遠い記憶のクロシェット ~挿絵あり!~   作:うずつるぎ

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⑱ 思い出は、もう、ない

 

 

 ふと我に返ると、馬鹿みたいに煩い蝉の声が僕を出迎えた。

 

 

 相当の時間が経過したようだ。

 深海の如く濃い空には、幾つかの一番星が顔を出していた。

 

 

 それらが白けた光を放っているように見えてしまうのは、長い間、楽園に身を浸したツケを払う時が来たからなのだろう。

 

 

 もう、追想の旅は終わってしまったのだ。

 

 

 延々と続く坂道の中腹で立ち止まる。

 右手に見える古民家へと、僕は向き直った。

 

 

 よくある瓦葺の一戸建ては、正面玄関にも下屋を備え付けていた。

 

 

 木の縁で囲まれた窓が、遠慮なく開け放たれている。

 年季の入った漆喰壁は、元の白色が見えないほどに濁っていた。

 

 

 引き戸には鍵が掛かっていることもない。

 手を掛ければ、扉はあっさりと音を立てて開いた。

 

 

 玄関口に立ち入る。

 家の奥から来客を迎える声が響く。

 

 

 それは息を吹き込み過ぎた金管楽器を思わせる濁声で、床板の軋む音と、嫌に相性が良かった。

 

 

 玄関前に声の主が姿を現す。

 彼女は僕を認識するや否や、外面用の笑顔を消し去り、素の調子で言った。

 

 

「あら、千風。帰って来たの」

 

 

「久しぶり、母さん」

 

 

 僕がそうして挨拶を交わすと、母さんは何事もなかったかのように居間へ戻ろうとした。

 それを見かねた僕は、おどけた調子でこう言ってやった。

 

 

「なんだよ、せっかく息子が帰って来たって言うのに、その素っ気ない態度は」

 

 

 振り返った母さんは、如何にも呆れたような表情で言葉を返した。

 

 

「あんた、つい一カ月前にも帰って来たじゃない。そんなに頻繁に帰って来られたら、有難みってものも減るわよ」

 

 

 その至極まともな答えに、僕は大いに納得してしまった。

 

 

「ほんと、憑りつかれたみたいに帰って来るんだから」

 

 

「実際、何かに憑依されてたりするかもな」

 

 

 僕は売り言葉に買い言葉で言い返した。

 

 

 途端、母さんは不意とこちらに振り向く。

 まじまじと、僕の顔を眺めた。

 

 

 まるで、僕の奥に隠されたものを透視するかのよう、数秒その状態は続いた。

 

 

 何か、自分の顔に異変があるのではないだろうか。

 そんな風に思わされたところで、母さんはふっと、興味をなくしたように視線を戻した。

 

 

 僕は手を洗ってから台所に向かった。

 が、先程居酒屋で軽食を摂ったせいか、時間のわりに腹は空いていない。

 同じように居間に向かうと、母さんは熱心に画面を見つめていた。

 

 

 どうやら今は、連続ドラマの放映時間だったらしい。

 その内容は実にありきたりで、余命僅かの恋人が織りなす感動の物語というようなものだった。

 

 

 涙を誘う話は嫌いではないが、あいにく、僕の涙は最後の一滴まで涸れてしまった。

 

 

 テレビ画面を見つめるのも億劫だった。

 手持ち無沙汰となった僕は、何気なく外へと繰り出した。

 

 

 頭上に光る淡い満月。

 あちらこちらから、古民家の温かな明かりが漏れ出ている。

 薄暗い田舎道を、僕はひたすら進み続けた。

 

 

 何処に向かうでもなく無計画に歩みを進めていると、今日は妙に、すれ違う人々が多いことに気が付かされた。

 

 

 行き交う彼らは、ある一方向を目指しているようだ。

 老若男女を問わず、その表情は眩しいほどに明るかった。

 

 

 ──彼らと同じ場所に向かえば、退屈な僕の世界も、少しは面白く見えるだろうか。

 

 

 答えの分かり切った疑問を提唱しながら、それでも僕は、人の波に乗って道を進んだ。

 辿り着いた先には、光と喧騒で溢れ返った祭りの会場が用意されていた。

 

 

 広場までの通りの両脇には、かつてと同じように屋台が数店展開されている。

 

 

 僕はそれらを適当に見回した。

 三つ目の屋台でりんご飴を一つ、購入した。

 

 

 今の僕では、祭りに浮かされた人々の放つ暴力的な熱量に耐えられる気がしなかった。

 折よく見つけた縁石に腰を下ろし、茫然と暇をしのぐことにした。

 

 

 行く人来る人は様々であった。

 

