バイト終わり、たった数駅。その程度しか跨がないくらいではあるが、電車に乗ることは往々にしてよくあることだ。
近場のバイトでは、拠点がバレる可能性が高い。警戒しすぎだと思われるかもしれないけど、そのくらいでないと万が一の事態の際に対応できない。
だからこそ、多少遠い地へ足を伸ばしてバイト先を探して。
「ん……?あの髪色に身長……足のサイズ、爪の長さから肉付きは……」
そうすると、こういう事も起こり得たりするのだ。
「わっ!」
「んひぃっ!?い、一体どなた……って、あ……」
「お疲れ様です、ヒヨリ」
電車の中で、同じくバイト終わりの妹と遭遇したり、だとかさ。
「す、スオウさん……」
『しっ、今は外ですよ。スオウさんじゃなくてお姉ちゃんです』
「あ、そ、そうでした……シオナさん……」
ぬ、普通に回避されてしまったか……まあいいや。どうせスオウなんてキヴォトスじゃ圧倒的に珍しい、というか見ない名前ってわけでもない。そう簡単には気づかれないだろ。
しかし、なんだか久しぶりにヒヨリと会うような気がする。毎日顔は合わせてるけど……ん?
「ヒヨリもバイト終わりですか?」
「は、はい……」
「……」
どうしたんだろう、ヒヨリ。
「体調でも悪いですか?」
「え……?い、いえ、そんなことはないですが……」
何か、こう……いや、パッと見はいつも通りだ。自信無さげな猫背だとか、そういうところに違和感を抱いてるわけじゃないと思う。
でも、やっぱり何かが違う。いつもよりも、もっと。
「あ、でも……確かに今日は、少し疲れたかもしれないです……」
と、そこでヒヨリの言葉を聞いて、やっとわかった。
「……何かあったんですか?」
ヒヨリの眉は、眉間に向かっていつもより鋭さを鈍らせていて。体は時折震えていて、立っているのも辛そうだった。
別に体調が悪いだとか、そういうわけじゃない。その体を支えるだけの心を持ち合わせていない、それだけの話だった。
「い、いえ!特に何かがあったわけでは……いつも通り……そう、いつも通りでした……」
「……」
ふと周囲を見渡しても、そこに席が空いているわけではなくて。こんな状況でヒヨリを立たせておくのは忍びなかったけれど、どうしようもなかった。
「ただ……いつも通りに、ミスをしてしまって……お客さんの中に、機嫌が悪かった人がいたみたいで……」
曖昧な、誤魔化すような自嘲的な笑顔を浮かべながら、ポツリ、ポツリとヒヨリは語り出す。
「怒鳴られて……その場では、店長が庇ってくれたのですが、後で叱られて……わ、私がやらかした、ってことです……」
ふと、スマホを見る。時刻は夜の六時を少し過ぎたあたり、終電には、まだまだ早い。
「へへ、こんな話聞いてもスオウさんは楽しくないですよね……まあそれで、疲れたってだけの話でして……」
「ヒヨリ」
次の駅で乗り換えれば、かろうじてアビドス行きの線に乗り換えることはできるだろう。ミレニアム自治区だと、こういう選択肢も生まれるから便利なものだ。
「明日って、何か予定ありましたっけ?」
「……い、いえ。特には」
「ですよね」
となると、後はヒヨリ次第だったけど……それも、大丈夫そうかな。
「次で降りましょうか」
「……え?」
「ラーメン。食べに行きますよ」
ヒヨリの手を引いて、夜の寒さに身を乗り出す。帰宅ラッシュの影響もあってか、その人数はかなりのもの。逸れてしまわないように、少し強めに手を握った。
「あ、あの、どこへ……」
「ちょっと遠出になりますが、着いてきてくれますか?」
「え、は、はい、それはいいんですが……!」
よし、言質取ったり。
「あ、すみませ、あぅ……」
「急いでください!次のAラインの電車を逃したら、最悪一時間は待つことになりますよ!?」
だんだんと、人は少なくなってくる。そこへ向かう人間が減り始めている証拠だ。
「わ、わかりました……って、Aライン!?それって……!」
スマホで運賃を決済して、急いでAラインの看板表示を探し出す。昔は迷路のような構造に何度も苦労させられたけど、看板に従えばいいと、そのことを理解すればあとは早かった。
「す、スオウさん、ちょっといきなりすぎて……!」
そんなこんなで急いでいると、あまりに唐突過ぎたのかヒヨリが息を切らしてしまった。ついでに靴紐も緩まっていて、これ以上走るのは危険だ。
つまりはチャンスだ。
「よぉし……!しっかり掴まっててくださいね!」
「え、ちょっ!?」
「よい、しょっと!!」
合法的に妹をお姫様抱っこするチャンス!体格差につき少々やりにくさはあるけど、ヒヨリとならそんなに身長差も大きくないし!
