ダービーの翌日、私はトウカイテイオーを病院に連れて来ていた。
トウカイテイオーは病院があまり好きではないようだが、レースとライブはウマ娘にとって過酷なモノである以上、レース後の検診は欠かせない。
───それに、今回は嫌な予感もしている。
脚を中心に診察とレントゲン検査などを受けさせ、私とトウカイテイオーは結果を聞くために、診察室へと入った。
「検査って、ホントにイヤなんだよねー……どうせ何も無いんだし、やらなくて良いじゃん」
「そうは行かないよ。身体のケアは大切にしなければならないからね。もし何か問題が発生していても、本人がそれに気づかずに普段通りのトレーニングなどを行ってしまうと、更なる悪化を招くことにもつながりかねない。
───最悪の場合、競走能力を失うこともある」
トウカイテイオーは「そりゃそうだけど」と言いつつ、やはり嫌なモノは嫌であるらしい。まあ、必要性と個人の好みは別の問題だ。
文句を言いつつもトウカイテイオーはちゃんと受けてくれているので、私としてはそれで良い。
「トウカイテイオーさん」
「何ー?」
名前を呼ばれて、トウカイテイオーは医師の方に向く。
医師はホワイトボードに貼られたレントゲン写真と手元のカルテを見つつ、診断を告げた。
「
「へ?」
トウカイテイオーの口から、間抜けな声が出る。
いや、それは私も同じ気持ちだ。……気のせい、であってほしかったが。
「左脚、根骨の骨折です。恐らくはレース中のモノでしょう。違和感を感じてはいませんでしたか?」
「────ッ」
トウカイテイオーの顔からは笑顔が消え、彼女は俯いて押し黙った。ライブの時も、明らかに脚は上がっていなかったのだ。痛みは無かったかもしれないが、違和感に気づいていなかったハズが無い。
──私の責任だ。レース後、ライブまでに彼女と会う機会があったにも関わらず、ライブパフォーマンスを見るまで、彼女の異常に気づけなかった。ライブを免除させておけば、診断は違っていたかもしれない。
「全治6ヶ月。競走能力を喪失するほどではありませんが、レースへの復帰は来年の春になるでしょう」
「春、って──それじゃ、菊花賞はどうなるの!?」
医師は目を伏せ、無言で首を横に振った。
菊花賞は6ヶ月後。全治6ヶ月ということは、骨折が治るか治らないかという時期だ。
そこから療養で衰えた身体を鍛え直すことも勘案すると、レース復帰は来年の春という結論に至るのは至極当然のことだろう。
「まずは入院して下さい。様子を見ながら治療をして行きます」
「入院!? ヤダ! ヤダヤダヤダヤダヤダ!!」
脚をジタバタさせて拒否の意思を示すトウカイテイオー。
とても折れているようには見えないが、ホワイトボードに貼られたレントゲン写真に写ったトウカイテイオーの脚の骨には、確かにヒビが入っていることが見て取れた。
「気持ちは分かりますが、今は怪我を治療することだけを考えて下さい。ここで引退をしたくないのであれば。
──待合室で少しお待ち下さい。今、部屋を用意させているところですから」
トウカイテイオーを連れ、私は診察室を後にした。
待合室につながる廊下を歩きながら、私はトウカイテイオーに言う。
「……すまない、トウカイテイオー」
「なんで、トレーナーが謝るの?」
トレーニングのやり方次第で防げたかもしれない。
レース直後に気づけていれば、悪化を防いで治療期間はもっと短くなったかもしれない。
「私の責任だ。無事にレースに出られなければ、意味が無いというのに───」
「ねぇ、トレーナー。ボクは諦めないよ」
──足を止め、トウカイテイオーに視線を向ける。
「諦めない」というトウカイテイオーの眼は、いつも通りの澄んだ青色で、そこには確固たる意志が宿っていた。
「怪我の1つや2つ、何だって言うのさ。カイチョーだって何度も怪我を乗り越えて、七冠ウマ娘になったんだもん。こんな怪我なんかで、夢を諦めたりしない──ううん、諦めるわけにはいかない。
3ヶ月で治して2ヶ月トレーニングすれば、菊花賞には出られる。そうでしょ?」
