真っ直ぐ行って、最初の道を左。道なりに進んだら、二番目の扉。
これが連邦捜査部、『シャーレ』のオフィスへ向かうための道だ。思えば、初めてこの道を通ったのもそう遠くない記憶なんだけど……なんか、すっかり慣れちゃったな。
「ふぅー……よし!」
シャーレの当番の朝は、大いなる緊張を持って迎えられる。心臓がざわつく、不安感に近い緊張だ。
先生にはそんなこと、思わなくていいはずなんだけど……結局俺は、憧れの人に失望されたりだとか、そんなことが怖い。それだけなんだろうな。
苦笑いしながら、扉を引いて。
「おはよーございます!……って、あれ?」
けれど、そこに先生はいなかった。急ぎ時計を見て、シャーレの始業時間、その五分程度前であることを確認する。
「先生?」
よもやとソファのあたりを確認してみるも、そこには誰もいなかった。
「先生?」
念の為にと、机の下。
「先生ー?」
ホワイトボードの裏。
「せんせーい?」
ロッカーの中。
「せーんーせーいー?」
果ては本棚の裏まで……もういいか。
「いない……」
先生がどこにもいない。どこ行っちゃったんだろう。まさか先生に限って当番の生徒を忘れるだとか、そんなことはないだろうし。
……大丈夫だよな?先生、俺のこと忘れちゃったりしてないよな?
「……もう少し、探してみますか」
しかしこれだけ探していないってことは、そもそもこの部屋の中にはいない可能性が高い。
けどそうなるとどこに……あ、トイレとかかな?扉を出てすぐ左の。
「先生?いますかー?」
そう思って入ってみたはいいものの、扉は全て開けっぱなし。特に故障や断水をしている様子もなく、いっそ憎たらしささえ感じる白を目に映すのみだ。
トイレでもない、となると……しらみつぶしだな。
「先生ってばー」
視聴覚室。あまり詳しくはないけど、名前から察するに映像を見るための部屋だ。それ以外に気づきは得られそうもないし、先生もいなかった。
「もー、先生?」
その次は教室。特に目的があるわけでもなく、課題の発表や自習にも使われるらしい。日によっては、ここで授業をすることもあるんだとか。
なんとはなしに扉を潜って、教卓の目の前。先頭の机にドカッと座り、両手を投げ出してうつ伏せになる。木の冷たさが伝わってきて、少し寒い気もした。
……懐かしい感触だった。
「……もし……」
もし、もしも俺が。普通の生徒だったら、ここでこんなふうに……机に座って、ノートを置いて、ペンを持って。そしたら目の前で先生が授業を初めて、たまに居眠りして……怒られたり。
今の生活が嫌なわけじゃないけど、そんなあり得ない自分の姿を幻視した。それはそれとして先生はいなかった。
「どこ行っちゃったんですかー?」
図書館、実験室、射撃場……色々探し回ってみたけど、やっぱり先生はいなかった。
「はぁ……」
腹いせにシャーレオフィスのソファでゴロンと横になりながら、そのまま頭をクッションに埋める。
アリウスにいた頃からずっと使ってるコートに、シワがついてしまうんじゃないか、なんて思った。どうでもよかった。
「……」
先生、どこに行っちゃったんだろう。ただいないだけならいいけど、痕跡みたいなものさえもないなんて。デスク用の椅子を触ってみたけど、とっくに冷えてたし。付近で事件の報告とかも、特にない。
……あ、このクッション、ちょっと先生の匂いする。けど、甘い匂いもする……こっちの匂いはなんかヤだな。
「……寝よっかな」
妙な安心感に、ふと目を閉じた。先生のことだ、そのうちふらっと戻ってくるのだろう。それまでの間、ここでちょっと仮眠……仮眠?
「……あ!!仮眠室!!」
そうだ、全然使わないからすっかり存在を忘れてた!?この下の階にはキッチンやら何やら、生活基盤が一通り揃ってる。そこに仮眠室があった……はず!