「え、えぇえええ……!?あ、あの、すごく目立ってる気がするんですが……!」
「問題なしです!多分!」
「多分!?」
ぼやきながらなんとかAラインの改札を通り、あと数分で発車しようかという電車にかろうじて乗り込む。滑り込むように入って、それからやっとヒヨリのことを下ろした。
「あ、あの……重かったですよね……す、すみません、でも最近ご飯がおいしくて……」
「まだ軽いくらいですよ。あ、そういえばバイト先でもらったお菓子があります。食べますか?」
「え、えっと……電車の中なので、遠慮しておきます……」
「む、確かに」
ともあれ、なんとか間に合ってよかった。流石に一時間も待つとなれば、俺がヒヨリを背負って次の駅まで走ったほうが早そうだ。
「というか、この電車って……」
「Aライン……それも、アビドス方面行きですね」
「や、やっぱりですか……!」
ゆったりと、電車の中でも端の方。たった二人しか座れないであろう小さな席に腰を落ち着けて、横をトントンと叩く。
「さ、ヒヨリ!お姉ちゃんの横に座って、ほら!」
「え、えっと……し、失礼します……」
そうこうしているうちに、電車は行先を告げて、その音を徐々に大きくしていく。
都会の喧騒からは離れて、光が前から後ろへ移ろい、窓の外の暗闇を彩っていた。
「しかし、ちょっと寒いですね……ヒヨリは大丈夫ですか?」
「は、はい……!」
む……ヒヨリが大丈夫って言うなら、本当に寒くないんだろう。その辺我慢するタイプじゃないし。
「そうですか……私は少し寒いです」
「そ、それは……スオウさん、なんで疲れてないんですか……?」
また名前……まあいいか。それより。
「疲れて……?……あー」
なるほど、ヒヨリは運動後で体温が上がっているのか。しかしお姉ちゃんはアリウス最高峰の神秘にして小隊長。あの程度の運動じゃ息も乱れない。
しかし、なるほど……ヒヨリの体は今あったかいわけだ。
「こうすれば万事解決ですね!」
「んひっ!?」
ヒヨリの方に身を寄せて、ピッタリと体をくっつける。肩のあたりからヒヨリの体温が伝わってきて、そこからじんわり暖かかった。
妹の温もりと、微かに感じ取れる息遣い。バイト疲れの体力が、みるみるうちに回復していくのがわかった。
「か、体……かなり冷えてますね……」
「あー、元々基礎体温が低い方ですからね」
あまり測ったことがあるわけではないけど、たまたま機会があった時には三十六度を下回っていた。つまり子供体温ではないというわけで、よって俺はお姉ちゃん。少なくとも妹ではないんだよ、わかるかアシリ。
「そ、それにしても……その、一体どこへ……?」
「ん?」
心の中でアシリに念を送っていると、ようやく落ち着いて来たのか、ヒヨリがそんなことを聞いてくる。
「……どこなんでしょうね?」
「え、えぇ!?目的地、決まってないんですか!?」
「あ、いえ、そういうわけじゃないんですが」
一応移動式のお店なわけだし、今日どこにあるかなんてわかったものじゃない。一応、シロコに大体の場所は教えてもらっているけど……一応、連絡して聞いてみるか?
