どこともわからない、暗い場所。
暗くて暗くて、狭い場所。
そこが私の居場所だった。
「お前なんて生まれてこなければよかったのよ。お前に価値なんてない」
───そうだったんだ。
お母さんに言われた時、なんとなくそう思って……納得した。
だってお母さん、私をぶつし、ご飯もたまに忘れちゃう。
たまに、たまーに、私が何かを持ち帰って来た時、その時だけ。
「ありがとう。愛してるわ、スイ」
そう言ってくれた。何かはお金だったり、食べ物だったり、そうじゃない他のものだったりもした。
つまり私は、そのために生まれてきたのかな。
それができないから、お母さんが私が嫌いなのかな。
じゃあ、私は私にできることをしなきゃ。お母さんがそう言うなら、きっとそれは間違いじゃないから。
言われたことしてれば、それはきっと正しくて。私はきっと、正しい何かになれるんだ。
なんとなく、私はそれになりたかった。だから、できることをした。
「スイッ!!スイぃっ!!」
ある時、お母さんはどこかに連れて行かれそうになっちゃった。
可哀想だなぁって、ぼんやりとそう思ったのは覚えてる。
それと、その時の記憶は……はっきり、覚えてる。
「助けなさいよっ!!」
助けなさい。命令。
じゃあ、今正しいのはお母さんを助けることだ。
そう思って、私はお母さんを助けようと思った。
「なんのためにお前を育ててきたと……むぐぅっ!?」
「はぁ……物品の横領に、人員の秘匿。その上、それを好き勝手使っていると来たか。腐りきっているな……む?」
お母さんを連れに来た人は、強かった。
私のぱんちは、たまにだけどお母さんに『すごい』って言ってもらえた。『価値がある』って言ってもらえた。
じゃあ、これは私の『正しさ』だ。
「……ふむ。悪くない動きだ」
「っ……」
「このっ……!!役立たず!!もういい!!」
でも、それはすぐに壊れちゃった。
片腕で、軽くあしらうみたいに振り払われた。それだけ。それだけの動きで、完全に止められた。
「お前、名前は?」
「……わかん、ない……スイって……呼ばれてる」
「……おい、ゴミ」
「ぐっ……!」
お母さんの髪がぐいって引っ張られて、その人の目線に合わせられてた。
助けようとは思わなかった。もういいって、そう命令されたから。
じゃあ、今は何もしないことが正しいんだ。そう思ったから。
「この子の名前は?」
「し、知らないわよっ……!スイってのも、髪の色で適当に呼んだだけで……」
「むぅ……苗字がないというのは不便、か」
その人は、少し悩む素振りをみせて。
お母さんの方を見て、ニヤって笑った。
「……うん、こうしよう!嵐咲フィリなんていう教官は、最初から存在しなかった」
「は……?な、何言ってんのよ」
「うんうん、そうだ。たまたま誤植によって、教官の一覧に記されていただけ。実情は、私が保護した生徒というわけだ!」
「っ……!」
お母さんは、すごく怖がってた。
ブルブルって、震えてた。
私は、ああ怖そうだなぁって思った。
「まさか……!あんた……!!」
「そして……」
「っ……!!あ、あぁああっ!!」
「その場にいた侵入者が恐慌し、私に殴りかかってくる。私はそれに対し、正当防衛として迅速に対応を行った」
「が、ふっ……!!」
お母さんはその人に殴りかかったけど、すぐにかわされて反撃されてた。
私も手伝いたかったけどもういいって、そう言われてたから動けなかった。
「ふぅ……!ふぅーっ……!!」
「さて……それじゃあ、スイとか呼ばれていたか?」
「……」
私は言葉を話すのが苦手だから、うんって頷いた。言葉にするよりは楽だったから。
喋り方とか、そういうのがうまくわからなかった。知らなかったから。頑張ってちょっとずつ、ちょっとずつ覚えてた。
「よし。『コレ』の意識を奪ってみろ」
「ぐっ……や、やめなさい……!」
「……ごめん、なさい……やって、あげたいけど……やめなさいって、言われちゃった」
「……?」
私がそう言ったら、その人は不思議そうな顔をした。
「なぜ従う?」
