TSお嬢様はミスター味っ子の料理を食べ尽くす!【完結】   作:寛喜堂秀介

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61 ファーストエンペラー

 

 

 1988年9月11日(日)。

 クッキングフェスティバル3日目早朝。

 開園前の代々木公園イベント広場にて、前日の上位成績者が掲示される。

 

 1位は怪傑味頭巾と味吉軍。

 驚くべきことに、まったくの同点だ。

 

 3位につけたのは、初日5位のジョルジュ・ムスタキ。

 4位には、前日から順位をひとつ落として、下仲基之。

 

 5位はなんと劉虎峰。

 そこから味吉陽一、堺一馬と少年料理人が続き、8位と9位に久島建夫と大年寺三郎太が入る。そして10位に中江兵太。

 

 いずれも1日目から売上を伸ばしているが、上位4名に関しては、ここらが天井だろう。

 1日に提供できる数の限界点だ。もちろんその数は、一流と呼ばれる料理人の限界をはるかに超えている。

 

 それゆえ、上位10店の売上の差は、前日よりはるかに詰まっている。

 特に3位から10位までは団子状態になっており、これは少年料理人勢が、料理人の限界領域に食い込んできた結果とも言える。

 香港の名店小亀楼の厨房を取り仕切る劉虎峰、下町の超人気店、日の出食堂を切り盛りする味吉陽一と、日常的に大量の注文をこなしている2人が大きく成績を伸ばしたのも、それが原因だろう。

 

 久島建男と大年寺三郎太が、その技量に反してやや低い順位にあるのは、単純に値段設定が高く、手を出せる客の絶対数が少ないためだ。

 

 中江兵太は、暑い天気を想定して、冷たい料理を提供していたため、2日連続の曇り空に苦戦を強いられている。

 同様の弱みを持っている味頭巾は首位を維持しているが、これは比べる相手が悪い。

 

 面白いのは、菊池屋、おいかわ、青木屋の弁当屋3軒が、トップ10には入らないものの、売上上位につけていること。

 クッキングフェスティバルを楽しんだ来場者たちが、帰りに弁当を買って帰っているのが原因で、そこは手軽に持ち帰れる強みだろう。

 

 少年料理人たちが、この結果にわいわい騒いでいるのはともかく。

 クッキングフェスティバル開場待ちの列は、昨日をはるかに上回る勢いで、今日も超満員が予想される。

 

 泣いても笑っても最終日。

 午後からは雨の予報も出ている曇り空の下、料理人たちの祭典は、開幕から最高潮を迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 代々木公園イベント広場を埋め尽くした来場客が、一回りして落ち着いた午前11時。

 

 混雑している一雄のカレー店に、4人組の男が顔を見せた。

 エロ本同盟の連中と、その後輩──料亭むらたの一人娘を彼女に持つ、とんかつ勝一の康介である。

 

 

「来てやったよ一雄! 助っ人に康介連れてきたよ!」

 

 

 満面の笑みを浮かべて。

 もうじき弁護士の久保マモルが、康介の右から肩を組んで声をかけてくる。

 

 

「いや僕彼女とデート中……」

 

「先輩が頑張ってるんだぜ! やってくれるよなあ後輩!」

 

 

 ゴリラのゴリ男が、康介の左から肩を組んで笑顔で顔を近づける。

 一雄には、助っ人としてよりも、デートの邪魔をすることに主眼を置いている気がするが、そこはアベック滅ぶべしのエロ本同盟だから仕方ない。

 

 

「ゴリ男、気持ちはわかるしありがたいけど……大丈夫だ。いまオレ最高にノってるんだ。カレーを作るたびに、揚げ物を揚げるたびに、上達しているのがわかる……それこそ、人に任せるのがもったいないくらいに」

 

 

 口を動かしながらも、一雄は手を動かすことを止めない。

 素早い手つきで揚げたカレーライスコロッケを、4人に渡す。

 

 

「──それより康介、年季の違いで技術的にはお前に劣るだろうが……食べてみてくれ」

 

 

 ライスコロッケを受け取ったエロ本同盟3人が、脇に移動してうまいうまいと食べる中。

 康介は、真剣な面持ちで、一雄の料理を口にする。サクッ、と、食欲をそそる快音。そして。

 

 

「うまっ! この揚げ具合。一雄先輩は謙遜してたけど、調子いい時の僕並みだ!! サックリとした衣の下はもっちりとしたご飯。その中から肉感強めのカレー、さらに中にはとろっとろのチーズ……こりゃあすごい出来だ! 美味い! 美味いですよ先輩!」

 

「とんかつ名人の康介に褒められたら自信持っちゃうな!」

 