「……目的のお店は決まってますよ」
いや、不要だろう。今日はそういう日だ。
「そ、そうですか……よかったです……い、いえ、そもそも……私たちはなぜこの電車に……?」
「……んー……なんとなく?」
特にあらかじめ考えていてたわけでもないし、準備をしてあるわけでもない。その場の思いつきだ。
ここから電車に乗って、目的を済ませて、それから帰る。となると、ちょっと終電に間に合うかは怪しいだろう。
「え、えぇ……?わけがわかりません……とりあえず、サオリさん達に連絡を」
「大丈夫ですよ。そういうことは考えなくて」
ヒヨリが取り出したスマホをひょいと取り上げて、カメラを開いて二人で自撮り。ホーム画面をそれに設定して、そのまま何事もなかったかのように返した。
アビドス行きといえど、この時間帯の電車。シャッター音が小さくなるように、スピーカに手を添えて、そしたら視線が集まる事もなかった。
「し、心配されますよ……?というかこれ、どうやって戻すんですか……!?なぜか操作が効かなくなってます……!」
「そこはほら、お姉ちゃん力でこう……」
まあ流石に大事になってしまいそうだし、ヒヨリを下ろした隙に、サオリにはこっそり連絡済みだ。軽く事情も説明してあるし、多分問題ないだろう。
「う、うわぁぁああ……!今日は厄日です……!朝は電車が遅延しますし……バイト先では怒鳴られますし、好きな雑誌の発売日は忘れて……!その上スオウさんはいつも通りですし、多分この後サオリさん達にも怒られるんですよね……うぅ……!」
「私だけなんかおかしくないですか?」
いつも通りってなにさいつも通りって。それじゃあ厄日もなにもないと思うんだけど……?
「サオリには連絡しておくので大丈夫ですよ。それより、外、見てみましょう?」
「そ、外ですか……?」
徐々に、徐々に、建物の影は薄れていく。途中増えたり減ったりと、あまり落ち着きのない様子ではあるけど、それでも着実に、少しずつ減り始めていた。
電車の人達は不定期に、大規模な移動を繰り返す。しばらくすれば、同じ電車にずっと乗っているのは俺たちだけになった。
「あ、あの……私たち、どこで降りるんでしょうか……?」
「えーっと……そうですね、あのあたりなら……アビドス外郭?」
そこから先は砂嵐での遅延もあるらしいし、少し早めに降りてもいいかもしれないけど。
「え、えっと……それって、すごく時間がかかるんじゃ……」
「次の駅は停車時間が長いですし、そこで飲み物でも買いましょうか。ヒヨリは寝ててもいいですよ」
「い、いえ……スオウさんの横で寝ると、身の危険を感じるので、その……やめておきます……!」
「ちょっと?」
妹の寝込みを襲うなんて、そんな卑劣なことするわけないだろうて。目の前で堂々と、反撃を恐れずに進む。だからこそ、受け入れられたことに価値があるんだ。
と、そろそろ停車駅か。
「よし、一旦降りますよ。ピヨスク寄りましょう」
そうして、わっと小走りで店に向かう。長めといえど停車時間は十分もない。急ぎには変わりないのだ。
「ヒヨリ、飲み物は何がいいですか?」
「え、えっと……で、では、ホットココアで……」
「じゃあお姉ちゃんはバナナオレにします!」
と、電車の中ではあまり食べ物を食べるのも良くないし……飴やガムくらいなら許されるだろ。ついでに、ヒヨリの好きな雑誌も買って、あとは……。
「よしっ!後四分!まだまだ余裕はありますが、少し早めに行きますよ!」
「は、はいぃい!」
駆け込み乗車はよくないからと、多少早めに電車に向かい、再び乗り込み。幸いにして、先ほどまで座っていた席も問題なく空いているようだった。
ヒヨリと二人で座り込んで、再び電車の出発を待つ。
「ふふ、ワクワクしてきましたね……」
「私はビクビクしてます……スオウさんの目的が読めなくて……」
「まあまあ、そう言わずに。はいこれ、ココアと……おまけで最新号です」
袋から先ほど買い入れた飲み物と雑誌を取り出して、ヒヨリに手渡し。最初の一つは見逃して、二つ目で珍しくパァッと顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます!これ、今日は買い忘れてて……!実は週に一回の楽しみなんです……!」
「ふふ、知ってますよ。ヒヨリ、いつも楽しそうに読んでますもんね」
「は、はい……これをのんびり読む時間ができたと考えたら、スオウさんの奇行も悪くないかもしれません……!」
───奇行言うな。
心の中で呟きつつ、嬉しそうにファッション誌を開くヒヨリを横目で見守る。俺には文字が読みにくくて、なにがいいのかイマイチわからないけど、ヒヨリが嬉しそうならまあ、それで良し。
それに、こうして眺めてるだけでもまあ、何かの参考にはなるだろうし。
「……す、スオウさんも読みますか?」
「……え?」
「す、すみません、出過ぎた真似を……で、でも、先程から気になってるようでしたので……」
