ts転生者の生徒が、頑張るだけのお話。   作:おにっく

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【後日談】珈琲は先生(おとな)の口当たり

 夜、夕飯の後。クローゼットの中から下着と寝巻きを取り出して、お風呂へと向かう瞬間。私的な意見だけど、人がもっとも心安らいで、油断する時間だと思ってる。

 

「ふっふっふん、ふふっふっふんふーん」

「……妙な曲調だな。なんの楽曲なんだ?」

「っ、さ、サオリ!?聞いてましたか……?」

 

 そのせいでサオリに鼻歌を聞かれてしまった。最近のマイブームだけど、人に聞かれると少し恥ずかしいな。

 

「少し前から」

「うぐ……なんの曲かは忘れました……確か、なにか……こう、青い封筒みたいなものが……う、ぁ……!?」

 

 閉ざされた記憶。それは思い出さなくて良いと、後ろから誰かに目を塞がれた。ひどい頭痛がしたのでそれに従い、思い出そうとする行為を中断する。

 

「だ、大丈夫か……?水を持ってこよう、少しそこで」

「い、いえ!問題ないです、もう治りましたから」 

 

 おろおろと動きあぐねているサオリを嗜めて、服を畳み直して浴室へ向かう準備を整えた。

 

「そうか、ならいいが……やけに上機嫌だな?」

「へっ?そ、そう見えますか……?」

「ああ。スオウであることを加味しても珍しいくらいにな」

 

 俺であることを加味してもってどういう意味だ。いや、そんなことはいいんだ。

 それより、そんなふうに見えるのかな……俺。

 

「勘違いならいいんだ。それより、明日は早くから出るんだったろう。引き止めて悪かった」

「いえ、サオリならウェルカムです!」

「……そうか」

 

 むぅ、相変わらず反応の薄い……もっとこう、踏み入った方がいいのか……?いや、でもやりすぎると怒られそうだし。

 

「くだらないことを考えているな」

「……バレましたか」

 

 なんというか。サオリも察しが良くなったな……いや、俺がわかりやすくなったのかな。

 

「当然だ。そんなことをしている暇があるなら、早く風呂へ向かえ。あとがつかえている」

「むぅ……」

「それに……」

 

 まあ確かに、明日は遅れるわけにもいかないよなぁ。

 

「折角、シャーレの募集に参加できたのだろう?」

「はははっ……そうですね」

 

 大事な用事なんだ。すごく。

 

 

 

 

 熱めのシャワーで体を洗って、手にボディソープを出して泡立てる。ここで泡立てないと、肌を強く擦りすぎてダメージが入るらしい。

 本当はぬるま湯がいいらしいけど……熱いお湯が、蛇口を捻れば簡単に出て来る。最初はすごく感動したっけ。多分その影響で、熱いお湯がお気に入りだ。

 

「……はぁ」

 

 相変わらず、胸の位置から伝わる柔らかい感触は強い違和感を訴え続けている。十七年、この体と付き合ってきたけど……やっぱり、慣れないな。前よりはマシになったけどさ。

 

「よい、しょっと」

 

 ミカから送られてきたコットン製のタオルで背中を優しく洗って、そしたら掛け湯ですぐさまに泡を流す。長時間触れさせておくのはダメとかなんとか。

 洗顔についてと同じように。

 

「めんどくさ……」

 

 体なんてガーッとシャワー浴びせてワーッと擦って泡流したらそれで終わりでいいのに。

 でもなぁ……ミカが次会った時に確認するとか言ってるし……サボってたらイチから洗い方教えるとか言われたし……嫌な予感がするから、できることはやっておきたい。

 

「……相変わらず、貧相な」

 

 自分の幼女体型に複雑な心持ちを抱きつつ、ヘアバンドで髪をまとめる。このあと、髪も洗わなきゃいけないのが心から億劫だ。

 

「はぁ……」

 

 湯船に使って、足を八の字に投げ出す。この瞬間だけは誰に邪魔されることも、余計に気にしなきゃいけないこともない。心安らぐ時間だ。

 でも、そうしてみるといろいろ思い浮かぶこともあって。

 