 

 屋台目当てでやって来た男子高校生達が居た。

 子供を連れた三人家族が居た。

 祭りの会場を目指した熟年の老夫婦が居た。

 

 

 そんな彼らに共通していたことは、やはり、皆一様に楽し気な笑顔を浮かべていたところだろうか。

 

 

 屋台の匂いが充満した場所に長居しているせいかもしれない。

 段々と、口が寂しくなってきた。

 

 

 僕だけが色褪せたこの場所で、徐に、りんご飴の包みを取り外そうとする。

 その時、不意と、視界の中にとある光景が映り込んだ。

 

 

 僕の注意が向いた先には、一組の少年少女が歩いていた。

 

 

 少年の方は普段着で祭りにやってきたようだが、少女の方は浴衣で着飾って祭りにやってきたようだった。

 

 

 しかし、服装に差異こそあれど、二人の間にすれ違いがあるわけではないらしい。

 両者の手のひらはしっかりと結ばれていた。

 

 

 何とはなしに、僕はその二人から目が離せなかった。

 

 

 少年少女の輪郭の上には、あり得るはずのない過去が次から次へと描写されている。

 そしてその全てが、僕の思い描き続けてきた未来であることに疑いはなかった。

 

 

 だからこそ、少年少女が視界から出ていくまでの短い間、僕の胸はうじ虫に喰らい尽くされていくような、激しい痛みに苛まれた。

 

 

 堪らず、顔を歪める。

 

 

 僕は、軽石みたいに穴だらけの胸を縫い合わせて、どうにか空虚を誤魔化しながら生きながらえているというのに、内側から這い出るどす黒い何かにとっては、その縫い目までもが捕食の対象であった。

 

 

 耐え難い疼痛に悶え苦しむよう、僕は歯を食い縛って己の胸を握り潰した。

 

 

 とうとう二人の姿が見えなくなると、遂に僕は、僕を抑えられなくなった。

 

 

 ──羨ましい。

 

 

 ふと、そのような意味を持った単語が、頭の中に浮かび上がった。

 

 

 日常では水面下に隠しているその感情が、一度でも表側に浮上してしまえば、あとは連鎖的に悪感情が全身に纏わりついていった。

 

 

 妬ましい。

 嫉ましい。

 恨めしい。

 

 

 本当は僕だって僕だって僕だって、この上なく大切な君ともっともっと一緒に居たかったし色んなことをしたかったし下らない毎日を続けたかった。

 

 

 さっきの男子高校生たちみたいに馬鹿言い合ったり、家族連れみたいに幸せそうに歩いたり、老夫婦みたいに一心同体の時間を過ごしたかった。

 

 

 僕らはあの二人みたいに、心地良い日々を続けていくはずだったんだ。

 それなのに、どうして僕たちは──。

 

 

 僕とその他の世界に引かれた境界線の温度差は凄まじかった。

 その落差を意識すればするほど、激しい飢餓感だけが身体中を襲った。

 

 

 目の前には、血の滴る肉が幾つもぶら下げられていた。

 

 

 飢えた心は、遠い昔に味わった満足を求めている。

 やがて、僕の奥底に潜むけだものは、己を縛り付ける鎖をぶち壊してしまった。

 

 

 ──お前らの満ち足りた時間を根こそぎ奪い取ってでも、僕は彼女との豊かな日々を手にしたいんだ。

 

 

 寄越せ。

 僕にも幸せを寄越せ。

 お前らの身体を引き裂いて臓物を捧げれば、彼女はここに戻って来てくれるだろうか。

 もしそうなら、僕は今すぐにでも実行してやっていいんだぞ。

 

 

 あれっぽっちの時間では短すぎた。

 たかが一年程度を思い返すだけではもう我慢できないんだ。

 

 

 早く新しい思い出が欲しい。

 今すぐに欲しい。

 限界なんだ。

 平気な振りをしているけれど、本当は心が苦しくて仕方がないんだ。

 そろそろ体裁ばかりの空元気さえも保てなくなる気がするんだ。

 だから早く早く早く早く、もっともッとモッとモット──。

 

 

 目に映る全てが、憎むべき幸せであると思えた。

 

 

 この暗く淀んだ目で眺める世界を、内に巣食う穢れた心を、祭りを前に舞い上がる呑気な衆人にまき散らしてやりたかった。

 

 

 他人の幸福や喜びなんてものは、僕の世界にとっては害でしかなかった。

 寧ろ、皆が僕と同じように日々に絶望し、映し出す世界は暗黒に包まれたものであるべきだと思えた。

 

 

