夕方、昼下がりの暑さを忘れさせる頃。夏という季節が過ぎ去っていくようで、それは少し寂寥感を感じさせる。
「ふぁ……」
少しずつ、暗くなる時間も早くなってきたかな。こうして空を見上げていると、綺羅星が輝いていて……身を過ぎ去る風が、少し肌寒ささえ感じさせる。
眠たくなってきた。昼間、コーヒーでも飲んでおくべきだったか。……どうせ何か用事があるわけでもないし、ここは一眠り。
「スオウ!!ここにいるか!?」
と、洒落込もうと思ったんだけど。可愛い妹の叫びが脳髄まで響き渡って甘露なので、そんなわけにもいかなくなった。
「いない……一体、どこへ」
「私はここですよ」
屋上にタッと降り立って、アズサの背後に回り込む。後ろを振り向いたところを指で突き刺して、柔らかいほっぺの感触を堪能した。
「す、すおふ……いふからほこに……」
「さー、いつからでしょう?」
実を言うと最初からだけど、特等席はバラしたくないのでヘラヘラと誤魔化した。
「引っかかりましたねー?しかしこの程度の罠も見抜けないなんて、アズサも少し鈍って」
「そんなことはいい!」
「むぐぅっ!?」
まとめて数十倍、指の本数で数えれば十倍で返して、アズサが両頬を挟んでくる。少し興奮気味なようだ、翼がバタバタしてる。それに外行の服のままだし、相当焦ってここに来たんだろうか?
「す、スオウ!提案があるの!」
「お、落ち着いてくださいアズふっ!?」
痛くはない!痛くはないけど喋れない!!お姉ちゃんアズサが友達にこんなことしてないか心配!!
「ほ、ほぅひたんへふはひひはひ」
「あ……ご、ごめん……」
あ、離されちゃった……顔の距離が近くで、虹彩の一筋に至るまで綺麗にくっきり見ることができて……そんなに嫌な気はしなかったのに。少し残念。
「それで、提案っていうのは?」
「う、うん……それなんだけど……」
アズサはおずおずと、いつになくかしこまって姿勢を正して。不安げに翼を小さく畳みながら。
「みんなで……海に行こう!!」
「……海ィ!?」
そんな素敵な提案を、堂々と言い放ってみせた。
◇
アズサがスオウの両頬を挟む、その数刻前。アズサは、ヒフミたちとファミレスで勉強会をしていた。
「あ、暑い……こんな暑さじゃ、勉強なんてできない……」
夏はその最後を告げるかのように気温を高め、よもやの猛暑日。秋にも差し掛かろうかというこの季節、異常気象もいいところだった。
「そう言わないでください、コハルちゃん。ほら、中はクーラーが効いてて涼しいですよ。上着を脱げばもっと……」
「それ以上脱いだら、死刑だから……」
さしものコハルも、幾分か死刑宣告が弱々しい……否、もはや流してあるほどである。少々ショックを受け、ハナコは寂しげな表情を返した。
「夏……寒いよりは、まだマシだ。寝て起きたら、指先が壊死している心配もないし」
「あ、アズサちゃん……」
「……安心して。今はきっと、そんなこと……もう、ないから」
しまった、失言だったかと反省しつつ、入って一番奥、少し隠れるようになっている席に着席。ともあれ、まずは注文である。
ドリンクバーにフライドポテト、加えてアズサはアイスクリームまで。
「太るわよ」
「ふと、る……?」
「なんで初めて聞いた概念みたいな反応するのよ……わ、私はおかしくないからね……?」
いくらか惚けた会話を挟みながらドリンクバーでジュースをとり、ひとまずは勉強会。と、行きたいところなのだが。
