、貸し渋りや貸し剥がしの形で多くの企業に誘爆していくことになる。
とはいえ、それはまだ先の話。
1988年7月の日本はバブル真っ只中で、世にBIS規制の影響は見られない。
株価も地価も高騰を続け、賃金やボーナスも増え、一般大衆も、ようやく好景気を肌で感じはじめていた。
そこに狂乱を感じていた人間は、少なくない。
この狂騒がいつまでも続くはずはないと思っていた人間も多かった。
だが、誰もが思っていた。「それは今ではない」と。
◆
歩夢のオフィスにも、応接室はある。
社長室兼用だが、歩夢が居るよりも、毛利や他の社員が他社との打ち合わせに使うことが多い。
なんだったら、上等なソファがあるせいで、多忙な時期は社員の仮眠室とかしていたこともあった。
でかいテレビがあるせいか、一馬の弟子たちがファミコンを繋いで休憩の時遊んでいるし、なんだったら他の社員もゲームをしている。
そんな応接室。
珍しく歩夢が部屋の主として迎えたのは、
明神倉庫の社長にして、歩夢にとっては大叔父に当たる人物である。
口ひげをたくわえ、いかにも大阪のおっちゃん然とした50絡みの中年は、外が暑かったのだろう。ソファに深く沈み込みながら、扇子で自分を扇いでいる。
「粗茶ですが」
「お、ありがとさん」
経理の女性社員が、氷の入った冷たい麦茶を出すと、明徳は目を輝かせてコップに飛びついた。
飲食コンサルとして、料理の開発をしている事情で、会社には飲用にも適した水がそろっている。それを使って水出しで淹れたものを来客用に常備していて、美味しいと評判だ。
明徳は「うまいうまい」と麦茶をごくごく飲んで、おかわりを要求する。
その様がうさんくさく見えたのだろう。女性社員が心配げな視線を送ってくるが、歩夢は心配ないと笑顔を返す。
このおっさんは、バブルの潮流に乗って財を成した、ただの大社長なのである。
「ふう……いや、美味かった! 美味い麦茶や。銘柄教えてえな。家でも使いたいわ」
「おほめにあずかり光栄ですわ! 淹れ方とあわせて、あとで実物をお渡しいたしますわ!」
「ほんまでっか! こりゃありがたい。すんませんな歩夢ちゃん。無理言いに来たのにあつかましゅうて」
当たり前だが要件は事前に聞いている。
歩夢に会社の広告に出てほしいという話だ。明神倉庫ではなく、新しく手に入れたリゾートホテルの広告である。
「なにをおっしゃいます! 安生のおじ様にはクッキングフェスティバルでご協力いただくのですから、わたくしの方こそ無理を聞いていただいておりますわ!」
大叔父の言葉に、歩夢は両手を広げて元気よく返す。
明神倉庫は、港湾を中心に、国内外に倉庫を所有している。
歩夢はクッキングフェスティバル参加店のために、倉庫の一区画を融通してもらったのだ。
歩夢が無理を言ったわけではなく、執事の毛利の、社長時代の縁をたどってのことで、人の縁というのは不思議なものだ。
「はっはっは。ほなおたがいさまっちゅうことで。広告の話、毛利くんと進めさせてもらってええやろか?」
「はい! 喜んでお受けさせていただきますわ!」
秒で話をまとめて。
それからしばらく、歩夢の近況について語り合った。
パーティで出会った2月から、歩夢の生活は様変わりしている。
テレビに出たり雑誌に出たりCMに出たり社長やることになったり……この時点では未来の話になるが、メジャーデビューすることになったり。
「モノが違うとは思とったけど……いやすごいな。なんか困ったことあったら相談に乗ったろ思とったけど、よけいなお世話やったか」
「お気持ち大変ありがたいですわ! まあ管理職が足りなすぎて困ってはいるんですけど、育てるにしろ探すにしろ、こればっかりは時間をかけるしかありませんので」
「有能なやつはどこも引っ張りだこやしな。ちょいと難しいかもしれんが、こっちでも探しとくわ。下手なやつ紹介できんしな」
「ありがてえ……ありがてえですわ!」
歩夢は崇め奉る勢いで感謝する。
人を増やすまでもなく、現状でも指揮する人間が足りてないのだ。
歩夢のメディア関係の仕事も増えてきたし、せめてマネージャーをつけないと、いろいろ兼任しまくってる毛利がやばい。現状その方面で毛利の補佐をしている仲居さんはメイドと兼任だし。
「はは。まかしとき……そういえば」