「シャーレの、当番……」

 

 生徒募集。連邦生徒会の直轄であるシャーレが、その活動の補助として自由に生徒の協力を募るシステム。

 その需要はなぜか凄まじく、競争率は激しい。とはいえ手伝いは手伝い、ほとんどの生徒は日頃外せない用事があるため、まあ常識の範疇といったところだ。

 そして今回、募集が無事受理され……正式に連邦捜査部、シャーレ……先生からの依頼が来た。

 

「えへへ……はっ!?」

 

 変な笑い声が漏れた自分にお湯をぶつけ、近くに置いておいたタオルで顔面を拭き取る。少し頭が冷えた。髪にお湯がかからずに済んだのは幸いだ。

 

「もう髪の毛切ろうかな……」

 

 ベリーショートくらいにすれば別に気にしなくて済むだろ。多分。ついでに色も入れて、多少ダメージが入ってても言い訳つくように……ああ、ダメだ。俺の髪じゃそうそうダメージなんて入らないわ。

 しかも多分、マユミあたりがそれを捨てるだなんてとんでもないとか言い始めるし。

 不満はさておき、シャーレからの当番の依頼だ。シャーレ、つまりは先生の手伝い。どんなことをするのかは、明日改めて直接説明があるらしい。

 ……先生と会うのは、本当に久しぶりだな。

 

「いや、半月前……あれはノーカン。ノーカンだ」

 

 着ぐるみ越しでの出会いは実質なかったも同然だ。先生は気づいてないわけだし。抱きしめられたこととか全部ノーカン、大真面目に関係ない。

 そうなると、最後に会ったのはトリニティとの話し合いの後で……だから俺が、ベアトリーチェと戦った後……。

 

───“私の大切な生徒には、指一本触れさせない!!”

 

「っ!?も、ふぅ……!」

 

 心臓が張り詰めるみたいに、息が苦しくなる。蒸気のせいかな。叫び出したいくらいだ。

 

「うー……」

 

 熱くなった顔を誤魔化すみたいに、鼻から下を湯船に浸からせて。ぶくぶくと泡をたてる。数秒それを繰り返していると息苦しさも消えて、少し落ち着いた気がする。

 

「はぁー……」

 

 少しのぼせてきたかな。でも、まだそんなに時間は経ってないはずなんだけど。

 あの時。あの場所で気づいた、自分の気持ち。本当は、俺……先生に憧れてて。

 そこで見た姿は、俺が成し得なかった理想の体現者、そのもので。

 

「……カッコよかった、な……」

 

 変な意味じゃなく、そう思う。俺もあんなふうになりたい。心からそう考えさせられた。陳腐な言葉で表せば、尊敬してる。

 でも、それが自分に向けられた……あの瞬間、あの場所でだけは、俺のために向けられたものだって、そう考えると。

 

「……うぁ」

 

 むず痒い。

 

「あー!やめやめ!」

 

 上半身を風呂場の横に投げ出して、腕を枕に体重を預ける。窓を軽く開けると、ひんやりとした空気が体の熱を奪っていく。

 茹で上がっていた頭が、少しずつまともに戻されるのがわかった。そうすると、いくらか気になることもできてきて。

 

「大人の、カード……」

 

 あの時先生が取り出していた、黒いカード。先生の生と、時間を……削るカード。

 

「ほふぅ……」

 

 湯船から出て頭皮に泡を馴染ませながら、それでも思考は深くへ落ちていく。

 使えば使うほど削られていくモノ。無限の力に思えるソレは、確かにナニカを擦り減らす。

 それは例えば、先生がこの世界……キヴォトスにいられる時間なのかもしれない。それとも、命と時間をかけて得られるもの……お金だとか。もしくは、命……寿命、そのものなのかもしれない。

 

「……やだ」

 

 そんなのは嫌だ。そんな、そうなるくらいなら……俺が……いや。

 

「違う、よな……」

 

 俺たちが。先生に協力して、そんなものを使う必要を無くせばいい。それが俺にできる、最低限の恩返しだと思うから。

 そんな力を使ってまでも、先生は俺を助けてくれたんだから。

 

