コース沿いの桜が満開の花を咲かせる、春の阪神レース場。
10ヶ月以上の休養を経て、久しぶりにターフの上に立ったトウカイテイオーは一度深く深呼吸をして、自信に満ち溢れた笑顔を浮かべた。
無敗の二冠ウマ娘、トウカイテイオーが復帰戦に選んだのはGⅡ「産経大阪杯」。
阪神芝2000メートルを舞台に行われる、シニア級の中距離重賞。そして何より、GⅠ「天皇賞(春)」へと繋がる一戦でもある。
(……よし)
ウォーミングアップとして軽く、仁川の芝の上を走ってみたトウカイテイオーは、満足げに頷いてゆっくりと止まった。
トウカイテイオーが軽やかに走る姿を見た観客たちは、早くもスタンドから歓声と拍手を上げている。
「戻って来てくれて嬉しいぞ、トウカイテイオー。
ちょうど1年ほど前の──皐月賞の借りを今日、返させてもらう」
スタンドへ軽く手を振るトウカイテイオーにそう告げたのは、彼女と同世代のGⅠウマ娘、イブキマイカグラ。
黄色と赤の勝負服を身に纏った彼女も、去年の菊花賞以来の復帰戦として、この産経大阪杯を選んでいた。
「悪いけど、負ける気は無いよ。ボクはマックイーンを倒さなきゃいけないんだ」
「知っているさ。世間はすっかりお主とメジロマックイーンの対決で持ち切りだが──天皇賞でお主たちを後ろから抜き去るのは僕だからな。
手始めに、お主の『無敗』の称号を返上して貰わねば」
視線をぶつけて火花を散らし、トウカイテイオーとイブキマイカグラは互いの健闘を祈る意味を込め、握手を交わす。
(メジロマックイーンが出て来る阪神大賞典よりはマシだと考えたが──流石はGⅡというべきか。こちらも良いメンバーが揃ったな)
その様子を見守りつつ、マクギリス・ファリドはターフに散らばる他のウマ娘たちにも目をやった。
今日、トウカイテイオーの前に立ちはだかるのは、イブキマイカグラだけではない。
昨年、この産経大阪杯を制した芦毛のウマ娘、ホワイトストーン。
メジロマックイーンを破り、年末のグランプリGⅠ「有馬記念」の覇者となったダイユウサク。
その他にも、連勝中のウマ娘や重賞勝ちのあるウマ娘が出走して来ている。
天皇賞(春)のために、トウカイテイオーの目標のために負けられないレースだが、トウカイテイオーにとっては別世代のウマ娘と一緒に走るのは初めてということもある。そう簡単には行かないだろう。
「初めまして、トウカイテイオー」
スタート地点に着いたトウカイテイオーに、話しかけるウマ娘が1人。
明るい栗毛の髪を肩で真っ直ぐ切り揃え、額に白い流星を持ち、銀色の鋭い目の上に大きな丸縁の眼鏡をかけて、緑をメインにする勝負服に身を包んでいる。
「キミは───」
「イクノディクタスです。今日はよろしくお願いします。
貴女と一緒に走ることを楽しみにしていました。勉強させて頂きたいと思います」
眼鏡を片手で直しつつ、重賞勝ちもあるウマ娘イクノディクタスは、鋭い視線をトウカイテイオーに向けて来る。
彼女だけではない──他の出走ウマ娘から注目されていることを、トウカイテイオーは肌で感じ取っていた。
「……いよいよですか、テイオー」
メジロの豪邸の一室。ソファーに座り、テレビの画面越しに中継映像を見ているメジロマックイーンも、トウカイテイオーの姿が映るたびに表情を強張らせている。
トウカイテイオーの一挙手一投足が気になる、といった様子だ。
「───マックイーン、やっぱり現地に行った方が良かったんじゃない? 応援しに来たと思われては癪ですもの、なんて強情張らずにさ」
「ご、強情なんて張っていませんわ!」
少し緊張しているようなメジロマックイーンに、横からメジロライアンがからかうように言った。
メジロマックイーンはずっと「テイオーのことなど気にしていませんわ」という言動をしているが、実はメチャクチャ意識しまくっていることをメジロライアンは知っている。
『ターフに帰って来たトウカイテイオーを歓迎するかのように、柔らかい春の日差しがいっぱい。
そして満開の桜、阪神レース場です。
今日のメインレースはGⅡ「産経大阪杯」──出走人数は8人と少人数ながら、その内の3人がGⅠウマ娘。非常に豪華なメンバーが集結致しました。
解説はお馴染み、細江純子さんです』
『よろしくお願いします』
実況解説も始まり、ゲートがスタート地点に移動し始める。8人の出走ウマ娘は、その裏でストレッチや精神統一などをしながら、来るべき時を待っている。
