空気が澄むほど冷え切った、肌寒い空気の中。エプロンに身を包んで、ぐぃーっと体をひと伸ばし。
「んー……さむっ!」
エデン条約から、一体何ヶ月が経過しただろう。季節はぐんぐん移ろって、今は冬。雪もちらつく景色の中、厚手のパーカーを取り出して、寝巻きの上にさらに着込む。
そうすると漸くマシになったのか、少しは寒気も引いたように感じた。
「すっかり冬だ……」
季節は冬。時は二月。そう聞いた人間が思い浮かべるものは、そう多くないだろう。
例えば、雪だとか。それを使ったスポーツ。もしくは、閏年だとか。今年は違うけど。あとは、もちろん。
「……うん。十三日で、間違いないな」
バレンタイン、だとか。
「ふっふっふっふっふっ……!!」
キッチンの前に揃えられた用意を前に、小さく笑みを溢して見せる。バレンタイン。家族や友人と過ごす祝日、それが大元の意味。大元の、というだけあって、時代と共にその役割は変化してきた。
こと現代においては、チョコレートを送るイベントとして広く知られている。親しい友人、家族、それと……恋人、とか。そんな人たちに想いを伝えるたまにあるイベント。それがバレンタインだ。
「って、『ノート』に書いてあったし……」
うん、書いてあっただけ。正直バレンタインがどんなものだったかとか、全然覚えてない。
昔妹達に話題として出したけど、アリウスの環境じゃチョコは補給用。勝手に消費するのもまずいし、そもそも味を楽しむためにあるもんじゃない。少量でエネルギー効率がいいってだけの話だし。
だから、ちゃんとしたバレンタインを過ごすのはこれが初めて。そのためにも。
「……う、うーん……流石に壮観ですね……」
目の前に積み重ねられるのは、百人近くいる妹達のためのチョコの材料。あとラッピング用の箱とか、その他諸々。結構金がかかった。部屋ごと貸し切っておいて正解だったかな。
「……ま、気合い入れていきますか!」
お菓子作りなんて初めてやるけど、可愛い妹達のためだ。誰一人だってチョコが行き渡らない子がいないように、お姉ちゃんが必ず全員分用意して見せる。
あと妹達からもチョコが欲しいので、明日チョコを渡し終えたら興味がある子を引き連れて一緒にチョコを作る。俺は妹のチョコを貰える、妹はチョコの作り方を学べる。ウィンウィンだ。
「と、まあ御託はここまで……」
懐からメモ用紙を取り出して、妹達の嗜好、それに伴った市販のチョコレートの種類を確認。中には甘いのが苦手な子もいるし、その子達にはビターチョコで作ってあげるつもりだ。
あとはココアパウダー以外にも、抹茶系のパウダーとか、その他諸々……とにかく、みんなが楽しめる味にする。流石に全員分、全く違うチョコレートは来年までお預けかな。時間が足りない。
「えーっと、まずは確か……」
ミカに教えてもらったレシピをアテにしつつ、準備を始める。鍋に生クリームを入れて、その隙にパッドにクッキングシートを敷いて。そしたら適量……そうだな、一気に四人分は作りたい。だから一人十二個として。
「えぇっと……十二枚、ですかね」
チョコを細かく刻んで、ボウルの中にたくさん入れていく。その感触が、なんとなく心地いい。楽しくて、ついついたくさんやってしまいそうになる。
こういう時ばっかりは、体温が低くて助かった。じゃないと、触ってるうちにチョコが溶けてしまうし。