無茶だ、と思った。そんなこと、果たしてできるのだろうかとも。
だが、トウカイテイオーは本気で言っている。当然だ。彼女は「無敗の三冠ウマ娘」になるために、トゥインクル・シリーズを走っている。そして、今それに王手をかけている。
──そうだ。怪我がどうした。その程度で諦められるほど、トウカイテイオーの夢は軽いモノじゃない。
「だから協力して、トレーナー。
ボクは無敗の三冠ウマ娘になるんだから。絶対に」
「……ああ。勿論だ。喜んで、全力で協力するよ。
私は君のトレーナーとして、君の夢を支えるのが仕事なのだからな」
後6ヶ月。長いと思っていたが、今になっては短すぎる。猶予は僅かしかないが、やれることは全てやってみなければ。
しかし──夢は大事だが、それ以上に大事なモノもある。トレーナーとして、そこだけは間違えるわけにはいかない。
「だが──一つ、約束してくれないか。
直前までやれることは全てやる。だが、ドクターストップを受けた状態では、出走は認めてもらえない。
最後の最後、医者に止められた時は菊花賞への出走を諦め、来年の春──シニア級での復帰を目指すと」
例え、仮に万が一「無敗の三冠」を達成できなかったとしても、彼女の能力に疑いの余地は無い。
シニア級以降にも芝中長距離、俗に「王道路線」と呼ばれる舞台にはGⅠレースが多く存在する。彼女が輝ける舞台はそこにもある。
菊花賞を逃したとしても、彼女はその後、多くのシニア級GⅠを勝てるだろう。
ドクターストップを押し切って無理矢理菊花賞に出走して、彼女の競走能力が失われるような事態になることは避けなければならない。そこで事故などが起きたりしては、目も当てられないことになる。
トゥインクル・シリーズで何より優先されるのは、ウマ娘の安全──そして、ウマ娘の将来である。
「……分かった。約束する」
「ありがとう、トウカイテイオー。
まずは怪我を治すことだ。最速で治したいなら、医者の言うことには従おう」
うん、とトウカイテイオーは頷いた。
───既に、菊花賞に向けた戦いは始まっている。
◇
トウカイテイオー骨折、全治6ヶ月の報はダービーから3日後に発表され、全国のスポーツ新聞の一面を埋め尽くした。
トレーナーであるマクギリスも批判を少なからず受けていたが、当の本人にとってそんなことはどうでも良かった。
マクギリスが今考えるのは、トウカイテイオーの全治の期間を如何に短くするかと、復帰に向けたトレーニングプランをどうするかということだけ。
(まずは全治6ヶ月を半分には縮めたい。病院に手を回し、骨を作る栄養素を多めに取れる食事は用意させているが、それ以上に手を打つ必要があろう。
──それに、全治6ヶ月というのはあくまでこの世界、この時代の医療技術の限界でしかない)
マクギリスの脳裏には、彼が元いた世界、元いた時代のことが思い出されていた。
この西暦の時代と比べて、マクギリスが生きていたPost.Disaster.320年代の医療技術は格段に優れているモノだった。あの時代の医療技術があれば、あの程度の骨折を治療するのに半月とかからない。
(……分かっている。あくまで無い物ねだりでしかないと。それに私は、医者でも何でもない。
だが──
マクギリスは彼の腹心である石動・カミーチェを呼び出し、とんだ無理難題と分かっていながらも、頼みを口にした。
「ギャラルホルンで使っていた、医療ポッドを用意してほしい。メチャクチャなことを言っていることは承知の上だが──」
「了解致しました。確約はしかねますが、全力を尽くします」
「──すまない。頼んだぞ、石動」
石動は足早にマクギリスのトレーナー室を去って行く。それからマクギリスは学園内の図書館から片っ端から持って来た書籍に目を向けた。
全てが医療やトレーニングに関すること。専門書から果ては小説、神話に関するモノまである。何か少しでも良い方法が無いか、またその手がかりは無いかと思い、持って来たモノだ。
「始めるか。───タイムリミットは、5ヶ月」
マクギリスは100冊近い本の山から1冊を手に取り、表紙を開くのだった。