「帰りを考えると、少し憂鬱ですね……」
教材を広げながらヒフミが、そんなことを呟いた。
「はっきり言って、異常な暑さですからね……近年でも稀に見る猛暑だそうですよ?それも、しばらく続くんだとか」
「勘弁して……溶けちゃう……」
「コハル、大丈夫。人間は暑くても溶けない、ただ脱水症状には注意が必要で」
「わかってる!!比喩よ、比喩!!」
「あ、あはは……」
フライドポテトをつまみながら、ジュースを一口。言われてみれば、最近はほとんど秋に近い気温だった故、油断したところを刺された形である。
そんな不条理に向ける怒りは行き場を無くし、ただこの暑苦しさを享受する他ないというのだから、とてもではないがやっていられない。
「本当、レッドウィンターにでも行きたい気分……」
「それはそれで辛そうですが……」
「レッドウィンター……避暑地……」
しかしながら、夏が齎すのは何も、暑さによる苦しみだけではない。
「……いえ、違いますね」
ナスやトマトは旨くなるし。
「アズサちゃん……以前した約束、覚えていますか?」
「約束……?」
虫取り少年は、こんがりと肌を焼き。
「……海に行きませんか?アリウスの皆さんも一緒に」
海辺はその本領を発揮する。
「……!」
突然の提案。アズサはいくばくかの思考の後、見慣れた自分の白髪が目に映り。連鎖するように、敬愛してるんだか警戒してるんだかわからない馬鹿な姉の顔を思い出して。
「……ごめん。まだ、難しいかもしれない」
スオウの変装は、現状ではウィッグと、マユミの寄越した機械頼り。とてもではないが、海辺では使うことができない。
海遊びなどすればウィッグは当然剥がれてしまうし、機械を水につけるなんてもってのほかだ。人が少ない居住区ならまだしも、たくさんの人が集まる海に訪れては、その正体が簡単にバレてしまう。
「スオウの件は……まだ、ほとぼりが冷めたとは言えないから」
ふと、スマートフォンを開く。エデン条約と入力してみれば、サジェストには襲撃、崩壊、ヤバい、幾らか後にスオウの名。今尚、彼女の行いはキヴォトス中に恐怖を、脅威を与え続けているのだ。
かと言って、スオウを置いていく選択肢は、アズサにとってないも同然だった。
「……これは、私の我儘だ。みんな一緒で……叶うなら、それが……」
一度、愚かな義務感で選択をし、誤ってしまった大馬鹿野郎。それが自分、白洲アズサだと、彼女は自身をそう分析していた。
なれば、だからこそ。もう二度と、同じ過ちは犯さない。大切な誰かを切り捨てる選択肢など、自分の中にあってはいけない。
「いえ、それなんですが……」
深い思考に入るアズサの耳を、ヒフミの一声が裂いた。
「実は、あるんです!スオウさんでも、他の皆さんでも問題なく行ける、そんなビーチが!」
「……どういうこと?」
スオウが行けるビーチなど、電子の海くらいではないだろうか。堪能になった語学力で言葉遊びをしながら、改めてヒフミに聞き返す。
「スオウは顔も知れ渡ってる。私たちだけならまだしも、彼女も含めるとなると……」
「え、えぇっとですね……そこはその、三つの自治区が重なっていると言いますか……」
「三つの自治区の境目になっているから、管轄が曖昧なんです。それに、下手に手出しをすれば外交問題に発展しかねませんからね。ですから、どんなものでも受け入れる自由の地だ、なんて言われてるんです」
