9月が迫り、いよいよ秋のGⅠ戦線に向けた前哨戦が行われ始めた頃。
オルガ・イツカはトレーナー室の執務机の前に座って、書類を睨みつけていた。
「よう。───何見てんだ?」
トレーナー室のドアを開け、オルガの担当ウマ娘の1人であるレガシーワールドが入室してきた。
難しい表情を浮かべるオルガの様子を見て、レガシーワールドはオルガの後ろに回り、オルガが持つ資料を覗き込む。
「へぇ。ライスシャワーの次走はセントライト記念に決まったのか。……で、ブルボンをどうするか悩んでると」
「───ああ」
レガシーワールドの推察に、オルガは頷く。
以前、保留としたミホノブルボンの次走──クラシック最後の一冠、GⅠ「菊花賞」の優先出走権が3着以内のウマ娘に与えられる3つのトライアルのうち、どれを使うかという問題。
予備登録が行われ始める時期になってもまだ、オルガはこの結論を出せずにいた。
夏合宿を越えて、ライスシャワーは成長を見せている──と、オルガはライスシャワーの担当トレーナーである三日月・オーガスから聞いていた。
オルガ自身も、ライスシャワーをかなり警戒している。ミホノブルボンの三冠を阻むとすれば、それはライスシャワーだろうと。
本番の菊花賞に向けて、今のライスシャワーの能力を測っておきたい。
一方、ミホノブルボンのスタミナと京都コースへの適性を確かめるために、京都新聞杯を使っておきたいという気持ちもあった。
「悩むようなことか? 私をセントライト記念に出して、ブルボンを京都新聞杯に出せばいいじゃねぇか」
と、オルガの悩みに対して、レガシーワールドはアッサリ言った。
オルガが担当になってから、レガシーワールドは夏のレースに続けざまに出走して、結果を出している。
7月中旬に福島レース場で未勝利クラスを勝ち上がり、7月末の昇級初戦を3着とした後は、8月中旬と下旬に連勝して、一気にオープン入りを果たした。
彼女にはクラシック登録が無いので、本番の菊花賞には出走できないが、トライアルレースには出走が許されている。
中山芝2200メートルは、条件的にもレガシーワールドに合いそうだが───
「───そりゃあ、そうかもしれねぇが……お前は良いのか? クラシック登録が無いのに、菊花賞トライアルに出る意味なんて」
「距離は私にとっても良い感じだし、クラシック級限定のGⅡだしな。直線も短い。狙えるところを狙うだけだろ。
それに、私とブルボンは脚質も似てる。参考にはなると思うぜ」
レガシーワールドの脚質は、ミホノブルボンと同じく「逃げ」。
仮想ミホノブルボンとしてレガシーワールドがライスシャワーと一緒に走れば、ライスシャワーの脚を測れるかもしれない。
「……正直、助かるといえば助かるんだが──お前をブルボンの代わりに使うようなことだぞ」
「だから、私は狙えるレースを狙いに行くだけだって言ってんだろ。そのついでに、ってことなんだから気にするんじゃねぇ。
それに──私だって、ブルボンの三冠は応援してんだよ。私はクラシックには出れねぇけど、チームメンバーとしてブルボンの助けになりてぇだけだ」
オルガが座る椅子の背もたれに両肘をついて、レガシーワールドはそう言った。
そこまで言われて、彼女の言う通りにしないという方が難しいだろう。
「───ありがとよ。じゃあ、お前をセントライト記念、ブルボンを京都新聞杯に登録しておく」
「おう。──まあ、ライスシャワーが京都新聞杯も出る、とか言い出したらアレだが、2200メートルならブルボンは負けねぇだろ。
……それと、さっき言ったことはブルボンには秘密にしてくれよ。恥ずいからな」
「分かった。約束するぜ」
◇
そして当日──9月中旬、中山レース場。
メインレースはGⅡ「ラジオ日本賞セントライト記念」。
1番人気は夏の上がりウマ娘トレヴィットで、2番人気はGⅡ「NHK杯」五着の実績があるホワイトアクセル。
ダービー2着、秋の始動戦を迎えるライスシャワーは3番人気。レガシーワールドはこれに次ぐ4番人気に支持されている。
「あの子が、前に言ってた新しい担当の子?」
「ああ。なかなかやるぜアイツは」
スタンドの前列。左横に並んで来た三日月・オーガスの問いに、オルガは頷いた。
オルガの右横にはミホノブルボンもいて、スタンド前に設置されたゲートの方向、ターフに立つチームメイトのレガシーワールドと、ライスシャワーの方に視線を向けている。
「───良しっ。がんばるぞ、おー」
ゲート裏で拳を握り、小さい声で気合を入れるライスシャワー。
「……気合が入ってるじゃねぇか」
「ふぇっ!?」
そんなライスシャワーに、レガシーワールドが話しかける。体操服の上に赤と緑のパーカーを羽織り、フードを被っているレガシーワールドの声を聞いたライスシャワーは、驚いて肩を跳ねさせる。
「悪ぃ、気持ちを乱れさせちまったか。ダービー2着のウマ娘で、ブルボンもウチのトレーナーも気にしてるからな。つい声をかけちまった」