 手始めに、僕は手に握られた赤い果実をこちら側に引き込むことにした。

 

 

 砂糖や果汁が地面に零れることなど気にしない。

 僕は無心でそれに齧り付く。

 

 

 甘さや酸っぱさといった希望に満ち溢れた感情を、一滴残らず吸い上げてやる。

 そしてその代わりに、僕はりんご飴に向けて、僕の心に詰まった薄汚さを吐き出すつもりだった。

 

 

 しかし、口いっぱいに広がったのは、何処までも苦く渋い味わいだった。

 

 

 僕は反射的に顔を顰めた。

 

 

 毒林檎が、幾ばくか冷静さを与えてくれた。

 その苦薬のような砂糖菓子を食べ終えると、心の中は大分と落ち着いた。

 

 

 また、僕は空っぽになった。

 

 

 ゴミ箱に棒を投げ捨てる。

 僕は元来た道を引き返した。

 

 

 向かう先は実家ではない。

 夜の田圃に囲まれた農道を真っすぐに進み、なだらかな坂道を上る。

 そのうち、暗闇の立ち込めた森の入り口に辿り着いた。

 

 

 夢の中を歩くようにして、森の中へと足を進めていく。

 時折、枝葉が服の裾を引き裂いたりもしたが、構わず突き進み続けた。

 

 

 見覚えのある大樹に辿り着く。

 しかし僕はそこで止まることなく、更に森の奥へと向かった。

 そこからは木の根に引っ掛からないよう、慎重に足を繰り出して前へと進んだ。

 

 

 十分ほど前進する。

 木々を配置し忘れたかのように不自然な空き地に、僕は辿り着いた。

 

 

 その中央に凛々しく根を下ろした(まき)の若木は、月光を浴びて神々しく輝いている。

 

 

 その美しさだけは、冷め切った僕の世界でも、唯一確かなものだった。

 

 

 徐に若木へと近づく。

 そっと、樹皮を一撫でする。

 

 

 それから、僕は幹に背を預けてその場に座り込んだ。

 

 

 宇宙のような遥か空へと視線をやる。

 心に溜まったものを吐き出すみたいに、大きな息をついた。

 

 

 あの日以来、鈴音が姿を現すことは二度となかった。

 

 

 中学、高校、大学。

 学生を終えるまでをこの街で暮らした僕は、毎日欠かさずこの場を訪れたが、終ぞ、君が戻ってくることはなかった。

 

 

 就職は都心に決まった。

 それ以来は、こうして時間を見つけてはこの場所に帰ってきているが、やっぱり、今日も君は居なかった。

 

 

 数年前の僕であれば、その度にどうしようもなく胸が詰まるような感覚に襲われ、頬に涙を伝わせていたような気がする。

 

 

 十数年前のことがよく思い出せるのに、数年前のことが上手く思い出せないのは、単に、そこに思いを馳せるべき記憶が存在しないからだ。

 

 

 今となっては、零れるべき涙さえもが涸れてしまった。

 悲しいことだが、空虚に慣れてしまったのだろう。

 どんな悲壮感に襲われようとも、心はあまり動かなくなってきた。

 

 

 最近になって、僕は時々、思うようになった。

 

 

 もしかしたら、本当は最初から、君は居なかったんじゃないかな、と。

 

 

 君という存在は、十歳前後の子供によくみられるイマジナリーフレンドの一種だったのではないだろうか、と。

 

 

 記憶と呼ばれるものは酷く曖昧だ。

 何せ、人は昔日を思い起こす度に、それを都合の良い形に歪めてしまう生き物なのだから。

 

 

 しかもその記憶を歪曲、若しくは捏造したという事実にさえ気が付くことが出来ないところが余計に質が悪い。

 それを考慮すると、君は元から居なかったという可能性も、充分にあり得るのかもしれない。

 

 

 でも、実際のところはそんなはずがないのだ。

 

 

 君という存在を疑いつつある惨めな自分に向けて反駁するように、僕はポケットからそれを取り出した。

 

 

 鈴音は確かにここに居た。

 

 

 その裏付けとなるたった一つの形あるものが、君がくれたこの風鈴だった。

 どんな技術を以てしても、この風鈴は君の奇跡でしか創り上げられないものなのだから。

 

 

 その上、かつて僕がへし折った枝先は、若木本体がすくすく成長しようとも、あの日を心に刻むように、その傷跡を残していた。

 

 

 もしかしたらそれは、君もあの日々を忘れないで居てくれているということなのだろうか。

 そうだとしたら、僕の世界は少しだけ救われる気がするな。

 

 