その分、安全性は保証されませんがと付け加えながら、ハナコはヒフミの説明を引き継いだ。
「そんなところが……」
アズサとて、考えたことがないわけではない。それが約束だったのだから。
いつかヒフミと、ハナコと、コハルと。そして、アリウス分校のみんなで。
「……実はこの場所を見つけてくれたのは、コハルちゃんなんですよ」
「むぅうっ!?ゴホッ、ゴホッ……そ、それ言わないでって」
「そういった自治区間の警備については、正義実現委員会のコハルちゃんの方が詳しいですから。アズサちゃんのために、たくさん頑張って調べてくれたんです」
「こ、このっ……!全部言った……!!」
コハルのツインテールをわしゃわしゃと弄りながら、秘密にと言われていたことを一息に言い切った。
ヒフミ達とて、海に行く約束を忘れていたわけではない。だからこそ調べて、探して、赴いて。そうしてようやく見つけたのが、件のビーチ。
しかし時間をかけ過ぎて、海に行くには季節外れ。ヘルメット団主催の夏祭りが行われるらしいが、『海に行く』というか本来の目的には沿わない。次の機会を待つしかない。
そんな中訪れた、理外の猛暑週間。最初で最後、千載一遇のチャンス。見逃す術はなかった。
「コハル……」
「なっ、なによっ!!悪い!?そうよ、私もアズサと……う、海に……行きたく、て……」
「何も悪くなんてない。ありがとう、本当に嬉しい……それなら、きっと大丈夫だ。今日、みんなに提案してみる」
ところで、と前置きをし。
「そのビーチの名前は?」
「あ、それはですね───」
◇
「───アウトロービーチ、ねぇ」
そんな場所があるとは……アリウスにいた頃も、聞いたことがなかったけど。
「スオウ、何してるの?早く行こう、時間は有限だ」
「はいはい、そんなに急がなくても海は逃げませんからねー」
正直な話をするなら、不安はある。たくさん。一つや二つじゃ、数えきれないくらいに。
……でも、それだけじゃ前に進めない。不安も、悩みも、苦しみも……もちろん、楽しいことだって。みんなと分け合って、一緒に生きていきたい。
だから……だったら、しなきゃいけないこととして。
「かろうじて、まだ売ってて助かりましたね……水着」
まずは準備。海に行くなら、水着は選ばなきゃいけないよな。
「少し危うかったようだな……値引きされている」
もちろん、可愛い妹達と一緒にね。幸いにして、みんな予定が空いていて助かった……昨日の今日だけど、なんとかスクワッドのみんなと見に来れたし。
「正解はないと思うけど……この露出度、ほとんど下着だね」
「う、うぅ……私の体型が目立ちそうです……」
「大丈夫……ヒヨリなら、きっと似合うよ」
「わ、私みたいな卑しい雌豚は腹を晒すのがお似合いだって言いたいんですか……!?」
「違うと思う」
しかしまあ、みんなはしゃいじゃって。アリウスだと、だいたい水中訓練は着衣だったからな……肌に服が張り付いて、気持ち悪いったらありゃしない。
特にコートなんかが濡れた日にゃもう乾かすのも一苦労で……よそう。あんま思い出さなくていいことだと、これ。
とにかく、みんな水着を選ぶって新しい体験をしてるわけだし……お姉ちゃんとしては、喜ばしい限りだ。
「しかし、よく了承したな。お前のことだ、リスクを理解していないわけでもないだろう?」
「む」
遠巻きにみんなを見守っていると、サオリが横に立って話しかけてくる。
リスク、ねぇ……思いつく限りで……いっぱいあるなぁ……!?
