ts転生者の生徒が、頑張るだけのお話。   作:おにっく

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※こちらの話は精神的、肉体的に、非常に残酷な描写を含みます。ご注意ください。
※また、アビドス3章までのネタバレも含みます。

以上二点を避けたい方はブラウザバックを強く推奨します。


【if】蝶の羽ばたき

 例えばどこかで。蝶が羽を動かしたとする。

 

「……」

 

 その羽が起こした風は、いずれ大きな風となって地を穿ち。そこに多くの悲しみと絶望を残していく。

 この世界は、そんなボタンのかけ違いから生まれた。

 

「……あれ、どうしたの?困りごと?」

「!……すまない。この、自販機?で、飲み物を買う方法がわからなくて」

 

 本来名前を知られることもない。物語に関わることもない。脇役のような人間。

 彼女はなんの変哲もない、平凡な人間だ。いい人間でも悪い人間でもない。平凡なトリニティ生徒。

 だから困っている人を見かけたら、まず迷う。助けるべきか助けるべきでないか。自販機の前で首を捻るという奇行に及ぶ人間なら尚更、助けるべきでないという方に針は振れるらしい。

 

「……そ、そっか。何が飲みたいの?」

 

 だが、この世界では辛うじて善性が勝った。困っている人間を見捨てることができない。助けずにはいられない。人間が本来持つ善さが、彼女自身の怠慢に打ち勝ったのだ。

 これが蝶の羽ばたき。ボタンのかけ違い。この世界では、ここが分水嶺。

 

「……牛乳、本当に効果あるのかなぁ?」

 

 自販機の前でアズサが立ち尽くすこともなく。なんとはなしに横目で見つめて、それっきり。アシリは牛乳を飲みながら、いつも通りに彼女の部活……奉仕活動部へと向かっていく。

 ここで部活動に間に合ったことにより、アシリはいじめに気が付かなかった。本来彼女が通る道筋では、気づくはずだった。違いと言ったら、たったこれだけ。

 

「と、いうことで……本日からこちらの、奉仕活動部のみなさんが勉強を手伝ってくれます」

「は、初めまして。甘川アシリっていいます……み、みんな、これからよろしくねぇ……?」

 

 本来であれば得られるはずであったアズサに対する気づき。育むはずだった信頼。友情。それらの一切が不足して。

 

「……なるほど。『vanitas vanitatum』。でも、最初から諦める理由にならない。私の姉、っ、姉のようなナニカも、よく言っていた」

「っ……!」

 

 アシリが初めに抱いてしまったのは。白洲アズサへの、不信感だ。

 どれだけ取り繕っても消えることのないぎこちなさ。そして本来マユミが取り付けているはずだった盗聴器、盗撮器。それらが存在しないことによる、情報の不足。

 彼女たちの物語、その外側では、何事もないかのように世界は回っていく。

 そして、彼女たちの中でも。得られなかった信頼も気づきも、時間が解決してくれる。時間だけが、ただ彼女たちに本来の……本来歩むはずだった未来の、歴史をなぞることを許した。

 

「……あなた達は……私の人生の、誇りです。あなた達が、私がここに生きた証。私が生まれた意味」

「待って!!」

 

 ……だが、惜しむべくは。

 

「……大好きだよ。じゃあね」

 

 時間は決して、彼女たちの味方ではない。むしろ、致命的だったのはその遅れ。彼女たちが友情を育むために浪費された時間が、あと一歩……彼女に。桐花スオウに追いつくことを許さなかった。

 

「……はははっ」

 

 先生が彼女の背に追いつくよりも先に。彼女とベアトリーチェの死闘が、どちらかの死なくては終わることのできない戦いが。止まることのできない戦いが、始まってしまったのだ。

 

「スオウっ……!スオウッ!!」

 

 戦闘の余波で起こる崩落。先生が、サオリたちが、アシリたちが追いつく頃にはもう、スオウの姿も。ベアトリーチェの姿もなく。

 