 

 手放しに褒める康介に、一雄は思わずニヤけてしまう。

 一雄が評価される様子に、天才投資家、財前貴彦が後方理解者面して口の端を曲げているのは、ともかく。

 

 

「いやすごい。やっぱ彼女が出来ると変わるもんですね!」

 

「彼女ではないけどね」

 

 

 康介の言葉に、一雄は苦笑を返す。

 一雄と歩夢は、以前とんかつ勝一にいっしょに行ったので、親しい友人関係だとは知られている。

 

 

「──でも、変わったのは彼女のせいだね」

 

 

 料理する手を止めないまま、一雄は語る。

 

 かつては料理に情熱を持てなかった。

 毎日同じことの繰り返し。料理は、平凡でつまらない日常の象徴だった。

 

 安生歩夢と出会って。

 彼女なら、この退屈を吹き飛ばしてくれるんじゃないかと思った。

 

 その期待は叶えられた。

 歩夢の破天荒さは、一雄に新しい世界を見せてくれた。

 その上、歩夢は気づかせてくれた。一雄が漫然と送っていた、料理人としての退屈な日常は……実はワクワクの宝庫だったと。

 

 

「楽しいんだよね。つまらなかったはずの料理が、いまは最高に楽しいのさ! 料理の、日常の、世界の楽しさを教えてくれたのは彼女だけど……オレはいま、料理にワクワクしてる! オレはオレ自身をエンジョイしてるんだ!」

 

 

 エンジョイ。楽しもう。

 歩夢の決まり文句で、一雄にとって大切な言葉だ。

 楽しめば、世界はこんなに輝いて見える。自分自身が輝ける。

 

 きらっきらに目を輝かせる一雄を見て、康介は貴彦に視線を向けた。

 

 

「……貴彦さん、一雄さんどうしちゃったんスか」

 

「思い込んで行きすぎるのが一雄のクセだ。どうせあの女にふさわしい男に、と考えて突っ走った挙げ句、完全に目的を見失っておるのであろう。ま、さすが我らが特攻隊長よ!」

 

 

 胸を反らして笑う貴彦に、康介はため息をつく。

 

 

「まあ、デートの邪魔されるよりはいいですけど」

 

「……そういえば康介よ。デートについて、少し相談──もとい、話を聞きたいのだが」

 

 

 貴彦が、さり気なさを装って相談を始め、それに非モテ2人が過敏に反応するのを笑顔で見送りながら。

 真船一雄は、「よし!」と気合を入れ直して、菜箸を持つ手に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 同刻、クッキングフェスティバル運営本部。

 永田社長や飛鳥涼吉、西京極たちは、今日は昼頃に来ることになっているので、スタッフ以外で居るのは歩夢と仲居さんだけだ。

 その仲居さんが、さきほどから、出張料理人──久島建男のお店のほうをチラチラ見ている様子を見て、歩夢は内心苦笑を浮かべた。

 

 仕方ない。

 なにせ仲居さんは、本来飛鳥涼吉の屋敷でメイドをやっていた少女──晴美さんなのだ。

 旅館の仲居さんという思い込みがあって気づいていなかったが、言われてみればメイド姿の彼女は、「晴美さん」っぽい。メイド服が彼女の趣味全開のフリフリだから、印象は違うけど。

 

 ともあれ、彼女が「晴美さん」である以上、久島建男に惹かれるのは必然だ。

 もっとも、いまのところは、恋愛感情抜きにした、尊敬と食欲が入り混じった強い興味って感じだけど。

 

 

 ──いまのところは、わたくしが勝ってますわ!

 

 

 歩夢が謎に自信を持ちながら、挙動不審な仲居さんを愛でていると。

 運営本部に、歩夢がよく知る面々が姿を現した。

 

 歩夢の大叔父、安生明徳と、歩夢の親友、鷹ノ宮桜花。そして桜花の祖父、鷹ノ宮会長だ。

 

 

「やあ、歩夢さん。来たで。大盛況やな」

 

「安生のおじ様! それに、桜花さまと、鷹ノ宮のお祖父様!」

 

 

 組み合わせとしては無くはないが、めずらしい。

 歩夢はおっさんとおじいさんに頭を下げると、桜花の手を取りぶんぶんする。

 

 

「歩夢。おめでとう。フェスティバルに関しては、驚きもしないけど……CMとか、歌とか、なんかすごいことになってるわね」

 

「お恥ずかしいですわ、桜花さま」

 

 

 桜花に褒められて、歩夢は全力で照れる。

 昔の桜花なら、嫉妬しまくっていただろうが、いまの桜花にとって歩夢は最愛の親友である。

 