「ふぁ……」

 

 ヘアオイルをつけて、ドライヤーも終えて。段々と、眠気を感じ始めた。

 この感覚も、辛いだけだったはずなのに……いつのまにやら、もう寝る時間だって、そんな合図になっていた。

 眠たい時に眠れるって、こんな幸福なことないよ。多分。

 

「ミサキ、つぎお風呂どーぞ……」

「りょうか……眠そうだね」

「はい、眠いです……」

 

 目がうまく開かない。ちょっと長く入りすぎたかな。

 

「一人で戻れる?」

「なんとか……」

「そ。気をつけてね」

「はい……」

 

 フラフラと体を動かして、ベッドに身を投げ出す。少しの風が巻き起こって、少し目を閉じて。このままシャットダウン、と洒落込みたいところだけど。

 

「……」

 

 なんとなく『ノート』を机から取り出して、パラパラとページを捲る。一番最後に書かれているのは、先生の情報。何度も何度も見返して、先生は信用できると決定付けた。

 その内容は、はっきり覚えてる。だから俺が見るのはそのページじゃなくて……生徒の情報が書かれたページ。その中の、先生が登場する部分。

 例えば、小鈎ハレのページ。

 

『エナジードリンクを飲みすぎて先生に止められてた』

 

 この前のマユミを見ると、先生の気持ちもわかるかな。エナジードリンクは恐ろしいものだ。

 まあこんな具合に、『最低限の情報として書かれた先生』じゃなくて、実際のエピソードが書かれているわけで。特に理由もないけど、見返しておきたいと思った。他のページも見てみよう。

 

『先生を押し倒してた。気まずくなりそうなもんだけど、互いにそんな感じはなかったっぽい』

「おお……」

 

 そうだよな、流石先生だ……生徒に手を出すなんて言語道断だもんな。

 

『先生に花をプレゼントされてた。お姫様呼びするし、先生は割とジゴロかもしれない』

 

 アツコのページ。お姫様……そっか、お姫様。ロイヤルブラッド、だもんな……そっか。

 アツコは最近ガーデニング中なら興味があるみたいで、俺が育ててる畑もちょくちょく見に来てる。そういう趣味の部分まで、ちゃんと見てくれてたんだな。

 見返せば見返すほど、先生は……先生だな。うまく言葉にできないけど、さ。やっぱりこの人は、信用できる大人だ。

 

『ロボットを買った先生を叱っていた。曰く、生活必需品。そんなわけねぇだろ』

「……ん?」

 

 ……まあ、先生も人間だもんな。趣味の一つや二つあったっておかしくない。食費一ヶ月分はやりすぎかもしれないけど、そういうこともあるだろう。

 

『先生に匂いを嗅がれてた。せっかく助けたのに、不憫だ』

「……うん、まあ……いや」

 

 なんか雲行きが……?

 ……いや、大丈夫。これもきっとあれだ。なんかこう、生徒の体調が大丈夫か確認するためとか……自分が熱中症でぶっ倒れてる状態でもするだろ。多分。

 

『先生に足を舐められてた。自分から言い出したことだし、割と自業自得な気もする』

「……これは、うん。そうだよな。確か生徒を助けるためとかそんなんだったはずだ」

 

 何も問題ない。むしろ生徒を助けるためなら足を舐めるのも厭わないってだけで、責められる謂れはない。

 

『先生との賭けに負けて首輪をつけてた。カウベルってそのためにあったのか?』

「……これもその、あれだ。多分ほら、あれだ」

 

 いや、その……だ、大丈夫だよな?先生はそんなことしないよな?

 

『先生に頭皮を嗅がれていた。曰く、おひさまの匂い』

『小学生の頃のアルバムを先生に買われていた』

『フウカたん呼ばわりされてた』

『スリーサイズがどうこうとかセクハラされてた』

『誤って手錠で拘束された状態をじっくり眺められてた』

「……え。っ……と」

 

 いや。いやいやいやいや、いや……きっと何か理由があるさ。先生は理由もなくそんなことしない。だってそんな、先生だぞ?