「い、いえ……」
すぐさま謝罪したレガシーワールドの様子に、ライスシャワーは少し緊張を解いた。
レガシーワールドはパーカーと前髪で表情を読み取りづらいウマ娘なので、ライスシャワーとしては「ちょっと怖い人なのかな……?」と思っていたのだが、どうやらそうでもないらしいと感じていた。
「な、何ですか……?」
「まあ、一応伝えといた方が良いかと思ってな。
───私は今日、自分がミホノブルボンのつもりで走る。ライスシャワー、アンタの脚を測るためだ」
前髪に隠れていないライスシャワーの左目が、少し見開いたことに、レガシーワールドは気づいた。
小柄なライスシャワーの紫の瞳を見下ろしながら、レガシーワールドはエメラルドグリーンの目を細める。わざわざ「アンタの脚を測る」と、敵に教えたことには意味がある。
「負けるつもりはねぇ。私がブルボンだとするなら、今日負けたら『無敗』が消えちまうからな。
───要するに本気で来いってことだ、ライスシャワー。抜かせるモンなら抜かしてみろ」
お互い頑張ろうぜ、とレガシーワールドはライスシャワーに背を向け、左手を上げて言う。そして、ゲートに向かって歩いて行った。
東京・中山の重賞ファンファーレが鳴り響き、出走ウマ娘たちのゲート入りが始まる中、ライスシャワーは胸の前で拳を強く握りしめた。
「───ブルボン。菊花賞のために、レガシーとライスシャワーをよく見といてくれ」
「了解しました。観測目標をレガシーとライスシャワーに設定します」
『最後に大外、14番のライスシャワーが入ります。
11番が出走取消、13人立てのセントライト記念──ゲート開いた!』
秋の淀、菊花賞への切符を懸けたセントライト記念、スタート。
コースは中山レース場、右回りの芝2200メートル。
スタート地点はホームストレッチの端、スタンド右手の引込線。第1コーナーまでの距離は432メートルあり、枠順による有利不利は少ない。
直線コースの急坂を二度走る点、最後の直線は310メートルと短い点がポイント。小回りでコーナーが多いことから息を入れやすく、スタミナを温存しやすいとされることから、多少は距離適性を誤魔化せることもあるといった側面もある。
『さあ何が出て行きますか、あまりガンガン飛ばして行くウマ娘はいませんが、まだ固まっています。
9番のレガシーワールドが行きました、予想通りレガシーがペースを作る構えであります』
第1コーナーまでの距離が長い都合上、先行争いは激しくならない。
前に取り付いたウマ娘たちは、互いに横を見やって様子を窺うが、レガシーワールドが無理なく先頭へと躍り出た。
(──ほんとに、言ってた通りだ)
少し後方、中団付近でライスシャワーはレガシーワールドの背中を見据える。その視線を感じながら、レガシーワールドは口元を少し緩めた。
(さて、どういうペースで行こうかね。
速くなり過ぎず、かと言って遅くはならない、緩まないペースで行くのがブルボンっぽい走りだが──大体1ハロンが11秒から12秒、ってのを維持する形がそれっぽいか)
どうせなら徹底的にそれっぽく行こう、とレガシーワールドは決断した。
レガシーワールドを先頭に、自然に無理なくバ群が形成されて行く。そして、レガシーワールドが真っ先に、第1コーナーを右にカーブする。
「───マスター。あの、タイムは」
「……ああ、良い逃げだな」
1ハロン目が12秒9、2ハロン目が11秒2。3ハロン目が12秒2──と推移していくラップタイムを見て、ミホノブルボンは気づいた。
それが、自分の刻むタイムに──ミホノブルボンが行う「逃げ」に似ているということを。
(ミホノブルボンみたいな逃げだ。ライスは中団──)
三日月もそのことには気づきつつ、ライスシャワーに注目する。
ライスシャワーの位置は現在中団付近。先行策を取っていたダービーの時に比べると、少しポジションが下がっている。
『奥深い2コーナーに向かう13人、先頭から見ていきましょう。
先頭は9番のレガシーワールド立ちました。
7番のタイガーエース2番手、その後方からジョージティムス。更にこれを追いまして6番のタイコウタップであります。人気の8番トレヴィット好位置キープ。1番のマイネルトゥルースが続く。
更に14番、ライスシャワーです』
第2コーナーを過ぎ、向正面へ。
先頭は変わらずレガシーワールド、ライスシャワーは中団──大体6番手か7番手といったところ。
レガシーワールドが作り出しているペースは速くはないが、スローと言うほど落ちることもない。レースが淡々と流れて行く。
バ群は先頭から最後方まで8バ身から9バ身と詰まっていて、第3コーナーに差し掛かろうというところまで来ても、大きく隊形が変わることはなかった。
『さあ3コーナーから4コーナーへ向かっていく。
13人がひと固まり、さあトレヴィットが早くも2番手に上がって来た!