「まあ、思考が及ぶ範囲では」
いくら三自治区の境界といえど、ヴァルキューレ公安局が来ないわけではないし……それに、俺が敵に回したのは、何も光の当たる世界だけじゃない。全てのキヴォトス。当然、スケバンやヘルメット団も含まれている。
そういうことで、因縁をつけられない可能性がないわけじゃない。そうなった場合、せっかくの楽しい海が台無しだ、だから。
「何かあれば自分だけ帰れば良い……そう思っているか?」
「……ぅ」
……なんて、思ってたけど。サオリには、お見通しだったらしい。
「この大馬鹿が」
「ぎゃあああああああ!?い、痛い痛い痛い!!グリグリやめてください!!サオリ鍛え直しましたね!?」
「ああ、最近少しな」
油断してたとはいえ、俺の防御を貫通してきた……サオリもなかなかやるように……って、いやそうじゃなくて。
「……まあ、そう思ってたことは否定しませんよ。海なら、きっと何度だって来れます。焦る必要はない……それでも、みんなとはじめの一歩を踏み出したくて。だから、今回は……」
それでみんながなんとも思わないだなんて、そんな酷い思い込みはもうやめた。きっとみんな嫌がるだろうし、辛いだろう。
でも、前とは違うんだ。だって俺は、死ぬわけじゃない。その時の思い出は一度きりのものだけど、未来はある限り、みんなと新しく作っていける。
取り返しがつくように、いつか笑い話にできるように。また次の夏も、笑って海に行けるように。そのために、いざという時はその覚悟をしてる。それだけだ。
「できる限りしませんし……そうなっても、また次の夏。みんなで海に行けば、大丈夫ですよ」
「……以前よりは、少しはマシになったらしいな」
「は、はははっ……」
流石に、ちょっとくらいはね。
「だが、ふとした瞬間にそういった思考をしているのがお前の危うさだ」
「あぅっ」
「……だから、以前と変わらない。その時は殴ってでもお前を止めて……何を敵に回して、味方につけてでも、お前を守ってやるさ」
突かれた額は、いつもよりも強く感触を残して。サオリは呆れたように、けれども納得したように笑っていた。何もかも、お見通しだとばかりに。
「……妹の成長が早くて怖い」
「……そこだけはいつまでもブレないな」
軽く頭をわしゃわしゃとして、そのまま促すようにみんなの輪の中に戻っていった。
……何そのイケメンな感じ。お姉ちゃん知らない。いや、サオリは可愛いだけじゃなくてかっこいい妹だけど……あれ、これじゃ俺が妹……!?
「ちょ、ちょぉっとまったぁ!!お姉ちゃん抜きで水着を決めようたァふてぇ妹達です!!」
「どうしたのこの変態」
「最近舞踊にハマってるんだって」
「息をするように嘘を吐かないでください!?」
アツコ!?お姉ちゃん舞踊なんて見たことないよ!?
「と、とにかく!お姉ちゃんがみんなの水着、決めるお手伝いを」
「そうくると思った」
「っ!?」
瞬間、アツコが突きつけてくるのは、彼女の新雪のような艶肌によく似合う、真っ白な水着。
「これ、どう?」
「え……は、はい。アツコの真っ白な肌と溶け合うようで退避されて、それが清純ながらも大人な感じを醸し出し、淡い一夏の思い出に残る可愛さだと思います」
「やった。じゃあ、これにするね」
……え、もう決まり?早くない?
「あ、アツコ、もっと他のは見なくて良いんですか?」
「私が良いの。もう、ネットで調べてきたから。ある程度、アタリはついてたんだ」
あ、なるほどネット……お姉ちゃんには新しいものがわからないよ……そっか、そういう選択肢もあるんだな。
「じゃ、じゃあ次は……白羽の矢!ヒヨリです!」
「わ、私はこれにしました……!」
おずおずとカゴから取り出して、ヒヨリが見せるのは少し派手な花柄の、彼女の髪色と対照的なオレンジ色の水着。
「ど、どうでしょうか……?」
「少々露出が多いのは気になりますが、その分ヒヨリが自分の体に自信を持てた証拠です。そういうところも鑑みてお姉ちゃんはとても嬉しいですし、控えめながらも鮮やかな色が気品を保ったまま水着を美に昇華しててとても良いと思います」
「そ、そうですか……えへへ……こうして直接褒められると嬉しいです……これにしますね……」
「ひ、ヒヨリも決まりですか!?」
ちょっと!?お姉ちゃんまだ感想しか言ってないけど!?
「わ、私は、雑誌である程度決めていたので……」
「あ、な、なるほど……」
確かにこの前ヒヨリと見た雑誌に、夏の水着特集みたいなものがあったもんな。そ、そしたら次は……!
「ミサキ!」
「キモい感想貰いたくないからパス」
「き、キモい感想……!?」
し、失礼な……!俺はただお姉ちゃんとしてだね……!