「……うそ……だ……」

 

 残された血の跡。彼女の残した、白いロープ。虚しく響く絶叫。それらが延々とこだまし続けて。

 ……あるいは、それだけで済んでいれば。一人の人間を喪う。人間が生きていれば、いずれは必ず直面する絶望で終わっていれば。まだ、マシだったのかもしれない。

 

「……う……ぐ……」

 

 少なくとも、桐花スオウにとっては。そこで死ねていた方が、幾億倍もまともな終わりを迎えられたことだろう。

 

「……ここ、は……」

 

 目を覚ました彼女が初めに目にしたのは。天の国でも、地の獄でもなく。機械仕掛けの天井。

 

「なんだ……これ……」

 

 身動きは一切取れない。まず真っ先に感じ取ったのは、手首に伝わる冷たい、鎖の感触。次に感じたのは、首元の違和感。

 

「おれ……しんだ、はずじゃ……」

「目を覚ましましたか。桐花スオウ」

「っ……!!」

 

 その違和感の正体を確かめるよりも先に、彼女の意識は真っ赤に染め上げられる。怒り。復讐心。ヘドロよりもどす黒く降り積もった負の感情が、決壊するように溢れ出す。

 

「ベアトリーチェ、テメェっ!!生きてやがったのか!!」

「ええ。あなたも無事なようで何よりですよ、桐花スオウ」

「ぐっ、が……!?」

 

 首元から鋭い痛み。何かの薬を流されたのだと、直感的に理解した。次に感じたのは、息苦しさ。ガラス越しに話しかけてからベアトリーチェになんの影響もないことを見るに、おそらくはこの部屋のみ。毒煙がばら撒かれている。

 

「……なんの、つもりだ」

「なんのつもり、ですか……本当に、心当たりがありませんか?」

「……」

 

 心当たり。二つあった。

 一つは、ロイヤルブラッドとしての彼女の役割。秤アツコの代用品。儀式の生贄としての役割。

 そして、もう一つ。

 

「私が興味を持ったのは、あなたの……あなただけが持つ異常さですよ、桐花スオウ」

「……」

「あなたの持つ知識。あなたを成り立たせる精神。あなたを構成する記憶。その全てが、この世界にとっての異物そのものです」

 

 転生者として桐花スオウが生まれた時から持ち合わせる、記憶だ。

 神秘の副産物……百合園セイアや黒崎コユキのような、能力の一種ではない。彼女の魂そのものの異常性に由来する、彼女の特殊さ。ベアトリーチェが目をつけたのは、そこだった。

 

「儀式の生贄……ええ、それも悪くはないでしょう。実際、しばらくの間あなたの()()()()は『それ』です。ですが、一度の儀式だけで終わらせるにはあまりに惜しい命」

 

 毒煙は、辛うじて呼吸ができるほどに薄い。首元から注射されたのは、呂律が回らなくなってきたことから筋弛緩剤であることが伺える。指先に、生暖かい感触。目線を向けて見れば、そこから少しずつ血を抜き取られていることがわかった。

 殺すためではない。神秘を消耗させ抵抗力を奪い、生かし続けるための拘束。

 

「……じごくにおちろ」

「誰かが私を裁けるというならば」

 

 暗い檻の中で、ヘイローの光。それだけが、彼女に許された唯一の光だった。バラバラになったそれは、薄暗く彼女の目を照らし続ける。

 ベアトリーチェは、自分を用いて時間をかけ、なんとか殺さない方法で儀式を成功させるつもり。それがわかってから、彼女の行動は早かった。

 

「……」

 

 舌を噛み切っての自死。自分の存在がベアトリーチェを通し、妹たちを脅威に晒すならばと。彼女にとっては、それならば死んだ方がマシだと。そう思えるだけの出来事だった。

 失血死。窒息死。餓死。発狂死。あらゆる手段を用いても死ぬことさえ許されず。なんとなく、「本当に死ねないのだな」と。そう理解することができた。

 