歩夢の勢いに苦笑しながら、ふと思い出したように、明徳は手を打った。
「──財前くんは元気やろか? なかなか活躍しとるみたいやないか」
なぜ自分にそんな話を、と思ったが、歩夢は思い出した。
明徳叔父と出会ったのは、財前貴彦のパーティの席で、歩夢はそこで貴彦の彼女のふりをしていたのだ。
誤解を解こうかとも思ったが、そうするとこの世話好きの大叔父は、歩夢に結婚相手を世話してきそうな気がする。それはちょっと勘弁してもらいたい。
「先生はお元気ですわ! いろいろかっ飛んでますわ!」
歩夢も後で知ったが、リクルート事件なんて見えている地雷に突っ込んでいって、巨額のリターンを得たのだ。無敵すぎる。
副次的効果として、見えていなかった地雷を処理することに成功しているのだが、歩夢はまだそのことに気づいていない。
「さすが兜町の牛若丸っちゅう話やな。傲岸不遜で恐れ知らずやが、そこが財前くんの魅力や」
「牛若丸だと最後に破滅しちゃいますけどね」
明徳の言葉を、歩夢は苦笑交じりに返す。
より正確に貴彦に異名をつけるなら、歩夢は「兜町の風雲児」がふさわしいと思っている。
兜町の風雲児だとやっぱり破滅する気がするけど*3。
「まあ、そこ含めての異名なんやろうけどな。ただ、やってることはめちゃくちゃでも、財前くんが破滅する姿はいまいち想像できんのやけどな」
「好景気もあいまって無敵モードですものね。この景気が続く限りは、破滅はありえませんわ」
明徳の言葉に、歩夢は強く同意する。
好景気が続く限り、破滅はありえない。
逆を言えば、好景気が終われば、破滅するかもしれない。
それは、貴彦の未来を知るがゆえの言葉選びだったのだろう。
歩夢の言葉に含まれる可能性を感じ取ったのか、明徳はしばし、沈思し。重い口を開いた。
「そうか。歩夢さんは財前くんが危ないと思っとるんやな」
「……そうですわね。直感的なものですが」
「歩夢ちゃんの勘は怖いわ」
まさか未来を知っているとは言えない。
歩夢が誤魔化すと、明徳は難しい顔になった。
世間的には、歩夢は競馬で二桁億の金を稼いだ幸運児。
その直感となると、おいそれとは見過ごせないのだろう。
「それ、財前くんにも言うたか?」
「言ってませんわ。おじ様に指摘されるまでは、漠然とした不安でしたので。それに、先生に伝えたら、たぶん先生激怒しますわ」
「財前くん、プライドの高い男やからなあ……」
歩夢の本音に、明徳が深くうなずいた。
歩夢は知っている。
貴彦だけではない。眼の前の大叔父もまた、破滅することを。
それがあってこそ、父と母が結ばれ、歩夢が生まれたことを。
大叔父を助ければ。
ひょっとして自分は生まれないかもしれない。
だが。
「心配いらん。財前くんがしくじっても、わしが助けたる。あれ程の男や。みすみす潰してたまるかっちゅうねん」
こんなことが言える男を、見過ごしてはおけない。
淡い感動を決意を胸に、歩夢は大叔父に笑顔を向ける。
「先生を助けるなら、共倒れにならないよう準備しておかなくちゃですわね!」
「共倒れ……あ、さては歩夢ちゃん、わしも危ない思とるな?」
「ぶっちゃけ日本全国やべーって思ってますわ! 今日明日って話ではありませんが!」
歩夢はさわやかに答える。
同時に、胸のつかえが下りた気がした。
1988年、やっと民間で好景気を実感し始めた時代だ。
バブルの渦中でその狂乱を肌で感じ、「そうか、この狂騒も終わるのか」と納得できる。そんな人間に、やっと話せたのだ。
「そうか……約束した手前、こっちが倒れるわけにはいかんわな」
「わたくしも、微力ながらお手伝いいたしますわ! 資産を考えるとマジで微力ですけれど!」
バブルで動く金は、文字通り桁が違う。
明徳叔父は小粒な方だが、それでもバブル期通して銀行から引っ張ってきた金は、4桁億をうかがうだろう。
彼から見れば貴彦などさらに小粒、なのだが。
歩夢の影響を受けた貴彦は、歩夢の知る未来よりもはるかに暴れ回っている。
バブル崩壊の端緒、1990年初には、どこまでデカくなっているか、見当もつかない。
クーラーの効いた応接室。
テーブルを挟んでソファに座ったふたりは、にいっと笑う。
「悪だくみやな!」
「お仲間ですわ!」
貴彦を助けるための、悪だくみ。
頼もしい同士を得て、歩夢は笑顔で、明徳と拳を合わせた。