「ミサキのはこれだよ」
「あ、ちょっと」
「体のラインが強調されるタイプのものですね、ミサキはスレンダー体型として完成されているのであまり派手さは取り入れずシンプルな形勝負するのはとても良い選択だと思います、一方で黒はセクシーさもあるので、少し大胆だなという印象で……待ってください、ミサキのはこれ、ってことは……!?」
「……最悪。そうだよ、私も決まってる」
なっ……!み、みんな早くない!?俺なんてやっと水着見始めたところだよ!?
「あ、アズサ!」
「私は補習授業部のみんなともう買った」
そうだったよちくしょう!そういえばアズサはヒフミ達と、ついでにミカに意見をもらいながら買ったからいらないって言ってた!
「私の水着はどうだった?」
「まず真っ先に目につくのが胸元の大きなリボン、フリルが体型を隠す形になっていますがそこはお姉ちゃん自信持って良いと思います。でもそこがいじらしくてむしろグッジョブ、可愛いです。次はスカートが目について、普段と違うミニスカが水着ならではという感じですごく素敵だと思います!」
「……そっか。ごめん、嬉しいけど……やっぱり少し、ううん、かなり気持ち悪い」
「ぐぅっ……!!」
あ、アズサ……なんでそんなことを言うのさ……お姉ちゃん傷ついちゃう……ただ本当のこと言ってるだけなのに。
「さ、サオリ?サオリはまだですよね?お姉ちゃんと一緒に選んでくれますよね?」
「あ、ああ……その、私は……まだ、よくわからなくてな」
「よしっ!!よしっ!!」
よかった、サオリはまだだったらしい。どれ、そうと来たら片っ端からここの水着を見て……。
「だがな、スオウ。まずはお前の水着選びを手伝いたい奴が、ここにはたくさんいるんだ」
「……へ?」
サオリがクイっと親指で指し示す先には、先程水着を決めていたみんなが。
「スオウ、さ……服を買いに来るたびに、私たちに服をたくさん着せようとするよね?」
「は、はい……」
「断ったら、ちゃんと戻してくれてるけど……たまには私たちが、服を選ぶ側になりたいなぁって……ダメ……?」
「え……そ、その……」
アツコ、その可愛い上目遣いはどこで覚えてきたの。効果抜群なんだけど。それはそれとして俺の身長に合わせて少し屈むくらいならやらなくて良いと思う。
「……さっ、先にサオリの!サオリのから選んだら、良いです!」
「やった。サッちゃんのも選びたかったから、一石二鳥だね」
ふぅ……なんとか逃げきれた。
「そ、それじゃあ私、ちょっとこっちの方見ますので!」
「あっ……行ってしまった……」
……水着、かぁ。正直、考えてもいなかった……ううん、考えてはいたんだ。
ラッシュガード。スポーツ用の、服みたいな水着。そういうのを選んで着よう、って。
「……かわいい」
じゃあ、何を考えてなかったって。こういう、露出が多くて。派手で。可愛くて。女の子みたいな、キラキラした水着。
「サオリは……こういうのよりも、こっちのほうが……」
一枚一枚、サオリに似合いそうなものを探して、そうして心を落ち着ける。
心臓の音が感じたくて、胸元に手を置くと、小さいながらも柔らかな感触。
「……」
……なんとも思わなかった。前世なら、胸を触ってしまった、とでも、罪悪感を抱くのだろうか。それともラッキーだと、喜ぶのだろうか。
どれでもない。この行為が伝えるのは、吐き気を催すようなどうしようもない違和感と、自分の体が変わってしまったことに対する不可思議な感情だけ。
少し前から、気付いていた。俺の自己認識における性別が、曖昧になっている感覚。
「はぁ……」
それを今更、どうとは言わない。それも俺だと、そう受け入れた。
けれどもこんな状態であの水着を着て、それをしてしまえば……何か、取り返しがつかなくなるような。おかしくなってしまうような。壊れてしまうような。漠然と、そんな感じがするのだ。
あと単純にめちゃくちゃ恥ずかしいんだよ!こっちは悩む必要さえない、ホントの感情だ。
「あ……これとか似合いそう……」
……ま、気にせずやりますか。なるようになるさ、そのくらいで良い。そういう向き合い方を決めたんだ。どれ、こんな感じの水着なんかはサオリに似合うんじゃないか?
