TSお嬢様はミスター味っ子の料理を食べ尽くす!【完結】 作:寛喜堂秀介
シンザンと呼ばれる競走馬が居る。
史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬であり、史上初の五冠馬。
1963年の新馬戦より19戦。生涯連対を外すことのなかった名馬中の名馬だ。
およそ20年後、七冠馬シンボリルドルフが出るまで、競馬界では長く「シンザンを超えろ」が合言葉だった。
競馬の歴史に深く存在を刻んだ、神が讃えし馬。
その像が、虚空を見据えて出迎える、そんな場所で。
歩夢は両手を天に向けて広げ、きらっきらの笑顔で声を上げる。
「
栗東トレーニングセンター。
滋賀県栗太郡栗東町*1にある、JRA日本中央競馬会の、競走馬トレーニング施設である。
甲子園球場約40個分の広大な敷地の中で、2000頭を超える競走馬が厩舎で暮らし、1000人以上のスタッフが働く、そんな競走馬の世界。
そんな場所に歩夢が来た理由は、聖地巡礼のため……ではない。
テレビの取材。それも、競馬番組や競馬関係の特番などではなく、バラエティ番組の一枠だ。
題して「歩夢ちゃんとオグリキャップの謎に迫る!」。
観客席で応援する歩夢をオグリがガン見していたのはなぜなのか。本当に歩夢ちゃんを見ているのかを検証してみようという企画だ。
トレセンに行ける。
その上オグリキャップに会えるのだ。
歩夢はこのオファーを秒で受けた。クッキングフェスティバルの準備で忙しい8月末のことだった。
その後メジャーデビュー、オリコン1位、それにクッキングフェスティバルの大成功やらで、人気がものすごいことになってしまっているのはともかく。
1988年9月20日。
歩夢は執事の毛利を従えて、意気揚々と滋賀県は栗東トレセンまでやってきたのだ。
シンザン像の前を通って、しばらく進むと右手に事務所が見えてくる。その駐車場にロケバスが停まっており、周りをテレビの取材班がたむろしていた。
「わたくしが徒歩で来ましたわ!」
と、グリコのポーズでダイナミックエントリーしてから。
歩夢はカメラが向けられていることに気づいて、取材班に向けて一礼する。
「ご機嫌麗しゅう。皆さま、本日はお世話になりますわ!」
「あれ、歩夢ちゃん。毛利さんにタク券*2渡してたはずだけど、タクシーで来なかったの?」
「シンザン像を拝見するために、手前で降りてしまいましたわ!」
首を傾げるディレクターに、歩夢は胸を張って答える。*3
「その絵いいね。後で撮ってもらおうかな……こっちは軽くひとまわりして、トレセン内を撮って回ったとこ」
「なにそれうらやましいですわ! わたくしも見学させていただきたかったですわ!」
「ごめんごめん。絵としてちらっと必要なだけだったし、歩夢ちゃんの見学風景も撮るなら時間かかるし、番組の尺が……だから今回は我慢して」
手を合わせるディレクターに、歩夢は仕方ないとうなずく。
「よし、調教の見学は次の楽しみにいたしますわ! それでは早速取材と参りましょう!」
歩夢は宣言したが、そうテキパキとは行かなかった。
まず事務所から栗東トレセンの場長が挨拶にやってきた。
ただのリポーターや芸能人ではなく、JRAが看板に掲げ、数多の馬主に目をかけられ、競馬ブームの旗手を担う、競馬界のアイドルである。競馬界の、と言わずとも、一般にもアイドル的な人気を誇っているが。
ともあれ、場長が出てくるくらい将来を期待されている。
それゆえかトレセンからカメラマンが同行することになった。
ロケ風景を撮影して、資料に使ったり飾ったりするためである。
さておき、歩夢たちはロケバスに乗り込み、トレセンの正門──
