ふと気づいた時、ドクターは線路の上に立っていた。
周囲は霧に包まれた荒野。周りなら多少見えるが、果てまでは見通せない。朝か夜かも定かではない。
「ドクター!」
霧の中でぼんやり佇んでいると、すぐ隣から声がした。手を握られる。いつからそこにいたのだろう。アーミヤが傍にいた。
「アーミヤ?」
「どうしたんですか、ぼうっとして。行きましょう、みんなが待ってます」
アーミヤは両手でドクターを引き、線路の上を歩き出そうとする。ドクターはつんのめり、躓きかけながら制止する。
「ま、待ってくれアーミヤ! これからどこへ行くんだ? 誰が待っている?」
「もちろん、―――」
見知ったコータスの少女は笑顔で応えてくれる。だが、何を言っているのかわからない。通じるはずの言葉が、聞いたこともない言語に置き換わってしまったかのようだ。
ドクターは足を止め、アーミヤの手を逆に引いた。
進まねばならないのはわかっている。気づけば周りには見知った顔がいくつも並んでいて、ドクターが歩き出すのを今か今かと待ちわびている。
わかっている。わかっているが、それでもドクターは背後を振り返った。振り返らねばならない気がした。置いていってはならないものを、置き去りにしているような気がして。
「何か忘れものか?」
すぐ真後ろに、Aceが立っていた。もう少し離れた場所に、Scoutが。他にも何人かいる。かろうじてサルカズであることはわかるが、顔はかすんでしまっている。
ドクターは線路上に佇むAceを見上げる。フィディアの偉丈夫は、いかつい顔に見合わない穏やかな笑みを口元に浮かべ、ドクターの言葉を待っていた。
「わからない。だが……」
「気にするな。お前はただ、進んでくれればいいさ」
「わかっている、私たちは前に進まなければならない。だが置いてはいけない!」
後ろの霧が色づいている。破れた絵画のように、様々な光景が浮かんでいるのがわかった。
どれもこれも、判然としない。よくわからないにも関わらず、大きな意味のあるものだと直感した。
アーミヤが手を引く。Aceは番人のように立ち続ける。ドクターは彼の背後に手を伸ばす。
「先に行ってくれ、Ace。私は戻らなければ……!」
「いいや、お前は戻れない。戻るのは、俺たちの役目だ」
父が娘を諭すのにも似た口調であった。
Aceはドクターの肩を叩く。すると、線路が伸びてふたりの間を無限に引き延ばし始める。
「Ace!」
ドクターは叫び、離れていく顔見知りと色づいた霧を追いかけようとする。
足は動かせなかった。アーミヤの手を振り払えず、踏み出すこともできないまま、ドクターは霧の向こうに消えていくものを見送った。
●
「ドクター……ドクター!」
「……ん」
大きく揺すられて、ドクターは霞む目を開く。
室内は薄暗く、目の前には深い青色の隻眼があった。柔らかく、ひんやりとした感触が目元を撫でる。視界がはっきりしてきた。
「ウィスパーレイン……? すまない、眠ってしまっていた」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。つまらない映画につき合わせてしまいましたね」
青白い肌の女性が少し安堵したように言うと、ドクターの記憶が蘇ってきた。
ここはロドス本艦のシアタールーム。三人でウィスパーレインが持ってきた映画を見ていたのだが、途中で眠ってしまったらしい。
ドクターは目頭を押さえて首を振る。映画の内容が全く思い出せない。
「ここのところ、根を詰め過ぎてしまっていたらしい。せっかく誘ってもらったのに」
「構いませんよ。それよりも、ドクターの方が心配です。ひどくうなされていましたから」
ウィスパーレインはドクターの額に手を当てる。冷たい手のひらが心地よい。
粗熱が吸い取られる感覚に身をゆだねながら、ドクターは見ていた夢について思い出そうとする。
しかし何も思い出せない。霞のようにおぼろげだ。何か大切なことだったような気がするのだが。
一体、自分は何の夢にうなされていたのだろう?