「ふっふっふっ……もう逃げられませんよ、先生!」
クッションを片手に階段を駆け降りて、急ぐはオフィス下の仮眠室。耳をすませばスゥスゥと呼吸音が聞こえてきて、そこには確かに『誰か』がいるのがわかる。
間違いない。
「先生、ここにいたんですね……!」
ひょっとしなくても始業時間を忘れていたか、もしくはサボってたな……!最近思い出したし、知った。先生はそういうところ割と適当だ。
「さぁ!!お仕事の時間、です、よ……?」
シャっとカーテンを開けると、そこには布団とタブレットを大事そうに抱きしめて、いつもの服のままで、小さな寝息を立てる先生が。
「……なんだ……寝てたんですか」
しかしそれなら目覚ましくらい……あ、落ちてた。しかも電池抜けてる。割と寝相悪いほうなのかな、先生。
「……せんせーい。起きてくださーい……?朝ですよー……」
耳元で起きないものかと囁いてはみるものの、少し呻き声をあげるだけで目覚める気配はなかった。かなりしっかりと眠ってしまっているらしい。
この感じだと、昨日は深夜まで仕事をしていたのだろうか。先生は寝起きが悪い方ではないし、相当に夜更かしをして、疲れていたんだろう。
「おーい……起きないと……えーっと……し、シッテムの箱とか奪っちゃいますよー……?私、パスワード知ってるんですからね……?」
今度は少し強めに発破をかけてみても、タブレットを抱きしめる力を強めただけ。その程度の抵抗じゃ、防げないと思うんだけど……?
「……アロナさーん……なんかこう、電流をバチッとしたりできませんか……?」
『……』
「……駄目だ、聞こえん」
よく考えたらアロナとコミュニケーションを取る手段なんて持ち合わせてなかった。しかも、アロナ自体が寝てる可能性もあり得るわけだし。
「起きませんね……」
軽く体を揺らしてみたり、耳たぶを引っ張ってみたり、髪を巻いてみたり。色々試したけど、一向に起きる気配はない。かなり深く眠りに入っているようだ。
……何されても気づかないんじゃないか、これ。いや、何もしないけど……なんか……もうちょっとこのままにしておきたさがある。
「……仕方ないですね……今回だけですよ?」
それだけ、疲れてるってことだろう。シャーレの仕事のやり方は、大体慣れてきた。二、三時間くらいなら、俺だけでできることもある。
たまには、先生を休ませてあげるとしよう。
「二時間後に、また起こしにきますからね?先生」
たまには、先生に優雅な朝を過ごさせてあげるとしよう。地面に落ちた毛布を掛け直して、静かにカーテンを閉めた。
◇
穏やかな風の揺らぎが、壮年か、青年か。ともかく、その辺りの年頃。見分けのつかない男の髪を、優しく撫で付けていた。
「“うん……?”」
珍しい目覚めだった。目覚まし時計の破滅的な轟音や、もしくは外から聞こえてくる破壊的な爆発音によって叩き起こされる。
それが彼にとって、最も彼らしい、彼の日常らしい目覚めである。特に関係ない時でも目覚ましの音を聞くと腹のあたりがキリキリするらしい。
「“……?”」
しかし今日ばかりは、そんな不快と形容して違わない音とは無縁だったらしく。代わりに聞こえてくるのは、トントンと、何かを切る音。
先生とて、その音とは無縁、というわけでもない。稀に生まれる暇な時間や、もしくは遠く、遙か遠くの、あの頃の記憶だろうか。
「“懐かしい……”」
けれど自分のものとは違って、どこか規則的だな。寝起きではっきりとしない思考でそんなことを考えて、フラフラと仮眠室から出る。もちろん、その手には大切な『シッテムの箱』をしっかりと持ちながら。
ふらつく足取りで、音のする方へ。予想通りというべきか、その音はキッチンから。換気扇から逃れた煙は、鼻の奥で食欲を刺激していた。
「“……あれ?”」
だんだんと明瞭になっていく思考。ふと、果たして誰が料理をしているのだろうかと思い至るも、一徹明けの彼を止めるには至らなかった。
そのまま、キッチンルームに足を踏み入れ。
「ふっふ、ふっふーん……あ、先生!起きたんですね!」
「“……えっと……うん、おはよう?”」
そこにいたのは、小さな体で一生懸命に鍋をかき混ぜる、エプロン姿の少女。自分の方を見ていたいそう嬉しそうな顔で、そう言って笑いかけるので、誰だろうかという疑問を先生は口にできなかった。