「命令、されたから……多分、それが正しい……」
「……くっ、ははっ……!」
その後、おかしそうにけらけら笑ってた。
「はははっ!ああ、そうか!!それはそうかもなぁ……まったく、末恐ろしいよ。どうしたらこんなのが出来上がる?そこだけは評価できるな」
「っ……!」
「おい、お前。なぜこいつが正しいと思う?」
「……お母さん、だから?わかんない……けど……わたしは、間違ってて。お母さんは……正しいから、正しいんだと思う……」
今思うと、自分でもあんまり分かってなかったんだと思う。
でも、その時の私には、正しいものが正しかったから。
「そうかそうか、それは素晴らしい。だがな、こいつはお前の母親ではないぞ?」
「……そう、なの?」
「ああ、間違いないとも。お前、歳の頃は五、六ほどだろう。年齢から考えて、あり得ないんだよ」
「……そっ、か」
そうだったんだ。ぼんやりそう感じた。
納得してる自分も、びっくりしてる自分もいた。
「だから、こいつの正しさは偽物だ。迷いなく殴れ。傷つけろ」
「ふざけっ……!」
「それが『正しい』」
「……!わかった……」
そう言われた時、私は迷いなくお母さん……ううん、お母さんだったものを殴った。
一回や二回じゃ倒れなくて何回も、何回も。
ごめんとか、許してとか、そんな呻き声を出していたけど、その時の私には関係なかった。
だってお母さんだった人は間違ってて、私は正しかったんだから。
ぐちゃ、ぐちゃって、拳を伝わる音も気にならなかった。
「……気絶したか。堪え性のないやつめ。さて……」
気絶した血だらけの人を見て、その人はくるっとこっちを向いた。
「よくやったな。今日からお前が、『嵐咲フィリ』だ」
その日から、私はフィリになった。
◇
「いいか。お前は今日から、マダムのために働け」
「……まだ、む……だれ?」
「我々の目的……トリニティの破滅へと、助力してくれるお方だ」
「トリニティって……どこ……?はめつ……?じょりょくって……?」
「……はぁ……これは手間がかかりそうだな」
私はばかだから、いつもその人を困らせてた。
「私のことは教官とでも呼べ。お前には教えねばならんことが多い」
でも、その人は嫌々って感じに、私にいろんなことを教えてくれた。私が何か覚えるたびに……心の底から嬉しそうに、すっごく笑ってた。
じゃあ、私は正しいことができたのかなって、私も嬉しかった。
「つまり……トリニティは……わるいやつら……?」
「そういうことだ。お前は馬鹿だが、飲み込みが早いな」
「そんな、こと……ない……言葉、まだ……下手……」
「……よくできているさ。最初に比べればな」
「教官が……教えてくれたから……ありがとう」
人に何かしてもらったら、お礼を言う。それが正しいって教わった。
だから、私も教官にお礼を言った。私が話せるようになって、頭が良くなって、正しくなれたのは……教官が、いたおかげだから。
「っ……ああ……いや……」
でも、教官はその度に苦しそうな顔をした。嫌そうな顔をした。私には、それが何でかわからなかった。
「……礼を言われるようなことじゃない」
なんでかな。その教官の言葉は、すっごく覚えてる。声が違って、顔が違ったから。いつもの教官より、もっと好きだった。
「それにフィリ、お前は…‥」
でも、それはすぐに無くなっちゃって。なんとなく、残念だなぁって思った。
「……お前はまだまだだ。最低限、自分の名前くらいは書けねばな」
「書ける」
「……なに?今日教えたばかりだろう?」
「うそ……つかない。うそは、ダメ」
あんまり教官が疑うから、私はすぐに書いて見せてあげた。教官は驚いて……目をまんまるにしてた。
「フィリ……」
「なに……?」
「……なんでもない。良くやったな」
「……えへへ」
教官が褒めてくれるのは、あの人よりもわかりやすい。私が何かを覚えた時。だから、私は頑張れた。
それから、一日が経って。一週間が経って。一ヶ月が経って。一年が経った。私もやっと色々なことをできるようになって、覚えるようになった。相変わらず、教官の部屋に居候してたけど。