「……」

 

 何日。何週間。何ヶ月が経過したか。彼女が生きているという事実は彼女の妹も、親友も、先生でさえも知ることはない。助けを期待することはできない。

 ただ、自分とは隔絶した世界のどこかで、彼らは、彼女たちは生きている。ただそれだけで、スオウにとっては充分すぎるほどの心の支え。希望たり得た。

 

「あ……あー……」

 

 生きているはずなのに、生というものを実感することができない。ただ大きな苦しみを抱え続けるだけで、精一杯な毎日が過ぎ去っていく。儀式の生贄としての日常は、言葉にしてみればそんな生活。

 果たして本当に自分は生きていると言えるのか。そんな考えからから彼女の発声は、ごく自然なものだったと言えるのかもしれない。

 

「……はははっ」

 

 ごく自然な、狂気だ。

 

「ふん、ふん、ふんふーん」

 

 絶望に抗い続けた彼女の精神を持ってしても、その魂を凌辱されるような日々。その苦痛で、確かに精神は疲弊し、磨耗していった。

 

「みんな、元気かな」

 

 それでも、妹たちこと。アシリたちのこと。先生のこと。それらだけは辛うじて、心に繋ぎ止めておくことができた。奇跡と呼ぶほかない。

 これでもかと不都合な奇跡。

 それから、さらに数ヶ月が経ち。ベアトリーチェはその間、姿を見せず。

 

「……これは」

 

 ある時、彼女を訪れたのは見覚えのある赤色……ではなく、真っ黒な人型のナニカ。

 

「……クックック……末恐ろしい」

「……誰だ、テメェ……」

 

 実に数ヶ月ぶりの、人間とのまともな会話。いや、実際人間と呼べるかは定かではないが、それはそこまで重要ではない。ただ対話相手がいるという事実が大切だった。彼女の心を狂気の果てから、この現実にまで引き戻した。

 

「初めまして、桐花スオウ。私のことは黒服とお呼びください」

「……くろふく?」

 

 どこかで聞き覚えがある。記憶のかけらを辿ってはみたものの、正確には思い出すことができない。彼がアビドスで計画していたこと、その全貌については。

 ただ思い出せたのが、ベアトリーチェの同類であるという事実。ゲマトリアの一員。敵だということだけだった。

 

「何の用だ……何か、ゲマトリアってのはずいぶん暇なんだな?びっくり仰天白髪人間展覧会にわざわざ訪れるとは、いい趣味してやがるじゃねェか」

「……」

 

 スイッチで毒煙を止め、部屋の中へ。明かりをつけるとその感覚が久しぶりだったのか、彼女が目を細めるのがわかった。長く伸び散らかした髪は手入れをされるわけでもなく、地面に付いている。

 

「……この感情を、凡庸な表現で言い表すのなら……驚いた。とでも、言えばいいのでしょうか」

 

 口を開くことなく声を発する彼は、ひび割れたような顔面をゆらりと歪め。揺らぐ黒い炎のような頭部で、スオウの瞳を覗き込む。

 

「まさか一切の神秘を損なうことなく、契約もなく……ここまで完璧に生徒を保存できるとは……」

「ぺっ」

 

 興味深げに観察する黒服の頭に、透明な液体が飛ばされる。スオウが吐き捨てた唾だった。

 

「顔近っ。気色悪いわ、なんか変な匂いするし。近寄るなロリコン怪人変態まっくろくろすけ。人間の屑が」

「……クックック」

 

 しかもここまで、限りなく正気に近い狂気で。言葉を飲み込みながらも、その隻眼は確かに見つけた。

 白と黒のオッドアイ。暁のホルスに次ぐ神秘。あの狼の神にも等しい、特別な力を。

 

「私がなぜここにいるか、わかりますか?」

「知るか、帰れ。そして死ね」

 