「と、そろそろ沸きましたかね」
十枚ずつなんてちんたらやってられないので、他のボウルを用意し先に作業を進めていると、鍋の方からふつふつと音が鳴る。ちょっとあっためすぎた気もするけど、まあ大丈夫だろ。
「そしたら、これを、と」
そこそこ量があるけど、そこはアリウス最高峰のお姉ちゃん兼神秘。この程度片手で余裕さ。と、ほざいてる場合じゃないか。
「……うん、そろそろですね」
湯気も少しおさまり始めた頃合いを見て、泡立て器でシャカシャカと。
「……これ、頭皮マッサージ器に似てるよな」
なぜだかマユミが勧めてきたから試してみたけど、あれはとても良いものだ。今度ミサキあたりにもやってあげよう。多分殴られそうだ。
なんて、考えてるうちに、チョコレートは生クリームに溶けて、その姿を完全に消して。代わりに、生クリーム全体が粘性を持った茶色い液体のようになった。
「で、これを……」
その液体をパッドに流し入れて、底面をトントンと地面に。こうすると滑らかになるらしい。どっちも試作したけど、俺には違いがイマイチわからなかった。美味しいから別に良いけど。
「ふー……一つ目、完成。これは甘い系だから、アズサと、アツコと、ヒヨリと、ヨセと……うぅん、まだまだたくさん……」
これで四人分。妹達や普段お世話になってる人たちの分も考えて、百人前とすればこの作業をあと二十四回。
「は、はははっ……」
うん、ちょっと無理があったかな……でも、これなら一気にたくさん作れるし……あとはこれを常温で放置して、ちょうどよく固まるのを待つだけ。そしたらそこへココアパウダーをかけて完成だ。所謂、生チョコというやつ。
「どれ、ちょっと味見でも……ん、良い感じ」
何回か、こっそり練習しておいて正解だったな。そんなに難しくなかったけど、余計なところで手間取りたくなかったし。
生チョコを選んだ理由はそんなに難しくないのと、それからたくさん作れること。ついでに、ちょっとリッチな感じがするし……一番は、長期保存が効かないことが理由だ。
生チョコは四日くらいしかもたない。だから、できるだけ早くに食べてもらわなきゃいけないわけで……贈り物としては、少し不適切な気もするけど。
「アリウスじゃ、こういうのは珍しかったですしね」
アリウスには冷蔵庫がなかった。舐めてると思う。でも今はある。マユミのおかげだ
それに、保存に手間がかかったり、もしくは保存できない嗜好品を楽しむ余裕、なんてものもなかった。今は違う。今は、みんな自由だ。
自分のお金の範囲なら好きな時に好きなものを食べて良いし、生ものだって冷蔵庫や冷凍庫で保存できる。だから、そういう体験を含めて楽しんで欲しい。それが、一番の理由。
「……ま、可愛い妹達のためですからね!一肌脱ぎましょうか!」
残り二十四回分、用意されたトレーに気が遠くなる感覚を覚えながら、頬を叩いて気合を入れ直した。
◇
「こ、これで二十回目……」
流石にちょっと疲れて来たかな……始めたのは夕飯後だったけど、かなり時間も経っちゃったし。
「でも、なんとか妹の分は……!」
二十回分で妹の分は終わり。あとはアシリ、奉仕活動部とか、マユミ、生徒生活支援部、サユリって子は届ける手段があるかわからないけど。それからミカに、セイアに、あとは。
「……どうしよ」
先生、に。
「先生に……」
……あげるべきか?