 確かには他から見たら変態じみた奇行かもしれない。でもそこにはきっと理由があるって、そう信じてる。水着じゃなくて下着だと思えば、それは下着だって……あれ、これも一応セクハラか……?

 

「……」

 

 急いで他のページを漁って。辿り着いたのは、ヒヨリのページ。大量の情報を飛ばして、先生に関する記述にだけ目をつける。

 

『先生に涙目でお腹を見せてた』

「……!!」

 

 先生……嘘だよな……?

 

 

 

 

 覚悟を胸に。アリウス分校の制服を身に纏って、シャーレの自動ドアを潜る。

 中へ入ると、外へと空気が向かっていって……白いコートがはためいて。これから起きる不穏を体現しているかのようだった。

 

「えっと、最初の道を左に……道なりに進んで、二番目のドアを……」

 

 道案内を確認しながら、ゆっくりと広大な建物を進んで。少ししてようやく辿り着いたのは……シャーレの、執務室。四方のうち一つは全面が窓ガラスで、強い光が外から入り込む。あそこで昼寝をしたら気持ちいいんだろうな。

 でも、そんな油断をする暇なんてない。

 

「“や、スオウ。来てくれたんだね”」

「うぇ、あっ、せ、先生!」

 

 後ろから突然話しかけられて、心臓が飛び上がって。少しして、その声が先生のものだってわかった。

 

「は、はい!お待たせしました、先生!アリウス分校小隊、桐花スオウ!ただいま、シャーレに到着です!」

 

 声がうわずって、自分らしからぬ言葉選びで。よっぽど緊張しているのが、自分でも簡単にわかった。

 この後起こることを思えば、仕方がないのかもしれない。

 

「“スオウも大変なのに、本当にありがとう”」

「……いえ。みんなと協力してるから、そんなに大変でもないですよ」

「“……そっか”」

 

 小さく、相槌の音だけが聞こえてきた。その大人に目線を向けると、柔らかな表情。瞼を閉じて、微笑んでいた。

 

「っ……」

 

 そんな表情をするなんて、思っていなかったから。少し、びっくりした。

 やっぱりこうして見ると……先生は、先生だよな。

 

「さ、て……ひとまずなんですが」

「“ああ、ごめんね。ちょっと待ってて、軽く今日やることの説明を”」

「いえ、そうじゃないです」

 

 さっきから、神秘で聴覚を強化して……かつ、部屋の中をよく観察して。違和感のあるところが、数箇所。そのうちの一箇所を選んで、先生の手を引く。

 

「ここですね。これ、見てください」

「“……延長コード?”」

「はい。ぱっと見では、その通りです」

 

 延長コードの接続部分を手にとって、力任せにパキっと割って。その中から、コードがついた銀色の機材を取り出す。

 明らかに、延長コードには関係のない部品。ビンゴだったな。

 

「これ、盗聴器です」

「“……!?”」

「先生、耳を塞いで」

 

 一瞬の困惑。その後、急いで耳に手を当てたのを見届けてから、大きく息を吸い。

 

「わ、あああぁああぁああああああ゛!!!」

 

 掌に盗聴器を包んで、それに向かって思いっきり叫び声を出してやった。

 手を開いてみれば、どこかの部品が破損したのか完全に機能の停止した盗聴器が一つ。

 

「よし。これであと二つ」

 

 困惑する先生を他所に、残り二つの盗聴器もパパッと発見して、残りも同じように壊す。

 相手側にこの音声が伝わるかわからないけど、伝わってるならこれで懲りて欲しいかな。

 

「ん、んんっ……よし。これで問題なし、です」

「“一体、なにを……”」

「盗聴器仕掛けられてたので、全部ぶっ壊しました。まさか成功してたなんて……」

 

 思い当たる節はあるけど、昨日先生とのエピソードを読み返した時は悉く失敗してた、はず……まあ三つしか仕掛けれなかったあたり、かなり弾かれてはいるのだろう。

 癖で盗聴器の確認をしておいて助かった。アリウスの時より、幾分か場所もわかりやすかったし。

 

「さておき……改めて先生、今日はよろしくお願いします。その、遅れてしまいましたが、先生には本当にお世話になって……」

「“ううん。それより、見つけてくれてありがとう。これは私が処分しておくね”」

 

