突然、何か張り詰めていたものが途切れたかのように、シロコは取り乱した。
「シロコ……」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいて。きっと彼女にとってそれは、ずっと堪え続けていたものなんだと思う。
「……」
かつて先生にしてもらって落ち着いたのを思い出したから。真似するみたいに、シロコの目の下の涙を拭った。
「シロコさん」
「……」
「人は一体、何を見れば……ここまで、追い詰められるんでしょうね」
「……わかんないよ……私は……私はその子のことを、何も知らないから」
抵抗する力が弱くなっているのを感じる。そもそも、戦えるような状態じゃなかったんだ。
別の世界から来た、シロコは確かにそう言っていた。そして俺のことを、元の世界のイレギュラーだとも。
……おおよそ、察しはつく。あの強さ。彼女をここまで弱らせたのは、きっと……別の世界の、俺だ。
「シロコ」
それは、今はいい。とにかくもう、拒絶されることもない。
きっと彼女の動きを止めたのは傷跡ではなく、へし折れたその心。そう思って、せめて安らいで欲しい。その場しのぎでも、彼女に安心を与えたい。
そう思ってシロコを抱擁して、彼女の背中をポン、と、数回叩いた。
「なに、を……」
「大丈夫。今は……今は、とにかく。このままで」
「……なん、で」
「お姉ちゃんだから」
「……」
大きい。その体が、俺よりも、あるいはこの世界のシロコよりも、はるかに。それがシロコの言っていた、色彩や無名の司祭、とやらの影響だったのか。あるいは、ただ単に成長しただけなのか。
……そうならざるを、得なかったのか。それは、俺にはわからない。
俺にできることはただ、彼女に比べればちっぽけな体で、精一杯に抱きしめてやることだけだった。
「……ん……これ」
見かねたようにシロコが、マフラーを少し解いて。片方は自分に身につけたままに、そのもう片方は妹のシロコの首元に巻きつけた。
「……マフラー巻くの、上手なんですね」
「教えてくれたの。ホシノ先輩が。何回も、何回も巻いてくれた。ネクタイは、ノノミが教えてくれた」
そう言って、彼女は初めて、少しだけ同情的な視線をシロコに向けて。
「……この子には、どっちもないみたいだから。少しくらいなら、貸してあげてもいい」
「……ありがとう、ございます」
もう彼女に、戦う力はないとわかったのだろう。先程までの呆れたような表情はやめて、いつも通りの無表情。
……だけれど。少しだけ、哀しそうな目をしていた。
「ロードバイクと、水着。制服と、ライディングセットと、ヘッドフォン。このマフラーに、覆面。……ホシノ先輩と、ノノミと。アヤネと、セリカ。先生。ヒフミと……便利屋68。それと、一応スオウも。他にも色々あるし、少しだけ知り合いもいるけど」
「……?」
「私が持ってるものなんて、これで全部」
「……そっか」
その全部が、このシロコにはもうないものなんだ。何も残ってない、って。きっと、そういうことなんだろう。
……ホシノも、ノノミも、アヤネも、セリカも、先生も、ヒフミも……この子の世界では、もう。
「懐かしい……」
ふと耳元で、シロコが口を開いた。
「この、マフラー……ホシノ先輩にもらった……大事なもの、だったのに……どこに落としてきちゃったんだろう……」
「……」
「こんなことにも気付かなかった……知らないって、嘘ばっかり……」
少し落ち着いたのか、彼女は泣き止んでいた。だけれども、その目元が赤く腫れていて。白い肌をしているから、それがやけに印象的だった。
「ねぇ……あなたは、何者なの……?」
「お姉ちゃんです。アリウス全部のお姉ちゃんにして、あなたのお姉ちゃんでもあります」
「……うん。そっか。すごいね」
少しあざけているようにも見えたし、受け入れてないのは明白だった。ただ、少し羨むようにこちらを見ていた。
「向こうのあなたは、あんなふうになってた……きっと、それだけ苦しかったはずなのに……あなたは今も、こうして笑えてるなんて」
あ、そっか。嘲笑していたのは、俺のことじゃなくって。
「私は……私には、耐えられなかった……だから、全部、全部壊して……間違いなんて、わかってたのに……」
「……」
「ねぇ、シロコ……あなたもそう思うでしょ?」
「……ん。おかげで大迷惑」
おかげで大迷惑ってどういうことかな。まあいいや、そんなの今は。
全部壊した。先生を殺した、っていうのも、きっと嘘じゃないんだと思う。
その選択肢を取らせるだけ。あるいは、取らざるを得ないところまで。世界が、この子を追い詰めた。
───“大丈夫。スオウは悪くないよ。”