ロケバスの窓から見えたのは、馬が生活する厩舎が左右にずらりと並ぶ風景。調教終わりなのか、厩舎に帰っていく競走馬が間近に見える。
「ほんっとうに素敵な風景ですわ!」
歩夢が声を抑えて歓声をあげると、ディレクターが尋ねてくる。
「歩夢ちゃん、どうしたの小声になっちゃって?」
「急に声を上げて、お馬さんを驚かせては大事ですので、声を抑えたんですわ」
「ああ、そういえば取材前に注意されたな」
ディレクターが納得したようにうなずく。
よく考えれば今回の取材目的は、バラエティ番組の企画。
競走馬の取材に慣れている人間が居ないかもしれないと気づいて、歩夢は立ち上がって取材班に顔を向ける。
「皆さま! あらかじめ注意がありましたかと思いますが、お馬さんの前では騒がない。急に動かない。これ大事ですわよ!」
「歩夢ちゃん存在できないじゃん」
「ひっでー言い方ですわね! わたくしも気をつけますので、みなさまもいっしょに気をつけよう! ですわ!」
そんな掛け合いをしていると、バスは開けた場所に出て、停まった。
眼前に広がるのは見渡す限りの平地。楕円状の走路──トラックが幾重にも重なり、そこを走るのは、選りすぐりの競走馬たち。
平地調教コースだ。
「歩夢ちゃんも走ります? 府中でやったみたいに」
「んなわけねーですわ! あれはあくまでCMですわ! というかお馬さんといっしょに走るのはさすがに無理ですわ!」
JRAのCMにひっかけての弄りに抗議しつつ。
その後、有名な坂路調教コースを見学してから、バスは厩舎エリアに戻ってきた。
「というか、結局トレセン見学できてますわ!?」
「まあ、バスからの見学で申し訳ないけどね」
歩夢の声に、ディレクターが軽く手を上げる。粋なはからいだった。
◆
それから。
バスは厩舎エリアの駐車場に止まり、一行はオグリキャップの居る瀬戸口厩舎にたどりついた。
厩舎の前には、人だかりができていた。
取材と聞いて、暇な人間が集まってきたのか、調教師や調教助手、厩務員、騎手、それから記者といった連中が、がやがやと話している。
それが歩夢たち一行が来たとたん、一斉に視線を向けてきたのだから、歩夢以外は気圧されてしまう。
が。
「おお、あれが歩夢ちゃんか」
「生で見たほうがべっぴんさんやな」
「化粧っ気ないのはさすがやな。馬が嫌がるんをわかっとる」
「え、すっぴんであれは反則やろ」
「歩夢ちゃんいいよね……」
「いい……」
なんか歩夢のことしか話してない。
どうもみんな歩夢目当てに集まってきたらしい。
アイドル的な興味ももちろんあるだろうが、調教師や騎手は顔をつないでおきたい思惑もあるかもしれない。馬主志望でもあるし。
──というかレジェンド武も居ますわ。若っけーですわ。
週末土日で10レース以上乗るし、神戸新聞杯にスーパークリークで出るはずだが、こんなとこでぶらついてていいんだろうか。
などと考えながら、歩夢は見物客たちの前に出る。
歩夢にとっても、将来馬主になったときにお世話になるかもしれない人たちだ。
関東の美浦トレセンがメインになるだろうとはいえ、彼らに顔を売っておいて損はない。
「皆さま、お初にお目にかかります。わたくし安生歩夢と申しますわ」
馬房が近いので、声を絞って。歩夢は優雅に一礼した。
声を絞っても、貫通性能が高い歩夢の声は、一同の耳にはっきりと届く。
ひひん、と。歩夢の挨拶に応えるような馬のいななきが複数あったのは、ともかく。
テレビで見る有名人。しかも美人に挨拶されて、野次馬たちがやに下がっていると、瀬戸口厩舎の主がやってきた。
──六平さん*4ですわ! 六平さんのモデルになった先生ですわ!