「誕生日おめでとう、フィリ」
ある日突然、そんな事を言われた。私はなんのことかわからなくて、しばらくの間ぼーっとしてた。
「誕生日?」
「ああ、その、なんだ……お前がフィリになってから、今日で一年だろう?生憎、生まれた日など知らないからな……仮初だが」
「なんで?」
「え?」
私には良くわからなかった。教官が言ってることが。
「すべては虚しいのに、何で生まれた日を祝うの?」
「あ……それ、は……」
「……ごめん。多分、私が変なこと……聞いちゃったから……間違ってる。困っちゃうよね……」
でも、教官の言ってることは正しいはずだから、どっちも正しいってことは……やっぱり、わからなくて。しばらく教官を見つめてた。
「……いや、偉いぞ、フィリ。その通りだ、良く覚えていたな」
「……!うん……」
「それより、お前に良い知らせがあるんだ」
「知らせ……?」
教官は何かを棚にしまった。硬い音がした。ゴト、って。
「ああ。お前も今日から訓練に参加することができる、そして……私に育てられたお前は、特別に役職を与えられているらしい」
「役職……」
少し、心がムズムズする感じがした。びっくりしたし落ち着かなかったけど、嫌な感じじゃなかった。
「この封筒に任命書が入れられているらしくてな。どれ、お前の役割は……」
「……教官?」
紙を取り出して、サーっと目を動かして。教官は動きを止めた。何度か声をかけて、やっと動いてくれた。
「……密偵だ。主には……訓練兵、達の」
密偵。内情を探る人。スパイ。そう教わった。
「……確かに、お前は口が硬いしな!言うこともよく聞く!お前に合っているよ。頑張った証だ!」
教官は、何か……何かを隠していて。それを誤魔化すみたいに、溢れたみたいに。私の頭に手を伸ばして。
「フィリ、偉いぞ。お前は私の誇りだ」
「……!」
初めてだった。全部が。
「教官……私、ダメかも……」
「な、なぜだ?」
教官の声は、少し上擦ってた。嬉しそうに聞こえた。
「……だって、私……嬉しい……すごく、嬉しい……全部、虚しいはずなのに」
「……」
そう言った途端、教官の目つきが変わった。私に向けられてるわけじゃなくて。何かを、決めたみたいに。
「……フィリ。私は今日、帰りが遅くなる。だが、寝るな。待てるか?」
「うん……大丈夫」
「偉いぞ。それじゃあ、少ししたら私は出る……その、だな……その前に……」
教官は言葉を詰まらせた。今日は良く言葉を詰まらせる日だなぁ、珍しいなぁ、って思った。
「なに……?」
「いや、何でもない。それより、武器の手入れは終わったのか?」
「……あ」
「はぁ……やはりお前は、まだまだだな」
教官はそう言って、準備を整えた。
◇
夜になった。時計は十二を回ってた。教官の帰りが、いつもより遅い。聞いてたけど、なんだか胸に足りないざわめきがあった。
夜なのに、銃撃と爆弾の音が聞こえた。やけにうるさいなぁ、なんて思ってたら、その音がだんだん近づいてきて。
「フィリっ!!」
「……教官?」
それはいつの間にか、扉を蹴破る音になっていた。
「ああよかった、起きていたか……!ここから逃げるぞ!!」
「え……?」
教官の言っていることはおかしかった。だって。
「逃げるのは……よくないことだよ……?」
「っ……!」
「間違ってること、なのに……」
他でもない、教官がそう教えてくれた。だから私は正しくなれた、そのはずなのに……教官は、私の正しいを否定する。
「違う……」
ボロボロで、血まみれで。私の正しいを、否定する。
「違うんだ……!私が……私が間違っていた……!!」
「教、官……?」
「ごめん……!ごめんな、フィリ……!私のせいなんだ……!そのせいで、お前に……あんな汚れ役を……!!」
「泣かないで」
教官は泣いてた。泣くことはダメだって教官は言った。今日の教官は、いつもより正しくない。
「っ……もう、こんなところまで……!」
「……?」
「……フィリ……今から私が言うことを……よく、聞くんだ。私からお前に、最後に伝えられることだ」