◇
「…………ヒマだなぁ」
病室に押し込まれてから3日。
脚に包帯とギプスを巻かれたトウカイテイオーは、ベッドの上でとにかく暇を持て余していた。
彼女がトレーナーに持って来てもらったマンガなどはあらかた読み終わってしまったし、テレビも面白い番組は特に何もやっていない。
個室なので話をする相手もいない。
マンガついでにトレーナーがオススメして来た何かよく分からない英語タイトルの活字本(中身はちゃんと日本語だった)を何となく読み始めるくらいには、トウカイテイオーは暇だった。
「──何これ。SF?」
ちなみにその本のタイトルは「THE LIFE OF AGNIKA KAIERU」。
トウカイテイオーのトレーナーことマクギリス・ファリドが憧憬する英雄アグニカ・カイエルについての本なのだが──現代日本を生きるトウカイテイオーからすると凝ったSF、ファンタジー小説でしかないのであった。
「トレーナーってこういうのが好きなのかぁ……」
トウカイテイオーから見ると、マクギリスは時々よく分からないことを言うエリートトレーナーなので、オススメ本がSFモノだったことはちょっと意外な事実である。
暇つぶしくらいにはなりそうかなー、というノリでページを捲っていると、病室のドアが叩かれる音がした。
「どうぞー」
一応、今開いているページに栞を挟んで本を閉じつつ、トウカイテイオーはノックに返事をする。
すると、彼女のクラスメイトであるふわふわツインテールの少女が部屋に入って来た。
「おいっすー。具合はどう、テイオー」
「テイオー! 大丈夫なのかテイオー!?」
「ネイチャ! それと──トリプルブースター?」
「ツインターボ! なんか増えてるじゃん!」
果物が入ったカゴを持ったナイスネイチャに続き、ツインターボも病室に飛び込んで来る。ちょっと恒例になり始めたやり取りを笑顔で見守りつつ、ナイスネイチャはベッドの近くの丸椅子に腰掛けた。
「あー、その……全治6ヶ月って、マジなの?」
「医者にはそう言われたけどね。でも、ボクは菊花賞に出るよ」
「ホント!? テイオー、菊花賞出られるの!?」
「ボクは出るつもりだよ。こんな怪我くらいで、夢を諦めるわけにはいかないじゃん」
ツインターボの問いに、トウカイテイオーは自分の脚を見据えながら確固たる決意を口にした。
それを聞いて、ナイスネイチャは口元を引き結ぶ。
「───そっか。テイオーはまだ、諦めてないんだ」
「もちろん。ボクは『無敗の三冠ウマ娘』になるよ。トレーナーも菊花賞を目指して、一緒に頑張ろうって言ってくれてるし」
すると、ナイスネイチャは自分の膝の上に置いた手を握りしめた。──彼女の中で、とある決意が固まったのである。
「……テイオー。アタシも、菊花賞に出る」
「ネイチャ?」
「7月には復帰する予定なんだ。夏の間に勝ち上がって、トライアルも勝って、菊花賞に出てみせる。
だからアンタも絶対、絶対に帰って来て。アタシ、待ってるから」
真っ直ぐにトウカイテイオーを見て、ナイスネイチャは自分の決意を口にする。
トウカイテイオーは少し驚いたようだったが、勝ち気な笑顔で頷き返した。
「ターボも! ターボも菊花賞出る!」
「じゃあ、ターボも次のレース勝たないとね」
「うん! 絶対勝つから! 待ってろテイオー!」
それを見ていたツインターボも決意を新たにする。
──「ターボが菊花賞に出たら距離ヤバくない?」とナイスネイチャは一瞬思ったが、そもそも菊花賞はクラシック級のウマ娘の誰にとっても未知の距離か、と思い直した。
自分も菊花賞に出るとは言ったが、長距離適性があるかなんて分からないのだ。
勿論、長距離適性があるか分からないのは「無敗の二冠ウマ娘」であるトウカイテイオーとて同じ。
トウカイテイオーが菊花賞に間に合ったとしても、距離不安に加えて怪我からの復帰初戦、という条件が更に追加される。ダービーを圧勝したとはいえ、トウカイテイオーは厳しい戦いを強いられるだろう。
それでも、トウカイテイオーはやると言った。
