ジリジリと日の照る、過酷な環境。見渡す限りの視界を埋め尽くす砂色。
「あっつい……あつくて……あつくて……えと、なんだっけ……」
持参したスポーツドリンクに口をつけようとして、その中身が空であることに気づいた。
「あ……心が死ぬ音……」
パキャ。耳の奥深くで、そんな音が聞こえた。
別に死にはしない。飢えにも渇きにも、慣れっこだ。暑いくらい、どうとでもなる。ただ最近、のんびりとした環境に慣れすぎて。キツいもんはキツい。
「これが、アビドス自治区……完全に迷子だぁ……」
シャリシャリと音の鳴る古めかしい自転車を漕いで、なんとか人が住めそうな範囲……砂に車輪を取られない範囲まで進んで、家らしきものを見つける。
「少し休む、か……」
自転車のストッパーを下げて、家の前の日陰に倒れるように入り込む。スマホが信じられないくらい熱い、バッテリーが擦り減ってる……あ、しばらく操作できなそう。
「……ん?」
しかし本当にキツいな、この環境……流石にペットボトル一本は無理があったかな。体が小さいし、このくらいでも大丈夫かと思ってた。
……ダメだ、疲れた。ちょっと横になるか。ウィッグも外そう、どうせ誰もいりゃしないんだし。マスクもいらないか。
「あの……」
ふと、ブレーキ音が聞こえた。チェーンが空転する、耳心地の良い音。
……人?このアビドス自治区に?
「……大丈夫?」
声の方を見上げた。聞き覚えのある声だった。この世界じゃなくて、別のどこかで。淑やかな。鼓膜の奥底を、優しく削られるような声。
日に照らし出される、穏やかな銀色の髪。透き通るような、そこ抜けるような青空の瞳。ピコピコと不安や心配を伝える、愛嬌のあるケモノの耳。俺と同じ、白と黒の瞳。オッドアイ。
「あなたは……」
「あ、生きてた。よかった、前にも似たようなことがあって……ん?あなた、見覚えが……あ」
ふと、こちらを伺うように覗き込まれた。ぴっちりと肌に吸い付いた運動用のウェアから、汗がこちらに向かって垂れてきた。ちょっと嫌だ。
……ああ、思い出した。この子は。
「砂狼、シロコさん……?」
「ん。桐花スオウ」
正体見たり、ズビシ。そんな具合に指を刺された。
◇
「んぐっ……プハッ!助かりましたぁ……」
シロコから受け取ったエナジードリンクを貪るように飲み干して、そうしてやっとまともに声を出すことができた。
お礼も程々に、半分ほどが空になった水筒をシロコに返す。
「……?どうかしましたか?」
「……まあいいか。なんでもない。気にしないで」
色々と言いたげな目でこちらを注意深く観察した後、気付いたように。
「……いつのまに羽が生えたの?」
「あ、いえこれは……というか、私のことを?」
「うん、知ってる。……警戒しないで。事情はなんとなく、ヒフミから聞いてるから大丈夫」
「……そう、ですか」
シロコをはじめとした、アビドス高等学校の面々が協力してくれた。俺が気絶した後の話を聞いている時に、そんな話を聞いた。曰く、それはセイアによる導きと、ヒフミの要請でなされたものだとも。
まさかこんなところで、こんな風に出会うとは思ってなかったけど。
「……こうして話すのは初めてだけど、私はあなたを一方的に知ってる。気絶して背負われてた」
……実は俺も知ってる。とは、言えないかなぁ。
「はい、ハジメマシテ。その節はどうも、妹達がお世話になったみたいで……」
「……ん。噂に聞いてる通りみたい……なんでこんなところにいたの?」
先程から疑問に思ってはいたのだろう。少し間を空けて、ようやく切り出せる、とばかりに、シロコは疑問を投げかけてくる。
噂通りと口にして、微妙な表情を浮かべながら。
「……まさか、アビドスに不法滞在するつもり」
「ストーップ!!違う!!違いますよ!!」
アビドスの面々からはしっかり拒否されたし……マユミ達の存在がなければ受け入れてくれたらしいけど。トラブルを起こさずにいられるなら、それに越したことはない。
少し余裕が生まれてきたと言えど、アリウスはまだまだ問題だらけなわけだし。
「ん、冗談」
冗談なら銃は構えないで欲しかったかな。反論したら本当に撃たれそうだから言わないけど。
「でも、じゃあなんでここに……」
「あーっと、それはですねぇ……」
何から話すかなぁ……まあとりあえず。
「私たちは……アリウス分校生徒は今、ミレニアムに住んでまして。一応、トリニティやヴァルキューレから追われる身、ってことになってます」
主に追われてるのは俺だけど、一緒に住んでるわけだし……多分俺が見つかったら、みんな庇うだろうし。やめて欲しいけど。まあ、事実としてはそんなに外れたことは言ってない。