 ずいぶんと嫌われたものだ。まだ初対面のはずなのに。

 黒服からすれば理不尽な話だが、スオウにとっては当然のこと。ゲマトリアは皆一様に、この世界の探究。芸術の探究。文脈の探究。わけがわからないことを宣いながら、子供を犠牲に世界を蝕む害虫そのもの。

 黒服が狂気である、と断じたそれは、彼女にとっては覆い隠していた正気に過ぎない。この短い対話で、黒服も理屈は抜きにそれを理解し始めた。

 

「……ベアトリーチェは死にました」

「……は?」

「色彩の研究。アレは我々ゲマトリアにとって触れてはならない禁忌ですので。追放、という形になるのでしょうか」

 

 突如として告げられた事実。スオウの退化した脳は、じっくりと時間をかけてそれを理解して。

 

「……ああ、そう。そうか。はははっ、ざまあ見ろ。どんな死に様だった?」

「そこまでお答えする義務はありませんが……まあ、良いものとは言えなかったでしょう」

「はははっ……そうかよ。胸がすく気分だ」

 

 彼女にとっての支えの一つ。復讐心。それが果たされる日は、もう永遠に来ない。そんな空虚から目を逸らし続け、ひとまずは噛み締めて喜んだ。

 ベアトリーチェは死んだ。彼女にとって唯一心配だったのは、儀式で力を得たベアトリーチェが妹たちを、先生たちを傷つけること。その心配ももはやない、そんな喜び。それは、胸の洞穴を満たすのに充分な歓喜だったと言える。

 

「……で、俺はどうなる?用済みだから殺処分か?それともなにか、オヤサシーゲマトリア諸氏は可哀想に思って解放でもしてくれるのか?」

「ええ、その通りです」

「……あ?」

 

 黒服の解答は、スオウにとって予想外のものだった。このまま神秘の研究材料として利用される続けるか。あるいは、恐怖を適応する研究にでも使われるのか。そんなものが、自分の余生の落とし所。そう考えていた。

 だというのに、解放。まずあり得ない。ゲマトリアが餌を目の前にして、食らいつかないはずがない。

 

「なんの冗談だ?」

「冗談ではありません。私は事実を述べたまでです。あなたを解放すると、そう言ったのですよ……桐花スオウ」

「……信用できねぇな」

 

 睨みつけている双眼を無視して、黒服は拘束を解いていく。ただし、首輪はそのままに。手錠を付け直して、足腰に力が入らないだろうから、車椅子に乗せて。

 

「……なんのつもりだ?」

「なんのつもりか……ですか。そのためには、まずはキヴォトスの現状について説明する必要があります」

 

 スオウを乗せた車椅子を前に押しながら、黒服は低い声で質問に答える様子を見せる。

 嘘かまことか。そんなことはどうでもいい。とにかく今は、黒服の態度の正体を探りたい。そんな意図から、あまり期待はせず口を開く。

 

「妹たちは……どうなった?」

「イモウトタチ?」

「……アリウス分校生はどうなったって聞いてんだ」

 

 ああ、彼女は同輩を妹と呼んでいたのだったか。馬鹿らしいとベアトリーチェから腐るほど聞かされた言葉を思い出しながら、それならば準備ができていると、彼女の問いかけに答える。

 

「彼女たちは……あなたとベアトリーチェを死んだものと誤認し。主に柏有マユミという生徒の助力を得て、ミレニアム自治区で暮らしていました。あなたが守ったものを無駄にするまいと、トリニティとの和平に向けて進んでいましたよ」

「……そうか」

 

 感情を表に出さないようにしているのだろう。自分のことを信頼していないから。

 それでも、彼女の声色には抑えきれない喜色がうっすらと浮かんでいた。気づかないのだろうか?