むぅ……可愛い妹の誘いとあらば、受けるほかあるまいて。幾らか気になる項目もある。それに……楽しめないなら楽しめないなりの、楽しみ方があるってもんだ。
「そうですね……私はあまり読んだことがないので、ヒヨリ。色々、教えてくれますか?」
「は、はい!私では力不足かもしれませんが、精一杯させていただきます……!ま、まず気になるファッションを見つけたらスタイリストの欄を見て……!」
こんな風に、妹との会話のタネにしたりね。
◇
そうして、ヒヨリとの会話を楽しんでいると。
「で、ですので、こういった雑誌は一冊で楽しむものではなく、他の号や雑誌と併せて」
『次は、アビドス外郭。アビドス外郭。お出口は右側です』
「……あ。着きましたね」
早いもので、あっという間にアビドス自治区に辿り着いた。予想は的中して、電光掲示板には砂嵐による遅延の表示。まあそんなものだろうと、席を立ってペットボトルの中身を飲み干す。
「は、はい……名残惜しいですが、このお話はまたの機会に……」
「はははっ……別に、このまま終点まで行ったっていいんですよ?」
……というか、大真面目にその選択肢もあったな。完全に頭から外してたけど、ヒヨリ次第じゃそうするのもアリかもしれない。
「い、いえ、遠慮しておきます……スオウさんは、行き先を決めてるんですよね?」
「んー……はい、まあ一応」
「そ、それにしておきます……今から予定を変えると、大変そうなので」
「……じゃあ、そうしましょっか!」
ヒヨリが良いならそれでいいかと、電車を降りて、久方ぶりにアスファルトを踏み締める。安定した地面は久しぶりで、けれどもすぐに慣れることができた。
ヒヨリの方はまだ感覚が抜けないのか、少しだけ足元がおぼつかない様子だ。
「この辺りは、まだ人がいるんですね……アビドス自治区といえば、その……人があまりいないと言うか……」
「砂に埋もれた不毛の土地。……でも、ないみたいですよ?意外と」
とにかくと、駅の改札を出て、外に向かう。しばらくの間は、繁華街とまでは言わずとも、視界に入るだけでも数軒の飲み屋。灯りのついたそれらは、確かにその奥に人の存在を知らしめていた。
……映るシルエットが動物的なのは、キヴォトスクオリティだ。多分、これに違和感を抱くのはこの世で俺と先生だけだろう。少し寂しい気もした。
「そ、それで、どちらに向かうんでしょうか……ひょっとして、あそこの居酒屋だとか……!」
「違いますよー……そもそも私たちはお酒、飲めませんからね」
いや、若干一名飲もうとしてる、なんなら飲んでる生徒が北の学校にはいた気がするけど
……しかし銃は許可されて未成年飲酒が許可されないとは、これ如何に……なんて思いそうなものだけど、今まで疑問に思わない自分がいた。かなり感性はキヴォトスに寄ってきてるのかもしれない。
「えーっと……とりあえず、こっちです!レッツゴー!」
「は、はい!」
目の前に広がる数々の店を無視して、ただひたすらに、目的地へ向けて歩き出す。アビドス高校方面に。
「だ、だんだん人が少なくなってきていませんか……?」
「はははっ……こっち側は、ほとんど砂漠化してますからね」
向こう側に住んでる人間は、多分もうそんなにいない……いや、きっとアビドス高校を越えれば、もはやいないも同然だ。
とはいえ、流石にそんな場所に立地しているとも考えがたい。となると、アビドス高等学校よりも手前……ここより少し行ったあたりだろうか。
「いや……」
そういえばシロコが、枯れた川沿いの道で、向こうにあるとか言ってたっけ。じゃあ、そっちの方へ。
「す、スオウさん……さっきから、似たような場所をうろうろしてませんか……?」
「いえ、もう道はわかったので大丈夫ですよ」
「そ、そうですか、それはよかっ……さ、さっきまで迷ってたってことですか!?」
「む、バレましたか」
ヒヨリに泣きながら抗議されつつ、歩いて川の方へ道を進める。この前自転車で来た時にある程度の地形は把握したし、多分この辺りだろう。
しばらく進むと、だんだんと道に暗がりが落ちてくる。砂漠の夜は寒い。首を絞められるような冷気が、背筋を優しく撫でた。
「少し、冷えますね」
「は、はい……」
振り向いて、ヒヨリが寒そうに両手を擦り合わせている。今日の服装は、季節の割に少し薄手だ。昼間は暑かったから、油断していたのだろう。
「これ、羽織っててください。ちょっと待っててくださいね」
「は、はい?」
体に纏うコートを脱ぎ、そっとヒヨリの背中にかけて、そのまま包むように前を閉じる。少しは嫌がるそぶりを見せるかと思ったけど、そんなことはなくて。
サイズについても、もとより俺にはオーバーサイズだったもの。ヒヨリを覆うには充分過ぎるほどの面積で、不幸中の幸いだと思った。
「す、スオウさんが寒いんじゃ……」
「私は大丈夫ですよ。お姉ちゃんなので」
「……ありがとうございます」
元々、寒さなんて慣れっこだ。そう、冬の季節に容赦なく走らされるあの地獄と比べればこの程度どうってことない……!