『今日の注目は、何と言ってもトウカイテイオーでしょう。昨年、無敗の二冠を達成したウマ娘が、天皇賞(春)でのメジロマックイーン打倒を宣言し、この大阪杯を春の始動戦に選びました。
細江さん、トウカイテイオーの現在の様子は、どうご覧になられますか?』
『はい、怪我明けということで少し心配していたのですが、良いと思いますね。この10ヶ月間、怪我を治してからゆっくりとじっくりと、丁寧に仕上げて来たのが分かります』
休み明けにGⅠに直行する、というローテーションは出来るだけ避けた方が良い、と言われる。休養が長いとブランクが発生し、ウマ娘の勝負勘、レースの感覚というモノが鈍るとされているからだ。
この産経大阪杯を走ることでレース感覚を取り戻し、万全の状態で天皇賞(春)を迎え、メジロマックイーンと対決しようというわけである。
(トウカイテイオーにとって、ここはあくまでも叩き──言わば、天皇賞への前哨戦に過ぎないが、負けるつもりは無い)
今日のトウカイテイオーは2枠2番。人気も当然、ダントツの1番人気に支持されている。
2番人気にはイブキマイカグラ、3番人気にホワイトストーンと続く形である。
『果たしてこのトウカイテイオーが、どういう風に躍るのか──それでは参りましょう。
仁川の伝統重賞、大阪杯のファンファーレです!』
京都・阪神のGⅡファンファーレが、晴天の仁川に木霊する。
バ場状態は良。8人でのレースであるため、枠による有利不利も無い。
紛れの無い、純粋な力勝負が期待出来るだろう。
枠入りも順調で、奇数番号のウマ娘に続き、偶数番号のウマ娘のゲートインが始まる。
トウカイテイオーがゆっくりと脚を踏み出しながら2番ゲートに納まり、最後に大外8枠8番のイクノディクタスがゲートに入ると、いよいよ態勢完了だ。
『さあ、ゲートが開いた!
上手く出たトウカイテイオー、スタートと同時に拍手が飛んでいる阪神レース場!』
発走。トウカイテイオーは良いスタートを決めた。
阪神芝2000メートルは、スタンド前右手にスタート地点があり、内回りコースを1周するコース。
ここからはホームストレッチを使っての先行争いだ。
『さあ先頭に立つのは3番ゴールデンアワーか、外からイクノディクタス。
イクノディクタスが思い切って飛ばしました』
自分より内のホワイトストーンが後ろに下がって行くことを確認したトウカイテイオーは、チラリと外を見やる。
すると、隣の3番に入っていたゴールデンアワーが自分の前に行き、更にその外から8番のイクノディクタスが行っていることが分かった。
(……悔しいですが、トウカイテイオーとマトモに勝負をしたところで、私では勝ち目は無いでしょう。
しかし、今日のメンバーの中に、どうしてもハナに立ちたいというウマ娘はいない。ならば私が先頭に立って、私のペースで走らせてもらいます)
事前の想定通り、内から無理にでも主張して来るウマ娘はいない。イクノディクタスは自分の読みが正しかったことを確信しつつ、バ群の先頭へと躍り出る。
イクノディクタスは「逃げ」のウマ娘ではない。それでも彼女が先頭に立つ以上、レースの流れはそう速くはならないだろう。
(ペースを握ることは、レースの主導権を握ること。私が私のペースで走れば、後方のウマ娘が私を捕らえることは難しくなる──貴女の脚がどれほどのモノかを見せてもらいます、トウカイテイオー)
「───イクノさんの作戦通り、ですわね」
メジロマックイーンが呟く。それを受けて、メジロライアンは思い出したように聞く。
「そっか。マックイーン、あの子と寮で同室なんだっけ?」
「ええ。イクノさんは『トウカイテイオーがどれくらい強いのかを見たい』と、そう言っていましたわ」
『イクノディクタスが飛ばして3番のゴールデンアワーが2番手で、内を通ってトウカイテイオーであります。ゆったりとついて行くトウカイテイオー』
トウカイテイオーは内ラチに沿って、イクノディクタスと前のゴールデンアワーを視界に捉えながら楽に追走。
ペースは気にしていない。トウカイテイオーは自分の走りを1完歩ずつ確認しながら、スタンドを横目に落ち着いて最初のコーナーへと差し掛かる。
『大歓声がゴール板前から第1コーナーへ尾を引いて行きます、イブキマイカグラは後ろから2人目。
これが2番、トウカイテイオー。トウカイテイオーであります』
