廊下を歩いていると、難しい顔をしたロスモンティスに出くわした。
なのでドクターは、休憩室でお茶でもしながら話を聞くことにした。
オレンジジュースをコップに注いでやりながら、珍しいこともあるものだ、とドクターは思う。
ロスモンティスはいつもぼんやりしているように見えて、実は様々なことを考えている。電子手帳に記した自分の記憶のことだとか、率いる小隊メンバーのことだとか、アーミヤへ贈るプレゼントだとか。
しかし、そのほとんどは表情に上らない。それについての是非はさておき、顔に出るほど悩むということを、ロスモンティスはあまりしないのだ。
「それで、何があった?」
「うん……」
コップを受け取ったロスモンティスは、澄んだ橙色を見つめて唸る。
根気よく待っていると、彼女はやがて困った上目遣いを向けてきた。
「……ぎゅって、された」
「ん?」
思わず首をかしげてしまった。
誰かに抱き締められた、ということだろうか。いや、それならなぜ困惑している? 普段はそういうことをしない人物にされたのか?
瞬時に湧き出した疑問を素早く整理する。改めて問いかけるより早く、ロスモンティスの口が動いた。
「知らない人……会ったら、ぎゅってされて……聞かれたの。“今、幸せ?”って」
「ふむ。君はなんて答えたんだ?」
「幸せだよって言った。アーミヤがいて、ドクターがいて、みんながいるから、幸せだよって。そしたらもう一回ぎゅってされた」
「……なるほど」
大体話が見えてきた。ついでに、犯人も見えてきた。ロスモンティスの知らない人、即ち最近入職したオペレーターで、そういうことをしそうな人物の心当たりはひとつしかない。
「ロスモンティス、君を抱きしめたのは、金の髪と金の瞳をしたザラックの女性じゃないか?」
「えっ……どうしてわかるの?」
「消去法だ」
とはいえ、確信があるわけではない。やるなら彼女だろう、と雰囲気や言動から予想がついただけ。もっと言えば、ロスモンティスになぜ幸せかどうか尋ねたのか……。
そちらも大方の予測はできる。できるが、それはもしかすると、ロスモンティスを傷つけかねない。
ドクターは浮かび上がった顔写真を心に押し込み、話題を逸らせた。
幸い、ロスモンティスは会話に応じ、だんだんと難しい顔も解きほぐされていく。あるいは、忘れ去っていく。
ちくりと胸が痛むのを感じる。なんだか、ロスモンティスの記憶障害を利用しているかのようで。過去は積み上がっても悩ましいが、失われても悩ましい。それを知っていながら彼女の疑問を誤魔化すのは、気が咎めた。
穏やかな午後のお喋りを終えてロスモンティスと別れたドクターは、エンジニア部へと足を向ける。
恐らく、犯人はまだそこにいるだろうと思っていたのだが、どうやらちょうど帰り支度をしていたらしい。
いい機会だ。ドクターは金の髪と丸みを帯びた耳を持つ女性に呼びかけた。
「ドロシー、少しいいか?」
「あら、ドクター。……どうしたの? なんだか怖い顔をしているけれど」
ドロシーは大きな耳を不安げに震わせる。
ドロシー・フランクス。ライン生命アーツ応用課の主任。そして、ローキャン・ウィリアムズの聴講生。
サリアから届いたメッセージが脳裏を過ぎる。
―――気を付けろ。ああいう人間は、『素晴らしい』理想のためならなんでもするものだ。
ドクターはしばし間を置いて、周囲を見回した。クロージャが野次馬根性丸出しの視線を向けてきている。仕方なく、ドクターは人気のない場所へドロシーを誘った。ロドスのブリッジ、荒野の夕日が良く見える場所に。
「急に呼び出してすまない。ひとつ、聞きたいことがあってな」
「私に答えられることなら、なんでも答えるわ。伝達物質のこと……ではないのよね。きっと全部、聞いているのだろうし」
「ロスモンティスのことだ」
そう告げると、ドロシーの表情が変化した。