「で、ミレニアムだけを拠点にするわけにもいかなくて……山海経や百鬼夜行、ゲヘナへ、有事の際に逃げる必要があるんです」
「……そっか。大変なんだね」
「……いえ、それほどでも」
大変なのは否定しないけど……今は、みんなとずっと一緒だ。それだけで充分、満たされてるって言って良い。そんな気がする。
「それで、その経路の安全性を確認しようと、マユミ……ミレニアムの知り合いに教わりながら、中古パーツで自転車を組み立てて。それに乗ってここまで来ました。そしたら、飲み物が切れて……」
「ここで一休み……待って。ミレニアムからここまで来たの?」
「はい。今朝の早くから、自転車で」
「……今はお昼近くだけど」
昼近く……なるほど、道理で腹が減るわけだ。結構スピード出したつもりだったけど、やっぱり時間はかかっちゃったな。これじゃ、今日中に他の自治区へ足を伸ばすのは厳しそうだ。
アビドスは中継地点としてもナシかなぁ。
「……よく組み立てられてる……でも、ほとんどママチャリ……」
みんなにもその旨は伝えてるし、大丈夫だとは思うけど……ちょっと帰りは遅くなるかもしれない。
「……それ、絶対にここまで来ると思われてないよ」
「え?」
「電話して。アリウスの人に。今、すぐ」
「え、と……わ、わかりました」
シロコから呆れというか、気圧されるようなものを感じる。本能的に、従っておけと、そんな感じがする。
えっと、とりあえずサオリでいいかな。
「じゃあ、失礼して……あ、かかった。もしもし、サオリ?」
『スオウか。ちょうどよかった。こちらから連絡しようと思っていたところだ。随分と帰りが遅いが、今どこにいる?トラブルなどには巻き込まれていないか?』
「はい、特には。今はアビドス自治区にいます。えっと……緑がかった家の日陰に」
『そうか、なら安心した。なるほど、アビドス自治区……アビドス自治区?』
二回、言葉が繰り返されて。電話越しの声からでも、はっきりと驚きが伝わってきた。
「はい、アビドスです。言ったじゃないですか、有事の避難経路を確認がてらサイクリング、って」
『……それで誰が自治区を跨ぐと思うんだ。この大馬鹿』
「……」
電話の音が漏れていたのか、シロコが「ほらね?」と言わんばかりにこっちを見ていた。まさか本当に誤解されていたとは。
『……いや、はっきりと聞かなかった私たちも悪かった。だが、一人で向かうのは危険だろう』
「う……で、でもその、私なら逃げれますよ?」
『それは知っている。だが、想定外もあるかもしれない……不安になる気持ちもわかってくれ』
「は、はい……ごめんなさい……」
怒られた。と言うより、叱られた。こんなんじゃ姉としての威厳が……!
『できれば、すぐに戻れるか?』
「ちょっと難しいですね……水分も切らしちゃいましたし、迷子になりました。補給してしばらく休憩したらそっちに戻ります。多分、帰りは夜になるかと……まあ、問題ないです」
『……わかった、マユミに頼んで迎えを出そう』
「何もわかってなくないですか!?」
これはあれだな、多分かなり心配してるかな。しかし、せっかくアビドスまで来たのに蜻蛉返りかぁ……まあいいや、今度はみんなも連れて来よう。
「じゃあ、私が案内してあげる」
「っ!?」
突如、シロコが耳元で囁く。正確には、スマホのすぐ近くで。いきなりだったから、かなり驚いた。
「迷子なんだよね。私なら、この辺りは土地勘があるから。道がわかる場所まで連れていく」
『……誰だ?』
「アビドス高等学校、砂狼シロコ。サオリって名前は聞いたことがある」
『なるほど、あの時の……』
サオリも直接話したわけじゃないらしい。本当に、脱出の間だけ。成り行きで助けてくれただけみたいだからか。
『……スオウ』
「は、はい」
『お前から見て、そいつは信用できるか?……お前の、記憶にある限りで構わない』
「……あー、なるほど」
記憶にある限り。多分、未来の記憶……『ブルーアーカイブ』の記憶に、シロコはいたのか。その上で、信じても良いのか。そういうことが言いたいんだと思う。
「え、っと……」
とりあえず悪い子ではない、よな……?いや、銀行強盗をはじめとして頭をよぎるアレコレはあるけど、ちょっとネジが抜けてるだけで止められたらやめるし。
あとは借金返済のために、お金が必要ってくらいで……あ、そう言えば俺賞金首のお尋ね者だった。
「半々ってとこです」
「むっ」
明らかに不機嫌になったシロコを他所に、電話先のサオリはため息を吐く。