「ちょうど良かったです、今お味噌汁ができたところで……よければ、そこで待っててください!」
そんな押し込められた疑問に気付かないまま、再び料理と向き合う少女。しばらくの間横顔を見つめて、ああ、スオウかと、先生はそこでようやく気づくことができた。
寝起きである、ということも大きな要因ではあるが、普段の彼女らしからぬ格好、立ち姿が……端的に言えば、可愛らしく、どこか不思議な感情を刺激して。少しの間、面食らっていたのだ。
「“……”」
言葉のままに机に座っているうちに、段々と思い出し始める。昨夜は突然の抗争で目が覚め、付近の生徒への指揮によって場を鎮圧。そのまま事後処理を行なったのち、辛うじて仮眠室まで足を運んだのだ、と。
となると、今は昨夜の日付をそのままぐるっと、九時を過ぎた頃であろうか。であれば、今日の当番だったスオウは待ちあぐねて、料理を始めたということだ。
思考は散漫にして尚、なんとか多少の筋は通った考察を推し進めていた。と言うよりも、時間を除けば全くもってその通りである。
「先生、昨夜は忙しかったですか?」
後ろは振り向かないままに、料理を続けるスオウがそんなことを聞いてくる。特に偽る理由もないが、呼び出しておいて待たせてしまった罪悪感、というものは大いに持ち合わせていたため、少しの間返答に困った。
「“実は、少しだけ……待たせちゃってごめん……”」
「構いませんよー……先生が大変なことも、私たちのために頑張ってくれてることも、ちゃんと知ってますから。……あんな面倒な事後処理を『少しだけ』、なんて言っちゃうようなことも」
「“はは……”」
見透かされていたらしい。おそらく書類の整理でもしている間に見つけてしまったのだろうと、曖昧な苦笑いで暗に肯定した。
スオウの声はいつもの調子、ともすればそれよりもワントーン高く、一言で言わば極めて上機嫌。どうやら怒らせてはいないようだと、ほっと胸を撫で下ろした。
「朝のメール確認は終わらせておきました。そのほかにも、色々報告はありますけど……とりあえず!」
そんな隙を見計らうように、どかっと目の前へ、山盛りの白米。温かい味噌汁に、滑らかな生地の卵焼き。添え物程度にウィンナーと、ついでにキャベツ、あとはお新香。極めてご機嫌な朝食である。
果たしてここまできちんとした朝食など、一体いつぶりだろうか。実家で母親が作ってくれていた頃か、もしくは一人暮らしを始めたて、まだ真っ当に料理をしていた頃か。どちらにせよ、久しいことは確かだった。
「朝ごはん、食べましょっか!」
そんな言葉が、食事が、どこか沁み渡って安心させるようで。
「“……ありがとう。いただきます”」
ひとまずは味噌汁から、温かいうちにいただこう。スオウの朗らかな表情を見つめながら、スッと手を合わせた。
◇
たっぷり時間をかけて、二十分前後。ようやく朝食を終えた先生はふとタブレット、もといシッテムの箱を見て、そして驚愕する。
「“お、お昼……!?”」
時刻は午後十二時過ぎ、まさしくお昼時の時間帯である。スオウが朝食と呼んだそれがやけに多く、けれどもするりと胃に入ってきたのは、その美味さから……のみではなく、朝昼兼用という理由があったらしい。
少し若々しさを取り戻した気がすると、虚しいぬか喜びをしていた先程までの自分を引っ叩いてやりたい気分に陥っていた。
『ご、ごめんなさい先生……!!アロナ、一生の不覚です……!!』
「“アロナのせいじゃないよ……自己管理ができなかった私の落ち度だ”」
アロナもまた『シッテムの箱』の中で眠っていたらしく、申し訳なさそうに半泣きでぐずっていた。そんなアロナを宥めつつ、スオウに向き直って。
「“ごめん、スオウ……まさか、三時間近く待たせていたなんて……!!”」
ひとまずは謝罪。二度目になる、心からの謝罪である。ゴスっと机に叩きつけられる音が鳴り響いていた。
「き、気にしないでください!ほら見てこれ、目覚まし時計の電池が抜けてたんですよ……それに、それだけ疲れてたってことですし……そういう時は、しっかり休むのが一番ですから」
「“……ひょっとして、わざと起こさないでいてくれたの?”」
ふとした先生の質問に、スオウはキョトンとした顔をして、それから少し顔を赤らめて、目線をふいっと横に逸らし。