 壊れた盗聴器をスッと取られて、先生はそれを小さなビニール袋に入れた。ゴミの分別で考えると、あれは何ゴミになるんだろうか。

 いや、というか。

 

「それ、もう壊したから使えませんからね?」

「“……ん?”」

「悪用しちゃダメですからね?」

「“し、しないよ?”」

 

 ……まあ、ひとまずは信じよう。

 

「“とりあえず、スオウに手伝って貰うことについて説明するね”」

「あ、はい」

 

 ……昨日の夜。あの後、眠気も吹き飛ぶように『ノート』を捲って、読み返して。先生にまつわる情報を抜き出して行った。

 

「“シャーレの主な仕事は困りごとの解決だから、ひとまずは依頼をまとめてくれると嬉しいかな。それが終わったら、一つずつ対処していく感じで……最初はわからないこともあると思うから、何かあったら聞いてね”」

「なるほど」

 

 その結果として……正直、わからなかった。

 俺がこの世界で見てきた通りの先生だったこともあれば。そうじゃないこともあって。割とダメなところも多かった。でもやっぱり、頼りになる時は頼りになって。

 

「“もしかしたら現地に赴かないといけないようなこともあるから、その時は……スオウ?”」

「はい、なんですか?」

「“気のせいでなければ、視線が……”」

 

 だから、俺がここで先生を見極める。先生が立場を利用して生徒にセクハラ紛いな行為をするような人間じゃないって、そう信じてる。

 それでも、もし違ったときは。

 

「……!」

「“少し、怖いような……?”」

 

 俺が責任を持って……妹たちがその毒牙にかかる前に、これ以上被害者が増える前に。先生の先生を……切り落とす。

 俺が先生を……止めてあげなきゃいけない。

 

「“っ……?何か、寒気が”」

「さっ、寒気、ですか?」

 

 とはいえ、先生もそう簡単にボロは出さないだろう。シャーレには黒い噂もあるらしいけど、実際それで一年近くをバレずに過ごしているんだ。

 

「そっ、その!」

 

 だから、恥ずかしいけど。すごく嫌だけど。

 

「わっ……私が、あっためてあげましょーかぁ……?な、なーんて……」

 

 俺の貧相な体を使って、先生を……その、誘惑というべきか。ハニートラップ。それしかできることはない。

 幸いにして、いや幸いじゃないけど、先生はアロナに黒ビキニを強請っていたらしいし……俺くらいのも対象として見られる、はずだ。

 あとは中身の問題。だから、精一杯こんな感じの演技をすれば自ずと先生も……。

 

「“……”」

 

 両腕を先生に向けて広げて、なんとか笑顔を取り繕う。身体中が熱くて、額に汗が浮かんでくる。額だけじゃない、全身に。

 心臓が早鐘を打って、うるさくて仕方ない。喉の奥が、詰まってしまったみたいに吐き気がする。沈黙が耐え難い。

 

「な、なにか言って……」

 

 何か言ってくださいよ。冗談めかしてそう言おうと思ったけれど、うまく話せなくって。小さな声が、途中で止まってしまった。

 

「“大丈夫。気のせいだったみたい”」

 

 それから少し間を置いて、そしたらやっと永遠のような時間が終わりを告げた。たった一度でこれ。それでも、やるしかないんだ。

 コートを脱いで、手首にかけて。

 

「そ、そうですかっ!で、でもわた、私は、ちょっと……暑いかなぁ……?」

 

 襟元のボタンを、一つ。

 

「っ……!」

 

 大丈夫。上半身だけならそんなに恥ずかしくない。別に対して胸もないし、体も男だったころとさして変わらない。変わらない。変わらない、はずだ。

 

「うぅ……!」

 

 大胆に、二つ目。さらにボタンをはずして、かなり危ういところまで開いた。このまま手で広げてしまえば、下着……キャミソールまで見えてしまうだろう。

 だというのに、先生は無反応だ。これじゃ、足りない。

 

「はっ……はっ……!」

 