 暮らして()()。進んで()()。自分は何一つとして、現在のことについては語っていないというのに。

 

「今からあなたを連れ出す先は、その付近です」

「……あっそ。信用しないっつーの」

 

 信用しないが、真実であって欲しい。そんな思いが、言葉から拭えていない。

 御し易い。()()()()()()()()()、小鳥遊ホシノと同じ。いや、大切なものが不特定多数。より多い分、そちらよりもさらに簡単だ。

 その子供らしさに、一つ目の条件は満たしたかと内心ほくそ笑む。

 

「……ベアトリーチェの儀式。アレは色彩と呼ばれる、キヴォトスに存在する不吉な存在……意思を持たない厄災のようなモノを呼び寄せるための儀式です」

「……なんの話だ、いきなり。あのクソババアの研究なんて興味ねぇよ」

「本来であれば色彩がこの世界を発見する可能性など、砂漠の海から一つの砂粒を見つけるようなモノ。あり得ない可能性、そう言ってしまっていいほどの確率です」

 

スオウの言葉を無視して、黒服は話を続ける。聞くつもりがないのだと、すぐ諦観に至った。

 色彩。前世の記憶をほとんど失った今のスオウにとって知る由のないことだが、本来のスオウは知っている。色彩が及ぼす影響。百合園セイアを死の際まで追い込んだ、その恐ろしい性質について。

 

「アレは苦しみや絶望。そういった感情に興味を示し、自らを望むモノの元へ訪れることもある……今回の件を通して、それを理解しました。アレに知性はないと解釈していましたが、それが果たして正しかったのか……」

「……今回の件?」

 

 今度は見落とさなかった、黒服からスオウへのヒント。無論、黒服が意図して気づかせたモノだった。

 

「アレは生徒の本能を暴走させ、神性を厄災へと変化させ、神秘(mystery)恐怖(terror)へと反転させる……それだけなら、まだ幾分かマシでしょう。厄介なのは、それを利用する無名の司祭達」

「さっきからずっと何言ってんだお前」

 

 嫌な感覚。理由もなく訪れる動悸。吐き気。振り払うように、黒服へと辛辣な言葉を吐き捨てる。

 

「彼らは、忘れられた神々(あなた方生徒)の存在を忌み嫌い、この世界を再び自らの手中に収めるため、破壊と殺戮を繰り返す……ただし、自分自身の手ではなく、色彩。それによって生まれた、死を齎す彼らの神の力を使って」

「さっ……きからっ!!!何言ってんだよ、お前!!!破壊?殺戮!?なにわけわかんねぇこといってんだ……!?さっさと0から100まで全部説明しろ!!!」

「……ご自身の目で、お確かめください」

 

 軋むような音を立てて、扉が開く。壊れかけた自動ドア。実に一年近くこの施設で過ごしていたスオウにとって、久しぶりに見る自然な光。

 本当に、外に出ることができたのだ。ゆっくりと慣らしながら目を開いて。

 

「……は?」

 

 そこには、何もなかった。

 

「なん、だ……これ……」

 

 何もない、というのは正確でないかもしれない。意味を成す構造物は何もない、というべきか。

 黒煙。立ち上る炎。黒々しく跡を残す血。壊れ果てた瓦礫の灰色。絶望を彩る絵の具は、それだけだ。

 

「……なんだよ、これ」

「……ミレニアム自治区」

 

 ようやく黒服は、スオウの質問に答えた。けれどそれは、スオウにとって一番望まなかった解答。

 

「あなたの妹たちが住んでいた場所です」

「……うそだ」

 

 考えるよりも先に、否定の言葉が口から漏れた。

 

「うそ、だ……うっ、うそだ。冗談だろ?せ、んばい特許じゃねぇか、口八丁で煙にまいて、さあ?お、お前ら……お前らのことなんて!!!誰が信用するか!!!」

 

 かちゃりと。拘束が外れる音が聞こえた。首輪はそのまま、手錠だけを外されたようだった。ふらりと、あてもなく立ち上がる。

 