「は、はははっ……」
お返しとばかりに、曖昧な苦笑いで肯定してみせた。顔が見れなかったのは、自分が先生にした数々の悪戯……とも呼べない、ちょっとしたちょっかいを思い出したからである。
「“……ありがとう。本当に、助かったよ……”」
「い、いえ……」
何度頭を下げても足りないくらいだと、先生は再びお礼を口にした。これからの仕事を思うと憂鬱だが、それでもその気遣いが嬉しかったのだ。
「“それじゃあ、早速仕事に取り掛かろうか。これを片付けたら、すぐに”」
「あ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「“……?”」
急いで椅子を立つ先生に、スオウは冷静に言い放つ。そんなはずはないだろうと疑問符を浮かべる先生に対して、言葉を続ける。
「とりあえず、私だけでもできる依頼は終わらせておきました。『シャーレ』の権限や先生本人の承認が必要なものについては、可能な範囲で。とりあえず、武力鎮圧やただの雑務程度ならその、私向きなので……」
「“……!”」
一言で表すなら、しごできである。先生は頭の中で、混乱しながらそんなことを考えた。まさか少し前までPCの扱いも怪しかったスオウが、ここまで仕事を一気に減らすほど尽力してくれたとは。
「あ、この辺が先生にやってもらわなきゃなことです」とスオウが差し出してきた書類には、わかりやすく付箋が付けられていた。
もちろん、全ての仕事が終えられたわけではない。分量にしてみれば、今日の全体の仕事の、約三分の一といったところ。スオウとて、それはわかっていた。
それでも、自分が寝ているだけの時間に滞るはずだった仕事が、これでもかと進められているのだ。生徒の前でなければ踊り出しているところである。あくまでものの例えだけれど。
「“……スオウ。スオウは、まだお昼を食べてない?”」
「え?あ、は、はい……一応?」
ともかく、ここまでたくさん、自分の代わりに頑張ってくれたのだ。生徒に任せっきりになってしまったことに自戒しつつ、それでもお礼は必要だろうと腹を括って。逆にお財布の紐は、目一杯緩めて。
「“どこかへ食べに行こうか。ほんの少しだけど、形のあるお礼をさせて欲しいな”」
「……へっ!?」
スオウとよく似た白いコートを着て、シャーレの外へ足を踏み出した。
◇
ただ歩いているだけで腹が膨れていくような、都会とはまた違った趣のある喧騒。人々は前から後ろへ、後ろから前へと賑わい、のんびりと歩いていれば、きっと時間に置いてきぼり。
昼間から飲んだくれているような人間もいれば、スーツに身を包んだ人……というか、獣人?ともあれ、ピンキリだ。
そんなシャーレの近くの商店街に来ていた。
「“スオウ、何か食べたいものは見つかった?”」
「……う、うーん……?」
それもなぜか、先生と一緒に。
しばらくの間先生を寝かせて、その隙に仕事を幾らか終わらせた。そのお礼に、ということらしいけど……情けは人のためならず。なんて言うには、巡ってくるのが早過ぎはしないだろうか。
「そ、その、先生?私はですね、本当にそんなつもりでお手伝いしたわけではなくて」
「“わかってるよ。だから嬉しいし、お礼をしたいんだよ”」
「……もう。そんなふうに言われたら断れないじゃないですか」
しかし、しかしだ。なんだかんだまともな食事に向けて頑張っているとはいえ、俺の胃袋は合も変わらず体に似つかわしく小さなサイズ……って、誰がチビだ誰が。
ともあれ、要するに舌が迷子。イマイチ食べたいものも見つからない状況だ。
「特に思いつかないので、やっぱり適当にファミレスとかでも……」
「“……スオウがそれで良いなら、良いんだけれど”」
でもさ、適当な店でって言うたびに先生が捨てられた子犬みたいな顔するんだもの。いやちょっと子犬というには表情が退廃的すぎるけど、なんか……あの顔でお願いされたら、ついなんでも聞いてしまいそうになる。
どうしたものか……ここは無難に、ちょっと高いけどまああり得るチェーン店……具体的には、とんこつラーメン屋みたいな感じの……と、お?
「“スオウ、危ない”」
「……っ!?は、はいっ!?」
先生!?なんで腕を掴んでるの先生!?別にその気になれば余裕綽々で振り払えるけどいきなりはびっくりするよ先生、って、危ない……?