誰かの足音が、遠くからたくさん聞こえた。人の足音だった。教官も聞こえてるみたいだった。
「……うん」
「良い子だ。いいか。死ぬな。傷つくな。周りを憚るな、自分のためだけに生きろ。そうでなければ死ぬ。そうすればお前は正しい、どこまでも正しい。お前は何も悪くない。誰に責め立てられようと、それは……正しくないのは、私だ。いいな?」
「え?」
「私がここにいたことは忘れろ。他の教官の言う事を、よく聞くんだぞ。命令に従っていれば死なない。それが『正しい』。……いつか、お前を……あるいは、あの奇妙な奴が、まだこの地にいれば……助ける人間が、いるかもしれない。そしたら今度は、そいつが『正しい』。そいつに従え。そいつと共に、こんなところからは逃げてしまえ。いいな?」
いつもなら、いつもの私なら。「はい」って、「わかった」って答えたと思う。でも、その日だけはそんな気分になれなくて。
「いやだ……」
「……フィリ?」
「教官、いなくなっちゃ……ダメ……正しくない……」
いつの間にか、教官に抱きついてた。そうでもしなきゃ、いなくなっちゃう気がしたから。
「……ありがとう、フィリ。お前は最後に……最後まで、良い子だったな。純粋で、言う事をよく聞く……だから、私のせいで……それでも、優しいから。ありがとう、フィリ……言えなかった願いを、叶えてくれて」
「っ、か……!」
「お前が教えてくれたものだ。虚しさじゃない、この感情……あいつらも、そのためだったのかもな。……愛してるよ。フィリ」
そしたら、首の後ろに強い、強い衝撃が来て。次に目が覚めた時には、教官はいなかった。
もう、戻ってくることもなかった。
◇
その日から、一週間が経って。私は、教官が住んでいた部屋を与えられた。物が綺麗に整えられていて、でも、それを触ったり、動かすつもりにはならなかった。部屋から教官が無くなっちゃうから。
「おはようございます、嵐咲フィリさん」
代わりに、同じくらいの大きさの人が来た。何も変わらないはずなのに、何もかも変わった。
「あなたの役割は、我々への反乱の意思を監視し、その力を削ぐこと……言うなればスパイです」
その人はとっくに知ってる事を、わざわざ懇切丁寧に教えてくれた。嫌いじゃなかったけど、好きでもなかった。だって、そんなこととっくに知ってるし、どうでもよかったから。
そんなことよりも、教官はどこへ行ったんだろう。教官は、最後に……あの時だけ、初めて。言ってくれた。あの人よりずっと回数は少ないはずなのに、ずっとずっと嬉しかったのに。私が悪い子だから、正しくないから、いなくなっちゃったのかな。
「……聞いていますか?」
「あ……ごめん、なさい……考え事」
「……はぁ……あなたは優秀だと聞き及んでいたのですが」
その人はため息を吐いて、呆れた、って私の方を見た。「人の話はよく聞け」、教官は言ってた。私が正しくなかったんだから、しょうがない。
「まあ良いでしょう。二度は許しません、今回だけです。いいですね?」
「……うん」
「よろしい。では、改めて。あなたは訓練兵達に紛れ、反抗的な意思を持つ物。規則に反するもの。そして、逃げ出そうとするもの。これらを探し出し、逐次報告してもらいます。それがあなたの役割です」
なんとなく、そうなんじゃないかなぁ、って思ってた。教官は私に、そういう技術も教えてくれた。人の中へ入り込む技術。
「自己判断により最大二人まで、『こちら』の人間を増やして構わないと仰せつかっています。ただし、慎重に」
「つまり……ええと……私と同じ人。二人まで。うん、わかった……」
その言葉は意外だった。自己判断。私は間違ってるかもしれないから、そんなことするのは難しい。
でも、命令された。命令に従っていれば正しい。教官は、最後にそう教えてくれた。私が正しいのかどうか教えてくれる人はもういないけど、そう教えてくれた。だからもう、大丈夫。
「あなた、ランって言うの?よろしくね」
「よろしくねっ!ランっ!」