「……ご自身の目で、お確かめくださいと。私は、そう言ったはずです」

「っ……!!」

 

 嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。思考を満たす言葉はそれだけだった。それだけの言葉に縋って、うまく力が入らない足でミレニアム自治区をかけた。

 なんの配慮か、黒服が持ってきてくれたコート。妹たちが自分だと気づいてくれるように。そんな願いから、それを羽織って。壊れた世界を駆け続ける。

 

「はっ……はぁっ……!はぁっ……!」

 

 長らく動けなかった影響で、体はすぐに息切れを起こして。余分な酸素を頭に運ぶ。

 荒らされたコンビニ。中に誰かいないかと、休憩がてら足を運ぶ。

 

「うっ……」

 

 腐臭。だが、放置された食べ物のせい。人がいた形跡ではない。そんなことに安堵して、さらに探索。それが悪かった。

 

「……え?」

 

 号外。そんな見出しで張り告げられた、本の一ページ。一体、何が号外か。反射的に、目を走らせて。

 『蘇生不可』そんな四文字が、先生の名とともに連ねられていた。

 

「ひっ……!!」

 

 逃げ去るように、コンビニを出る。振り払うように、ミレニアムを駆ける。目的もなく、ただこの恐怖を、孤独を抱き止めてくれる誰かを目指して。

 悪い夢でも見たのだろうと。こんなものは現実ではないと。怖かっただろうと、そんな慰めをかけてくれる誰かを探して。

 

「おっ……!!おぉい!!!」

 

 久しぶりの大きな発声。声が裏返って揺らぐのを感じ取りながら、構わず続ける。

 

「誰かっ!!!誰かぁっ!!!いないのかっ!!!だれかぁっ!!!」

 

 かつては電車よりも早く駆けたその足で、一歩一歩。絶望を踏み締めるように、ゆっくりと歩いて。

 

「……あ」

「っ!!!」

 

 声が聞こえた。彼女に耳には、確かに届いた。そこにいる、誰かの声が。

 

「あ……あぁ……!!ああ!!よかった!!よかった!!!」

 

 声がする。瓦礫の中から、声がする。生きている誰かが、確かに助けを求めている。懸命にまだ生きようとしている。

 

「お、らっ!!はぁっ……!はぁっ……!ま、待ってろ!!今助けてやる!!掘り起こしてやる!!!」

 

 そのことを思えば、いくらでも力は湧いてきた。壊れ切ったはずの肉体が、障害を排除するべく動き出した。

 

「っ……!!そこか!!」

 

 振り絞るように踏ん張って、足元には生暖かい感触。奇妙な、弾くような感触。スオウは気づかなかった。目の前にいる誰かを助けるだけで、精一杯だった。

 

「お、おいっ!!大丈夫かっ!?」

 

 長い白髪の奥に、青い瞳。どこか虚ろなその瞳に映るのは、壊れかけた点滅するヘイロー。

 

「お前、生きてるだろ!?待ってろ、今助けてやる!!」

「……だ……れ……」

「誰でもいいだろ!!?怪我はないか!?今下の瓦礫もどかし、て……」

 

 まだ半身が埋まった彼女が動けるように。血に染まった白衣に心を痛めながら、もう一つ。最後の瓦礫をどかして。

 

「だ、れか……いない、の……?」

「っ……!!」

 

 スオウの手は。そこで止まった。

 

「やだよぉ……!しに、たく……しにたく、ない……いや……だれ、か……だれかぁ……」

「……俺がいる」

 

 目が見えなくても、声が聞こえなくても。どうか、どうか伝わって欲しい。

 

「俺がいる。ここにいるよ」

「あ……ぅ……」

 

 そんな思いで、軽い体を抱き上げて。精一杯に、声をかけた。

 