切なそうな、安堵したような、そんな顔に。
「君は……あの子について何を知っている?」
「あの子のことなら、大体のことは。あの子の実験映像を見たことがあるから」
「…………」
ドクターは肩を強張らせる。
彼女が起こしたことの顛末は大方聞いている。彼女は善意で危うく莫大な被害を出しかけた。彼女自身の素晴らしい理想のために。
それを収束させたのもまた彼女であるが、それを知ってなお、油断はできない。
険しいドクターの眼差しを受けたドロシーは、少し悲しそうに微笑んだ。
「そんな顔をしないで、ドクター。私はあの子に何もしないから。ああ、でも……抱きしめはしたわね。一目見た時にそうしてあげたいって思ったの」
「ローキャンのことを、どう思っているんだ?」
「きっと、あなたと同じだと思うわ」
ローキャン・ウィリアムズ。ローキャン水槽の創設者。ロスモンティスをあんな風にした男。彼女のあるべき人生を奪ったマッドサイエンティスト。
そんな男にドクターが抱く感情は、唾棄と軽蔑。しかし、ドロシーはきっと違うだろう。短い付き合いだが、誰かを悪しざまに評する人物ではない。それぐらいはわかる。
ドロシーはじっとドクターを見つめ続ける。
「実験映像を見せられた時から、心配だったの。あの子が今どこで、どんな風に過ごしているのか。それがロドスに来て出会えるだなんてね。幸せそうで、嬉しいわ」
「……そうか。私の杞憂ならいいんだ」
ドクターは目を逸らし、夕焼けを見やった。荒野に沈みかける橙色の天体は揺らめき、陽炎のように滲んだ輪郭は泣いているかのようだ。
「大切にしているのね。あの子のこと……いえ、きっとロドスの他の子たちのことも」
「サリアからは、甘すぎると言われるが。君もそう思うか?」
「いいえ、私は子供たちに優しいあなたが好きよ。サリアは……厳しい研鑽と自己管理の末にあそこまで至った人だから、注意するのかもしれないけれど」
ふたりは並んで、荒野の夕日を眺める。そういえば、ケルシーと同じように夕日を見たのは、一体いつのことだっただろうか。
同じか。黒い煙のような気持ちが一握り、胸の中に湧いた。自分の見ている夕日は、相手の見ている夕日と同じものなのだろうか。共に同じものを眺める時、同じことを感じられるのだろうか。同じ道を、共に歩いていると言えるのだろうか。
確かめたければ、言葉に出してみるほかない。真実が返ってくるとは限らなくとも。
「ロスモンティスも、アーミヤも、私にとっては娘のようなものだ。幸せになってほしい。辛い想いはしてほしくない」
「……ええ」
「私たちの歩む道は果ての無い荒野の開拓と似ている。先は見えず、明るい未来があるとも限らない。ドロシー、君が万人の幸福のために研究をしていることは知っているが……」
「また359基地のようなことを引き起こすなら、許してはおけない、でしょう。安心して。私はこの艦を……開拓者たちの家を、壊したくはないから」
ドクターは目を閉じると、ブリッジを去る。
何も言わない後ろ姿を眺めたドロシーは満足げな笑みを浮かべて全身に熱い夕日を浴びた。
荒野を開拓する艦船。共に在る人々を愛する研究者。本気でロスモンティスを思いやり、対立も辞さない態度をとるドクターに対し、ドロシーは強いシンパシーを感じていた。
それと同時に……不思議なことだが、ロスモンティスを前にしたときと同じ印象を抱いてもいる。精緻で儚い硝子細工のように、そっと両手で包み込み、大事に守りたくなる。そんな感覚。
己の理想を崩壊させた、あの瞬間を思い出す。未来はそれぞれのものだ。縛り付けることはできない。
しかし、支えてあげることはできるはず。いつか壊れてしまわないように、柔らかく支えてあげる程度のことは。
「あなたは……わかってくれる、ドクター? 私たち、きっと良いパートナーになれると思うのだけど」
答える声は、既になかった。