「サオリー!これとかどうですか?」
「す、スオウか……すまない、その」
「だいじょーぶ!気にしてないですよ!それよりサオリの水着です!」
相変わらずサオリは真面目だなぁ……いや、それだけじゃない。俺の様子がちょっと変なことに気づかれたか?
「最初は競泳用水着みたいなものも考えたんですが、やっぱりせっかくの海なのでここはちょっと大胆に!サオリの髪色に合わせて、こんな藍色の……余分な紐で装飾をあしらった、こんな水着を!これにホットパンツとかを履いておけば、基本的には活動しやすそうですし……」
「む……な、なるほど……しかし、似合うだろうか……?」
「私は良いと思うが……気になるなら、一度着てみたら?」
「……そうだな。そうしよう」
サオリが試着室に入ったあたりで、横に座って共に待つアズサに話しかけてみる。特に意味のない、なんとなくの話題。
「そういえば、補習授業部以外には誰か来るんですか?ほら、アシリとか」
「ああ、奉仕活動部も来る予定だ。合宿の打ち上げの延長線上みたいなところもあるから……だから、あとは……」
アズサが二本立てた指をなぜか一つ折り曲げ、それから残る一本も折り曲げて。
「うん。あとは先生だけだ」
「……せ、先生!?」
先生も来る……!?何それ、お姉ちゃん初耳……嫌じゃないけどさ……!
「言ってなかったっけ?」
「い、いや初耳ですよ!それは一体どういう」
「ど、どうだろうか」
そうこうしているうちに、サオリが試着を終えカーテンを開ける。どうって、そりゃ。
「やっぱりサオリは元々スタイルがいいのでちょっと装飾があるくらいの方がよく似合いますね、何より足の長さが強調されるように下半身の装飾をほとんど無くしたのは正解でした。水着がサオリの髪色の綺麗さを引き立てていて、額縁に入れて飾っておきたいぐらいです!」
「そ、そうか……!なら、これにしよう」
「待って。本当にそれでいいの?感想の最後、本当にちゃんと聞いてた?」
……?サオリが額縁に入れておきたいくらい綺麗だって、それは別におかしな話ではあるまい。何を今更。
「でもサッちゃん、本当に綺麗。モデルさんみたい」
「ほ、本当ですね……な、なぜか私とは違って大人っぽく見えます……!う、うぅ……この差は一体……!?」
「……ああいうのを着こなせるのは、サオリだからだ。私には難しい……」
「……そ、そうか。好評なようで何よりだ」
あ、照れてカーテン閉めちゃった。……サオリ、変なところで褒められるの苦手だからなぁ……本人も、嫌な気がしてるわけじゃないと思うけどさ。
「戻った。少し高い気もするが……」
「デザインが気に入ったなら、それにした方がいい。値段を気にしたらダメだと、アシリが言っていた」
「……それもそうだな。よし、私はほどほどに……スオウ。次はお前の番だ」
「ぬ、ぬぅ……!!」
に、逃げ場がなくなったぁ……!?
「あ、あの、私実はもう決めてて……」
「へぇ。どんなのにしたの?」
「これ」
「ダメ」
「早い!?」
まさかのダメ出し!?ラッシュガードでは認めてもらえないのか……利便性はピカイチなのに……!