だったら自分もウマ娘として、指をくわえて見ているわけにはいかない──と、ナイスネイチャは感じたのである。
ウマ娘たちは、誰もが夢を持って走っている。
叶えられる者もいれば、叶えられない者もいるが──夢を叶えるためには、全力を尽くさなければならない。
◇
オルガ・イツカが夜な夜なトレーニングをするミホノブルボンを見守るようになって、数週間が経過していた。
今日も今日とて、オルガは自主トレに励むミホノブルボンの様子を見るべく、トラックコースに足を運んだのだが───
「貴様か。私が担当するミホノブルボンに、勝手にトレーニングをつけさせている不届き者というのは」
──そこにいたのは、ミホノブルボンだけではなかった。
ミホノブルボンが所属する、ラスタル・エリオンのチームのサブトレーナーであり、ミホノブルボンの担当となっているイオク・クジャン。彼が腕を組み、気をつけをするミホノブルボンの前に立っていた。
「……俺に用があるなら、最初から俺のところに来い。ミホノブルボンを見てるのは、俺が勝手にやってることだ。ミホノブルボンを巻き込んでるんじゃねぇよ」
「そうはいかないな。私に何の断りも無くトレーニングをしているばかりか、そこで勝手に別のトレーナーから指導を受けていたのだ。彼女にも責任はある。
ラスタル様のチームに自分から志願して入っておきながら、全く別のトレーナーの指導を受けるなど言語道断。叱責の一つも受けるのは至極当然のことだ」
イオクに腹を立てつつも、その言い分は全く的外れなモノではない──むしろその逆、正当なモノだということはオルガにも分かっている。
要するに「筋が通らない」とイオクは言っている。
確かに、既にトレーナーがついているウマ娘のトレーニングを勝手に見ていたことはオルガに非がある。そのオルガの助言(指導とも取れる)を勝手に受けていた上、そもそも勝手にトレーニングを追加で行っていたミホノブルボンも同様だと言えなくもない。
「分かっているハズだ、ミホノブルボン。
トレーニングメニューというのは全て計算されて組まれている。その全てが、お前をレースに勝たせるためのモノだ。お前が勝手にトレーニングを追加したりすれば、その計算がズレて想定される通りの結果は表れない。
ましてや、既にチームに所属している以上、他のトレーナーから指導を受けるなど以ての外だ」
「──しかし、私の自主トレーニングはクラシック三冠達成というオペレーションを遂行するために必要なモノを、追加で行っているに過ぎません」
「まだそれを言うか!」
ミホノブルボンの反論を、イオクは声のボリュームを上げて封殺した。
「オイ……!」
「ラスタル様は、お前にはスプリンターとしての類まれなる才能があると見込んでおられる。お前ならば海外GⅠの制覇さえも夢ではないと。
我々のチームを希望し、所属した以上はチームの方針に従ってもらわなければ──」
「オイ、ちょっと待て!」
オルガも声を張り上げ、イオクに異を唱える。
ミホノブルボンの前で言い争いなどしたくはなかったが、このまま好き勝手言わせておくべきではないとオルガは感じていた。
「何だ。これは我々のチームの問題だ。外野は黙っていてもらおう」
「黙ってられるか。ミホノブルボンは、クラシック三冠が夢なんだ。彼女がそう望むんだから、挑戦くらいさせてやっても良いんじゃないのか。挑むことすらさせずに夢を諦めさせるなんて、絶対に間違ってる」
「彼女にクラシックを、3000メートルを走る才能は無い。春の模擬レースを見たなら分かっているハズだ。
春には彼女の希望通り、模擬レース最長距離の1600メートルに出走させた。しかし彼女は後半明らかに息切れを起こし、失速していた。ミホノブルボンに長距離をこなすスタミナは無い。
その代わりに、彼女には圧倒的なスピードがある。このスピードを短距離で生かさない手は無い。それがラスタル様の結論なのだ」
──ラスタルチームの結論は、勿論オルガにも理解できる。理屈は分かるのだが、やはり何度聞いてもオルガには納得できない。