「いや、それはあげるべきだろ」
自分の思考に言葉でツッコミを入れながら、頬をひと叩き。そうじゃない。いつもお世話になってる人への感謝の気持ち。妹への親愛、友達への友愛。それは良い。でも、確かに『ノート』には書いてあったんだ。
女が男にチョコレートを渡す、その意味が。
「……」
先生のことは、尊敬してるし。憎からず思ってるし。変な意味じゃなく、俺はあの人のことが好きだ。あの人は、目標だから。
でも、それはそれとして……俺が先生にチョコレートを渡したなら、周りは『そういうこと』として受け取るだろう。もしかしたら先生だって、そう思うかもしれない。そんなことになってしまったなら。
「……できるわけ、ないじゃんか……」
だというのに、未練がましく先生の好みまで調べて。メモに残して、材料まで用意して。明日の先生の予定まで調べて。そして、この直前になってまで悩んでいる。何やってるんだか。
「……なんとか、ならないかな」
わかってる。先生は、生徒の先生だ。生徒から受け取るチョコレートを、『そういうもの』として受け取ることはないんだと思う。あの人は、そういう人だから。
「それはそれで……なんか、ヤだし……」
そんなことはわかった上で。理屈じゃないんだ。感情でしかない、理由なんてない。
怖いんだ。先生に、チョコを渡すのが。先生が、俺が思い描く先生から崩れてしまうのが。先生の生徒で、在れなくなってしまうかもしれないことが。
「……」
なのに、手は勝手に動いて。先生のチョコレートの配分。甘いのとそうじゃないのを混ぜた、少しだけビターなチョコ。素直な感謝と、慕情と。隠し味に、苦い不安を添えて。
「なにやってんだろ……」
俺の体が男のままだったら、こんなことも気にせずに先生にチョコを渡せたんだろうか。それとも、それでも誤解されちゃったりしてな。
そもそも、俺が俺のままだったら。前世のままだったら、どうなってたのかな。先生は、俺のことを助けてくれたのかな。『生徒』として、見てくれたんだろうか。同じように、言ってくれたんだろうか。『大切な生徒』、って。
「だから……」
現実逃避のように、取り止めのない思考を繰り返して。黒いチョコレートは、乳白色の中に溶けていく。俺の気持ちも、こんなふうに溶けてしまえばいいのにな。
「うげ」
そんなことを考えて見ていた生クリームが黒く染まっていくのを見て、苦笑い。どうあがいても、誤魔化すことも逃げ出すことも許されない。そのことを、強く伝えている気がした。
「急げ急げ」
浮かんだチョコを沈めて、気持ちを鎮めて、ぐるぐるとかき混ぜる。ボウルの中で、ぐるぐる、ぐるぐる。周りの泡を巻き込みながら、混ぜられていく。
ふと手を止めて、波が収まるまで様子を見て。水面に映った自分の顔が、今だけはどうしようもなく見ていられない。いつものような、堪えきれない違和感のせいじゃない。
その赤く染まった表情が、これでもかと自分の本音を曝け出しているようで。
きっと、渡せない理由は。考えた理由は。全部、言い訳だ。
「えいっ」
腹立たしくなったので、グチャっと泡立て器で崩してやった。そのまま止まらないように、チョコレートが溶けるまで混ぜる、混ぜる。
「って、結局作っちゃってるし……」
そんなことをしていれば、生チョコ作りも終盤。あとはバッドに流し込んで、少しの間だけ待って。そしたら均等に切って、それにココアパウダーをかけて完成だ。
「っ、と」
ダァン、と。気泡を抜くための動きが、つい力強くなってしまった。俺の体じゃ壊しかねないし、気をつけないと。八つ当たりだ、こんなんじゃ。
「……」
流れるように、次の分。その次、そのまた次へ。気分を変えるために作り続けていたら、いつの間にか必要な分は作られてしまっていた。止まない気持ちは、置いてきぼりだ。