 

「ここまで来ると、さすがわたしの歩夢だわって感じね」

 

 

 桜花は後方彼女面で胸を張る。

 その胸はガッツリ盛られていた。

 真のサイズを知る仲居さんが、ちょっとびっくりしている。

 

 桜花に続いて、彼女の祖父が手を挙げた。

 

 

「やあ。桜花と仲良くしてくれてありがとう」

 

「鷹ノ宮のお祖父様。こちらが遊んで頂いておりますわ」

 

 

 歩夢は笑顔を返す。

 

 鷹ノ宮会長は、70過ぎに見える。

 恰幅の良い老紳士で、歩夢とは祖父と孫ほど年が離れているが、歩夢は物怖じしない。むしろ得意ですらある。

 

 それから、2、3会話を交わして。

 鷹ノ宮翁は、ふいに桜花に視線を向けた。

 

 

「桜花。安生社長も含めて、すこし仕事の話をしたいから、そこらで時間を潰してきてくれないか」

 

「いいけど……お祖父様。歩夢はわたしの大事な友達だから。それだけは言っておきますから」

 

 

 祖父の言葉に、桜花は釘を刺す。

 歩夢を困らせたら絶対許さないという意思表明だ。

 それから、桜花は仲居さんを連れて、会場散策に向かった。

 

 残ったのは3人。

 歩夢と、安生明徳、鷹ノ宮翁。

 本部奥で椅子を並べ、車座になって顔を合せて。

 

 まず口を開いたのは、鷹ノ宮翁だった。

 

 

「まずは、歩夢くん。財前くんと桜花との間柄を応援してくれてありがとう」

 

 

 老人は、居住まいを正して頭を下げる。

 以前歩夢は、財前貴彦の虫除けとして、パーティで彼女的な演技をしていた。

 そのあたりの事情は、桜花を通じて当然知っているのだろうが、歩夢と貴彦が気安い間柄だというのは変わらない。

 ふたりの間に割って入った形の桜花を、それでも応援してくれた。その事に関しての、鷹ノ宮翁の謝罪と感謝なのだろう。

 

 だが、貴彦と桜花がくっついて当然と思っている歩夢には、要らない気遣いである。歩夢と貴彦の関係を誤解していた大叔父の明徳は、ちょっと驚いていたが。

 

 

「わたくしは先生も桜花さまも大好きですし──おふたりは最っ高にお似合いだと思っておりますので、当然ですわ!」

 

 

 びしっ! とポーズを決めて。歩夢は笑顔を返した。

 ふたりの会話からいろいろ勘繰ったのだろう。明徳叔父は歩夢に気遣わしげな視線を送ってから、軽く手を挙げる。二人を思って歩夢が身を引こうとしているのではとか考えてそうだが、そんな事実はない。

 

 

「その財前くんのことなんやがな、鷹ノ宮会長。実はちょいと、彼の海外での取引を後押ししたいと思とるんや」

 

「ふむ。くわしく聞かせてもらっても?」

 

 

 明徳叔父の言葉に、鷹ノ宮翁は続きを促す。

 大叔父と歩夢の悪だくみ。それについて、鷹ノ宮翁への説明は必須だ。

 なにせ彼は、財前貴彦を見込んでおり、将来的には孫娘の婿にと嘱望しているのだ。

 悪だくみに巻き込むかどうかは置いておいて、説明しとかないとものすごい遺恨が生じる。

 

 明徳叔父が翁を伴ってやってきたのは、ここを説明の場にするためらしい。

 

 

「貴彦くんはええ男や……しかも切れる。切れすぎると言ってええやろ」

 

 

 財前貴彦の人物を一言で評して。

 明徳叔父は言葉を続ける。

 

 

「リクルートも、いますごいことになっとるけどな。そこでの貴彦くんの動き、あれはようない。仕手としては芸術品と言ってもええかもしれんがな。ああいうことを繰り返せば人の恨みを買う。まあ恨みも買えん毒にも薬にもならん男よりは、貴彦くんのほうがわしは好きやけどな……代議士や官僚の恨みは怖いで」

 

 

 そんな貴彦評を聞いて、鷹ノ宮翁は深くうなずく。

 

 

「ふむ。たしかに財前くんの才はカミソリのそれだ。そこに鉈の厚みを加えるためにも、一度大きく失敗して、挫折を味わわせるべきだと思っていたが……このままでは、立ち上がる余地もないほど叩き潰される可能性がある、か」

 

「かといってブレーキをかけると、財前くんは間違いなくへそを曲げる……なら逆に後押しすればいい。わしらはそんな悪だくみを考えとるんです」

 

