風雪一過はいいぞ。シルバーアッシュはいいぞ。
のちに“雪国事変”と呼ばれるイェラグの動乱、それが収束した直後のことだ。クリフハートは車の窓から、遠ざかっていく故郷をじっと眺めながら、一抹の不安にまとわりとかれていた。
兄エンシオディスが仕組んだ一連の陰謀。国を背負って立つと宣言した姉エンヤ。そのふたりを置き去りにして、末妹はロドスへ帰ろうとしている。自分が去った後、もっとひどいことが起こるのではないか。みんな自分に内緒で、血で血を洗うような真似をするのではないか。全てが済んだ直後だというのに、それが不安で仕方がなかった。
隣のシートに腰かけたドクターが、窓にべったりと張り付くクリフハートの頭にポンと手を置く。事件に介入し、収束させた張本人は、何の懸念もないような穏やかな声音で告げた。
「そう名残惜しまなくても、また来れる。エンシオディスともエンヤとも、変わらず会えるさ」
「……ドクター」
クリフハートは振り返り、揺れる眼差しでドクターを見上げた。少し泣き出しそうな顔をされ、ドクターはわずかに困り顔をしたが、すぐに優しい笑顔に戻ってクリフハートをゆっくりと撫でる。その様子をバックミラー越しに見ていたドーベルマンが、遠い目で小言を呟く。
「今回は一体、何をしでかしてきたんだ? 私はただ、イェラグの式典に出るだけだと聞いていたんだが」
「嘘は言っていない。実際、招待状にはそう書かれていたし、私もそのつもりだった」
「だが、そうはならなかったんだろう」
「その手の文句は……」
「そんな顔をするな、ドーベルマン。私の報告書を読めば、ケルシーも納得してくれるさ」
「その手の知略は一級品だからな。いっそ、ケルシーがどんな顔をするか、賭けてみるか? Sharp」
「……なぜ、俺に振る?」
助手席にいたSharpが不服を告げた。彼の真後ろの座席で、オーロラは居心地悪そうに首を縮めている。堅物のドーベルマンがこういった発言をするあたり、彼女も相当思うところがあるのだろう。今回の件で短く波乱に満ちた里帰りを経験したウルサス人の女性は、口を挟むことも出来ずにただ座ることしかできずにいた。
Sharpは腕を組み、涼しい顔のドクターに忠告する。
「言っておくが、ドクター。俺は起こったことをありのまま書く。口裏を合わせたりはしないからな」
「構わない。その時間を使って腕を休ませておくといい」
「よほど自信があるようだな。解雇されたノーシスに代わって工業区画の管理をするという話は、既に伝わっているのか?」
「そんな話が、アーミヤの耳に入らないわけがないだろう?」
「俺の耳にも入れてほしかったものだが」
「……それについては悪かった。管理といっても、工業区画における感染リスクの監査と提言だけだったからな。ロドスがいつもやっていることだ」
オーロラはそれを聞いて、ますます肩身が狭くなった。何せ、ドクターはその監査中に、オーロラの兄を含むシルバーアッシュ家に与する者たちに襲われたのだから。なお、そこからドクターを救出したのはオーロラとSharpであり、しかも兄が加わっていると知ったのは全てが終わった後だ。兄は大人しくしているのだろうか。今回の件で、また変な気を起こしていなければいいが。
悶々と申し訳なさと不肖の兄のことを考えていると、ドーベルマンが丸っこい眉をしかめてドクターを睨んでいた。訓練の時に厳しい檄を飛ばすのとは違って、実戦中にやらかした部下に対するような、本気のお説教モードである。
「で、今回は何をやらかしたんだ? どういうカラクリで、イェラグのどこからもロドスの噂が聞こえてこない?」
「詳しい事情は報告書で提出するが、なに、イェラグ御三家と親睦を深めただけのことだ」
「親睦……親睦と来たか」
「ああ。その証拠と言ってはなんだが、そのうちシルバーアッシュ家からロドスとの新たな協定の文書が送られるそうだ。ついでに、今回の件でロドスの名がイェラグの公文書に残ることはないらしい」
「えぇっ!?」
また窓の外に気を取られていたクリフハートが、驚愕して振り返ってきた。彼女はドクターに顔を近づけ、体を揺さぶる。
「ドクター!? 協定ってどういうこと? お兄ちゃんと何を約束したの!?」
「落ち着いて、クリフハート。まだ口約束の段階でしかない」
「……頭痛がしてきた」
ドーベルマンは半ば諦めたような顔で首を振る。無言無表情を貫くSharpも、内心では同意していた。護衛にかこつけた旅行となるはずが、随分な騒動に巻き込まれた上、肝心の護衛対象はペイルロッシュ家の監視つくだの、白昼堂々暴徒に襲われるだの、内乱に介入するだの、エンシオディスと一対一で対談するだの、やりたい放題である。それを無傷で切り抜け、内戦は勃発する寸前で収まったからよいものの……最悪の場合はドクターが死んでもおかしくはなかったのだ。