「それじゃあ、こっちも……」
取り出すのは、妹一人一人へのメッセージが書かれた箱。これに紙を敷いて、その上に完成した生チョコを乗せる。そうすれば、食べ終わる頃には全てのメッセージが見れるわけだ。
「ま、あとは単純作業、ってやつですね……」
チョコが固まるのを待ちながら、箱に紙を敷き詰める。箱を取る。紙を敷く。箱を横に置く。それだけの繰り返し。散漫になっていく集中力で、残されたリソースは余計な思考だけを与え続けていた。
「ふっふっふっふーん、ふふふふふふん……」
それが嫌で、なんとなく声を出す。やけに実感を伴わない、別の誰かが発声してるんじゃないか、なんて思ってしまうような声。嫌な気持ちは、むしろ加速度的に高まっていくだけだった。
「……」
冷たい椅子に座ったまま、歌うのもやめて、ひたすらに作業。ただ、それだけを。
早くチョコが固まって欲しいから、暖房はつけていない。肌寒くて、少しアリウスにいた頃を思い出すかな。
「ふふふふふふふん、ふふふん、ふーん……」
向こうにも暖房なんてなったし、家は穴だらけだし。妹達も小さかったのに、あんな仲良く頑張ってたよな。
「ん、んーんー……」
思えば、生活環境はは随分と改善された気がする。これもマユミのおかげかな。
「……ふっふん……ふーんふーんふーん……」
もちろん、マユミだけじゃない。生徒生活支援部は当然として、俺の計画に気づいて止めてくれたミカ。追いかけてくれたサオリ達。アズサに協力してくれたヒフミ達に、さらにそこへ協力してくれたアビドス。彼女達を導いたセイア。それと、もちろん。
「ふん……あ……もうラスト、ですか……って、あれ?」
俺を助けてくれた。先生。
「……何も書いてない」
先生、は。
「あ……先生の、か……」
俺にとって、先生は……なんだ?
「……」
憎たらしいほどに白い箱の底。まだ何も書かれていない、俺の髪と同じ真白。何も書かれていないだけで、名前がつけられていないだけで。そこには確かに、何かの気持ちを込めるだけのスペースがある。
「助けてくれてありがとう、とか……」
感謝。
「すごいと思ってます、とか……」
尊敬。
「また頼らせてください、とか……」
信頼。
「先生みたいになりたいです、とか……」
憧憬。
「……とか……」
この気持ちに、名前をつけるなら。
「わかんない……」
伝えれない。自分でもわからない感情なんて、伝えられるわけがない。伝えたい。
「……」
紙を取り出して。言えない気持ちを書き綴る。名前のついていない、その気持ちを。目一杯に、書き連ねていく。
「……うん」
先生は、『先生』だ。俺がチョコを渡しても、きっとそんな風に思うことはないだろう。ちょっと寂しいけど。でも、それでいいんだ。気づかないままで。
だから、今はこれでいい。
「さて、と……本格的に暇ですね……」
先生のための箱を、パッタリと閉じて。言えない気持ちは全部、その中にしまい込んだ。
◇
そうして迎えた、バレンタイン当日。
「すごい……これ、スオウが作ったの?」
「お、お店で売ってるものみたいです……!とってもおいしいです……!」
「大袈裟ですよ……でも、ありがとうございます」
妹達の反応は上々。というより、予想以上の大好評だ。
「サオリのやつ、ちょっと色違くない?」
「む……言われてみれば、そうだな。ミサキ、一つもらえるか?」
「いいよ。ほら」
「……なるほど。味が少し違うのか」
サオリとミサキがチョコを交換するのを見ながら、そういう楽しみ方もあるか、と、少しハッとさせられる。特に意図してなかったけど、なるほど、シェアできるのも楽しみ方の一つだもんな。来年も、人によって味は変えておくこととしよう。
「あれ、これは……底に、何か文字が……」
「あ、それは……」