『やはり迎えを……』
「安心して。この子が賞金首なことは知ってる。でも、今はそのつもりはない」
「……今は?」
「ん、訂正する。現時点では、これから先もそのつもりはない」
ちょくちょく怪しいんだけど、大丈夫かな……シロコが相手なら多分、戦っても勝てる自信はある。でも、ホシノをはじめとしたアビドスの面子に包囲されたら……流石に逃げるのも苦労しそうだ。ホシノが未知数過ぎる。
「それに、仮にこの子が捕まったとしよう。そしたら、私たちも逃亡を補助したことがバレる。アビドスは昔ほどの力はないし、トリニティとの衝突は避けたい。……まだ信じられない?」
『……わかった。疑ってしまったことを謝罪させて欲しい。スオウをよろしく頼む』
「任された」
万が一のシミュレーションを脳内で重ねていると、いつの間にやら話がついていた。サオリも、ひとまずシロコを信じることにしたらしい。
「それじゃあ、今から戻りますね」
『ああ。夜までには戻って来い。暗くなったらライトをつけるんだぞ。水分補給はこまめに、それからできれば帽子を被って』
「わ、わかりました!出発前にも聞きましたから!」
相変わらず、サオリは面倒見が良いというか、心配性というか……これじゃあどっちがお姉ちゃんかわからなくなっちゃうな。
『ミレニアム自治区に入ったら、位置情報を共有してくれ。急がなくていいから、安全に帰ってくるんだ。わかったな?』
「もちろんです!お土産持って帰りますね!」
『……まあ、程々にな。しばらくしたら、また掛け直す』
「はい、また後で!」
お土産……アビドスの砂とかで良いかな。いや、瓦礫だの小石だの混ざっててジャリジャリするし、ガラスの破片とかで危ない……やめとくか。
「……気付けてよかった。私も最近知ったから。普通の人は、そんなに長距離を自転車で移動しないって」
「そうだったんですね……」
言われてみれば、先生は数十キロでも躊躇してたな……基準を先生にするのはどうかと思うけど、みんなにしてもそうなのかもしれない。
「でも、よかったんですか?シロコさんも忙しいんじゃ」
特にアビドスは、借金返済のために日々バイトとかの金策に勤しんでるはずだし。
気になって聞いてみると、シロコは小さく首を横に振って。
「今日は休み。趣味のサイクリングをしてただけ。それに……」
ふと、正面から目を見据えられた。お互いの不可思議な、左右非対称の瞳。それらが揺れ動くように、こちらを見据えて。
「話したいことがあるから。着いてきて」
「……?」
あまり心当たりのない言葉を言い放った。
◇
自転車に乗って案内されること、数分。とある一軒家にたどり着く。
「……ここは?」
「私の家。……私以外に、このあたりに住んでる人は居ないけど。砂嵐の影響で」
「……事情は、なんとなく知ってます」
「そっか」
……アビドス高等学校。砂に覆われた、廃忘の土地。自然災害である砂嵐によって、この地に住まう人々はそのほとんどが姿を消した。
郊外に行けば、人はいるらしいけど……ここらを自転車で移動してみて。最初に抱いた印象は、寂れてる。そんな感じだったかな。
「待ってて、用意してくる。これ、タオル」
「へ?」
「しっかりとした装備もなく、着の身着のままで長距離のライディングは無謀。備えあれば憂いなし」
「……シンプルなルール。ってやつですね」
「……ん」
前世の記憶を刺激されて、少しずつ思い出してきたかな。シロコのことも。最近はノートを読み返す機会が増えた、っていうのもあるけど。
「ふぃー……」
待たされている間、無遠慮に廊下へ体を投げ出す。靴は入れ、足は玄関。ひんやりとした感触が、体から熱を奪うようで心地いい。
タオルで体の汗を拭いて、そしたらやっと暑さとは離れ離れだ。どうにもアビドスは、まだまだ残暑が厳しいらしい。
一度はどうなるかと思ったけど、ひとまずは助かった。シロコは『ブルーアーカイブ』にもいたし、そんなに警戒する必要はない、よな……?
「お待たせ。必要なモノは、大体この中に入ってる」
少しして、部屋の奥から鞄を持ってシロコが出てきた。鞄と言うよりは、スポーツ用のバッグ。
「それ、あげる。どうせ余り物だし」
「……悪いですよ」
「ん、問題ない。それと、これも」
……耳が動いてる。上の方の獣耳が。ちょっとテンションが高いような?
「……これは?」
「サイクルジャージ。多分、サイズは大丈夫だと思うけど……」
「い、至れり尽せりですね……?」
しかし、サイクルジャージ……今シロコが着てるあれだよな?