「スタミナはトレーニングでカバーできるハズだ! ミホノブルボンは、生半可な気持ちで『クラシック三冠』なんて言葉を口にしてるわけじゃねぇ! その夢を軽んじるべきじゃねぇだろって言ってるんだ!」
イオクは眉をひそめ、オルガから視線を外してミホノブルボンの方も見る。ミホノブルボンは直立したまま、しかし目は「お願いします」と訴えていた。
「……クラシックの重みは私にも理解できる。三冠は私も目指すべきものだと思っているさ。
だが、短距離GⅠもクラシックGⅠも、同じGⅠであることに変わりはない。得られるモノは同じだ。短距離GⅠの何が不満だと言うのだ?」
──これも、確かに正しいことだ。
この日本においては、中距離GⅠの方が短距離GⅠよりも価値が高いかもしれない。事実、数も中距離GⅠの方が短距離GⅠよりも多く、中長距離GⅠは「王道路線」と呼ばれ整備されている。
だが、例えばオーストラリアや香港では短距離こそが中心になりつつある。ヨーロッパでも短距離路線には中距離路線と同じように、数多くのGⅠが存在している。
同じGⅠである以上、短距離も中距離も格は同じ。……もっとも、距離に関係無く、歴史など様々な要因によってレースの価値は違って来ることもあるのだが。
「──それでも、クラシック三冠だけは譲れません。
マスター。どうか私を、クラシック三冠に挑ませて下さい。まずは皐月賞、その前のトライアルレースで結果を出してみせます」
「……そんなに言うのなら、今すぐ見せてもらおうか」
譲らないミホノブルボンの言葉を受け、イオクはトラックコースを指差した。
「芝の3000メートルを今すぐ走ってみせろ。走れると言うなら、もう文句は言わない。ラスタル様にも私から進言しよう」
「な───」
「承知しました」
「──って、オイ待て!」
オルガが止める間もなく、ミホノブルボンは颯爽とスタートした。
イオクも少し遅れてストップウォッチを取り出し、タイムを計測し始めたが──オルガはミホノブルボンのスタートダッシュを見ただけで、「無茶だ」と直感する。
まだ長距離のペースで走るトレーニングはしていない。ミホノブルボンはいつも通りのペースで飛ばしているが、アレでは絶対に最後まで持たない。
そして、オルガの読み通り──ミホノブルボンは1600メートルを越えた辺りから、息を乱し始めた。
2000メートルの地点で既に肩で息をしていて、そこから更に500メートルも進むと、真っ直ぐ走ることすら困難になっていた。
3000メートルを走り切る頃、ミホノブルボンはもう走っているとは言えないスピードになっていた。
フラフラと半ば歩くように、ゴール地点へと何とかたどり着く。タイムも当然、菊花賞の平均タイムなどとは比べるべくもない。
「これで分かっただろう。お前にとって、クラシック三冠など無謀な挑戦だと」
「ッ、何適当なこと言ってやがる……! 例え長距離適性のあるウマ娘でも、ジュニア級のこの時期に3000メートルなんて走れるわけがねぇだろうが……!」
「いいや。いくらジュニア級とはいえ、1600メートルの時点で呼吸を乱すようでは、1年半後の菊花賞で勝つことなど不可能だ」
堂々と言い放つイオクに、オルガが突っかかる。
胸糞を掴み上げようとするオルガの手がイオクの首元に伸びかけるが、その手は横から掴まれて制止させられた。
「ミホノブルボンの様子を見に来たつもりだったが──ひとまず落ち着きたまえ、オルガ・イツカ」
「テメェは……ラスタル・エリオンか!」
オルガの手を掴んだのはラスタル・エリオン。
ラスタルはオルガが一歩退くのに合わせてオルガの手を離し、イオクとオルガの間に割り込んだ。
「トレーナー同士で言い合っていても埒が明かんだろう。お互いに頭を冷やすことだ。
ミホノブルボン。君はどうしたいかを聞かせてもらおう」
そして、ラスタルは微笑を浮かべたまま、ミホノブルボンに問う。
「3000メートルの辛さ、過酷さは体感したハズだ。現時点の君は、菊花賞に出たところで間違い無くビリになるだろう。君は長距離に向いていない。