言い切るより先に、アズサが箱の蓋にチョコを移して、メッセージを見てしまう。
アズサに書いたメッセージは。
「えっと……なになに」
「わ、わーっ!!待ってください、読み上げるのはやめてください!」
「……いつも散々妹扱いしてくる癖に、どうして今更照れるの?」
「い、いやそれはその……」
目の前で読まれる分にはいいけど、流石に読み上げられるのは……なんというか、ちょっと……こう、心に来るものがあるから。
「あ、私の方にもある」
「わ、私もです……スオウさん、まさか全員分……?」
「お姉ちゃんですからね!」
というかヒヨリ、もう全部食べたのか。いやまあ、賞味期限が近いしそれが正しいんだけどね。ヒヨリが幸せそうでお姉ちゃんも幸せ。
「ありがとう、スオウ。今日、希望した人とチョコを作るんだよね?」
「はい!ちょっとしたイベントです!アツコも来ますか?」
「うん、教えて。スオウに教えて欲しい」
「もちろん!お姉ちゃんが手取り足取り教えてあげますからね!」
うーん、思ったより希望者が多いな。もっと材料を残しておくべきだったか……ま、最悪一走り買ってくればそれで間に合うだろう。
そうなると、生クリームも買い足さなきゃいけないわけで……うん、後で誰か妹に手伝ってもらおう。流石に荷物が多そうだ。
「……ふぅん。そんなこと思ってるんだ」
パタン、と箱を閉じながら、ミサキがいつも通りのしっとりとした目で見据えてくる。それから、少しだけ笑いかけて。
「まあ、悪い気はしないよ。ありがと」
「……!」
ミサキがデレた。なんて、口にしてしまえばしばらく喋ってくれなくなることは請け合いなので、固く口を閉ざした。
「……そう、か……何も高級品を買うだけが、感謝の伝え方では……」
「サオリ?」
「ああ、いや。なんでもない。こちらの話だ」
どこか納得したように、チョコを一口。
「……甘い、な」
「ふふっ……サオリも、たまにはこういう味も悪くないでしょう?」
「ああ……ああ、そうだな。うまいよ、これは」
なんて、言ってるけど。サオリが気にしているのは、味だけではなさそうだ。
……ひょっとして、サオリも先生にチョコを渡したり……いや、サオリだけじゃなくて、まさか他のみんなも……い、妹を取られた上、妹に取られる……!?
「私も、おいしかった。ヒフミ達とよく勉強の合間、お菓子を食べることはあったけど……これは格別だ」
「ふふ、そうでしょう!お姉ちゃんの手作りですから!」
「……うん。きっとこのチョコに込められたスオウの気持ちが、とても大きかったからそう感じたのかもしれない」
「えっ?」
この娘今、妹を否定しなかったよな?
「ありがとう、スオウ。スオウの気持ちは、よく伝わってきた」
「え、いや、はい……その……あ、あれ……?」
なんか思ってた反応と違う、けど……妹を否定しなかった、ってことは!
「アズサもいよいよ認めましたね……!私をお姉ちゃんだと……!」
「……いつもこの箱くらい静かなら良いのに」
「うぐぅ!?」
かと思ったら、チョコを刻むのに使った包丁よりも鋭い言葉がお姉ちゃんの心を切り裂いた。油断させてから切り掛かられたら、お姉ちゃん耐えれなくなっちゃうよ……。
「っと、もうこんな時間!ごめんなさい、他の子達のチョコもあるので!」
「そうか。気にするな、行ってきてやるといい。チョコレート、確かに受け取った」
「はい!みんなでシェアハピしてくださいね!」
「しぇあは……?」
サオリを困惑させつつ、部屋の外へ。
トリニティ組、ミカとセイア、アシリと奉仕活動部の分は、今日来てくれたアシリに全て預けた。大量のチョコの処分は後で考えるとして。
そうなると、あとはマユミに、それからおそらく俺にチョコを用意してるであろうシオとヤコから受け取って、えぇと……!間に合うかな、これ……!?