顔を変えるのも名前を変えるのも、大した事じゃなかった。元からなかったものだから。いつか裏切ることになったとしても、正しいのは私の方だから。
「訓練、キツいわね……」
「そんな、こと……ない……」
「ランはすごいなぁ」
だから、この時間が楽しいって、そう思うことは。多分それは、正しくないことだから。
「ラン、大丈夫?ちゃんとお水飲んでる?」
「飲んでる……」
心配されて、嬉しいって思うことも。苦しそうなのが、嫌だって思うことも。ずっと一緒にいたいって、教官みたいに思うことも。全部、全部、全部。間違ってる。
「ねぇ、私思ったんだけどさ。教官達の監視、抜け出す方法があるの」
「……そう、なの?」
大丈夫。最初っからそのつもりだったんだから。
「ラン、一緒に逃げるよ!みんなで!こんなところ抜け出して、美味しいご飯でも食べに行くの!素敵でしょ?」
「うん……一緒に……逃げる」
だから、教官……新しい教官に、報告した。話を聞いてみると、意図的に作った抜け道らしかった。
「あれ……お、おかしいな……何でここ、閉まって……」
大丈夫。私は正しい。私は正しいって、教官は言ってた。あの教官……ややこしい。そういえば、教官は私に名前を教えてくれなかった。聞いておけばよかった。
「ちょ、ちょっと!早くしないと……!」
「わ、わかってるよ!でも……!」
「まさか、これって……!」
「罠。ですよ」
ぼーっとそんな事を考えてたら、後ろに敬語の教官が立ってた。気持ちの悪い笑顔で、ちょっと吐きそうになった。
「私たちに反乱の意図がある物を炙り出すための、ね……まさか、ここまで簡単にかかるとは思いませんでしたが」
「ッ……!みんな、顔を隠して!逃げて!!ごめん、私のミスだ……!!ごめん……!食い止めるから、逃げて!!」
「フィリ、捕らえなさい」
教官が、私の名前を呼んだ。心臓を掴まれる感じがした。吐きそうだった。嫌な汗が出た。
「え……ラ、ン……?」
「どうしました?今更、躊躇うのですか?この状況を招いたのは、あなただと言うのに」
命令。命令は、守らなきゃ。それが正しい。正しい、正しい、正しい。
「ラン……?嘘だよね……?やめて……!!ラン……!」
顔も見れなかったし、声も聞こえなかった。目を閉じて、耳を塞いで、蹴って、捕まえた。四人いたから、四人を、みーんな。
「何で……ラン……!」
でも、私は正しい事をした。
「友達だと……思ってたのに……信じてたのに……!!」
「連れて行きなさい……よくやりましたね、フィリ。今後とも、よろしくお願いします」
そのはずなのに、心臓のモヤモヤが晴れなかった。
「……ごめん……なさい」
訳のわからない、バカみたいな塵の謝罪を、口の中から吐き出した。
◇
それから、三年間。私は、何度も同じ事を繰り返した。何度も、何度も、何度も、何度も。次第に、もやもやも薄くなっていった。
そして、ある日。分隊長、というものになった。役割は変わらず、密偵。分隊長の内情を探る人間も、必要だったから。今回は、本当の顔と名前でやるように言われた。
「初めまして、嵐咲フィリ。私の名前は桐花スオウ……小隊長です」
その人は、私の顔を見て……少し時間をおいて。小隊長だって名乗った。
「これから、よろしくお願いしますね!」
笑顔で握手された。ああ、胡散臭い。何となく、そう思った。
あの顔を私は知ってる。あの顔は、嘘つきの顔。あの人と同じ。あの人たちと同じ。私と同じ。
「よろ、しく……」
だから、小隊長の秘密を探ってやることにした。それが私の役割。あとをつけたり、盗聴器を仕掛けたり、遠くからスコープで観察した事もあった。
「……なに、あれ?」
盗聴器は通用しなかったけど、監視はうまく行った。あの人は、姉を名乗っていた。頭がおかしいと思った。
「……これが……胡散臭さの、正体……」
なるほどなぁ。そうやって納得した。だって、あからさまな嘘だから。私の母親を名乗っていた人と同じ。
私は、小隊長が嫌いだと思った。だから、ずっとずっとあとをつけて、観察して、監視して。