……なんて、先生みたいに言えたらいいんだけど。きっと今それを言ってしまうのは、間違いだろう、なんて気もしてしまった。
「……私も、あなたやホシノ先輩みたいに
でも、きっと。これだけは。
「私は、もう……」
これだけは、伝えなきゃいけない。
「シロコって、何歳でしたっけ?」
「……え?」
「いいから」
俺はきっと、その言葉に救われたから。
「……十七歳……」
「あ、こっちのシロコより一個歳上なんですね。ホシノさんに拾われたのは?」
「……十五」
「じゃあまだ二歳ですね」
「!?」
こっちのシロコが信じられないものを見る目で俺のことを見てくるけど、今はいいんだ。
「二年ですよ、二年。まだたった……二年です」
「……なにを」
「まだ何回だって、やり直せます」
そう口にして。シロコから僅かに、怒気が漏れた。
「なにも……」
「そう、私は何も知りません」
この子の世界で何があったのか。この子が何をしてきたのか。おおよそ、察しはつく。
けれど、俺は何も知らない。知らなくても、言えることがある。
「でも、あなたが何をしてきたのだとしても……それがたとえ、到底許されない行為だったとしても。これだけは、約束します。あなたはまだ戻れる。私が……私が、そうできるようにする」
「……そんなわけない……誰も、私を許さない」
「私が許します」
「……私が、アリウス分校生を……あなたの妹を、殺した、って言っても?」
「はい」
「っ……!」
シロコは驚いていた。意外だったのだろう。俺が即答したのが。
当たり前だけど、妹たちは殺させたりしない。妹にした以上、それがお姉ちゃんの役割だ。
「……」
それでも、もし万が一があったとして……許せないさ。口汚く罵りたいと思う時だってあるだろう。その怒りを、どこかに……きっとそれを実行してしまったシロコに。ぶつけたくなる時もあるだろう。
「なん、で……」
それでも。
「お姉ちゃんだから」
親もいない。先生もいない。この子を許さない、だなんていう人間が、きっと大勢いる。
……だとしても、味方であり続けるのがお姉ちゃんだ。
「たくさん止めるし。たくさん叱るし。その罪の大きさを、私はあなたに伝え続ける。それでも、私はあなたを見捨てない。私はあなたの、お姉ちゃんだから」
みんなが復讐を望まない?そんなの、死人に口無し。ただの言い訳だ。
今を生きるこの子のために、そのエゴを貫き通す。お姉ちゃんであり続ける。
「あなたが何者だって、拒絶しませんよ。ずっと、ずっと一緒にいます。あなたがこの先を、立派に生きれるようになるように」
……きっと先生も。こんな気持ちだったのかな。
「たとえこの世界の全部が敵に回ったって、この世界の全部があなたを悪だと言ったって、この世界の全部があなたを拒絶したって。私は絶対絶対、あなたの味方です。だって私は」
───“だって私は。”
「私はあなたの……お姉ちゃんですから!」
「……!」
それがきっと、お姉ちゃんの役割だから。お姉ちゃんのやるべきことだから。
「ずっとずっとあなたの味方ですし。ずっとずっと、あなたと一緒にいますよ!」
「っ……!」
……それが、この子のお姉ちゃんになるってことで。この子のお姉ちゃんとしての、責任だ。
……今度は。これは、間違ってないかな……ちゃんと、やれてるかな?先生。
「……ら……」
「……え?」
「なら、教えて……!!」
先程よりも大きく、さらに大きく。濁流のように、涙がこぼれていた。
「教えてよ……!私はどうすればいいの……!?何も!!なにも!!残ってないのに!!!」
「っ……!」
髪の毛ロープが、千切れんばかりに音を立てている。この子の体が持たないと、咄嗟に解いて。
「ねぇ……!!どうすればいいの……!?ホシノ先輩も、ノノミも、セリカもアヤネもいない!!!先生だって!!!」
「ぐ……!」
「スオウ!!」
かろうじてマフラーを共有していたからか、シロコが妹のシロコを止めてくれた。
「そうだった……マフラー……このマフラーだって、もうない……!!」
それでも、彼女を抑え切るには至らなくて。身体中から、その感情に応じて黒いエネルギーが漏れ出ている。
「何も残ってない!!戻ってこないの!!死んだ人は、生き返らない!!」
「っ、う……!」
それはシロコの体を蝕んで、傷口となっていた。
どちらのシロコに、って。そりゃ、どっちも。
「だから……だから私はもう、戻れないの!!たとえあなたが私を許したって、それが何になるの!!?もうみんな……!!みんな!!帰ってこないのに!!」
「シロコさん!手、離して!」
「嫌……!」
「ああ、もうっ……!」
なんでそういう強情なところばっかり、ホシノに似ちゃうかな!