……改めて、アリウス分校での訓練とシアンの訓練を比較して、後者に軍牌が上がるのはどうかしてる。
「そう言えば、スオウさんはこういったファッションがお好きですよね……へへ……」
「……?そう、ですかね…」
言われてみればコートは数着持ち合わせているし、比較的バリエーションにも富んでいる。多少オーバーサイズの方が体を覆って、ラインや身長を誤魔化せるから重宝してる。
それに、この前みたいに恥ずかしい思いをする心配もないし。
「言われてみれば、そうだったかもしれません」
……無意識レベルで、かぁ。いや、この前気づきかけて流したけどさ。改めて、俺ってどれだけ……いや、やめとこう。
白コートの誰かさんなんて、今は関係ないんだから。
「さて、そろそろあったまりましたよ」
「……へ?」
「じゃーん!」
ポケットから先ほどピヨスクで買ったホッカイロを取り出して、ヒヨリの手を軽く引っ張る。
掌を広げた隙を見て、ポンと置いて、そのまま手を絡めて握りしめた。
「これでもう寒くないですよ」
「そ、そうですね……で、でもその、できれば手を離していただけると……」
「ヤでーす」
「……うぅ……!」
……もう一個のカイロが温まる頃には離してあげようか。一個ずつ開封したのはわざとだけど、まあそのくらいの役得があっても許されるだろう。許されて欲しい。許されろ。
ともあれ、そろそろ良いかな。
「はい、じゃあそれはヒヨリにあげます。私はこっちがあるので」
「……!?ふ、二つあったなら最初から言ってください……!!このまま手を繋いで一晩を過ごさなきゃいけないのかと……!!」
いや、流石にそこまでするつもりは……というか、諦めて受け入れようとしないで欲しい。自分でやっておいてなんだけど、ちょっと心配になってくる。
そんなんじゃ悪い男に引っかかったり……あ……。
「ヒヨリ……その、変なこと聞きますけど。先生に良くないこととか、されてないですよね?」
「よ、良くないこと、ですか……?」
「はい、その……こう、足を舐められたり……匂いを嗅がれたり……ひ、人に見せないようなところを見られたり……?」
「と、特には……」
……よかった。やっぱりあれは俺の勘違いだったんだろう、先生がそんなことするはずがない。先生はそんなことしないし、してるなら俺が『責任』を取らなきゃいけなくなる。
あれ、でも……ヒヨリのお腹って、別に俺も見たことがある……人に見せないようなところじゃないんじゃ……!?
「す、スオウさん!?」
「はっ……!?」
「よ、よかったです……その、突然足を止めていたので……」
「すみません、少し考え事を……」
……まあ、なんだ。妹達も何度か当番に行ってはいるけど、特にそういった悪い噂は聞いたことがない。きっと大丈夫、なはず……でも一応、後でみんなにそれとなく聞いてみるか。
「その、むしろ先生には、良くしてもらってます……この前も、お弁当を忘れたところを助けてもらって……」
「そっかぁ……うん、そうですよね。いい人ですよ、先生は!」
「な、なぜスオウさんが誇らしげなんでしょうか……」
そりゃ誇らしいとも、尊敬する人が妹達にも認められてるんだから。何より、先生がおかしくなってないというか、きちんと先生として妹達に接してくれてるのが、何より嬉しい。
これで俺にだけあんな感じだとかそんなことがあった日にはもう……シャーレを爆破してしまうかもしれない。
「う、うぅ……スオウさんが恐ろしい顔をしてます……何か怒らせてしまったでしょうか……」
しかし、そろそろついてもおかしくない気がするんだけどなぁ……もしかしたら、見落としてたり……と、お?