『あのクソバ……失礼、ベアトリーチェはクソ野郎ですが、賢いです。みんなもくれぐれも気をつけて……』
ついに手に入れた。確固たる証拠を。設置型の盗聴器が通用しないなら、小隊長の言うところの妹の服に仕込んでやれば良い。シャワーを浴びるタイミングで回収して、それを持ち帰れば。
「……よし……ちゃんと録れてる……これで……!」
「それ。どうするつもりですか?」
でも、それは。小隊長の、掌の上だった。
「っ……!」
「おっ、と……良い拳ですね。でも、狙いが甘いですよ」
殴りかかって、それは簡単に止められた。それどころか、手にだんだん力が込められて……拳を握り潰されそうな感じがした。
「あなたですね。アリウスに存在する、密偵の正体。名を変え、顔を変え……そして、反乱の芽を摘む。妹達の中に、被害者がいました」
嫌な予感。本能で、そう思った。私の拳を握った腕に膝蹴りを入れて、それでもビクともしなかった。
「可愛い妹達の戯れ、で済んでいればよかったのですが……そうも行かなそうですからね」
「っ……!?」
「そうしなければ、あなたが傷ついていたかもしれないことはわかりますが……あなたはやり過ぎました。反省してもらいますよ、フィリ」
それどころか、その腕がだんだん持ち上がって行って……空中に、思いっきり投げ飛ばされて。そのまま鎖でぐるぐる巻きにされて、受け止められた。
「さて、どうしたものですかね……」
「……してない」
「ん?」
「よくない事……してない……」
小隊長の言ってることは間違ってる。私は正しい事をした。だって、そう言われたから。
「……何でそう思ったんですか?」
「そうだって……教官に、言われたから……」
「どこのどいつですか、そんな馬鹿な事を言ったのは……」
「教官のこと。悪く、言わないで」
「……なるほど……あの行動は、そういうことだったんですね」
小隊長は、私の言ってることを聞いて。納得が行った、そんな顔をして。今思うと、この頃……小隊長は、私のことを逆に監視してたんだと思う。
「フィリ、本当にあなたがやってきたことが正しいと思いますか?」
「思う」
「罪悪感は?」
「ない。間違ってたのは、あの人たちだから」
本当だ。罪悪感なんてない。だって、正しいのは私だから。モヤモヤはしたけど、それももう無くなったから。
「……フィリ。ここにボタンがあります。起爆スイッチです」
「……何の?」
「あなたの部屋に仕掛けた爆弾の」
私の家。そう言われたとき、背筋を針で何度も刺される感覚がした。
「ここから少し外れにある、校舎の近くですね?」
「ま、待って……何を」
「ドーン」
そんな間抜けな効果音を口にして。小隊長は、スイッチを押した。何でもないみたいに、簡単に。確かに、私の家の方から爆発の音がした。
「……なん、で」
「なんで……なんでって……それが正しいからです。全ては虚しいんでしょう?何かに執着することなんて、間違ったことです」
「ふざけるな……!!ふざけないで……!!」
教官の痕跡が消えた。教官がいた証が消えた。教官はもういないのに、さらにいなくなった。
「フィリ、暴れないでください。鎖で体を痛めます」
「うるさい……!!うるさい、うるさいうるさいうるさい……!!」
「今、どんな気持ちですか?あなたの部屋は、大切な人は、もう戻らない。壊れてしまった」
どんな気持ちか。決まっている。怒りで。悲しみで。苦しみで。負の感情をいくつも煮詰めて、その灰汁を雑巾に染み込ませたみたいな気持ちだ。
小隊長も、それをわかった上で聞いていたんだと思う。
「まあ、嘘なんですけどね」
「……え?」
「行きましょうか」
小隊長に口を塞がれて、少し目を閉じたらすぐに、私の……教官の部屋に着いた。いつも通りだった。あの日から、何も変わってなかった。
「フィリ。あなたがやっていたことは、あれと同じことです」
ポカーンとする私に、小隊長は話しかけてきた。
「もう一度、聞きます。正しいと思えますか?」
「……正しい……はず。そうじゃなきゃ……おかしい……」