「……ピッチリしてて、恥ずかしいんですけど……」
「大丈夫、何も恥ずかしいことなんてない。最初はみんなそう」
「え、えぇっと……」
「それに、そんな厚着で激しい運動は危険。動きやすい服装で、通気性の良いモノを着るべき。熱中症は舐めたらダメ」
反論の芽を完全に潰された。さっさとしろ、という目線を感じる。どうあっても、この服を着ないことには許してもらえなさそうだ。
……なんだか最近、こういうことが増えてきた気がする。
「わ、わかりました……ちょっと向こう向いててください」
「わかった」
下手すればスカートよりも恥ずかしい気がするけど、まあ我慢だ我慢。目的と理由がある分、アレらよりはマシ……うん。アレらよりはマシ。
「ふむ……」
しっかし、サイズ小さいなぁ、これ。いや、俺の体にはぴったりなんだけど。それがむしろ不思議と言うか。
シロコは幾分か、俺よりも身長が高い。多分、二十センチくらいは。だからこそ、このサイズを持っている理由がわからない。
「着れた?」
「あ、はい、なんとか」
「そう、よかった。やっぱりホシノ先輩のサイズでピッタリだったね」
そんな疑問を抱いていると、シロコがその答えを言った。とはいっても、それは新たな疑問を作り出すだけのもので。
「なんで自分以外のサイズを?」
「ライディング仲間候補。この服は、誰も着てくれないけど」
「やっぱりこの服恥ずかしいやつじゃないですか!?」
というか、さっきからシロコがやけに馴れ馴れしいというか、世話焼きというか。テンションが高かった理由がわかった気がする。
「でも、サイクリングには必須。いずれ良さがわかる」
これはあれだ。自分の趣味に引き摺り込めそうなやつがいるから、装備を与えて後先引けなくさせようとしてるんだな。
俺も前世で友達にやったりした。一回嫌がられて、以来やめたけど。
「それと、ワセリンは関節とか、肌の弱い部分に塗っておいた方がいい。擦れて痛くなる。アビドスも水道は生きてるから、そこでの補給を前提に粉末タイプのスポーツ飲料がおすすめ。さっきみたいな、近所のコンビニに行くみたいな準備は絶対ダメ」
「わ、わかりました!一気に言わないでください!」
「……ん。ごめん、少し勢い付いた」
バッグの中身を確認してみると、確かに言われた通りの装備が整っていた。ついでに遮光用の帽子やら、雪目対策のサングラスやら、応急手当て用の消毒液、ガーゼ、絆創膏やら……グレネードが入っているのは、流石にキヴォトスか。
水疱を潰すための針に、疲労対策のクエン酸に、塩飴に……相当長時間の運動を前提にしてる。シアンとの訓練で欲しかったものばかりだ。
……けど。けどなぁ。
「大体、そこにあるモノさえあればなんとかなる。リストアップしておいたから、それを参考に」
「あ、あの……」
「……どうしたの?何か気になること?なんでも聞いて」
き、キラキラとした瞳が眩しい……!言いづらい、けど……今言わないともっと言い出せなくなるし、言わないと。
「別に私、サイクリングを趣味にしようとしてるわけじゃなくて……」
「……そっか」
あ、耳が萎びた……心が痛い。心臓をつねられてるような気分。なんでこんな気持ちにさせられてるんだろう。
「……じゃあ、なんでここまで自転車で来たの?」
すぐさまに復帰してきたシロコが、ふとそんなことを問うてきた。
なんでか、か。これは、サオリ達にも言ってないことだ。別に隠す理由があるわけじゃないんだけど。
「あ、えーっと、それは……新しい体験を、探していると言いますか……」
ユズとのゲームで思い出した、前世の記憶。あれのヒントは、『前世の追体験』だと考えた。とりあえずその仮定を試すべく、この世界でやったことがないこと……やる機会がなかったことから、試してみたんだけど。
……何も思い出せなかった。多分、前世と関係ない体験なんだろう、これは。少し拍子抜けというか……まあ、自分まで誤魔化すのはやめよう。期待はずれ。落ち込み気味だ。
「……じゃあ、サイクリングを趣味にするつもりはないんだね」
「い、今のところは……」
「……」
……い、いたたまれない空気感。でもなぁ……興味がないわけじゃないけど、今回の目的はそれじゃないと言うか……。
「新しい、体験……」
「……?」
「……暗くなるまで、まだ時間はある。着いてきて」
「ちょ、ちょっと?」
そんなことを考えているうちに、シロコに手を引かれて。無理矢理に外へ連れ出された。
◇
「し、シロコさん!ちょ、はやい!早いです!」
「……少しペースを落とす」
不服そうだなぁ……!?こっちはスポーツ用のチャリでもないから勘弁願いたいんだけど……負けっぱなしも悔しいしな。
