ドクターは仕事中にも関わらず、良心の呵責と戦っていた。
書類は相も変わらず山積み。デスクの上は紙で出来たクルビアのビル群だの、龍門のスラムだのと言われたい放題だ。今日中に処理しなければならない書類がその中にどれだけ含まれてるやら。
なので、とにかく一心不乱にペンを動かさねばならないのだが……ドクターはフードの下から、仮眠用ソファベッドの上をチラリと見た。
そこには、毛布の塊がひとつ置かれており、二本の尻尾が狼煙のように揺らめいていた。
「うー……ドクター……」
洞穴のような毛布の隙間から、切なそうな声がする。
椅子のシートが全て針に変わったような気分だ。罪悪感がドクターの心を突き上げてくる。
毛布をかぶってこちらをじっと見つめているのは、執務室にやってきたムース。
訳あって書類仕事を手伝ってくれるオペレーターがシデロカを残してほぼ出払っており、しかもそんなときに限っていつもよりたくさん運ばれてきた書類をほぼひとりで処理しなければならないドクターは、彼女にしばし待つように伝えた。仕事がひと段落するまで待ってほしい、と。
それももはや、二時間半も前のことだ。
一刻も早く仕事を終わらせ、かまってあげたい。が、新たに持ち込まれた書類を整理していたシデロカが、無慈悲に新しい山を作った。
「ドクター、こちらも今日中です。人事部からです」
「……珍しいな、人事部から急ぎの書類なんて」
どんとデスクを襲った衝撃に、さしものドクターも辟易してしまう。
今夜は久しぶりに徹夜をする羽目になりそうだ。イグゼキュターの処理速度が懐かしい。
ラテラーノに戻ってしまった執行人をついつい思い浮かべてしまい、首を振る。彼はそもそもラテラーノの役人だ。頼り過ぎてはいけないと自戒しているではないか。
濃いめに淹れたコーヒーを一口含もうと、カップを持ち上げて気づく。いつの間にか、中身はからっぽだった。
気分を持ち直すことも出来なかったドクターは溜め息を吐き、席を立った。
「ムース、何か飲むか?」
「……ドクター?」
シデロカが咳払いをして、パッと毛布を跳ね飛ばして起き上がったムースをけん制した。
ようやく構ってもらえると思ったらしいムースの顔がたちまちしおれる。
ドクターは“まだ仕事中でしょう”と言外に告げてくるシデロカを見返した。
「五分だけだ。君も何時間も立ちっぱなしだろう、少し座ったらどうだ?」
「そんな暇は……。……はぁ、五分だけですよ」
書類の山、壁掛け時計、悲しそうなムースを順番に見て、シデロカは不承不承頷く。
ドクターは少し胸を撫で下ろしてケトル置き場へ向かった。ムースのためにココアを淹れてやっていると、シデロカはムースに苦言を呈する。
「ムース、あまりドクターを困らせないように。見ての通り、目を通さなければならない書類がこんなにあるんだ。それと、ここは執務室で、そこはドクターが仮眠する場所だ」
「うぅー……でも……」
しょげたムースは、いじけたように爪でソファベッドのシートを引っかく。
鉱石病の影響で右手の五指は全て黒い爪になっているが、ソファの表面を傷つけることはない。
それも注意すべきか、と考えるシデロカに、真横からコーヒーが差し出された。ドクターだ。
「気にしなくていい。自由に出入りしていいと言ったのは私だし、そうでもしないと話をする機会もなかなか無い」
「しかしドクター……」
「これも私の仕事だ、シデロカ。あの書類の山と同じで、その日のうちに聞いておかないといけない話も山ほどある」
「ですが、事務に差し支えるのでは?」
「事務作業だけが仕事ではない。ムースは戦闘オペレーター、つまり私の部下でもある。部下の話を聞くのも務めだ」
反論の思いつかなかったシデロカは、仕方なく湯気の漂うカップを受け取った。
ドクターはムースの隣に座り、マシュマロを浮かべたココアを渡してやる。ムースは今度こそ表情を華やがせ、ドクターにじゃれつき始めた。
あれでは上司と部下ではなく、母親と娘だ。シデロカは呆れながらコーヒーを口にする。少し酸味が強い。
ムースは毛布に隠していた、折り紙の花をドクターに見せる。かなり精巧に作られた花だった。
「これは……療養庭園で見たことがある。君が作ったのか?」