その上でどうしたいか──君の気持ちを聞こう」
「私の、気持ち……ですか」
ミホノブルボンは息を整えながら、胸に手を当てて考え込む。それから、少し戸惑うような表情を見せたが、確固たる意志を持って答えた。
「困難な道のりであっても、三冠達成という目標は変更不可能です。お願いします、マスター」
「……俺からも頼みてぇ。適性距離で走らせて結果を出させることがウマ娘のためになることで、アンタらがミホノブルボンに短距離路線を勧めるのも、そういうことだって分かってる。
分かってるが──それでもミホノブルボンに、夢を追わせてやってくれねぇか。夢を諦めることが、ウマ娘のためになることだとは、俺には思えねぇ」
三冠という目標を堅持し、頭を下げるミホノブルボン。それに合わせて、オルガも頭を下げた。
ラスタルは顎髭を片手で撫で、少し考える素振りを見せたが──間を置かず、アッサリとこう言った。
「良いだろう。そうしたいというなら、好きにしろ」
「な、ラスタル様!? しかし───」
「ただし、だ」
そうするからには
「ミホノブルボン。自ら希望して私のチームに入って来たにも関わらず、その方針に従わないと言うなら、我々は君の面倒をこれ以上見ることはできない。
今日限りで、私のチームからは抜けてもらう」
「───承知、しました」
ラスタルの言葉を重々しく受け止め、ミホノブルボンは頷いた。
それからラスタルはオルガに目線を向け、言う。
「自分の言葉には責任を持て、オルガ・イツカ。
有望なウマ娘を担当するからには、生半可な結果でミホノブルボンの才能を埋もれさせることは許さん。
皐月賞トライアルまでに中距離レースで結果を出せなかったならば、短距離路線にシフトさせろ。そこが修正の効くギリギリのタイミングだからな。
半端な成績のまま彼女にこの学園を去らせるようならば、貴様にトレーナーの資格は無い。もしそうなった時は、貴様もこの学園から去れ」
「……分かった。それで良い」
オルガが頷いたことを確認すると、ラスタルはその肩を一度叩き、踵を返した。
そして、ミホノブルボンに背を向けたまま、イオクに声をかけて歩き出す。
「イオク、肉を食って帰るぞ」
「な、い、良いんですかラスタル様!」
「好きにさせておけ。───トレーニングでスタミナをどれだけカバーできるのか、興味深く見させてもらうことにしよう」
ラスタルの背を追って、イオクもトラックコースを後にした。
トラックコースに残されたのは、オルガとミホノブルボンの二人だけとなった。
「──マスターの喪失により、『戸惑い』が発生中。
私が3000メートルをマトモに走り切れなかったことは事実です。チームを抜けさせられた今、レースに出ることも出来なくなりました。
私の選択は、本当に正しかったのでしょうか……」
自信なさげに呟くミホノブルボン。
機械のような奴でも、こういうところもあるんだなとオルガは思う。
「なあ。……俺にこれからも、トレーニングを見させてくれねぇか。
大丈夫だ、今年デビューするとしても、まだ来年の菊花賞までは1年以上あるんだ。ここ数週間のトレーニングで1600メートルまでは行けるようになったんだから、1年もあれば後1400メートル延ばすのもどうにかなるだろ」
言っていて「ホントか?」と思うところもあるが、ミホノブルボンはここ数週間の夜間トレーニングで安定して1600メートルを走れるようになったし、何とかなるだろ──とオルガは考えていた。
ミホノブルボンに、夢を諦めさせるわけにはいかない。夢を叶えるために挑戦すれば、例え達成できなかったとしても、後悔はしないハズだ。
「──ラップタイムの考え方を私に教えたのは、貴方です。貴方となら、三冠という目標も達成できるのではないかと、私は感じています。
よろしくお願いします、マスター」
ミホノブルボンは、何かを思い出すような仕草を見せつつも、右手をオルガに差し出す。
オルガは「マスターはやめてくれ」と言いつつ、ミホノブルボンの右手を握り返した。
「俺こそよろしく頼む、ブルボン」
次走「それぞれのデビュー戦」