「ふたりとも……」
ドクターはたまりかねて口を開いた。頭が痛い。理由は肩凝りだけではなかった。
ここはロドス艦内、ドクターの執務室。いつも通りの書類の山と、いつもと違って酒の匂いがわだかまる場所。
酒の匂いの出所は、ソファベッドからだった。
「ここで酒盛りするのはやめてくれ……せめてバーか自分の部屋で……」
「かてぇこと言うなよ、ドクター」
「そうだぜー? せっかく美味い酒があるんだ、アンタも仕事は一旦置いといて、一杯飲めばいいじゃねえか」
ソファベッドを我が物顔で占拠するふたりがグラスを掲げた。ニェンとイーサン。ふたりの間には大きなどんぶりが置かれ、中にはつまみが山のように盛りつけられている。
ドクターはため息交じりに次の書類を手に取った。見れば、それはボードゲームのルールシートだ。ニェンが混ぜたに違いない。現に彼女はニヤニヤと笑いながら、ソファのひじ掛けに置いた箱をつついている。
ドクターは目頭を押さえた。
「私はまだ仕事があるから、また後で。とりあえずアルコールの匂いをなんとかしてくれ。子どもたちが来たらどうする」
「味見させるか?」
「やめろ」
「冗談だっての」
ドクターにひと睨みされ、ニェンは唇を尖らせる。匂いの強い果実酒を口に含んで、ニェンはドクターの卓上を見つめた。
「けどなードクター。後で後でって言っておきながら、その“後で”が来たところ、私は一回も見たことがねえんだよな」
「そんなことは……」
「あるね」
ニェンはグラスの中身を一気に飲み干し、どんぶりのつまみを掴み取りした。
炎国の由来のジャンクフードをボリボリと食べながら、不満そうに言う。
「私は何度もオメーの仕事手伝ってやってるってのに、オメーは私の酒にも鍋にも付き合ってくれねーじゃねーか。不公平だよなぁ?」
これにはドクターも黙らざるを得なかった。
思えば、ニェンとの関わりはそれほど多くない。彼女から色々な誘いを受けたことはあるが、多忙ゆえにすべて断っていた(ただし、火鍋は意図的に避けていた。ニェンはしょっちゅう、香辛料を入れ過ぎる)。
暇ができた時は、できる限りオペレーターと関わるようにはしているものの、間が悪いのか、ニェンと会うことは無かったのである。
不公平、と言われれば確かにそうだ。ドクターはしばし悩んだ末に、肩を落とした。
「……わかった、一杯もらおう」
「ぃよっし、決まりだな! じゃあドクター、こっち来いよ! 一緒に飲もうぜ!」
「いや、仕事があるからここで飲む。それと、一杯だけだ」
「えー、なんだよー!」
ニェンが子どものように抗議する。それを諫めたのはイーサンだった。
「まぁ待てよ、ドクターがうっかり酔っぱらって、大事な書類に変なこと書いてみろ。オレたちが怒られちまうし、もうここで酒盛りできなくなるかもしれないぜ?」
「けどよー……」
食い下がろうとするニェンに、何事か耳打ちをするイーサン。ドクターはそんな彼に、丸くした目を向けていた。
まさか、イーサンが止めに入るとは。むしろ厨房からつまめるものをくすねて来て、場をさらに盛り上げるのかと思っていたが。
囁き終わったニェンは、何やら疑わしそうな表情を浮かべていたが、不承不承といった風にボトルを明け渡した。ボトルを受け取ったイーサンは新しいグラスに酒を注いでドクターの卓に置く。花畑に来たかのように、香りが大きく広がった。
ドクターはマスクを下ろし、匂いを嗅いだ。
「……すごい香りだな。どこの酒だ?」
「炎国じゃねえか? ニェンの姉ちゃんの……」
「リィン?」
「そう、それだ。リィンって姉ちゃんが持ってきた酒だからよ」
「そうか、リィンが……」
ひと口飲むと、強い甘みが流れ込んできた。少し遅れて酸味が舌を刺激する。少し強いが、いい酒だった。仕事中なのが惜しくなるぐらいに。
イーサンが差し出してくるつまみを食べながら、もうひと口酒を飲む。次の書類に目を通しつつ、リィンについて思いを馳せた。彼女はニェン同様無職だが、ニェン以上に自由人だ。どこにいるやら、よくわからない。
書類にサインし、酒とつまみを口にする。さざ波のように消えていく酒の味を、ぴりりと辛い乾きもので上書きし、それを酒で洗い流す。不思議と書類を書く手が進む。ペンを動かす片手間にグラスを手を伸ばす―――と、手のひらに尖った形をした、何かやわらかいものが触れた。
「ドクターさん?」
「ん……?」
手に触れたものを見ると、それは左右に伸びた耳の片方。耳のあるじは、スズランだった。
スズランはドクターの顔をじっと見つめ、鼻を鳴らした。ドクターはペンを置く。
「すまない、スズラン。気付かなかった。どうかしたのか」
「ドクターさん、風邪ですか? お顔が赤くなってますけど……」
「え?」
ドクターは自分の頬に手を触れた。燃えるように熱い。風邪……? 否。
ハッと気づいたその時、ドクターは軽々と持ち上げられた。ニェンの仕業だ。
「悪ぃな! ドクターはちょっと忙しくってな!」
「今日は店じまいだ! また明日な!」
「え?」
ニェンが当惑するドクターを、イーサンが酒とつまみを持って執務室から飛び出した。
何が起こったのかわからぬまま瞬きをするドクターに、ニェンが笑いながら言った。
「ダメじゃねえかドクター! ガキんちょの前で酒飲んだらよ!」
「お子様にゃ早ぇからな。場所を変えて飲み直そうぜ」
その瞬間、ドクターの頭がスパークした。仕事に気を取られていたせいで、気付かぬうちに繰り返していた酒とつまみのループ。度の強い酒。
「わ、私を嵌めたな!? まさかこのためにスズランを呼びつけたのか!?」
「なんのことだかわからねぇなー?」
「オメーだろ? ガキの前で酒飲んだらダメって言ってたの! さあ大人の時間だぜ!」
「ま、待て……!」
ドクターの制止も虚しく、ふたりはロドスのバーに飛び込んでいく。
当然、すぐに抜け出そうとしたが、ホシグマやエクシアたちが待ち構えていたせいで、逃げられない雰囲気になってしまい―――。
ドクターは翌日、二日酔いに痛む頭でケルシーに叱られる羽目になったのだった。