「辛かったよな。痛かったよな。ごめんな。助けれなくて。何もしてやれなくて」

「あ……」

「頑張ったな。いっぱい、頑張ったな。もう、眠って。休んで、いいから。最期まで、一人になんてさせないから」

「……あ、り……が……」

 

 言い切るよりも先に、力尽きた。

 雨が降る。彼女が流した血も涙も流すように。雨が降り注ぐ。

 

「……」

 

 瞼に触れて、瞳を閉じさせる。トラウマを想起させる行為。もう今のスオウにとっては、あまり関係のない行為だった。

 揺蕩う意識とおぼつかない手つきで、小さな穴を掘って。名も知らぬ彼女を埋める。小さな穴で充分だった。下半身は、千切れてどこかへ消し飛んでいたから。

 

「……これが、今のキヴォトスです」

「……黒服」

 

 突如として背後に現れた、黒い影。振り向きもせずに、彼の名を呼ぶ。

 

「お前が言ってるのは……嘘じゃ、ないんだな」

「……はい。我々としても、望まない結末でした」

 

 空を見上げる。雲で覆われた空を。サンクトゥムタワーの光が消えた、薄暗い空を。

 

「キヴォトスは……この巨大な実験場は……滅亡した」

 

 打ち付ける様に、雲から雨が落ちてくる。火の手が少しは止んで。だからなんだ。朧な思考で、そんなことを考えた。

 

「……いもうとたちは……せんせい、は?」

「……先生は……あなたが見た通り……」

 

 蘇生不可。死んだ。見た通りというのは、そういうことなのだろう。

 

「そして、あなたの妹たちもまた……彼と結末を共にした」

「……けつまつを……ともに、って?」

 

 理解できない。否、理解したくない。脳が思考を拒んでいる。人間は生きたまま死ぬことができるのだと、スオウはそんなことを考える。現実から必死に目を逸らして。

 

「命を落としたということです」

「……いのち?おとす、って?」

「……生物としての機能の停止。永遠の終わり。表現は、様々あると思います」

「……ひょうげん?」

 

 だが、そこにいる彼は、そんな終わりを許さない。思考停止を、彼女を絶望の縁でギリギリ堪えさせている行為を続けさせない。

 

「敢えて言いましょう。あなたの妹は……死にました」

「……あ?」

「もう、会うことはできない」

「うそだ」

 

 嘘だ。先程何度も、己の心の中で連ねた言葉。そうであるはずがないと、信じ続けた言葉。

 しかし、スオウは見てしまった。理解してしまった。たとえ『ヘイローを破壊する爆弾』が無くても。ベアトリーチェがいなくとも。

 

「うそだ。うそだ。うそだっ……うそだ、ぁあぁああぁあぁああ……あぁああぁあああああああ!!!」

 

 この世界(キヴォトス)で、人は死ぬのだと。

 

「嘘ではない。わかっているはずです、この世界は」

「うるさい!!!うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!」

「色彩は狼の神、その絶望に接触し、彼女は死の神アヌビスとなって翻った。その結果起こったのは」

「だまれ!!だまれ!!!だまれ、黙れ黙れ黙れ黙れだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれ!!!黙れぇぇえええぇぇえええ!!!」

 

 耳を塞いで、現実逃避。幼子のような行動。それでも、黒服は言葉を続ける。首輪から筋弛緩剤を注入し、耳を塞ぐ手を強引に引き離す。

 

「いいえ黙りません。なぜならあなたは生きている」

「う、ぅうぁあぁあああ……!!」

「あなたには知る義務がある。この世界で生きた者たちを。この世界の結末を」

「……うるさい……いやだ……やめて、くれ……ほっといて……」

 

 他人事。そうとしか思えないような聞き方で、否応にも黒服の言葉を理解させられる。

 この世界で人が死んだのは、これが初めてではないかと。全てを喪った砂狼シロコの反応に、色彩が興味を示したこと。その影響で、彼女が死の神へと反転したこと。目を覚ました先生が対抗したがそれも失敗に終わったこと。それ以来、アヌビスの行動は歯止めが効かなくなっていったこと。