少し、体に神秘を走らせて。
「不要、です!」
「人には人のペースがある。それをいきなり乱すのはオススメしない。無駄に体力を消耗しちゃうから」
諭されてしまった。まあ、それもそうだよな。
「……ん。その調子。少しずつペースを上げていこう」
「はい」
昨晩、雨でも降ったのだろうか。水面に映った青空を散らしながら、ペダルを漕いで前に進む。弱々しい風が汗を揮発させて、体がひんやりと冷えるような感覚がする。
「そろそろ水分補給をしておこう」
「わ、わかりました」
これ、どうやって飲むのが正解なんだろう。飲み口が不思議な形してるけど。いや、というかそれより。
「あの、これどこに向かってるんですか!?」
「じきにわかる」
「い、今!できれば今知りたいです!」
「……見えてくるよ」
沈黙、その後無関係な発言。どうにも、答えてくれるつもりはないらしい。シロコの意図がわからない。
「これは……」
シロコの向いている方向へ、首を傾けてみる。もはや車が通ることもない道路で、都心部だったのだろうか。砂に埋もれたビル群を見渡すことができた。
「……ここは昔、アビドス自治区でも発展してた。今はもう、誰もいないし……誰も住めないけど」
「……」
「でも、朝……少し肌寒い空気の中で。照らされたこの場所を見るのが、好き。変だよね」
今は昼頃だから、あまり影が伸びていない。きっと朝早くなら、明暗の別れたコントラストを楽しむことができるんだろう。少し思いを馳せた。
「この標識が、自転車が通って良いサイン。従う意味はないけど、これがない場所はできるだけ通らない」
「……なんでですか?」
「先輩に言われた。それ以外、特に理由はない」
「はははっ……」
先輩。ホシノのこと、なんだろうな。随分、慕ってるみたいだ。
「そこにコンビニがある……ううん。あった。店番も、商品もないけど、水道は生きてる。水分補給くらいならできるはず」
「今は大丈夫です」
「そっか」
少し目につくのは、わざわざ植え付けられたように見える植物。多分、昔ここにあった店が植えたんだろう。
無遠慮に伸びきって、ほとんど野生化。こうなるのに、どれだけの月日が必要だったんだろう。
「迷子になったら、あの塔を基準にする。あれがこの自治区で一番大きな建物。サンクトゥムタワーよりは小さいけど」
……まあ、サンクトゥムタワーより大きい建物なんてそうそう無い……というか、多分ないよな。あったらすぐ気づくだろうし。
「この辺りは少し地面が荒れてるから、気をつけて。すぐに坂道に入る」
「は、はい!」
前に目を向けると、ひび割れたアスファルト。銃痕があるから、戦闘があったんだろう。容易に想像はついた。そのまま放置されているのも。多分、直す人がもういないんだってことも。
シロコがこの道を選んでるってことは、多分他の道はもっとひどいんだろう。少しだけ、やるせない気分になった。
「あ、でも。ここを超えたら、近くに電車が通ってて。そのあたりは、砂嵐の影響も少ないから……ちょっと人が増えるよ」
「あ、えっと……できればこの服装で、人の前は嫌かなって……」
「……わかった、迂回しよう」
「すみません……」
自転車で坂道を下る。ペダルを漕がなくても、スピードはぐんぐん上がって。このまま、何もしなくてもどこまでも行けるんじゃないかって。そんな気分になる。
二股に分かれた道を、左へ。横に目を向けると、遠目にビル群が見えた。そこへ続く道も。行き先はそこじゃない。暗に、そう示されたような気がした。
「ここからは、平坦な道が続く。砂に埋もれてるだけの街ばかり。見てても退屈、かも」
「……そうですかね」
前世の記憶にも、今世の記憶にもない景色。まるでこの自治区だけ、時間を奪われてしまったような。人が作り上げてきたものが、全て必要なくなってしまって。人はとっくにいなくなって。滅びかけ。
諸行無常、なんて言うけど。この街は人が戻ってくるまで、ずっとこのままなんだろう。きっと、戻ってくることもないんだろう。
「……そういえば、前にもここで行き倒れを見つけた。アビドスに身一つでくる無謀な人」
……先生のこと。なんだろうな。ちょっとだけ、憶えてる。行き倒れ、なんて言われるのは、ちょっとかわいそうな気がするけど。
「今日の状況は、あの時にそっくり。少し懐かしかった。色々なことがあったから」
「色々なこと……変なこと、聞きますけど……楽しかったことですか?」
「……どうだろう。楽しいこともあったけど、そればかりじゃなかった。辛いこともあった」
金策をみんなで相談したり。後輩のバイト先を訪れたり。銀行を襲ったり。先輩とすれ違ったり。