ウィスパーレインが手を放す。
「少し熱がありますね。やはり、無理をなさっていたのでは……?」
「気にするな。……いや、気にするべきは私の方か。またフォリニックにどやされるかもしれないな」
膝の上のポップコーンボックスを見下ろす。中身はほとんど減っていない。ひとつつまんで口に入れるが、ポップコーンは味も歯ごたえもなく、あっという間に消えてしまった。
ウィスパーレインはしばらく不安そうな顔でドクターを見つめていたが、左隣へ腰を下ろした。
「なんの夢を見ていたのですか?」
「それが、覚えていないんだ。顔見知りと話していたような気はするが、それが誰なのか思い出せない……」
「そう、ですか……」
ウィスパーレインが口ごもる。目を伏せる彼女を見て、ドクターは失言に気が付いた。
ウィスパーレインの体は特殊で、致命傷を受けても再生できる。転生と言った方が近いだろうか。蘇った後、彼女の記憶は失われてしまうのだから。
その体質ゆえ、彼女は人と接することを好まない。大切な人との記憶を何もかも忘れて生き返る。それが何をもたらすか、ドクターはよく知っていた。
「す、すまない、そういうつもりじゃなかったんだ」
「ええ」
慌てるドクターの前で、ウィスパーレインは映画のパッケージを持ち出した。
“追憶列車”と書かれたそれが、今回見た映画の題名。指先でタイトルをなぞりながら、ウィスパーレインは小さく呟く。
「後には戻れず、進むだけ。それでも轍はそこにある。過去から道を示してくれる。……では、始発を繰り返すだけの車両は、何に導いてもらえば良いのでしょう? 脱線してしまった道は、誰が繋いでくれるのでしょう?」
映画の一節から引用したのか、それとも彼女の本心か。見過ごしてしまったドクターには、判然としない。
どちらにしても、言葉を返す資格などない。轍を知りつつ口を閉ざす者に囲まれ、途絶えた線路を手探りし、そのくせ見つけることを心のどこかで恐れてさえいる。そんなドクターが、どうしてウィスパーレインを慰められよう。
スクリーンにはエンドロールが流されている。知った名前はひとつもない。
陰鬱な曲を聞き流していると、右腕に何かが触れた。一緒に映画を見ていたクオーラが、頭を寄りかからせてきていた。抱えたポップコーンボックスはからっぽ。口の端からよだれを垂らし、幸せそうな寝顔を晒している。
「えへへ~……もう食べられないよぉ~……」
緩んだ寝言と裏腹に、クオーラの腹が元気に鳴いた。
その音はウィスパーレインの耳にも届いたらしい。ドクターは彼女と顔を見合わせ、顔をほころばせる。
「クオーラ、映画は終わったぞ」
「ふみゃあ~……う~ん……?」
クオーラは程なくして目を覚ます。
ぽけーっとした顔で、円を描くように頭を揺らし、不思議そうにあたりを見回すと、からっぽのポップコーンボックスを覗き込んだ。
「はれ? イベリアのデストレッツァは?」
「デストレッツァ……一体どんな夢を見ていたんだ?」
「えっとねー、ソーンズとエリジウムさんが一緒にいっぱいお料理する夢!」
ウィスパーレインは小さく笑って、エンドロールを打ち切った。プロジェクターの電源を消し、記録媒体を回収する。
「やはり、つまらない映画でしたね。ふたりとも眠ってしまうなんて」
「えっ!? い、いやいや面白かったよ! えーっと……ほら、主人公がさ……えっと、面白かったよ?」
羽獣のように腕を羽ばたかせて誤魔化そうとするクオーラに、ウィスパーレインは微笑んでみせる。
ドクターはクオーラの頭を撫でて、自分のポップコーンボックスを手渡す。
「夕食までまだ時間がある。腹の足しになるかはわからないが」
「えっ、いいの? じゃあもう一回見よ、もう一回! ボク、今度はちゃんと見るから!」
「だ、そうだ。どうする、ウィスパーレイン」
「いいですよ。違う映画にしましょうか」
そう言って、ウィスパーレインは壁際の収納棚へ向かった。
“追憶列車”を隙間に差し込み、別のものを探している間、耳にはドクターとクオーラのおしゃべりが聞こえてくる。
今晩のメニューはなんだとか、クロージャにポップコーンの味を増やしてもらおうだとか、明日は何をするのだとか。溌剌としたクオーラの声が、不思議とウィスパーレインの胸を弾ませる。
彼女は映画の半券を収めた手帳サイズのファイルを取り出し、したためたメモ書きを滑り込ませる。
しまいかけたところで、少し考えてから、メモ書きに新たな一文を書き加えた。
“できる限り線路は長く、華やかに”
そしてウィスパーレインはクオーラに催促されて映画を選び、見終わった後、三人で夕食を摂った。
ソーンズとエリジウムが作ったイベリア料理の味は、日記帳の一ページを埋めるほどの味わいがあった。