「なんだかいい匂いがしてきましたね……」
「……そ、そうですか?私には特になにも感じ取れませんが……」
「はい。こっちです、こっち」
この醤油ベースの、ガツンと胃まで殴りつけるような脂っこい香り。この世界ではあまり食べたことのない……というか、それこそ十七年ぶりかな。
インスタントじゃない、きちんとした『本物』のラーメンの香りは。
「あ……確かに、なんだかいい匂いがしてきたような……」
「でしょう?」
ふふ、前世では結構ラーメンが好きだった。確か。その記憶が告げている、この匂いは……ふふ、期待できるな。
「あ……あれですね!」
そうしてしばらく歩いていると、一つの屋台を見つける。赤い暖簾に堂々と『ラーメン』と主張する、古風な木製の屋台。
許された席はわずか五つ、小さいながらも、確かにそこにはラーメン屋としての風格のようなものが垣間見えた。まじって、若干濡れた犬の匂いがした。ヒヨリは気付いてないみたいだし、多分俺にしかわからないんだろうけど。
「いらっしゃい!」
暖簾をめくって出てくるのは、その可愛らしい顔に似つかわしくない傷を持ち合わせる、ふわふわモッフモフな可愛い柴犬の大将。
「こんばんは!二人です!いけますか!?」
「ははっ、元気のいい子だな!問題ないよ、注文はそこのメニューから選んでくれや」
セリカのバイト先である紫関ラーメンを営む柴大将、その人である。
「……え、えっと……」
「さ、ヒヨリも。座って、ほら」
横の席を指先で軽く叩いて促し、そしたらヒヨリはひとまず座ってきた。幾分かの困惑を見せてる隙に、大将がお冷を持ってきてくれた。
「注文は決まってるかい?」
「私は決まってますよ!この子はまだですが……あ、少なめってできます?」
「もちろんだ。ゆっくり選びな……しかし嬢ちゃんたち、この辺じゃ見ねぇ顔だな。アビドスの生徒じゃないだろ?」
ヒヨリにお冷とおしぼりを回しながら、柴大将の顔を見てみる。くりんとしたお目目と傷のアンバランスさがむしろ可愛さを誘う……耳のあたりをもふっとしてみたい。かわいい。
「はい。ミレニアムの方から来ました!」
「へぇ、ってことはミレニアム生かい?」
「んー、大体そんなところです!」
「そうかそうか。そりゃあ遠路はるばるお疲れさん」
ふとした瞬間に手を伸ばしたくなる衝動を抑えていると、ヒヨリが脇腹を小さく突いて耳打ちをしてくる。
「す、スオウさん……このお店は……」
「柴関ラーメンです。アビドス高校近郊で一番おいしいラーメン屋さんなんですよ!」
「ははっ、言ってくれるねぇ!まぁ、この辺にラーメン屋なんてウチしかないけどよ……少し足を伸ばせば、他にうまい店だってあるんだぜ?」
「いえいえ、そう謙遜しないでください」
確かこの辺じゃ一番安いラーメン屋だしな、柴関ラーメン。アビドスで、それも安値でラーメン屋を続けることができている上、バイトを雇う余裕さえある。これだけで充分証拠になると思う。
「私、ここの味がずぅっと気になってたんです!」
具体的には、十七年以上前から!……なんて、流石に言うことはできないけど。まあ、とにかく来れてよかった。
「ま、まさかこのためだけにアビドスに……?」
「……?そうですよ」
「……いえ、そういえばスオウさんはそんな感じでしたね……私が忘れてただけでした」
そんな感じってなにさ、そんな感じって。
「で、ヒヨリはなにを食べます?今日はお姉ちゃんの奢りです!連れ回しちゃいましたからね!」
「う、うぅ……!遠慮は要らなそうですね……!!じゃ、じゃあこの、『デラックス柴関ラーメン特盛』にさらにチャーシュートッピングでお願いします……!」
「私は柴関ラーメン少なめで!」
あ、レディースサイズがあった。まあ伝わるか。
「はいよ!……って、花の女子高校生がそんなんで足りるのか?」
「え、えっと……そしたらこの、餃子セットというものを……」