「はい! これ、今日の工作の授業で作ったんです。ロープさんがくれた本物のお花を見ながら、折り方も教えてもらって……」
「ロープが? パフューマーやポデンコではなく?」
「はい。ロープさんがパフューマーさんからもらった種を育てて出来たみたいで」
「……そうか、ロープが……」
ドクターの人差し指が、花弁を下から持ち上げる。彼女の優しい横顔を眺めるムースは、はにかみながら甘いココアを啜る。
紙細工の花をプレゼントされたドクターは、感傷に浸っていた意識を引き戻した。
「ありがとう。これは後で部屋に飾らせてもらうよ」
「えへへ……今度見に行ってもいいですか?」
「もちろん。もしかしたら、シャマレがいるかもしれないが」
シデロカは思わずコーヒーを吹き出した。
突然咳き込み始めたシデロカの反応に驚き、ムースとドクターが一緒になって振り返る。シデロカはむせながら、信じられない気持ちで問いただした。
「し、私室も開け放しているんですか!?」
「そうだが……?」
「そうだが、じゃありませんよ! 自分の立場をわかっているんですか!?」
そこまで言われてようやく、ドクターはシデロカの言わんとしていることを察したらしい。ああ、とどこか気の抜けた返事をする。
「私の部屋に重要なものは特にない。あるとすれば、オペレーターたちからの贈り物ぐらいのものだ。私にだけ価値があるものだから、奪われて困るようなもの……いや、贈り物を奪われるのは困るが……重要書類など、ロドスにとって損失となるような物品は置いていない」
「…………」
シデロカは頭痛を覚える。自分が誘拐される、押し入られて命を狙われるといったことは考えないのだろうか。
これはもしかしなくとも、私室の前で警護する必要があるんじゃ? そう考えたところで、ドクターはコーヒーを飲み干して立ちあがった。
名残惜しそうなムースの頭を撫でてやる。
「そろそろ五分だな。すまない、ムース。仕事に戻らなければ」
「うー……はい……。あのドクター、お仕事はいつ終わりそうですか……?」
「流石にわからないな……徹夜は確実だろうが」
ドクターはデスクを埋め尽くす書類の山を遠い目で見た。もはや、誰が座っているのかもわからないような有様だ。
懐かしい。石棺から目覚め、レユニオン絡みの事件を解決した直後は、いつもこんな具合だった。最近は任務の報告がてらイグゼキュターが手伝ってくれるので、かなり仕事が早く済んでいる。彼の長期不在が、そのありがたみを痛いほど訴えてくる。
シデロカはデスクの前で立ち尽くし、乾いた笑みを浮かべるドクターから視線を外した。
二時間半待ちぼうけを食らった末、やっと五分だけ構ってもらえたムースは、明らかに物足りなさそうに毛布をまとっている。このままでは、ドクターの仕事が終わるまでここにいると言い出しかねない雰囲気だ。
シデロカはソファベッドに近づくと、ココアを飲み干すように促した。
「ムース、ここに居られてはドクターの仕事に差し支える。部屋に戻るか、訓練を受けるか……とにかく、ここに居座らないように」
「…………はい」
捨てられた子供のように、ムースは頷く。罪悪感を感じないわけではないが、身内に甘いドクターはまたすぐに集中を途切れさせてしまうだろう。うず高く積もった書類を片付けるためにも、ムースは帰らせねば。
飲み干されたココアのカップを受け取り、シデロカはムースと一緒に執務室を出る。ムースは後ろ髪を引かれる想いで振り返ったが、デスクについたドクターの姿は書類に隠れて見えなかった。
執務室を出て、とぼとぼと廊下を歩いていくムースの後ろ姿を眺めながら、シデロカは思いを巡らせる。
ここ数日、こういう子供たちが後を絶たない。これといった用がないのにドクターを訪ねてくる。ドクターはドクターで、仕事よりもそちらを優先しがちだ。シデロカはそれを良くないことだと思っているのだが、一方で先ほどの会話が脳裏をよぎる。
ムースづてに聞く他のオペレーターの近況。今更だが、そちらの方を目的としているのでは? 仕事に追われている都合上、自分の目で見に行けないオペレーターたちの様子を、子供たちから伝え聞いているのでは?