「っ、急がないと……!」
一番最後になっちゃうけど、許してくれるかな……ううん、許してくれるんだろうな。
だから、せめて待たせないようにしてあげないと。
「……全部終わったら行きますからね。先生」
大切な箱をしっかりと握りしめながら、次の目的地へと走った。
◇
ほとんど深夜の、シャーレオフィスにて。当番の生徒も帰宅し、先生は一人居残りの残業。もう一本も電車が過ぎれば、終電を逃してしまうような時間帯。最もシャーレオフィス付近に住む彼にとって、それはあまり関係のないことだが。
「“……そろそろ、かな”」
それでも彼が終電を気にする理由は、ここに来るはずの一人の生徒を案じてのことだ。
時間通りならば、もう直ぐここに着くはず。コートを羽織って、外へ向かう準備。体を冷やしてくるであろう彼女に、幾らかの温かい飲み物を用意しながら。
「“さ、寒い……”」
それでもなお外に出れば寒いのだから、この季節はおそらく人間が生きるためにできていないのだろう。日を追うごとに寒くなるのだから、このままいけば四月の寒さはピークだ。
くだらない冗句を頭で思い浮かべつつ、外で一人待つ。自らと同じく、真っ白いコートに身を包んでくるであろう、その少女を。
「せ、先生!」
「“スオウ、こんばんは”」
桐花スオウのことを。
「は、はい、こんばんは……!ごめんなさい、お待たせしてしまって……!」
息も絶え絶えに謝罪を口にする彼女に、少し居た堪れない気持ちになる。鬼神の如き戦い振りを見せた彼女が、息を切らすほど。どれだけの距離を、どれだけの速さで駆けてきたのか。
それだけ、今日この瞬間、自分に渡したいものがあったということ。連絡を取り合った時に「“いつでも待ってるから、急がなくても大丈夫だよ”」、などと言った自分に喝を入れてやりたい気分だった。
「“大丈夫?すごく息が切れてるけど……”」
「はぁっ……は、はははっ……!おねーちゃんですし、このくらいは平気平気……!平気ですよ、ゲホッ!」
「“すごく平気じゃなさそうだ”」
これは暖かい飲み物を持ってきたのは不正解だったかと、そっと懐にペットボトルをしまい込んだ。どこか見覚えのある水筒で水分補給をし始めたのだし、余計なお世話というやつだったのだろう。
「“外は寒いし、少し中に寄っていく?”」
「い、いえ……お気持ちは嬉しいですけど、その……終電が近いので……」
「“そっか……今日は忙しかったみたいだね”」
やはりと言うべきか、相当にギリギリな時間。どうしてもこなさなければならないことばかりの中で、なんとかここへ訪れるための時間を捻出した、ということなのだろう。
「は、はい……妹達にチョコの作り方を教えたり、チョコを渡したり、チョコをもらったり……幸せにも時間は要るものなんです」
「“哲学的だ……”」
難しいことを言い始めるスオウの目線は、どこか朧気だ。あっちを向いたり、こっちを向いたり。ほんの少し目があったかと思えば、直ぐにそらされてしまうほどに。
「“それで、用事っていうのは?”」
後ろ手でモジモジとしながら、何かを言いあぐねていることを察し、助け舟を差し出す。スオウも気遣われたことがわかったのか、少し情けなさそうに笑っていた。
「そ、その、ですねぇ……用事っていうのは……」
日付を見て、しっかりと二月十四日であることを確認。他の生徒にも貰っているだろうに、まだ気づかないのだろうかこの鈍チンはと、少々語気の強い悪態を心の中で吐きながら、勢いよく一つの箱を差し出して。
「こっ!!これ、です!!」
「“……これは”」
「……あ……けて、みて……くれると、嬉しくて……」
スオウの言葉に従い、箱を開ける。一枚紙を隔てて、さらに開いてみると、そこには。
「“チョコレート……”」
「……その、今日は……バレンタイン、なので。どうしても先生に、これを渡したくて……」
「“……”」
そのために、こんなにも息を切らして。こんなにも寒い中、終電のギリギリを見据えて。バレンタインに、間に合わせるために。
「その……先生には、普段からお世話になってますから」