 満月に掲げるよう、僕は右手を伸ばす。

 月明かりを受け取った風鈴を、小さく揺らした。

 辺りには慰めの声が聞こえた。

 

 

 もう君を十年以上も待ち続けて、分からず屋な僕も、そろそろ理解するようになった。

 

 

 恐らく君は、もう、僕が生きている内には戻って来ないのだろう。

 

 

 そもそも、僕らは時間の流れ方が違うのだろうし、元よりそれはどうしようもないことだ。

 今頃になってその理不尽を恨むつもりはない。

 これからも健気にこの場を訪れようとも、最後の最後まで僕が君を迎える日は訪れないのだろう。

 

 

 だとしても、僕は君を待つことをやめはしないのだと思う。

 

 

 だって、これほどに歳月が経とうとも、人生の花と呼ばれる学生時代を人並みに過ごそうとも、僕の心は一度も他に揺れることがなかったのだから。

 寧ろ、月日を重ねるごとに、この想いは密度を増していったのだから。

 

 

 きっと、思い描くいつかの時は、この凍り付いた胸が震えるほどに素晴らしいのだろう。

 

 

 だから、決して訪れることのないいつかの時の為に、僕はいずれ身を滅ぼすことになるだろうこの痛みを、大事に抱えていたいと思う。

 

 

 君に会えないことが寂しくて悲しくて辛くて虚しくて、そんな現実が嫌になってかつての日々に逃げ込んだ挙句、さっきみたいに少し錯乱してしまうことはあるけれど、それら含めて、僕は堪らなく君が愛おしいんだ。

 

 

 この全身を引き裂くような苦痛は、同時に君を想い続ける僕そのものの象徴だ。

 

 

 この幸せな呪いこそが、何よりも僕が君を愛している証明なのだ。

 

 

 そうして、君の傍で幸せな呪縛を確かめることで、中核の失われた世界に意味を見出し、僕はなんとか、今日を生き延びていく。

 

 

 君からすれば、勝手に色々を抱え込んでいる僕は、もしかせずとも傍迷惑なのだと思う。

 

 

 あんなに魅力的な君のことだから、今頃は僕なんかよりももっと素晴らしい相手を見つけているのかもしれない。

 あぁ、きっと僕のことなんて忘れて、健やかなる日々を過ごしていることだろう。

 

 

 それを思うと、少しだけ、胸の奥が痛いけれど、まぁ、いいんだ。

 

 

 結局のところ、僕の世界はあくまでも、君の世界の存在が大前提なのだから。

 

 

 遠い昔に行方を失った恋慕に浸り、小さな嘆息を洩らす。

 天上に浮かぶ丸い月の光を眺めていると、だんだん、頭がぼんやりとしていった。

 

 

 今頃になって、酔いが回ってきたのだろうか。

 

 

 淡い月が重ねって見えるようになった頃、僕の瞼は、薄く閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ♦♦♦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 懐かしい、匂いがした。

 

 

 

 

 ふと意識を引き戻したのは、瞼の裏に注がれる柔らかな日差しでもなければ、まだ暖かい程度の気温でも、朝蝉のさざめきでもなかった。

 

 

 しゃぼん玉みたいに落ち着く香りが、鼻腔を擽っている。

 気が付くと、その艶やかな芳香が、眠りに落ちた僕の意識を呼び起こしていた。

 

 

 頭は何か、柔らかいものに乗せられている。

 

 

 幹にもたれ掛かっていたはずが、僕はいつの間にか、仰向けに寝転がっていたらしい。

 背中は大地の硬い感触を受け取っているが、頭の部分だけは、程よい弾力を感じ取っていた。

 

 

 千年の眠りから目覚めたような、妙に、心地の良い覚醒だった。

 

 

 寝ぼけた僕は何も考えずに頭を上げようとして、しかし、その動きは直前で遮られた。

 

 

 そっと、額が押し返される。

 何故だか、僕は僕の意志に反して、起き上がることを許されなかった。

 

 

 何が起こったのかを把握しようとして、直後、すぐ近くで、鈴を転がすような音が聞こえた。

 

 

 己の聴覚がその澄清を捉えた瞬間、生死を彷徨う人間が息を吹き返したように心臓が大きく上下し、と同時に、頭の中は深い混乱に包まれた。

 

 

 現状が上手く呑み込めず、気が動転したどころの話ではなかった。

 

 

 しかし、僕は冷静さを欠かなかった。

 

 

 これまでにも同じような夢は、何度となく繰り返してきたのだ。

 そして、その幸福な夢から醒める度に、悪夢のような現実が僕に馬乗りになって、僕の心の生傷を錆びたナイフで抉り取ってきたのだから。

 