「……何気ない日常だった」
きっとそれが、彼女達なりの青春で。こんな場所でも、それは変わらないんだろう。
少しだけ、共感できる。アリウスも、同じだったから。
「……でも、そうじゃないこともあって……そうじゃないものがあることも、日常で……上手く言えない」
「わかりますよ。少しだけ」
「そっか」
それからは、特に深い会話もなくて。たまに、雑談を交わす程度。
少しずつ、道路から砂が掃けてくる。きっとこのあたりから、普段使いするような場所になっているんだろう。シロコがどこへ向かっているのか。なんとなく、察しはついてきた。
「……ここが、アビドス高等学校。今は誰もいないけど、ここが私の通ってる学校」
「立派な建物ですね」
「……売店は今も生きてる。お土産なら、そこで買うのがおすすめ」
自転車を降りて、シロコについて行く。部外者なのに良いんだろうか。と思わなくもなかったけど、特に気にしている様子もなかったから、考えないことにした。
「売店ってことは、人がいるんですか?」
「ううん。フルオート。潤沢な資金があった頃の名残」
校舎とは別の建物が、校門をくぐるとすぐに見えた。シロコが真っ直ぐ向かって、そこが売店なんだろう。
自動ドアが開いて、中に入る。特に古臭いとか、埃が溜まってる、なんてこともなくて、綺麗なまま。この場所だけ、過去にあるみたいな。
「……高校の敷地内は、できるだけ綺麗にしてる」
疑問が顔に出ていたのだろうか。ふとそう言われた。
店の中を軽く物色して、土産物を探す。有名な菓子パンや惣菜ばかりの中で、ふと目についたのはアビドス砂まんじゅう。学校のマークが焼印された、ただの饅頭。
それ以外にいいものもなかったので、それを四箱。一人一個以上は行き渡る。いや、マユミ達の分も考えて、プラス一箱。
「……ん。お買い上げに感謝する」
「え」
「これ、私たちが作った。……ううん。私たちの先輩が。だからそれを買ったら、私たちにお金が入る」
「は、図りましたね……?」
「法の範疇。何も悪い事はしてない」
……まあ、別に良いか。これ以外にいいお土産も見つからなさそうだし。ここ以外に、物が買える場所なんてないんだし。
「終わった?なら、着いてきて」
「はい、ちょうど」
会計を済ませて、シロコの後ろをついていく。初めてみる、俺が知る学校に近い学校。前世の記憶の、それに近い。
だというのに、室内でこの服装。ミスマッチなようで、少し変な気持ちになる。
「……あ」
バチ、と、頭の奥で音が鳴ったように聞こえた。これが前世で通っていた学校。その廊下を、友達と休日に。忘れ物を取りに通った。
多分、本当は制服じゃないとダメだったんだろう。でもその後、一緒に遊びたかったから。私服で行った。あの時も、今と同じ……変な気分だった。普段と違うその状況が楽しくて。
「大丈夫?」
「っ……はい……」
思い出してるうちに、どこかへ着いたらしい。シロコの声で引き戻された。けれども、姿は見えない。
「こっち。この上に登って」
「あ、上でしたか」
いつのまにやら屋上に来ていたらしい。梯子を登って、屋上の中でもさらに上。校舎で一番高い場所に辿り着く。
「あれは?」
「ソーラーパネル。あれで発電してるから、電力は実質タダなんだ。そしてここは、ホシノ先輩の昼寝場所。ホシノ先輩がいない時は大体ここにいるから、行方不明で困った事はそんなにない」
「はははっ……確かに、ポカポカしてていい場所ですね」
体を大の字に広げると、日照りに体を焼かれる感覚。暑いのに、そんなに悪い気はしない。
「あっちのあれは……なるほど、戦闘用の障害物……」
「……ん。最近だともういないけど、昔ヘルメット団がここを襲ってた。そのうち撤去するつもり。急拵えだから、改良の余地はある」
「私ならあそこに地雷を設置します。もしくは、あっちに落とし穴を作って、かかった仲間を助けようとしているうちに爆弾でどーん、と」
指先で設置場所を指し示しながら、あれよこれよと意見を言ってみる。
「……一回の戦闘ならそれでいいけど、ここは毎日使う場所だから。後処理が大変」
「む、なるほど……」
……そう言えば俺、アリウスで毒ガス使ったけど大丈夫かな……ま、いっか。なんとかなるだろ、多分。
「そろそろ、中に戻ろうか」
「え、少しここで寝ても……」
「……ホシノ先輩みたいなことを言うね。でも、ダメ」
「そんなー……」
仕方がないので従って、校舎の中に戻る。
そのまま進んでいると、廊下の一角でシロコが歩みを止めて。
「……ん」
「へ?」
「ん」
たくさんのポスターの中の一つに、サイクリング部、部員大募集の文字。