「……スオウがそうしたいなら、止めないけど。本当にそうしたいの?」
「……へ?」
本当に、そうしたいか……?アズサは一体、何を言っているんだろうか。
「ハナコが言っていた。水着じゃなくて下着だと思えば、それは下着だと」
「……」
余計なことを思い出したせいで余計ハードルが高くなった。
「……つまり水着は、普段外で見せれないような、そんな特別な服だ。夏だけの、思い出で……」
……言いたいことはわかる。浴衣や、制服や、仮装や。特別な衣服というものも、その季節の重要なファクターで。
だからそれを着ないってことは、その分楽しみを減らしてしまう、ってことでもあるんだ。
「……それをみんなで着たり」
……うん。それは、大切だよな。
「もしくは、感想をもらったり」
……違う、そうじゃない。そうじゃなくて、ああ。クソ。
「見せたい誰かは……スオウに、いないの?」
なんで、あの人が……あの人の顔を、こんな時に思い浮かべるんだよ。
「……わた、しは……」
ダメだ、こんな、こんなのはダメだ。違う。あっちゃいけない。それは、そんなのは。
「スオウ?」
「……は、はいっ!?」
あれ、今……まあいいや。アズサの言うことも、一理ある。
水着。それもまた、夏を楽しむための重要な要素だと、それはわかる。それを一時の感情……というか、わかりやすく恥ずかしさで無碍にしようとしているのが現状なわけで、それは。ちょっと勿体無い気がするのだ。
「あー……そう、ですね……」
ふと、アズサ達の後ろにある水着コーナーを漁る。少し気になっていたものを、たった一つ。
「それなら……」
きっとこれが、俺にできる精一杯だ。何事も、一歩ずつ。
……正直な話、ラッシュガードというのはどうか、とも思っていたのは……事実だ。俺に可愛い水着が着たい、なんて願望があったのかはわからないけど、それに近しい思いは抱いていたのかもしれない。でも、恥ずかしいから着たくないのも本当で。
ごちゃごちゃした感情で、わからないことだらけだ。だから。
「こんなのは……その、どう……ですか……?」
これくらいなら、今の俺でも。
「これは……フリルがついてるタイプだけど……いいの?こういう可愛いの、あんまりスオウは好きじゃなかったんじゃ……」
「うぐっ……そ、その、胸や体の大きさを隠せるので……」
「大きさというよりは、小ささだ。私も同じ」
「ちょっ、アズサ!?」
薄緑色の、フリルのついた布面積の大きなビキニ。それと。
「その上に、これを羽織ろうかなって……」
「……なるほど、考えたね。いいんじゃない?色も合いそうだし」
白に近い、少しだけ青色をした、パーカー型の、ジッパーのついたラッシュガード。これなら普段は前を閉めて……オーバーサイズだから、きっと体はすっぽり隠れる。
それなら、たとえ恥ずかしくなっても隠せる……はず、だ。それならなんとか、耐えられる。
「なるほど、悪くないが……サイズが不安だな……」
「あ、そ、その、それはわざとで……」
「お、オーバーサイズはかわいさなんです……!雑誌にも書いてありました……!」
あれ、それ聞くとちょっと抵抗が……?
「……うん。スオウがそれにしたいと思うなら、それにするべきだ。きっと、それがいい」
……まあ、ちょっと……ううん。かなり恥ずかしいけど。何事も挑戦だ。
大丈夫、何回か女物の服も着てある程度は慣れてるし……このくらいの服なら、きっと大丈夫……だよな?
これ以外ちょうどいいデザインの水着なんてないし、今更ラッシュガードというのも……男物の水着なんて論外だし。うん、これにしよう。
「はい。これにします!」
「むー……スオウの水着、色々考えてたのに……残念」
「す、すみませんアツコ……」
「いいよ。スオウが着たい服を着るのが、一番だから」
いや、別に俺は水着を着たくて着るわけじゃ……いやでも、だったらラッシュガードでも……いや、デザインを天秤にかけたらこっちの方が……うぅん……!?
◇
「ふはぁ……」
疲れた……やっぱり自室のベッドが一番だ。
あのあと、結局選んだ水着はアズサに示したそれと同じもの。ちょっと後悔してないでもない。
なんでこれにしちゃったんだろう……確か考えを変えたきっかけは、アズサが見せたい誰かはいないのかとか───
「───と、電話?」
一体誰から……って、え?
「……は、はい。もしもし?」
夜遅く、もう寝る子もいようかという時間帯。部屋の中に響き渡ったのは。
『あ、出た!!もー!!スオウちゃん!!?』
無邪気な夜の、お姫様の声だった。