「そうですか……それなら」
小隊長は、爆弾を取り出した。何をするのか、嫌でもわかった。
「やめてッ!!」
「なぜ?」
「だって……だって、それは……!」
わからなかった。あの時、教官に抱きついてしまった時と同じ。正しくないはずなのに、間違ってるはずなのに、やらずにはいられなくて。
「それはね、フィリ。それがあなたにとって大切なことで……正しいことだからです」
「……どういう……こと?」
小隊長は爆弾を外にぶん投げた。ちょっと安心して、話を聞く気になれた。
「この世の中に、絶対の正しさなんてものは少ない。人によってそれぞれ、正しさは違います。私は私の思う一方的な正しさで、あなたの正しさを否定した。……ごめんなさい。怖がらせて、苦しい思いをさせた」
謝られて、予想外だった。どうすれば良いのか、考えるのも難しかった。ごちゃごちゃ、頭の中がうるさくて。
「正しさは、人によって違う。それを人は、価値観、なんて呼んだりしますが……あなたがやってきたことは、それを踏み躙る行為で何より……人を傷つける行為。それが良くはないことなのは、わかりますね?」
人を傷つける。そんなことはわかってた。それでもやれたのは、それを正しいと思ってたから。でも、それは違うらしくて……じゃあ、私がやってたことは。
「私は……悪い、ひと……?」
「……さあ。でも、しなくちゃいけないことがある。それは、わかりますか?」
「しなくちゃ、いけないこと……?」
わからなかった。間違えないようにしてたから、間違えた時にどうすれば良いのかわからなかった。
「一つ。私と一緒に、フィリが騙した人に謝りに行くこと。許してもらえるかは分かりませんが、それでもです」
「……わかった」
「……そしてもう一つは……私の妹になることです!!」
小隊長は、突然狂った。
「……そっちは、わからない。多分、違う」
「そう、偉いですよ、フィリ。それでいいんです」
だから否定して、なのに、小隊長は褒めた。
「ちゃんと考えるんです。何が正しいのか、間違ってるのか。自分と、他の人と、照らし合わせて。鵜呑みにしちゃダメです、考えて、考えて、考えて……そして、自分だったらどうするか。どうするべきか。きちんと考えること。わかりますか?」
「……うん……それは、わかる」
「偉いですよ。それはそれとして今からあなたは私の妹です、良いですね?」
小隊長は鎖を解いた。盗聴機を素手で粉砕して、窓から投げ捨てた。勿体無い。多分あれは、あんまり良くないことだと思った。
多分、こうやって考えろ、って、小隊長は言いたいんだと思う。教官の言ってたことは、どうだったのかな。また今度、考えてみなくちゃ。そんな風に考えて、思い出して。それで、一番最初に思い出したこと。
「そこの、棚……」
「……棚?」
「誕生日……」
誕生日に、教官が何かを入れた場所。
「開けて良いですか?」
声に出さずに、頷いて答えた。小隊長は躊躇せずに、その棚を開けて。紙切れと、何かを取り出した。
足に巻く部分が翡翠の色の、銃のホルダー。
『誕生日おめでとう、フィリ。これからも頑張れよ』
あんまり綺麗じゃない字で、教官の字で。そう書かれてた。それだけの言葉で。
「……小隊長……泣くのって、悪いこと……?間違ってる……?」
「……間違ってないですよ。少なくとも私は、そう思ってます」
「そっか……そうだよね……」
三年ぶりに、私は泣いた。小隊長は、ずっと一緒にいてくれた。辛かったねって、苦しかったねって、そんな事を言いながら。
あの日から、私は考えてる。毎日毎日、ずっとずっと考えてる。私にとって何が正しくて、何が間違ってて。私と違う正しさを持つ人に、どうすれば良いのか。
今の所、答えは出ないけど……もしかしたら小隊長も、私と違う正しさを持つ日が来るかもしれない。あの日感じた、胡散臭さ。あれは、あの奥にあるのは……ちょっと、私じゃ言葉にできないかも。
だけど、それがあってたなら……今度は私が小隊長を止めてあげようって、そう思ってる。あの日、小隊長が私にそうしてくれたみたいに。