 喉奥に溜まった重たい息を、吐き戻すように出しながらなんとか呼吸を保って、三つ目のボタンに手をつける。

 そのタイミングで、ピッと音がした。

 

「“確かに、今日は少し暑いかもね。リモコンはここに置いておくから、もし暑かったり寒かったりしたら、自由に変えて。コートはここにかけておけば大丈夫だから。銃はそっち”」

 

 先生が、少し距離を詰めてくる。「“もらっていい?”」、そう聞かれて、うまく反応することもできなくて。小さな頷きと共に、コートを渡すだけしかできなかった。

 そういえば、先生は今日コートを着ていない。少しさっぱりとした印象だ。そんなことを考えていると、消え入りそうな音で先程まで着ていたそれが、大きなコートの隣にかけられた。白い、先生のコート。

 よく考えたら、お揃い……だったんだな。まさか無意識に……いや、ただの偶然だ。そう思わないと、流石に気恥ずかしい。

 

「……」

 

 リモコンが示す温度は、二十五度。体を冷やしたくないので、少し上げる。ボタンを付け直して。汗が揮発して、体が怠くなっていった。

 

「“寒かった?”」

「は、はい、すこし」

「“そっか。コーヒーしかないけど、いいかな?”」

 

 いいかな。一体、何が。そう考えて、コーヒーを勧めてくれている。淹れてくれるつもりだったのだと、すぐに理解できた。

 

「ありがとう、ございます」

「“気にしないで。ここで待っててね”」

 

 軽く、軽く。暖簾さえも押せないような優しい手つきで背中を押されながら、同時に手を引かれて、ソファへ案内される。子供扱いされているようで、少し嫌だった。

 

「……はぁ……何やってるんだか」

 

 まだ心臓は鳴り止まない。静かな部屋が、やかましい。慣れないことなんて、するもんじゃない。

 心を落ち着かせようとスマホを開けば、昨日シャーレについて調べたら履歴の数々。やれ女生徒を連れ込んでは怪しげな行為をしているだとか、公園で生徒を素っ裸にさせた上火をかけてたとか……流石に嘘くさいのもいくつかあるけど。

 

「“お待たせ”」

「うぇあっ!?」

 

 背後から、再び声。先生は気配を消す技術でも持ってるんだろうか。全く気付けないんだけど。

 

「“まだ少し熱いから、気をつけてね”」

「……はい」

 

 やっぱり、話せば話すほど俺が知ってる先生とはかけ離れてる。噂は噂、なのかな……でも、じゃああの『ノート』の記述は、一体……。

 

「……ゔぇ」

 

 そんなことを考えながら、コーヒーに口をつけて。あまりの苦さに、変な呻き声が漏れた。直後、喉の奥を貫くような酸味。

 

「にがい……」

 

 どうしよう。せっかく淹れてもらったのに、美味しくない。吐き出してしまいたい。

 前世では、よく飲んでた気がする。テスト前に、友達と勉強する時とか……父親のコーヒーマシンを勝手に使って、それを飲む。あの苦味も慣れてしまえば、いいアクセントだった。香り深くて。

 今は、そんなこともない。子供舌、なんて呼び方があるけど、多分そんな言葉が似合うんだろうな。

 

「……」

 

 何回も、何回も、何回も、何回も。繰り返して、自覚させられる。前世の体と今の体は、別物なんだなって。

 

「“砂糖、入れないの?”」

「……え?」

 

 横道に逸れた思考に、追従するみたいに。先生の声が聞こえた。カップが乗っていた小皿に目線を向けると、空けられたシュガースティック。コーヒーフレッシュ。俺の皿にも、同じものが置かれていた。

 

「“苦くない?”」

「……先生は」

「“……?”」

「先生は、そのまま飲まないんですか?」

 

 ふと、予想していない言葉が口から漏れた。聞くつもりもないことだったから、しまったって思った。

 

「“……うーん……恥ずかしい話、でもないけど。私は、甘いコーヒーの方が好きかな”」

「……」

「“飲まなきゃいけない時は、ブラックで飲むけどね”」

 

 意外だ。そう思った自分に驚いた。

 何も知らなかったはずなのに、なんでかそう思ってた。先生はコーヒーをそのままで飲むものだって。

 