「私、アビドス生じゃないですから……」
「……むー」
何度も名残惜しそうにポスターを見返して、何度か繰り返して……効かないとわかったのだろう。そのままスタスタと歩き直した。
「……また、砂が増えてる。後で綺麗にしないと」
「……」
その道中、シロコがそう呟いた。様々な感情が織り交ぜられた、ぐちゃぐちゃな声で。
何か言おうとして、そのままやめて。「こっちはやめよう」、その言葉と共に引き返す。
「ここが、対策委員会って部活の部屋。私も一員で、いつもここで活動してる」
「……色んな本が……」
「大体は、アビドスに関すること。昔のお祭りとか、言い伝えとか」
アビドス砂祭り……って言葉が、少しだけ聞き覚えがある。なんなのかは、忘れちゃったけど。
「でも、ここはあんまり見せたくないかも。別の場所にしよう」
シロコに案内されて、色々な場所を見て回る。プール、生徒会室、空き部屋、職員室、その他諸々……そのどれもが、使われた痕跡さえも砂に埋もれていて。そこにいた人間のことを思うと、少し寂しくなった。
「……ここが最後」
そうして最後に案内されたのは、校舎の外側。校庭を挟んで、向い。
「ここは……」
「駐輪場……だった場所。今は、不法投棄されてる物しかないけど。おかげで、パーツの交換には困らない」
シロコが前に出て、その中の一つを手を触れた。自転車を持ち上げようとして、ハンドルが外れてしまっていた。
「……私は、ここで……ノノミと……ホシノ先輩と、出会った」
「っ……!?」
俺が知らない、この世界の出来事。シロコとノノミ、ホシノは……ここで?
「……寒くって……お腹、空いてて……一人ぼっちで、何もわからなくって……知らなくって」
「……!」
「自分の名前しか、わからなかった」
「記憶……喪失……」
シロコには、記憶が……そう、だったのか。どこか、納得した気がする。少しズレた感性も。アビドスを大切に思う理由も。きっと、それらに由来する。
「あなたは、知ってた」
「……え?」
「スオウ。あなたは、知ってた……私の、名前を」
「あ……」
出会った時。ぼんやりとした意識の中で、確かに呼んでいた。シロコの名前を。
「それだけじゃない。他にも、色んなことを知ってるみたいに動いて。あなたは……私と、少しだけ似てる。目とか。髪とか」
「……」
「……私の知らない、私を……知ってるかもしれないって、そう思って。だから、ここに連れてきた。それが理由の一つ」
目に浮かぶのは、期待。そして、恐怖。
ああ、わかる。わかるよ。自分が何者かわからないのって、辛いよな。俺も、そうだったから。
「……ごめんなさい。私のこれは……シロコさんに限った話じゃなくて。昔から……未来についての、記憶があるんです。ただ、それだけで……」
「……そっか。そうだよね……」
落ち込んでいるように見えて、どこか安堵しているようにも感じられた。まだ知らなくて済んだ、そんな様子で。
「すみません。期待させた上に、お役に立てなくて……」
「大丈夫。私は……アビドス高等学校の、砂狼シロコ。今はそれで、充分だから。……ただ、確認してみたかっただけ」
どこか、気まずい沈黙。風が砂を巻き上げる音だけが、時間を進めている。
「……戻ろうか。今度こそ、ミレニアムに案内する」
シロコがそう言って、自転車の方に戻る。俺も特に返事をするわけでもなく、それに追従する。
自転車のストッパーを上げて、椅子の部分に跨って。少しずつスピードを上げながら、来た道とは別の道へ。グングンと、景色は移り変わって。
「最後に、一箇所だけ見せたいところがある」
「……?」
坂を登っていると、シロコがそんなことを言った。緩やかな坂を登って、登って。そのうちに、道は平坦になり始める。
登り切ると、それがただの坂ではなくって、堤防であることに気づいた。川は砂に埋め立てられて、流れるはずもないのに……風に仰がれて、砂が移ろって。砂の清流。そんな、幻想的な景色だった。
何を言うわけでもなく、示し合わせたみたいに自転車を止めて、その景色を見通す。
「綺麗……」
「……この先を真っ直ぐ行くと、ラーメン屋があって。セリカはそこで働いてる。そうじゃない日も、みんなで帰る時はここを通る。最近見てる動画とか。明日何をするかとか。そういうことを話しながら。私は、その時間が一番好き」
「……」
シロコがなぜそんなことを俺に言うのか、わからなかった。彼女からすれば、俺は今日初めて話しただけの人間。俺にとっては、そうじゃないけど。
「……この道を、一人で帰る時……私は、寂しさでいっぱいになって。それが毎日続くことなんて考えられないし、考えたくない。……一度、そうなりかけてしまった」