 

 そう何度も、同じ過ちを繰り返すつもりはない。

 

 

 僕は手負い野良猫のように用心深く意識を集中させ、辺りの情報を探ろうとした。

 

 

 伝わる五感は、何もかもがあまりにも現実的であった。

 だからこそなお一層、僕は目を覚ますのが恐ろしかった。

 瞼を持ち上げた途端にこの幻が拡散してしまうぐらいなら、もう少しぐらい、虚構の世界に甘えていたかった。

 

 

 けれども、心はもうこれ以上待ち切れなかった。

 

 

 自分のものではないように心臓がどくどくと脈打つ。

 遂には、身体が心を追い抜いてしまう。

 

 

 とうとう、僕は何かを探し求めるように、己が右の手のひらを伸ばした。

 

 

 恐る恐る伸ばした右手は、大きな期待に反して、予想通りに空を切った。

 

 

 一瞬、息が詰まるような心地が全身を包み込んだ。

 思わず、大きなため息を洩れ出る。

 胸には、深い落胆と僅かな諦念だけが漂った。

 

 

 微かな希望の光は消え失せ、やはり、僕の世界には夜明けが来ないままであった。

 

 

 自嘲的な笑みを零すことさえままならない。

 僕は力なく右手を大地に落とそうとして、何の前触れもなく、右手は待ち焦がれた温もりに包まれた。

 

 

 

 頭はいま起きたことが良く理解出来ていなかったし、一方では、ひしと理解しているようだった。

 

 

 

 半信半疑のままに、震える手のひらに力を加えてみる。

 

 

 確かに、右手がぎゅっと握り返された感覚があった。

 また、鈴の音が耳元を擽ってくれた。

 

 

 僕はもう、感じる五感の全てを疑うことが出来なくなってしまった。

 そしてその瞬間、胸の奥底には、清らかな潤いが取り戻された。

 

 

 はらりと、閉ざした瞼の奥から何かが零れ落ちる。

 溢れたそれは、ようやく心が満たされたからこそであった。

 

 

 枯れた大地に命の水滴が波紋し、かつての豊かな緑が生え広がっていくように、遂に僕の世界は、夜明けの向こう側に辿り着いたのだ。

 

 

 いつかの時が訪れれば、際限なく言葉を繰り出すと思われていた喉は、しかし、きつく締め上げられていた。

 

 

 長らく、僕は発声に至らなかった。

 頬に雫を伝わせながら、ただひたすら、幼子のように嗚咽を洩らし続けた。

 

 

 そのあいだ、僕の右頬には、柔らかな手のひらがあてがわれていた。

 僕の目尻から絶えず溢れ出すものを、細い指先がやさしくやさしく拭ってくれていた。

 

 

 そのうちに僕は、今すぐに飛び起きて両目を大きく開け、この胸に募った狂おしいほどの感情を一滴残さず伝えたいという強烈な衝動に駆られた。

 

 

 顔をぐちゃぐちゃにして噎び泣きながらも、君を絞め殺してしまうぐらいに強く抱き締めて、これまでの毎日がどれほどに寂しくて苦しいものだったのかを、たぶん君もだろうけれど、僕はその何百倍も辛かったんだってことを知って欲しくて堪らなくなった。

 

 

 だけど、結局、僕はそうはしなかったんだ。

 

 

 なに、単純なことだ。

 

 

 僕の世界は一から十まで君が中心なのだから、僕のことは全て二の次で構わないというだけの話だ。

 それに、いつかの時が訪れた暁には、僕が一番最初に君にしてやることは、もうとっくに約束していたのだから。

 

 

 やっとその時が来たのだと思うと、自然と、口元には微笑みの形が作られていた。

 

 

 

 

 瞼を薄く持ち上げ、滲む視界に乱反射を映し出す。

 その万華鏡のような世界には、求め続けた大切がピタリと当てはまっていた。

 

 

 

 

 右頬を撫でるその手に自らの手を重ねる。

 目と目を交わし合い、大きく息を吸い込む。

 

 

 

 

 次に息を吐き出すその瞬間、きっと、僕たちの世界は最高のものとなるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 幾星霜の慕情を込めて、僕は約束の言葉を昇華させた。

 

 

 

 

 

 

 

 ~おしまい~

 

 

 

 

 

 

 




 これにて本小説は完結です。
 約一カ月の間、お付き合いいただきありがとうございました!


 次回作は、今年の12月中に投稿する予定です。遅れたらすいません。時期が早まってもすいません。
 良かったら次回作も読んでくださると、筆者はとても嬉しいです。


 では、また次回作でお会いしましょう!
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