「“スオウは飲めるんだね。少し羨ましいかな”」

「い、いえ、私も……私も、苦いのはニガテ、です」

「“そっか。甘党仲間だ”」

 

 なんとなく、コーヒーに口をつけるつもりにもなれなくて。黒く歪む自分と、白んでいく姿をぼんやり見つめてると、時間がかなり経ってたらしい。

 

「“飲まないの?”」

「っ、いえ、いただきます」

 

 反射的にコーヒーをまた飲んで。ミルクも砂糖も入れてたから、まだ苦くって。ちょっと咽せた。

 

「“大丈夫?”」

「は、はい……」

「“そうだ、アイリと一緒に買ってきたケーキがあるんだ。一つどう?”」

「え……でも私、まだ何もしてないですし……」

 

 一応、手伝いの名目で来たはずだよな、俺。

 

「“私もまだほとんど何もしてないから、大丈夫だよ”」

「大丈夫じゃないですよね?」

 

 シャーレの始業時間から、すでに十数分。言い訳がつかない時間になり始めている。

 

「“今日はそんなに依頼が来てるわけでもないし……のんびりやったら、ダメかな?”」

「っ、だめ。ダメです。休憩に入ってからにしましょう」

「“そんなぁ……”」

 

 危なかった。反射的に良いですよ、とか言っちゃうところだった。

 でも、案外先生もサボったりするんだな。言われてみれば、ユウカに帳簿つけてもらってたり、リンに報告書が口語だって怒られてたり。案外、ダメなところもあった気がする。

 じゃあ俺が知ってる先生は偽物なのかって。それは違う、よな。

 

「……先生。私、そっちのコーヒーも飲んでみたいです」

「“え?中身は変わらないけど”」

「いいですから、ほら」

 

 忘れかけていたから、言い訳するみたいに雰囲気をそっち側に持っていこうと頑張ってみる。

 身体的接触の誘発、体の一部の露出ときて、ただの間接キス。弱い気がするけど、こういう方が好みの人だっているし。

 

「……」

 

 問題は、なぜか俺もこれでもかってくらい躊躇してることかな。落ち着け、別に友達とシェアで飲んでたあの時と変わらない。ヒヨリともよくやるだろ。

 

「わ……」

「“……うーん。やっぱり苦い”」

 

 甘かった。これでもかってくらい、たっぷり砂糖が入ってる気がする。先生の健康が心配だ。

 でも、俺はこの味が好きだ。酸いも甘いも、って言葉もあるけど。今はまだ、甘いだけが良い。

 

「“そろそろ始めないと、あとでリンちゃんに怒られちゃうかも”」

「リンちゃん……ちゃん?」

「“それじゃあ、改めて続きを説明するね”」

 

 先生が立ち上がって。それについて行って。先生はデスクの前に座って、PCを開いた。

 

「“PCの使い方は知ってる?”」

「……辛うじて、覚えてる程度かもです」

「“じゃあ、一個ずつ説明するね”」

 

 さっきまでの穏やかな雰囲気はどこへやら。いつの間にか、きちんとシャーレの手伝いが始まっていた。

 

「“それで、仕事用のメールアドレスは……スオウ?”」

「すみません、画面がよく見えなくて」

「“そっか。少し明るくするね”」

 

 その間に距離をかなり詰めて……先生の顔が真横にくるくらい、頑張って詰めてみたけど。あんまり効果はなかったらしい。

 このために不得手な化粧もしてきたし、マユミから香水も借りたのに……無反応。なんでか悔しい。心の中が、ぐちゃぐちゃだ。

 

「“……大丈夫?”」

「先生」

 

 いつの間にか、先生の椅子の前に立って。逃げ出せないように、両肩に手を置いた。押し倒すように、近くへ迫った。

 

「“……どうしたの?”」

「先生……私……その、先生……は、が……」

 

 言葉もまとまらなくて。呼吸は早くなって。考えが散漫になっていく。

 

「だって、先生は……先生って……先生って、誰なんですか?」

 

 わけがわからない質問だった。自分でも、わからないくらいに。自分がわからない。

 