「あ……」
そうなりかけた。きっと、ホシノの一件なのだろう。ホシノが、カイザーPMCからアビドスを守ろうとして……黒服に、その体を受け渡したこと。
「……あなたは、私に少し似てるけど。もっと似てる……ホシノ先輩に」
そう、なのかな……あんまり、自分では考えたこともなかった。
でも、シロコの表情は真剣そのもので。冗談を言ってるようにも思えなかった。
「……もうあんなこと、しないであげてね」
「え?」
「大切な人が、苦しんでて……それなのに、何もできなくて、知らなくて……それはすごく、辛いことだから」
「……」
……ヒフミあたりから、なんとなくの事情は聞いてると言っていた。察してはいるんだろう。でも、こんなこと言われるとは思ってなかった。
「……自分にとっては、良くても……あなたを大切に思ってる人たちの日常は、続いてて。そこに大切な人がいない事は、どうやっても消えないことだから。その人の日常に、溶け込んでるから」
「……はい。知ってます。わかってますよ。全部」
これでもかと、骨身に染みて。何度も何度も、言われ続けて。もうとっくにわかってる。
だから、もうあんな事は……多分、したくたってできない。
「ん、なら良い。今日は、それを一番伝えたかった」
きっと、シロコにとってはホシノがそうだったんだろう。サオリ達を、自分と重ねて。居ても立っても居られなかった。そんなところだと思う。
「この道をサンクトゥムタワーの反対に真っ直ぐ行けば、ミレニアム自治区に着く。あとは大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、ここでお別れ。ごめんね、寄り道させて」
だからかな。アビドスの色んなところを見せて、アビドス校舎まで案内してくれたのは。
「あ、それじゃあ私も、最後に一つだけ」
でも、正直それで得られたのは別の事柄というか。感情というか。
「……?」
「サイクリング。趣味候補くらいには、考えてもいいかなって思ってます。楽しかったです」
色んな景色を見て。ちょっとだけ、くだらない記憶も思い出して。思いっきり体を動かして。とても充実した一日で。楽しかったな。
「……スマホ、貸して」
「はい?」
「いいから」
ひったくられるようにスマホを奪われて、少し操作されて。モモトークの画面を開いたまま突き返される。
「わからないことがあったら、気軽に聞いて。いつでも答える」
「……」
「それと、その服はそのままあげる。どうせ予備はあるし。他にも必要な装備は貸してあげるから」
途端にテンションが高くなったシロコ。先程までのサオリ達を想う心優しい少女はどこへ行ったのだろうか。いや、こっちの方が年相応でいいけどさ。
「今度、ツーリングに出かけよう。おすすめのルートがある」
「は、はははっ……まあ、たまになら付き合いますね」
「……ん。初めてのライディング仲間だ」
動かない表情。けれども確かに伝わってくる喜びを抱えたまま、名残惜しいけど、と言い残して。
「それじゃあ、また今度会おう。……じゃあね」
「はい。また今度」
手を振って、後ろを向いて。次第にその背中は、陽炎に溶けていった。
「……」
ガチャリ。自転車のストッパーを上げ直して。錆びついていたせいで、キィ、と音が鳴り響く。それ以外には、何の音も聞こえなかった。
「……何気ない日常、ねぇ」
そこに、シロコにとってはホシノがいて。サオリ達にとっては、俺がいるらしい。
きっと、それは俺にとってもそうらしくて。それは、小さな奇跡の連続で。たった半日。今日という日を、みんなと別れて過ごした。ただ、それだけなのに。
「静かだなぁ……」
砂が流れる音。車輪が回る音。呼吸の音さえ聞こえるほどに、静かで。体にぽっかり、穴が空いている。
「……帰ろう」
帰ろう。できるだけ、急いで。帰って、みんなにただいまって言って。お土産を渡して、そしたら今日見たものを話そう。あった事を伝えよう。
それで、そしたらいつもみたいにおかしなこと言って。サオリが少し怒って、アツコが落ち着かせて。ミサキがさらに責め立てて、ヒヨリはそれに便乗する。その頃には、アズサもフォローを入れてくれる。
「……ふっふーん、ふん、ふーんふん」
そんなことに思いを馳せていると、次第に足取りは軽くなって。
早くみんなに会いたい。それだけの気持ちが、たくさん溢れ出して。
「……ああ、もしもし。サオリ?はい、まだアビドスです。いえ、ちょっと電話しながら帰ろうかなって……みんなはいますか?」
堪えきれなくて、電話をかけてしまった。きっとこれは、しょうがないことなんだと思う。