イブキマイカグラはいつも通りの後方待機。
直線の短い阪神内回りコースは、彼女にとってベストの舞台であるとは言い難いが、皐月賞のような仕掛け遅れが無ければ、届き得ると考えている。
かと言って仕掛けが早すぎるのも良くないため、その点は彼女の判断力が問われることになるだろう。
『第2コーナー、右にカーブを取ります。
先頭は8番のイクノディクタス、そして2番手に3番のゴールデンアワー、3番手トウカイテイオー。
メジロマックイーンも見ているか、これがトウカイテイオーだ』
イクノディクタスを先頭にバ群の隊形が固まり、第2コーナーを過ぎてバックストレッチに入って行く。
『そして、その後ろでありますがホワイトストーンです。4番手ホワイトストーン虎視眈々。
それからグランプリウマ娘ダイユウサクがいて、4番のネーハイビクトリー。
そして6番のイブキマイカグラ。「トウカイトウカイと言うなよ」という感じでありますが、イブキマイカグラは後ろから2人目。
マミーグレイスがシンガリ。こんな展開でありまして、これから第3コーナー』
前半1000メートルを通過し、変わらない隊列で第3コーナーのカーブを迎える。
ペースは平均か、それより少し遅いくらい。イクノディクタスは内心で「良し」と思う。そして、最後の直線に向けて、ゆっくりとペースが上がって行く。
『トウカイテイオー3番手。トウカイテイオー3番手、まだスパートという感じではない。
トウカイテイオー3番手、前の2人はもうどうでも良い! 3番手にトウカイテイオーだ、そしてホワイトストーン、ホワイトストーン!
さあイブキが来るのか、まだ来ない! イブキはまだ来ないぞ! ダイユウサク、イブキがようやく動き始めたイブキマイカグラ!』
(───行くぞ、トウカイテイオー!)
3・4コーナー中間──ここでレースが動いた。
後方に待機していたイブキマイカグラが、バ群の大外から捲りにかかる。
後方の動きを気配で察したトウカイテイオーは、少し外に出て前を走る2人に並びかけて行く。
その内を突いてホワイトストーンが上がって行き、ペースが一気に速まった。
『さあトウカイテイオー、後ろからイブキが来ているぞ! まだ前には2人がいる!
イクノディクタスと3番のゴールデンアワー、さあ外からトウカイテイオー!』
バ群が密集し、加速しながら第4コーナーへ。
8人が横に広がり、トウカイテイオーは内から3列目、外を回って直線に入って行く。
「ッ……ですが、まだ───」
リードを詰められたイクノディクタスが先頭を守りながら、外側に視線を向けると──彼女は、
(───そんな、バカな)
銀色の目を見開くイクノディクタス。
3番のウマ娘を挟んで、彼女の目はトウカイテイオーを捉えていた。信じられない光景とはそれだ。
(どうして───何故、
並びかけて来たトウカイテイオー。
彼女は、
『外からトウカイテイオーとダイユウサク、イブキマイカグラが襲いかかる!』
(トウカイテイオー、まだ、余裕があるのか……!?)
イブキマイカグラもトウカイテイオーの様子に気づき、驚嘆する。
いや、イブキマイカグラだけではない。一緒に走る誰もが、トウカイテイオーを見て己が目を疑い、呑まれていた。
(あり得ない──前哨戦とはいえ、GⅡだぞ!? 重賞だぞ!? 僕と同じGⅠウマ娘、のハズなのに……!)
既に1500メートル以上を走って来て、汗一つとしてかいていない。
そればかりか、最後の直線に向かって加速している自分たちを、いつでも楽々と突き放せると言わんばかり。
トウカイテイオーの異常さに、7人は震撼した。
(まだ。スパートまではもうちょっと待って───)
トウカイテイオーは落ち着いていた。呼吸も全く乱れていない。他のウマ娘が必死に走る中、トウカイテイオーはまだ全力を出していない。
全力を出すまでもなく、トウカイテイオーは前にいた2人と並んで、先頭に立った状態で直線に向く。
「───今だ!」
『これを待っていたかトウカイテイオー、スパートしたトウカイテイオー!! 直線だトウカイテイオー、トウカイテイオーさあ突き放すか!!』
350メートル、短い直線の攻防。
トウカイテイオーはあっという間にイクノディクタスを追い抜き、バ群から突き抜けた。
『まだ余裕がある、まだ余裕がある!! まだトウカイテイオーは全力を見せていない!! まだトウカイテイオーは全力を出していない!!