「“……私は、生徒のための先生だよ”」

 

 先生なら、そう言うんだろう。予想通り、そんな答えだった。でも、だったらなんで。

 

「“だから……どこにでもいる、普通の人の一人かな。誰でもない、ここにいる私が私だよ”」

「っ……」

 

 普通の人。誰がって、先生が。

 

「あ……」

 

 ちょっとだけ、わかった気がした。

 

「……ごめんなさい、先生」

 

 俺は確かに、この人に憧れてて。別に俺が憧れたこの人も、間違いじゃなくて。

 

「その、実は……」

 

 でも。この人は……ダメなところもあって。やっぱり、俺を助けてくれたのも事実で。そこをひっくるめて、きっとそれが先生……なのかな。だから肩の力抜いて、人を頼れて。

 見ようとしてなかったけど。飲まなきゃいけなかっただけ。先生も、甘いコーヒーが好きなんだ。

 

 

 

 

「“えっと、つまり……スオウの知る私が、生徒と危うげな行為に及んでいたと……”」

「はいぃ……!!すみませんでしたぁ……!!」

 

 結局、先生が手を出してくることはなかったわけで……あれは完全に誤解ということに……罪悪感がすごい。

 

「“……私は生徒とは、そういう関係にはならないよ”」

「はい、その通りだと思います……」

 

 というか、もうなんか全部恥ずかしい。思い返すと結構とんでもないことやってたような……いや、問題ない。大丈夫、絵面は犯罪的だけど先生はなんとも思ってなかったっぽいし。……なんとも思ってなかった、っぽいし。

 

「それで、先生が妹に手を出さないか確認するために……そ、その、ハニートラップ、みたいな……」

「“なるほど……”」

 

 どんな羞恥プレイだ、こんなこと自分の口から言うとか。ああもう、穴を掘ってそこへ潜り込みたい……消え入りたい……。

 

「本当に、失礼しました……」

「“ううん。誤解があったんだから、仕方がないよ”」

 

 この懐の広さ。先生は自分のこと、普通の人だ、とか言ってるけど……俺もちょっとだけ、納得できるけど。

 

「“それにね”」

「……?」

 

 けどやっぱり、違うんだ。

 

「“私もまだまだ、未熟なところがある。間違ってしまうこともある。だから、私を信じすぎなかったのは、良いことなんじゃないかな”」

「……!」

「“もしスオウが、私のことを間違ってるって思ったなら。その時は、今日みたいに……しっかり話してくれると、嬉しいな”」

「……そう、ですか」

 

 この人は、俺とは違う。

 未熟な自分も、受け入れて。それをできるだけ悟られないようにしてるってだけで、普通にバレることもあるし。かと思えば、どこか完成されたようなところもあって。

 

「じゃあ早速、一つだけ」

「“……?”」

 

 少なくとも、普通の人なんかじゃない。

 

「先生は……すごく善い人で。良い大人だと思います」

「“……そっか。ありがとう”」

 

 信用していい大人。そこだけは、今日あったことを通しても……十七年前から、ずっと変わらないなぁ。

 

「でもよかったぁ……じゃああの奇行の集まりは、全部誤解だったんですね」

 

 そこについては本人が違うって言ってるんだから、多分大丈夫だろ。足を舐められたイオリみたいに、きっと理由があるんだ。そこを俺が省略して書いてしまっただけで。

 

「“ちなみに私は、どんなことをしてたの?”」

「そうですね……生徒のパンツの匂いを嗅いだり、一緒にお風呂に入ったり、落とし穴に落ちたところを眺めたり……」

「“……”」

 

 うん、我ながらあれを信じるなんてどうかしてたな……前者二つに至っては論外だ。何かの間違いだろ。俺には何もしなかったのに、他の子にはするとかそんなことないだろ。

 

「でも、全部誤解なんですもんね!」

「“……ソウダネ”」

「こっち見て言ってくださいよ!?」

 

 ……やっぱり先生は、ダメなところもあるらしい。少しもやっとする。それでも俺は、先生のことを尊敬してる。難しいことだらけだけど、今のところはそれでいっか。

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