「そっちじゃねぇ!?まあいいか、毎度!」
俺が何か言うよりも先にヒヨリが注文を追加し、少し驚きながらも準備に取り掛かる柴大将。何か後ろで仕込みをしているのだろう。動くたびに、その背中では尻尾がふりふりと揺れていた。
かわいいよなぁ、柴大将……いや、柴ちゃん。妹のみんなとはまた変わったベクトルの可愛さというか、動物的なかわいさだ。
「しかし、ひょっとするとアレかい?嬢ちゃん達、セリカちゃん達のお友達だったりするのかい?」
「え……?」
「いえ、違いますよー」
シロコはさておき、セリカ達とは特に関わりもないしね。
「そうか?なんだ、てっきりあの子に会いに来たのかと……いや待て、セリカちゃんのことは知ってるのか?」
「はい!妹の友達の友達です!」
「そりゃほぼ他人じゃねぇか……いや待て、妹……」
麺をお湯にかけて、どんぶりにカラメとタレを入れながら、柴ちゃんは何かを思い出そうと顎に指を当てる。
「ふむ……するとあれだな。シロコちゃんのライディング仲間か」
「……あー……一応?」
別に同意した覚えはないけど、明確に否定もしてないし……何より、趣味候補って言っちゃったしね。
「ははっ、そうかそうか!道理で、なるほど……話に聞いてた通りだな!」
「話?」
暑そうにしているヒヨリからコートを返してもらい、席の背もたれ部分にかけて、柴ちゃんに質問する。
「ああ、ついこのあいだな。珍しく夜中にあの子が来てよ。その日はセリカちゃんもいねぇから、妙だと思ったんだが……そしたら、初めてライディング仲間ができたんだと。嬉しそうに話すもんで、つい気になっちまってな」
「はははっ……」
そっか……ライディング仲間、ねぇ。あとで空いてる日でも聞いてみようか。
「……す、すごいですね、スオウさん」
「え?」
「いつのまにアビドスの人とも交友を……私はその、ありう」
ちょっと待った。
「あ、大将、お水ください!」
「はいよ」
……今ヒヨリ、普通にアリウスって言おうとしてたな。危ないなんてもんじゃない……いや、柴ちゃんなら多分大丈夫だと思うけど。
「……す、すみません……自分の学校でも、スクワッドの人達とくらいしか関わりがありませんし……それに、さっきみたいなミスだって……」
ヒヨリも気付いたのか、先程までよりさらに落ち込みながら、そんな言葉を口にする。
……まあ確かに、ヒヨリは元々優秀だった。なんて、お世辞にも言えるタイプでないのは確かだ。それでも環境に適応するために、生きるために、そうするしかなかった、ってだけで。
「気にしないでいいですよ。なんとかなったじゃないですか」
「……そ、そうかもしれませんが……でも、なんとかなるとは限らないんです……今日みたいに……」
「へいお待ち!柴関ラーメン少なめね!そっちの嬢ちゃんのはもう少し待ってくれな!」
「あ、ありがとうございます」
柴関ラーメンを受け取って、割り箸をパキッと半分。綺麗に割れて、散った破片で木の香りがした。軽快な感触も、なぜだか久方ぶりに感じられた。
「先に餃子セット出しちまうが、すぐにラーメンもできるからな!」
「あ、はい……ありがとうございます……」
ヒヨリも倣ってご飯と餃子、ついでにおしんこうを受け取り、割り箸を取り出して、ひと割。
「あ……」
亀裂は斜めに走り、最初からそうなることが決められていたかのように、ぱっと見は箸じゃなく何かの鋭利な武器。そう見えるほどに、おかしな形で割れてしまった。
「……私の人生は、このお箸と同じです……どれだけ真っ直ぐになろうとしたって……どうせ……最初からこんなふうに捻じ曲がってしまうことなんて、決めまってたんです……役割すら果たせずに……ゴミ箱に捨てられるだけだって」
「……誰かに、そう言われたんですか?」
お箸云々のくだりはヒヨリらしい、そんな気がしたけど。その後に続く言葉は、きっと俺が人生の全てで否定したかったもので。そうなって欲しくなかった、そんなもので。