「“……ありがとう。今、食べてみても良い?”」
「えっ?え、あー……」
幾らかの逡巡を見せたあと、スオウは照れ臭そうに頬を掻いて。
「はい……その、先生の好みに合わせたつもりなので……お口に合うと、いいんですが……」
当然合わないはずがないのだが、そこに理屈はなかった。ただ心から、先生においしいと思って欲しい。それだけの気持ちが溢れ出ただけだった。
「“おいしい……うん。すごくおいしいよ。私の好み、ぴったりだ”」
「っ……!そ、そうですか!そうですよね、それはその……よかった、です……」
事実、チョコの味は先生の好みに合致し。しかしそれでもなお、何か気になることでもあるのか、スオウの表情の中には不安そうな色が見えた。
何かあっただろうかと、チョコレートが入れられていた箱を見てみると。
「“これは……箱のそこに、文字……?”」
「あ、その、それは……箱の底に、メッセージが書かれていまして……妹達と、同じ仕様です……」
「“……読んでも?”」
「っ……!」
質問に直ぐに答えることはせずに、否、できずに。一度目を逸らし、再び先生の目を見つめ。また逸らして下を向いて、声にならない小さな声を上げながら。
「……」
「“それじゃあ、失礼して”」
一言も発さずに、真っ赤な顔で頷くだけ。それだけで、肯定を返した。
「“……”」
感情がそのまま文字に変わったかのような、書き連ねられる言葉。自分が今生きているのは。いつか貴方のように。貴方のこんなところが素晴らしい。また貴方を頼りたい。
きっと要約するなら、こんな言葉。それだけでは伝え切れないほどの感情が、その文字には込められていて。
「“ありがとう”」
「……」
たった一言。感謝の言葉を伝えた先生に、スオウは俯いたまま頷くだけだった。
何度見ても色褪せない、これからの自分の人生を照らし続けるであろう言葉の数々。何度も、何度も、噛み締めるように読んで。
「“……あれ?この箱の底……”」
そして、ふと気づく。所々、重なるような文字。箱の底面だと思っていたそれは、たった一枚の紙が挟まれていたのだ、ということに。
「“これは……”」
「っ、それは!!」
先生が紙を捲るよりも先に、スオウが手で静止した。しまった、というように焦るスオウを見て、腕の動きを止めて。彼女が話し始めるまで、じっと待つ。
すると、スオウは観念したように。それとも、最初からこうなることがわかっていたかのように。
「……先生」
「“うん”」
「先生は、これから……何があっても、
先生は、生徒の味方。ならば、この質問が意図するところは。
「“もちろんだよ”」
迷うべくもない、彼にとっての信念。わかっていたが、と、安堵したようにスオウは笑って。
「だから、これはまだ教えれません」
目を閉ざして、語る。
「この気持ちは……この気持ちに、私が名前をつけれるまで。私が先生に、追いつけるまで」
そして、ゆっくりと先生の腕から手を離し。
「私が自分の言葉で、この気持ちを伝えれるようになるまで……この気持ちに、自信を持てるようになるまで……待ってて、くれますか?」
委ねた。
「“……”」
今度はたっぷり。たっぷりと、時間をかけて考え。そして。
「“わかった。約束するよ”」
その紙の裏を暴くことはなく、そっと再び箱を閉じたのだった。
「……その生チョコ。賞味期限があと三日なので、早めに食べちゃってくださいね」
「“了解”」
「それと、明後日の当番は私なので……また、お弁当を作っていきます。お昼ご飯は、買わないでください」
「“うん、わかったよ”」
先程までの態度はどこへやら。すっかりいつも通りの調子に戻って、くるっと後ろを向いて。
「それじゃあ、私は終電が近いので……また後日。お忙しい中、ありがとうございました」
「“またね。気をつけて”」
口元を押さえて、駆け出す。真っ赤な顔に、緊張でうっすら涙の浮かんだ彼女の表情は、誰も知ることがなかった。
すみません、バレンタインも大幅遅刻しました……予定にない予定が積み重なった結果です……
これから時間ができるので、少し投稿頻度も上がると思います!