アーミヤからもケルシーからも、Sharpからも自分の身を顧みろと何度も言われているのだが、ドクターは平然と危険な事態に踏み入って、無傷で戻ってくる。見ている側からすれば気が気でない。どれほど知略に優れているのか知っていても、だ。
Sharpは心のうちでひとり愚痴をこぼしていたが、ひとつ聞きたいことがあるのを思い出した。
「ドクター、ひとつ聞いていいか」
「どうした?」
「エンヤ・シルバーアッシュが事態の収拾を宣言したときのことだ」
クリフハートがぴたりとドクターを揺さぶるのをやめ、目を丸くしてSharpを見つめた。現場に居なかったドーベルマン以外の全員が、全く同じ情景を思い出す。ふたつに分かれた灰色の曇天。その日差しの下に立つイェラグの巫女、エンヤの姿を。クリフハートはドクターの上着をぎゅっと握り、身を寄せた。超常現象の真下で覚えた恐怖がぶり返してきたのだ。
「あのとき、空が割れただろう。俺は黒騎士といたが、彼女がこう訊いてきてな。“あれもドクターの策略か”、と」
「流石にそれは買いかぶりすぎだ。空が割れるなんてこと、私にも予想できなかったよ」
それはつまり、エンヤが事態を収拾するところまでは見越していたということだろうか。クリフハートをエンヤがいる山のふもとまで送り届けたオーロラは、横目でドクターの顔色を伺う。わずかに見える目元は、小さく微笑んでいた。
「……あの現象がなんなのか、あなたにもわからないと?」
「どうやって空を割ったのか、という話なら、私にもわからない。やった本人に聞いてみないことには」
妙に引っかかる物言いだ。Sharpのみならず、報告書を読むまでは聞き流そうと努めていたドーベルマンさえ気を引かれた。その口振りでは、まるで誰がやったのかわかっていると言っているようなものではないか。
車内の沈黙に促され、ドクターは軽く肩を竦める。
「イェラガンドだ。イェラグで信仰されているかの神が、ささやかながら、自らの巫女の門出を祝った。それだけだ」
「ドクター、俺は真面目に聞いているんだが」
「私も真面目だよ、Sharp」
サングラス越しに睨まれても、ドクターは動じなかった。柔らかく微笑んでこそいるものの、フードの下の目つきは真剣そのものだ。Sharpは真意を測りかね、眉間に皺を寄せる。イェラグ生まれのオーロラは、自身の信仰と直接の上司、どちらの肩を持てばいいのかわからず目を泳がせた。クリフハートも同様に、途方に暮れた顔でドクターを見上げている。
宗教国家イェラグのことを知識程度には理解しているドーベルマンが苦言を呈した。
「ドクター……まさかとは思うが、イェラグの宗教に入信したわけではあるまいな?」
「どう答えても顰蹙を買いそうな聞き方はやめてくれ。まあ、俗に言う導きがあったのは確かだが。一緒に祭りを見て回った折りに、色々興味深い話を聞かせてもらったよ」
もはや車内の誰も、ドクターの発言を理解できずにポカンとしていた。ドーベルマンはハンドルを握りながら助手席のSharpに囁きかける。
「おいSharp、彼女は何を言っているんだ?」
「俺に聞くな。ずっと彼女と一緒にいたわけではない」
「護衛任務なのにか!?」
「詳しい事情は報告書に書いて提出する。前を見ろ」
ドーベルマンはなおも何か言いたげだったが、やがて理解を諦めて首を振り、運転に集中する。クリフハートとオーロラは間のドクターに視線を注いでいたが、ドクターは目を閉じ、それ以上何も言わなかった。何からどう質問すればいいのかもわからないまま、会話が途切れる。クリフハートは、やがて窓の外に向き直った。
「……もう、何が何だかわからないよ。でも、ドクター」
「ん?」
「イェラガンドは……いるってことだよね? 信じていいんだよね……」
「ああ、君の姉を近くで支えてくれるだろう。彼女が彼女である限り」
「……そっか。じゃあ、お姉ちゃんは大丈夫だよね」
「きっとな」
こくりと頷いて、ドクターは励ますようにクリフハートの頭を撫でた。
天災の及ばない土地。最新でない武器と、練度はそれなりながら他国の軍には及ばない戦士たち。信仰、停滞、イェラグを背負って立つ者たちの考え方の違い。他の国が少し貪欲になれば、手つかずの上等な肉の如きイェラグは、たちまち奪い合いの末に千々に食いちぎられてしまうだろう。
ただ、そんな未来から、ほんの少しずれることは出来た。これからどうなっていくのだろう。その過程で多くの困難に見舞われるだろう。雪山に閉ざされた国が如何様に変わるのか、それはドクターでさえもわからない。
雪原の中をロドスの車が去っていく。マッターホルンと名付けられた山の中腹からそれを見送りながら、巫女の傍付き侍女は雪風に紛れて姿を消した。