 この世界に生き残った人間は、もう殆どいないこと。

 

「……」

 

 全てを聞き終えて、廃人のように地に伏し。十数分、そうしていた。ふと、思い至ったように。

 

「殺せ」

「……なりません」

 

 殺せ。終わらせろ。逃げさせてくれ。そんな懇願を、黒服は容赦なく却下した。

 

「殺せよ……殺せよッ!!!今、すぐに!!!この俺の無意味な人生を終わらせてくれ!!!」

「……」

「おれは……!!おれはっ……!!みんながいきてれば、それでよかったのに……!!」

 

 同情を誘うように、今度は静かに涙を注ぐ。もう草一本生えることのないであろうその地に。

 

「ぜんぶっ……!ぜんぶ、無意味だった……!!おれがやってきたこと、ぜんぶっ!!!」

 

 拳を打ちつけて、体が崩れ果てていく。

 

「……おねがい、します……ころして……ころして、ください……おねがいします……」

「……できません」

 

 地に頭をつけて、自身を殺してくれるかもしれない誰かに懇願するしかない。赦しを請うしかない。

 それらの行為が、無意味だと悟って。彼女の脳は、膨大な思考と自己完結を開始する。

 

「おれだって……おれだって、必死だった……がんばった……がんばったさ……がんばったよな……がんばったよ……なのに、なのになのになのになのになのに……なんで、なんで……おれ、おれがわるい?おれのせい?」

「……肯定も、否定もしません。私からお答えすることは」

「なのに、ぜんぶむいっ、むいみ……?それいか……?なんで、おれ……おれがいたせいで、こんなせかいに……?」

「……クックック。もはや声も届きませんか」

 

 これでいい。これで完成した。満足げに、黒服は彼女を置いて立ち去る。ヘイローが崩れ果てていく音を背にして。

 

「貴方には期待していますよ。桐花スオウ」

 

 彼が話したのは、真実ばかりではない。この世界にはまだ、大勢の人間が、生徒が生きている。その中には、彼女の妹もいる。

 

「やだ、もぉやだよ……たすけて、だれか、だれでもいいから……さおり、みさき、ひより、あつこ、あずさ、せんせい、さう、ふぃり、とう、れい、やこ、よせ、しお……しあん、あんな……ひろさん……おかあさん……おとおさん……おねえちゃん……」

「貴方はこの世界に残された、最後の……希望、なのですから」

「なんでっ……!!なんで、こんなことに……!!」

 

 それでも、いずれは皆が死ぬ運命。ゲマトリアにとっても、それは本意でない。

 彼女の首輪には、ヘイローを破壊する爆弾が取り付けられている。たとえ暴走しようと、問題なく処分することができるだろう。

 

「……あ。そっか」

 

 反転した準最高峰の神秘に対抗するためには。同じく反転した、準最高峰の神秘しかない。この世界について最も深く知るゲマトリアが出した結論だ。

 

「さいしょから、知ってたじゃないか」

 

 鐘の音が聞こえる。

 

「ずっと、ずっとそうだった。知らないふりをしてただけだ」

 

 主は来ませり、と。もろびこぞりて、祝福せよ、と。

 

「……この世界の全部は、虚しいもの(Vanitas Vanitatum et Omnia Vanitas)だって」

 

 空から飛来する、白と黒のオッドアイ。死を齎す、絶望の化身。狼の神。

 

「……」

「……クックック……希望を失い。仮面を壊し。高潔を捨て」

 

 向かい合う、二人の少女。彼女も終わらせなければ。苦しみから解放しなければ。銃を手に取るシロコ。

 

「それが、貴方の正体ですか……」

 

 その弾丸が、着弾する直前。

 

「子なる神……キリストよ」

 

 壊れ切った世界に、黒い一輪の花が咲いた。

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