「む……?」
ふと先生とは真反対の方向、自分の足元に目を向けてみる。そこには、横にピッと一文字の白線。やけにフサフサとしていた。
「“猫だね”」
「……猫ですね」
あ、なるほど、この子の尻尾を踏みそうに……そりゃ俺が危ないなんて状況じゃ、そもそもこの商店街が原型を保っているかも怪しいものな……しかし、ちょっとボーッとしてたか。
「すみません、助かりました」
「“ううん。……野良猫みたいだけど、警戒心が薄いね”」
「確かに……」
……う、む。ひょっとしてひょっとするとこれ、触れたりするんじゃないか……?この前柴大将に耳を触らせてくれって言ったら嫌そうな、というか怪訝な顔をされたけど、本物の犬猫なら問題ない、よな……?
「どれ……チッチッチッチ……」
舌を鳴らしながら、ひとまずは警戒を解くべく掌の匂いを嗅がせてみる。近づき過ぎたらダメだ、あくまで向こうから来るのを待って……。
「“慣れてるね。飼ってたことがあるの?”」
「妹の一人が、少しの間……あとは隣人が一匹、猫を飼ってました」
結局その子もどこかへ行ってしまったし、後者は前世の話だけどね。
前世でも飼ってなかったけど、猫はかなり好きだ。飼ってなかった理由も、確か父親がアレルギーだから、だとか、確かそのくらいの理由。知らない頃に、猫を触ったあと手を洗わずにいて……可哀想なことになった。ような?
……やっぱり、あんまり思い出せないな。幾分かはマシになってるけど。
「おぉよしよし、警戒しなくて良いですよ。何もとって食おうってわけじゃないですから、ほら、ねっ?」
しばらくの間そうして話しかけていると、興味を失ったようにふいっと目を逸らした。今がチャンス。
「ふっ……まあ、私のお姉ちゃん力にかかればこんなものですね」
そのまま撫で付けてやろうと、手を伸ばして。
「あ……」
「“……避けられたね”」
手に当たらないようするりと器用に立ち上がって、少し離れた場所まで逃げてしまった。
その上こちらを振り向いて、不機嫌そうに尻尾を振りながら、「さわんな」と睨みつけられてしまって……ああ、そんな目をしないでほしい。
「そ、そんなぁ……」
久しぶりに撫でれるチャンスだと思ったのに……猫は相変わらず風来坊だ。
「“触ってみたかった?”」
「……えっと、はい……アリウスでは、動物と触れ合う機会はなかったので……」
思えば、最後に動物と触れ合ったのは……セイアの、シマエナガ……?正直必死過ぎて感触を覚えてないのが惜しい……!
「“私も試してみるね”」
「え……?い、いやいや、やめた方が良いですって!あの子ほら!『触ったら殴る』って顔に書いてありますよ!?貧弱な先生なら大怪我をしてもおかしくないです!」
「“さ、流石にそこまででは……!?”」
いくらアロナのバリアがあるとはいえ、慢心は禁物だ。それ一辺倒になっているといざという時に自分の身を守れないし、俺だっていつでも助けに行けるわけじゃないんだから。
あれはただの猫じゃない、キヴォトスのネコだ。下手に触れば先生の腕がその……見るも無惨な、こと、に……。
「っ……!や、やっぱりダメです!やめておきましょうよ!!」
「“大丈夫だよ。私に任せて……ほら”」
「あーっ!?」
先生は俺の静止も聞かずに猫の方に歩いて、その手を差し出してしまい。
「……って、あれ?」
「“ね?”」
猫はこれでもかと、目一杯先生に愛嬌を振り撒いていた。俺にはちょっと睨んできたくせに、まさしくゴロニャンって感じだ。なんだこいつ。
「……ひょっとして、先生が弱過ぎて警戒されていない……?」
「“違うと嬉しいなぁ”」
理由はなんにせよ、先生が猫を触れているのは事実だ。なんて羨ましい。
「せ、先生?私にもその、触らせて欲しいなーって……」
「“もちろん。どうぞ”」
「ありがとうございます……」
先生が一歩退いたのをみて、再び猫の方に手を伸ばして。
「フーッ!!」
「……」
引っ掻かれた。
「……う、うぅ……せんせぇ……!この子酷くないですか……!?面食いですか……!?実はメスだったりしません!?」
「“それはちょっと、わからないけど……”」
そうだ、先生の周りには猫獣人の生徒も少なくない。セリカなんかはわかりやすいツンデレだし、カズサ、だっけ?あの子も割と先生のことを好いて……ひょっとして猫を引き寄せるフェロモンでも出してるんじゃないか……!?