阪神はここから坂がある、阪神はここから坂がある!! まだトウカイテイオー、全力じゃない!!
2番手には3番のゴールデンアワー粘っている!!』
坂など問題にしない。初の阪神でも、何の問題も無い。
トウカイテイオーは実況席から見て取れるほどの余裕の走り、誰の目から見ても明らかなほど全力でない走りで、GⅠウマ娘たちを引き離して行く。
道中はトウカイテイオーの前、2番手を追走していたゴールデンアワーが2バ身ほど後ろから全力で追いかけるも、一方のトウカイテイオーは涼しい顔だ。
『トウカイテイオーだ!!!
これは文句無し!! これは天皇賞が楽しみになった!! トウカイテイオーだ!!!』
そして、迎えたゴール板。
トウカイテイオーは結局、余裕の表情を崩すことなく、汗一つとしてかかないまま、産経大阪杯を制してみせた。
『これで天皇賞が楽しみになった!! メジロマックイーンも見たか!! トウカイテイオー復活した!! トウカイテイオーは復活したぞ!!
マックイーンよ見たか!! トウカイテイオーはやはり強いッ!!!』
大歓声がスタンドから沸き起こる。
テレビ越しにも伝わる熱狂と、トウカイテイオーの余裕。まさかの圧勝劇にメジロライアンは驚きながらも、隣のメジロマックイーンに視線を向ける。
「……マックイーン?」
メジロマックイーンは、ソファーから立ち上がっていた。メジロライアンの呼びかけも、その耳には届いていないようだった。
「────トウカイ、テイオー……!」
メジロマックイーンは目を細め、唇を引き締める。
そして、手汗の滲む拳を強く握り込んだ。
『2着は3番のゴールデンアワー、イブキマイカグラは伸びて来なかった! 勝ち時計、2分6秒3!
細江さん、驚きましたねこの強さ!』
『はい! 直線の坂を本当に確かめるように味わうように、そしてどのウマ娘が来てもいつでもスパート出来る態勢でしたね』
『ええもう、ほとんど全力で走っていないというか』
『そうですね。まだまだ余裕を残しているように見えますし、天皇賞の距離も問題無いと思います』
実況解説も、トウカイテイオーの圧勝を興奮気味に伝えている。
着差こそ1バ身と4分の3と、大きく引き離すものではなかったが、着差以上の実力差があったことは誰の目にも明らかだった。
『いや、それにしても本当に、メジロマックイーンも見たかというところでしょう。
今年シニア級に上がったウマ娘の中でも、1人抜けている存在ですよね。今回も魅せてくれました』
『第4コーナーで、一旦ダイユウサクもイブキマイカグラも追いついたんですが。そこからもう、スッスッという感じで抜け出しましたね』
『そうですね。想定してた流れよりスローにはなるのかなと思ったんですが、結局上がり1000メートルというか、上がり800メートルのレースになりましたね』
マクギリスも、トウカイテイオーのレースぶりには少し驚きを覚えていた。負けることはないだろうと思っていたが、まさかここまでとは──と、改めてトウカイテイオーの能力に感心せざるを得なかった。
(メジロマックイーンに長距離で勝つのは難しい。スタミナが保たないだろう──と、思っていたのだが。私はどうやら、トウカイテイオーの力を測り間違えていたようだ。
彼女なら勝てる。春の天皇賞で、メジロマックイーンが相手になるとしても)
マクギリスの口元が、自然と吊り上がる。
トウカイテイオーは最高だ。現役最強が何だ。長距離適性が何だ──メジロマックイーンと正面から戦って打ち破るだけの力が、トウカイテイオーにはある。
そう確信したマクギリスは、興奮と歓喜から笑いを抑えることが出来なかった。
『まだ阪神レース場どよめきであります。ターフビジョンにトウカイテイオーが1人、大きくクローズアップになりまして、阪神レース場まだどよめきが続いています』
天皇賞(春)まで、約1ヶ月。
既にその前哨戦となる2つの長距離重賞も終了しており、この産経大阪杯を最後に、春の盾を巡る戦いの構図は整ったと言えるだろう。
『完勝です。勝ち時計2分6秒3、上がりの3ハロンが35秒5。
いやー本当に、恐れ入りましたというトウカイテイオー。本当に強かったとしか言いようがありません』
仁川の杯を手にしたのはトウカイテイオー。
皇帝を継ぐ帝王が、名優に挑戦状を叩きつけた。
次走「TM対決」