だとするならば。シデロカはしばし考えてから、後方支援部へと足を向けた。
●
数日後、いつものように執務室に入ったドクターは、いつもと違う光景に足を止めさせられた。
執務室の中に、自分のものではないデスクがいくつも置かれている。仮眠用ソファベッドの近くには、病院の待合室で見るような子供向けの絵本が収められたラックも。
大幅な模様替えというわけではないが、だいぶ物が増えた。目を丸くしていると、先に執務室に来ていたシデロカが顔を上げる。
「おはようございます、ドクター。朝食はお済みですか?」
「あ、ああ……。シデロカ、これは……?」
「見ての通り、作業用のスペースを設けました。アーミヤさんには既に許可を得ています」
「……いつの間に……」
ドクターは目頭を押さえる。
一応、シデロカが何をしようとしているのかは理解できる。自分の書類仕事を手伝うオペレーターを募り、やってくる子供たちが待てるようにしてくれたのだろう。
問題は、そのことをドクター自身が何も聞いていないということである。
「気持ちはありがたいが、せめて事前に一言欲しかった」
「私もそうしようと思ったのですが……アーミヤさんが“ドクターは絶対に嫌がるから秘密裏に進めてびっくりさせましょう”と」
「なるほど……だが、何人呼ぶつもりなんだ? 今まで程度の書類の量なら、私が徹夜すれば……」
「いいえ、それはできません」
仕事を手伝ってもらう後ろめたさから口にするも、ぴしゃりと拒絶された。
ある日突然執務室にやってきて、食事や睡眠などの面倒を見始めたフォルテの傭兵は、真っ直ぐにドクターを見つめる。
「ドクター、前から思っていましたが、もう少し仕事を他人に割り振るべきです。ひとりでこなせる量を大きく超えているのは、ご自身が既にわかっているでしょう」
「手伝いなら、イグゼキュターが……」
「彼に頼りすぎて、留守にした途端に徹夜したでしょう。それに、イグゼキュターだって無理矢理書類整理を手伝っているだけですし。彼が悪意あるスパイだったらどうするつもりなんです?」
「ならなおさら、私ひとりでやるべきでは……」
「その点については安心してください。後方支援部と人事部の方にリサーチして、信用できる人に手伝いに来てもらえるように手配しましたので」
知らない間に、随分話が飛躍している気がする。ドクターは途方に暮れた旅人のような気分になった。
昨日までとは少しだけ変わった執務室を改めて見回していると、シデロカが咳払いをする。
「その、以前はああ言いましたが、考えてみれば部下のケアをするのも上司としては必要な仕事なのでしょうね。傭兵式しか知らないもので、無知を実感しました」
「そんな大げさな……」
「いいえ、私も頭が冷えました。書類仕事は早く終わらせ、ドクターはドクターにしかできない仕事に専念すべきです。
メンタルケアは医療部の方でもできるのでしょうが、少なくともここに来る子供たちは、あなたに話を聞いてほしいはずなので」
「……シデロカ」
背後で執務室の扉が開く。振り返ると、扉の陰から顔を覗かせるムースがいた。
先日のことが尾を引いているのか、首を縮めてこわごわとシデロカを見つめている。シデロカは真顔で仮眠用ソファベッドを指し示した。
「ドクター、最初のお客さんですよ。今日一番の書類が来る前に、少し相手をしてあげてはどうですか?」