……いやでも、別にクッションからはそれらしい匂いはしなかったな。
「“コツがあるんだよ。こうやって、怖がらないように手を出して”」
「ふ、む……やっているつもりなんですが……」
やっぱり先生から変な匂いがする……これがフェロモン……いや、それにしては臭い……加齢臭?いや違う、もっとこう……匂いの強い、ツナ缶みたいな……?
「って、あー!!猫用のおやつ持ってるじゃないですか!!」
「“バレたか”」
何がコツだ何が……ただ餌で釣ってただけだったよこの人。というか、どこから持ってきたんだろう?
「それ、なんで持ってるんですか?」
「“内ポケットから。いつでも持ち歩いてるよ”」
「……そ、そうですか」
やっぱり先生って、ちょくちょく変人というか……いやまあ、この場においてはすごく助かるんだけどさ。
……いいなぁ……俺も今度から、コートの内側に忍ばせておこうかなぁ。
「“……スオウも、一ついる?”」
「……良いんですか?」
「“もちろん”」
そう言って先生は、スティック状にジェルが詰められたおやつを差し出してきた。その手の持ち方で、一瞬俺に食べさせようとしてるのか、そんなことを考えたけど、先生にそんな意図はなかったらしい。
「ありがとうございます!」
そのまま手で受け取って、ピッと切り取り線に従い、そのまま開いてみる。かなりきつい匂いの奥に、少し香ばしい匂い。
なんの匂いだろうかとみてみると、甘エビ味という表示。
「……エビ、かぁ」
猫の前にそれを差し出してみると、おいしそうに舐め取り始める。それを代価に、そんな考えがあったのかはわからないけど、ようやく撫でさせてくれるようになった。
少し野性味を感じさせる固い毛が、かえって愛おしい、頭を優しく撫でながら、ふと思いつく。
「……エビやカニって、おいしいのかな?」
「“え?”」
あれ、口に出てたか。先生にも聞こえていたらしい。でもまあ、気になったんだからしょうがない。
「いえその、エビやカニといったものを食べたことが……というか、生の海産物の味を覚えてなくて。その、状況が状況だったので……」
今世に入ってからは言わずもがな、前世ではエビ・カニアレルギーだったから、かっぱとエビを混ぜて作った煎餅さえ食べたことがない。
学校の給食でエビメンチみたいなのが出た時も、一人だけ焼き魚でゲンナリとした記憶がある。なんでこんなことばっかり覚えてるかな……と、余計な思考が。
とにかく、ちょっと気になった。結局ミレニアムで暮らし始めてからも、高くて中々手を出せずにいるし、せいぜいカニカマぐらいしか食べたことがない。前世よりはカニカマでも食べれるだけマシだけどさ。
「“……それじゃあ、今日のお昼は決まりかな?”」
「……え?」
先生は何か観念したように、ふとスマホを確認した。チラリと見えた画面には、クレジットカード……『大人のカード』の、本来の使い方。月末の支払い情報と、口座の預金が写されていた。
「“お寿司なんてどう?回転寿司じゃなくて、ちょっと良いところで”」
「っ……!いいんですか!?」
お寿司ってあの、なんか……!酢飯に魚を乗っけた、あのなんか高いやつだよな……!?
ああもう、前世の記憶でも割とどうでも良い部類に入る記憶だから具体性がない……!でもとにかく、結構金が必要なのは知ってる。妹達と食べに行ってみたかったけど、いまいち攻めあぐねてたくらいだ。
「“もちろん。今日はスオウへのお礼だからね”」
「……え、えへへ……それじゃあ、今回は遠慮なく……」
ちょっと図々しい気もするけど……先生がいいって言うなら、ぜひご馳走してもらおう。こういう時は遠慮しないほうが互いのためだって、よし言い訳終了。お寿司の味、すごく気になる。
「“それじゃあ、一緒に美味しそうな場所を探しに行こうか”」
「は、はい!ぜひ!」
高まる期待感を胸に、昼の商店街へと繰り出した。