「なのに私が戻れるだなんて、嘘ばっかり!!じゃあ全部忘れて生きればいいの!!?ホシノ先輩のこともノノミのこともセリカのこともアヤネのことも!!!そんなのできるわけないのに!!死んじゃったんだから、苦しいだけだよ!!もう!!!」
「っ……!!」
そうだな。苦しいだけさ。
覚えてたって、辛いことだらけだ。幸せだった頃だって、もう戻ってこないんだから。
「なのに戻れるだなんて簡単に言う欺瞞も!!!全部理解したみたいな傲慢も!!全部、
「ぐ、う……!!」
首を絞められる。強化された腕力で。しまった、これじゃ伝えたいことも。
「だったら返してよ!!みんなを返してよ、生き返らせてよ!!」
「か、ぁ……!!」
彼女の表情は見えなかった。真っ黒に染まった顔で、その目だけが白く輝いていた。
「じゃなきゃ私は……!!もう……!!」
意識がぐらつき始めて。そこで、ぐるぐる巻きの包帯。伸び切った長い指。
「え……」
プレナパテスの手が、シロコの手にかかっていた。震えながら。何かに抵抗するように精一杯、その腕を。
「……せん……せ……」
「げほっ……!!」
すぐにシロコの力は緩んで。
「なん、で……」
「“……ぁ……”」
途切れるようなか細い声で。何かを、呟いたように見えた。うわごとのように、小さく。
それから、すぐに彼女のそばを離れて。先程までのように、シロコの指示を待つ態勢に移る。
「ああ、やっぱり……」
いくらシロコが弱ってたとしても。本気になった先生に、俺たちが勝てる道理はない。シロコの打撃が通ったのも不自然だし、大人のカードを取り出すのも随分遅かった。
「ずっと、そこにいたんですね……そこで、シロコを守ってた」
ぐるぐる巻きの、ボロ切れのような包帯の手を握った。最初は不気味だと思っていたけど、彼のものだと思うと、それがたいそう愛おしく思えて。
「先生……」
どうか、どうか。祈りを込めて。その手を、額に当てた。彼の手が少しだけ動いて。手を離して落ちる時に、頬を撫でつけたように感じた。
感傷に浸る暇はないし、そのつもりもない。すぐに、シロコの方を振り向いて。
「……まだ、残ってましたね」
「っ……!う……ううっ……っ……!!」
きっともう、限界だったのだろう。
「うあああぁぁぁああああああああ……!」
彼女はとうとう、足に力が入らなくなったように崩れ落ちた。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!もう、むり……もう……!わた、しが……!わたしが、いたせいで……!みんな……!」
先程まで、大きく見えた彼女が。今度は、ずいぶん小さく見えた。
───ごめんなさい……ごめんなさい……!
それがなんだか。誰かさんに、そっくりで。
「ほんとは、もっと……みんな……!だって、あったかかったから……さむいの、や、だから……でも、わたしは……!私が、ここにいるから……!」
……そっか。
「でも、みんな……あいたい……あいたいよ……!でも、むり、で……それなのに、これじゃ……くるしくて……!」
……そうだよなぁ。
「もう、やだよ……!くるしいのも……!ひとりぼっちも……!」
運命とか。役割とか。崇高とか。全部、逃げたかっただけだ。
本当は、ずっと。
「……本当はずっと、みんながいなくなって……寂しくて、苦しかっただけ」
「シロコさん……」
「この子は、私だから……私なら、そうすると思う」
……俺も、きっと同じだ。
ベアトリーチェへの怒りも。自己嫌悪も。全部、嘘なんかじゃない。
でも、その中に……シアンたちが死んだのを、誰かのせいにしたかった。何かのせいにしたかった、なんて気持ちは……全くなかった、って言えば。今の俺から見ると、それも嘘だと思う。
シロコは、もっと酷い。きっと恨むべき相手も、復讐したい相手もいないか……あるいは、もう届かなくなってしまっているだろうから。
「……」
そうだよな。大切な人が死んだら、辛くて、苦しくて、寂しいんだ。
「……シロコ。顔をあげて」
だから、その苦しみを味わい続けるなら。いっそ、死にたくなってしまう。
「辛かったんですね。ホシノさんが死んで。セリカさんも、アヤネさんも、ノノミさんもいなくなってしまって。ずっと、ずっと一人で頑張ってたんですね」
俺もそうだった。
「……」
シロコから返事は、ない。ただずっと、その頬に赤い跡を増やし続けていて。彼女の涙が凶器となって、彼女自身を傷つけているように見えた。
「……確かに、私は……私には、人を生き返らせる力なんてありません」