 

 大叔父に目配せされて、歩夢がうなずく。

 かねてより相談し、温めていた思案だ。

 

 

「──幸い財前くんは取引の手を海外に伸ばそうと考えとる。これ以上国内で暴れて目をつけられるよりは、活躍の場を一旦アメリカに移すもええんやないかと思とるんですわ。いま流行りのハイテクも向こうが本場やしな」

 

「うむ、わしもいい考えだと思う……だが海外に腰を据えるとなると、桜花との縁談を早めに進めたいところだが」

 

 

 鷹ノ宮翁の言葉に、歩夢はあわてて手を挙げ、発言する。

 

 

「おふたりの関係、いますっごくいい感じで進んでるので、無理に進めないほうがいいと思いますわ。押すとぜったいへそ曲げますわ。釣りをやってる心持ちで、餌に食いつくのを待ったほうがいいと思いますわ」

 

「ふむ、さしずめいまは魚信(アタリ)で浮きが揺れているだけというところか」

 

 

 あんまりな例えに苦笑しながら、鷹ノ宮翁は納得したようにうなずく。

 

 

「ともあれ、だ。君たちの悪だくみ、納得させてもらった……よければわしも混ぜてもらえないかね」

 

「ぜひとも、ですわ。ねえ、安生のおじ様?」

 

「おおきにです鷹ノ宮会長。頼もしいですわ」

 

 

 鷹ノ宮翁の言葉にふたりはうなずきあう。

 関西弁とお嬢様言葉が入り混じってややこしいことになっているが、ともかく。

 

 ふと、歩夢は思う。

 これだけ貴彦の事を気にかけていた会長が、貴彦破滅の際に手を貸さなかったなんてことがあるだろうか。

 ひょっとして、手助けした結果、身一つは助かったのかもしれないが……どうにも、破滅後の貴彦と桜花の人生に、鷹ノ宮翁の姿が見えてこない。

 

 

 ──ひょっとして。

 

 

 歩夢は思う。

 バブル崩壊の頃には、鷹ノ宮翁はすでに亡くなっていたのではと。

 タイミング悪く亡くなって、当時地価高騰のせいでとんでもねえ事になっていた相続税関連のあれこれで、鷹ノ宮家が貴彦を援助する余力を失っていたとしたら。

 

 

「……鷹ノ宮のお祖父様。どうか健康にお気をつけくださいまし」

 

「歩夢くんほど勘の良い子にそう言われると怖いものがあるが……気をつけよう。ひ孫の顔は見たいからね」

 

 

 歩夢の忠告に、鷹ノ宮翁はうなずく。

 

 歩夢はちょっと視線を惑わせた。

 貴彦が破滅しなければ、子作りのタイミングを逸することはないと信じたい。

 

 話が一段落つき、遊びに行った桜花たちの帰りを待とうかと話していた、そんな時。

 運営本部の無線担当スタッフが、あわてた様子で、歩夢に報告の声を上げた。

 

 

「──緊急です! 怪傑味頭巾様が倒れたとのこと!」

 

 

 

 

 

 

 時間は少し遡る。

 午前11時、怪傑味頭巾の店舗前。

 前日より1人スタッフを増やして、混雑に対応していた味頭巾の前に、一人の男が現れた。

 

 骨柄大きく、がっしりとした顎の、老境に入ったスーツ姿の男──味皇室室長である。

 覆面姿の垂目が慌てるのを尻目に、室長は店の脇から、味皇に視線を向ける。

 

 

「なぜあなたがこのような座興を。しかもあの男相手に」

 

 

 室長は、味皇の、味将軍の名を避けて、尋ねる。

 ふたりとも偽名だし、本名を明かしていい立場でもない。

 

 室長の問いに、味皇は包丁を振るいながら、覆面の奥の目を細めて笑った。

 

 

「ふふ……楽しさゆえよ。この私が、寝食を忘れるほどにな。これほど心踊るのはいつぶりか」

 

「そうやって……万一敗れたらどうするおつもりです。たとえ身分を偽り顔を隠したとて、うわさは流れる。そうなれば貴方の立場は……!」

 

 

 味皇の言葉に驚きを示した室長が、頭を振って反論する。

 

 

「室長よ。おまえが料理会のために身を粉にして働いてくれているのは知っている……だが、そのための手段は、選ばねばならぬ」

 

 

 味皇は、室長の味将軍グループに対する誹謗を、暗に糾弾する。

 室長は眉ひとつ動かさない。じっと視線を向ける室長に、味皇は言葉を続ける。

 

 