だから、ヒヨリらしく……ううん。『俺が知ってる』ヒヨリらしくない気がした。
「……」
ヒヨリは小さく、コクリと頷いた。どこのクソ野郎だろう。ヒヨリにそんなことを言ったのは。今、目の前にいるなら思いっきり殴ってやりたい。その全てを、そんなわけがあるかと否定してやりたい。
「……ヒヨリ。そのお箸、貸してください」
「え……」
「いいから」
「……はい」
でも、そうはならなかった、ヒヨリは
「ふんっ!!」
「っ!?」
ヒヨリから受け取った割り箸を俺の割り箸を使って削り、角を丸めて整える。そのうち先程まで鋭利だったそれは、かろうじてまあ箸だと呼べるくらいには落ち着いた。
「はい、これで使えますよ。割った後でもどうにかなるもんです、案外」
「……そ、その、流石に無理があると思います……お箸と人生は違いますし……」
「はい、私もそう思います」
そりゃそうだろう、箸と違って人生は真っ直ぐじゃないんだから。ちょうど、このラーメンみたいに。
「そのアホがなに言ったかは知りませんが、ヒヨリが気にすることなんてないです。人は道具じゃない。心があって、考えがある。それを考えられなかった時点で、相手の負けですよ」
「……」
「……辛かったですね、ヒヨリ。大丈夫。お姉ちゃんはヒヨリのすごいところ、たくさん知ってますから」
本当、ヒヨリはすごい。ファッション誌の楽しみ方なんて俺も知らないし、身長も高い。索敵や狙撃の技術なら俺なんて勝負にならないし、体の発育も……いや、これはやめておくか。
「でも、結果だけ見れば、私はお客さんを怒らせて……結局、店長にも」
「ヒヨリがミスをしたのは……まあ、事実なのかもしれません」
というよりは、アリウスにいた頃でもよくあった。ちょいちょい物資を落としたり、集合場所を間違えたり。
「でも、ヒヨリは店長に叱られて、それで次から気をつけようと思った。それで終わりですよ」
「そ、そんなこと……店長だって、きっと同じことを思って……!」
「そんなわけないでしょ!ねぇ柴大将!!」
突然話しかけられて驚いたのか、柴ちゃんはその背中を少し跳ねさせた。盗み聞きってわけじゃないけど、聞こえちゃってただろう。
「ったりまえよ!バイトのミスなんてかわいいもんさ!それ以上に頑張ろうとしてくれてんなら、俺ァそれで充分だ」
そう言って、柴大将は大きなどんぶりをどんっ、と置く。先程ヒヨリが注文したデラックス柴関ラーメン特盛、チャーシュートッピングだ。
「それに、な……嬢ちゃんのところの店長さんは、なにも言ってくれなかったかい?」
「……と、特には……いつも通り、お疲れ様、またよろしく、とだけ……」
「そこさ」
柴大将はピッと小さな指でヒヨリを指し、そしてはっきりと言った。
「いつも通りだったんだろう?気にしちゃいるかもしれねぇが、怒ってねぇさ……嬢ちゃんが頑張ってること、誰よりわかってんだろうよ。そりゃま、立場もあるから厳しいことも言うかもしれねぇけどよ……少なくとも挨拶してくれるんなら、嫌われちゃねぇよ!」
「……!」
「……お代はいらねぇぜ。このラーメンは、頑張った嬢ちゃんへの、俺からのご褒美だ」
ヒヨリはボーッとしたまま、どんぶりを受け取って自分の目の前に置いた。そのままなにをするわけでもなく、少しの間見つめていた。
「だからね、ヒヨリ。そういう時は落ち込んで、もうダメだとか、そういう風に思うんじゃなくて。お疲れ様って、こうやって時間を使ってもいいから、自分にご褒美をあげて。そしたらまた頑張ろうって。それだけでいいんですよ」
「……」
「……私たちには、もう。次があるんですから」
おかしな形をした箸を使って、大きな口でラーメンを啜って。
「……はい……頑張ります……次は、きっと……」
少し涙が見えたのは。きっとラーメンが熱かったせいだ。