歩夢は内心、ファン意識バリバリで限界化しているが、相手は気づかない。
挨拶を交わしてから、ディレクターを交え、打ち合わせの内容をあらためて確認して。それから、本番の運びとなった。
「──皆さま! 安生歩夢ですわ! 本日はオグリキャップ様にお会いできるということで、ここ瀬戸口厩舎に参りましたわ!」
テレビカメラの前で、歩夢が軽やかに瀬戸口厩舎を訪れ、今回の趣旨を話す。
それから、調教師とオグリキャップについて、無駄に早口で語っていると、厩舎から準備OKの合図が来た。
「それでは、ご覧にいただきましょう。オグリキャップ様。いらしてくださいまし」
歩夢の掛け声とともに、厩務員が一頭の競走馬を引いてきた。
芦毛である。といっても若い芦毛馬らしく毛色に白さはなく、わずかに灰味を帯びながらも黒ぐろとしている。
そのつぶらな瞳は、厩舎を出た瞬間から、まっすぐ歩夢に向けられている。
「見られてますわ。めっちゃ見られてますわ」
歩夢は実況する。
厩務員に引かれて、オグリは近づいてくる。
その間、視線はやはり、歩夢に固定されている。
手を伸ばせば届く距離で、オグリは立ち止まった。
厩務員が視線でOKを出すのを確認して。歩夢ははぁはぁと限界化しながら、オグリに声をかける。
「初めて御前に参りました。わたくし安生歩夢と申します。オグリキャップ様。あなたのファンですわ」
厩務員の誘導のままに、首筋を撫でると、オグリキャップは心地よさげに目を細める。
しばらく歩夢が撫でるに任せていたオグリキャップだが、ふいにぶるる、と鼻を鳴らすと、歩夢の体に首をこすりつけてきた。
「お、っと、と、ですわ」
十分に加減されてはいたが、不意打ちに体勢を崩してしまう。
厩務員はあわてるが、歩夢は焦らず踏みとどまって、笑顔を向ける。
「オグリキャップ様。ファンサ感謝ですわ」
歩夢の心からの感謝に。
オグリキャップはうれしげに、ぶにぶにと鼻を押し付けてきた。
◆
「──それでは、あらためて検証いたしましょう。まずは人混みに紛れ込んでみますわ!」
正気に戻った歩夢は、気を取り直してカメラの前で宣言する。
鼻先でぶにぶにされすぎて、乱れた髪がぺたんと伏せた馬耳っぽくなっているが、ともかく。
歩夢は遠巻きに撮影をながめていた野次馬の中に突っ込んでいったかと思うと、そのまま人混みに紛れて移動する。
姿は見えないはずだが、オグリは歩夢から視線を外さない。
続いて、厩舎の陰に隠れたり、藁の山の陰に隠れたり、果ては隣の厩舎から、脚立に乗ってのぞき込んでみたりもしたが、視線と耳は、歩夢をロックオンしている。
ここまで来ると野次馬たちも「おもろいなあ」「不思議やなあ」と興味津々だ。その後も、いろいろと検証して。
「──結論! なぜだかわかりませんが、オグリキャップ様はわたくしを認識して、わたくしをじっと見てらっしゃいますわ!」
カメラの前で、歩夢はそう報告する。
検証は出来たが、理由はさっぱりわからない。
そんな中、オグリのことをもっともよく知る厩務員が口を開いた。
「そりゃあ、馬は賢いんや。人間たちが、みんなおんなじ人間を意識しとったら、なんやと思うで。ましてやオグリさんは人一倍賢いからな」
「なるほど、それは納得できる理由ですわ! ならば皆さま! ディレクターにご注目くださいまし!」
歩夢の言葉とともに、全員の視線がディレクターに一点集中する。
するとオグリはディレクターのほうをチラと見て……すぐに視線を歩夢に戻した。
「おしい! 正解にかなり近いっぽいですけど……」
「あとはまあ、オーラとか存在感やろなあ。単純に嬢ちゃんが気に入られとるだけかもしれんけど」
厩務員の言葉を肯定するように、オグリはぶるる、と鼻を鳴らした。
直後、歩夢はたたらを踏んだ。
よろこびのあまりクラっと来ただけなので問題ない。
というかあの伝説の、その走りを知る者すべての脳を焼いた、競馬界においての希望そのもの。
そんなオグリキャップに気に入られるとか、心停止してもおかしくない。実際数秒くらいは停まってた気がする。気持ち的に。
周りの人間は、歩夢の内心など知る由もない。
歩夢を気遣う声に、歩夢は心の内の歓喜を面に示す。
とんでもないきらっきらの笑顔になった。物理的に輝いてるレベルの。
「大、丈夫……ですわ! ちょっとうれしすぎただけですわ──オグリキャップ様、ありがとうございますわ! わたくしもあなた様に、運命的ななにかを感じてしまいましたわ! ずっと応援しておりますわ!」
歩夢の言葉に応えるように。
オグリキャップは、軽くいなないた。
後日、全国放送されたこの企画は、歩夢の人気も相まって、とんでもない視聴率を叩き出したという。