「これは私のわがままだ。道楽と言っていい。味皇(わたし)の立場では許されざることかもしれん……だが許せ。私は、私の理念が料理界すべてを覆う歪より──腕を、心を、ともに磨き合える好敵手をこそ、望む」

 

「兄さん……」

 

 

 それは、室長の口から思わず漏れた言葉。

 垂目が目を見開き驚いているが、ふたりとも、気にも止めない。

 

 

「いまは一心に包丁を振るう、この時間を楽しませてくれぬか」

 

 

 会話は、そこで途絶えた。

 味皇が楽しげに包丁を振るう。

 その背を、室長がじっと見つめる。

 

 そのまま、時が過ぎて。

 ふいに、味皇の包丁が鈍り始めた。

 動きが緩慢になり、息が粗くなり始める。

 そのおかしさに、垂れ目と室長が同時に声をかけようとした、瞬間。

 

 緩慢な動きで。

 味皇──村田源二郎は倒れた。

 

 

「──!」

 

 

 垂目と室長が、声にならぬ悲鳴を上げる。

 異変を察した警備員が、倒れた味頭巾の姿を認めて、あわてて本部に連絡を繋げる。

 

 それとほとんど同時に。

 

 

「──急患か。俺が診よう」

 

 

 マント姿の偉丈夫が、人混みを押し分けてやってきた。

 

 

 

 

 

 

 味頭巾が倒れたとの報告が本部に入って3分後。

 歩夢は本部横の救護ブースに詰めていた医者を連れ、人混みをかいくぐるようにして現場に到着した。

 

 

「──味頭巾様! お医者様をお連れしましたわ!」

 

 

 よく通る声で宣言した歩夢は、あたりの様子を確認する。

 味頭巾の店の前には遠巻きに人だかりが出来ていて、中央はぽっかりと空いている。

 

 その真ん中で、頭巾を被った味皇は身を横たえていた。

 側には垂目扮する味の又三郎と、なぜか味皇室室長。

 それに、味皇の様子を詳細に看ている、マント姿の筋肉質の偉丈夫。

 

 一瞬で素性を察して、歩夢はマントの男に歩み寄った。

 

 

「君は」

 

「イベント主催者の安生歩夢と申しますわ! 味頭巾様に救急車は必要ですの? 必要なものがあれば教えて下さいまし!」

 

「急を要しはしないが……倒れた際、どこかを打った恐れはある。精密検査は必要か──頼む」

 

 

 手短に伝えて。

 マント姿の男は、歩夢を安心させようとしてか、表情をわずかに緩めて、言葉を続ける。

 

 

「──安心しろ。倒れたのは睡眠不足と疲労の蓄積が原因だ。命の心配はない……昨日から様子を見ていた。あれほどの人数をさばく手際は見事というほかないが、無理をしすぎたな」

 

 

 警備員に救急車の手配を任せて、マントの男に話す。

 歩夢が連れてきた医師は彼を知っているらしく、任せておけば安心だ、みたいな顔になってる。

 

 

「来場の皆さまに、放送で事情を説明してまいります。味頭巾様を、お願いいたしますわ」

 

 

 そう言って、ぺこりと頭を下げて。

 歩夢が現場を離れようとした、ちょうどその時。

 

 

「──味頭巾殿、倒れられたか」

 

 

 人だかりの中から、味将軍が味皇の元に歩いてきた。

 垂目の表情がこわばるが、味将軍は気にもかけない。

 ひょうひょうとした様子で、この男は歩夢に視線を向けてきた。

 

 

「味頭巾殿が大事無いようでなにより。この勝負は、不本意だが不戦勝……否、次回に持ち越しか」

 

「──ふざけるな」

 

 

 残念そうな味将軍の独白に。

 これまで押し黙っていた室長が、口を開いた。

 

 

「味皇は──いや、味皇村田源二郎は負けん。絶対にだ」

 

 

 感情が高ぶりすぎているのか、味皇の名を出してしまっているが、幸い喧騒にかき消されて届いていない。

 

 

「そうは言うが、味頭巾殿もこれ以上の勝負は出来まい。かといって手伝いの料理人風情では、我が包丁に及びもつかぬだろう」

 

「……否! 私が居る」

 

 

 室長は顔を上げた。

 その瞳には、強い決意の色が宿っている。

 それから、味皇がまな板の上に置いた包丁を手に取って、室長は視線を味将軍に向けた。

 

 

「私が、この村田源三が──味頭巾の包丁を引き継ぐ!」

 

「……それもまた、望むところだ。我がかつての盟友よ……!」

 

 

 室長の──否、初代味皇、村田源三の圧倒的な覇気に。

 味将軍は獰猛な歓喜の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

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