背中を撫でて、横に腰を下ろす。抵抗する様子も、離れる様子も見えなかった。聞こえているのかも、わからなかった。
「あなたは……あなたの大切な人には。もう、会えない」
最初から、期待してない。そんなことはわかってる。シロコだって、散々考えたことだろうから。ホシノを、アヤネを、先生を生き返らせることができないか。セリカを見つけることができないか。ノノミを戻すことができないか、って。
それでもダメだったから。涙でしか、その悲しみを流せないでいる。
「……私は……私にも、また会いたい人がいます」
今のこの子は、あの日の俺だ。
「今でも、後悔している。私がいなければ……まだ、生きてたんじゃないかって。私が間違えなければ、生きてたんじゃないか、って」
少しだけ、聞く耳を持ったようで。涙と、血が混じった鼻水を垂らしながら、何かを期待するようにこちらを見ている。
「……だから、私には……あなたの苦しみを、無くすことはできない」
「……うん……知ってた……期待、なんて……してない」
それができたなら、どれだけいいか。でもあいにく俺は、救世主でもなければ絶対者でもない。
「でも……あなたの新しい、居場所にはなれます」
「……だから?」
だからみんなのことを忘れて、のうのうと幸せに生きろとでも言うつもりか。そんな気持ちを込めた、「だから?」だった。
違うよシロコ、俺は……俺が言いたいのは、そうじゃなくて。
「……ホシノさんたちの代わりにはなれないけど。あなたの苦しみを、分かち合うことはできる。あなたが苦しいのを、少しだけ……和らげることはできる」
俺にできるのなんて、たったそれだけだ。
「いやだよ……みんながいない世界で……そんなふうに、生きたくない……」
生きたくない。そう思っていても、今生きている。
死ねない。それだけでしか、生きれなかったんだろう。だから。
「……シロコがいつか、『生きたい』って。『生きててよかった』って言えるようになるまで、私がそばで支えます」
「……無理だよ、そんなの」
「なりますよ。私もそうだった」
喪った人たちを、忘れる必要なんてない。それでも、人は独りでは生きられないから。新しく大切なものをつくって、それを糧に生きようとする。
全部、俺が経験したことだから。
「今お姉ちゃんが笑えてるみたいに。シロコもまた、なんでもなく笑える日が来るよ。お姉ちゃんが、絶っ対約束する」
そう言いながら、シロコの口角を指であげて、笑いかけて見せた。
「ねっ?」
「……」
揺らいでいる。もう少し。最後の一押し。でも、それはきっと。
「もし……」
シロコがやるべきだ。
「もし、あなたが……
シロコはカバンから、青い覆面を取り出した。それを、彼女の前に置いて。
「……私のを、分けてあげる。私の居場所に……あなたも、来ればいい」
「……」
「ホシノ先輩も、ノノミも、セリカも、アヤネも……みんな、別人だけど。きっと、私のことを受け入れてくれる」
2という数字が書かれたそれを、シロコは一度ためらって、それからゆっくり拾い上げた。この世界で初めて手に入れることができた大切なものを、もう無くしてしまわないようにギュッと抱きしめて。
「そこが居場所だって思えるまで……私も、協力する」
顔を上げた。
「
たくさんの意味が込められた言葉だったと思う。
これを貰ってもいいのか。赦されていいのか。……生きてても、いいのか。
「ん、当然」
「いいに決まってる」
二人で、手を差し出した。
「……」
少し手を上げたところで、その動きは止まったから。こちらから、引っ張り上げて。
「っ……」
「手間取らせやがって……これで、終わりだ。お前も……俺も」
砕け散ったヘイロー。真っ黒なコート。俺と同じ、白と黒のオッドアイ。
「しろ、こ、さん……いそいで、シロコ。と、プレナパテスを、連れて……ここから離れて、ください。脱出、して」
右手でショットガンに、左手で爆弾に。全力で神秘を込める。
「スオ」
「しろこ、は、まだ、たすかる。だい、じょうぶ。急いで、止血をして。やり方がわかるなら、輸血を……そしたら、脈拍が、安定するまで。様子を、見てください」
燃え上がるような肺の中身を抑えて、シロコに指示だけを。
「その、後で……!私がまだ、生きていたなら……!!助けを呼んで、援護を……!!お願いします……!!」
「っ……!わかった!」
そこで、限界が来た。
「て、めぇえええはああああああああああああっ!!!」
「……あ?」
黒い穴から現れた、もう一つの世界の俺。シロコに致命傷を与えたそいつに、全霊を込めた一撃で殴りかかった。