ライスシャワーがその後ろだ!』
3コーナーを曲がった辺りで、道中は5番手付近につけていた1番人気のウマ娘が動いた。それに続くように、ライスシャワーもポジションを上げていく。
「ついてく、ついてく……」
呟くライスシャワー。ただ、彼女が見ているのは1番人気のウマ娘ではない──並びかけられながらもペースを乱さず、先頭を維持するレガシーワールドだ。
レガシーワールドはまだ余裕を残した表情で、前だけを見据え、自分に気合をつけるように言った。
「───勝負と行こうぜ。お前の脚を見せてみろ!」
残り400メートルの標識の横を過ぎ、第4コーナーをカーブする。
中山の短い直線、急勾配2メートルの坂が待ち受ける310メートル──最後の攻防の始まりだ。
『直線に向いた! 直線に向きました!
レガシーワールドわずかに先頭か、レガシーワールドが依然として先頭!
外からライスシャワー、ダービー2着のライスシャワー!』
内ラチ沿いを走るレガシーワールドに、2人分程度のスペースを間に開け、ライスシャワーが並ぶ。
『200を切った、200を切りました!』
「───今……!」
残り200で、ライスシャワーがスパートをかける。
中山名物の急坂を駆け上がりながら、ライスシャワーがほんの少し、内のレガシーワールドよりも抜け出した。
『ライスシャワー先頭に立った、ライスシャワーが先頭に立った! ライスシャワーか!
内の方でまだレガシー頑張っている!』
「抜かせねぇよ──!」
外のライスシャワーを傍目に、レガシーワールドも坂を上りきるかというタイミングで、残しておいた力の全てを脚に込め、二の脚を使う。
ライスシャワーを内から差し返す形で、再び2人の身体が横に一直線、全く並んだ。
『レガシー、そしてライスシャワー! ダービー2着はまた2着か! 2人並んでゴールイン!!』
10秒と少しの競り合いの末、レガシーワールドとライスシャワーは、同時にゴール板に突っ込んだ。
タイム差無しの1着と2着。しかし、両者の勝敗はハッキリと分かれた。
『わずかに内レガシー! わずかに内、レガシーが態勢有利!』
1着はレガシーワールド、2着にライスシャワー。
レガシーワールドは重賞初制覇を果たし、ライスシャワーは重賞初勝利とはならなかったものの、差の無い走りで菊花賞の優先出走権を獲得した。
「ッ──ハァ、ハァ……あっぶねぇ……!」
レガシーワールドは大きく息を吐き、減速しながら傍目にライスシャワーを見る。
負けたことで、ライスシャワーは少し俯いていたが──その息が、自分ほど乱れていないということに、レガシーワールドは気づいた。
「────マジか、あのヤロウ……」
半笑いでレガシーワールドは呟く。
ライスシャワーにキレる脚は無い。だが──ライスシャワーのスタミナは、まだまだ底が見えていない。
「……ライスシャワー───」
スタンドから見ていたミホノブルボンも、ライスシャワーがまだまだスタミナを余していることに気づいていた。
直線がこの中山より100メートルも長くなり、このセントライト記念と比べて、施行距離が800メートルも延長する菊花賞。
やはり、ミホノブルボンの三冠にとって、ライスシャワーは最大の脅威となり得よう。
(───本番は勝とう、ライス)
三日月は表情を変えることなく、その目はただ、菊の舞台を見据えていた。
◇
「───ありがとうございます、レガシー」
表彰式を終え、控室に引き上げて来たレガシーワールドに、部屋の前で待っていたミホノブルボンはそう言った。
レガシーワールドは目を丸くしつつも、フードの縁を右手で摘んで下げつつ返す。
「……いきなりどうした。何のことか分かんねぇな」
「今日のレース──貴女の逃げ方は、私の逃げ方によく似ていました。私の菊花賞のために、わざとああいうレースをしたのでしょう?」
「気のせいだろ。偶然だよ偶然、自惚れんじゃねぇ。
──ただまあ、アレだな」
照れ隠しのようにフードの内側に手を突っ込み、頭を掻くレガシーワールド。
そして、鋭い視線をミホノブルボンに向けた。
「キレる脚がライスシャワーに
それに、アイツのスタミナは底が見えねぇままだ」
「はい。───しかし、負けるつもりはありません」
貴女のためにも、とミホノブルボンは拳を握る。
レガシーワールドは「私のことなんて気にすんな」と言いながら、ミホノブルボンにこう忠告した。
「お前は京都新聞杯から、だったよな。
私に言われるまでもねぇと思うが──気負うなよ。いつも通りの走りをしなけりゃ、持たねぇぞ」
「───分かっています」
◇
10月に入り、京都レース場は芝2200メートルで行われたGⅡ「京都新聞杯」。
これまで6戦6勝、無敗の三冠が見えているミホノブルボンは、圧倒的な1番人気を背負って出走した。
なお、2番人気はライスシャワー。
結局セントライト記念から転戦して来た形になり、ミホノブルボンと直接相まみえることとなった。
『完全にミホノブルボン先頭だ! ミホノブルボン先頭! 余裕があるミホノブルボン、三冠に向かって視界良し!
ミホノブルボン快勝、圧勝です!! ミホノブルボン、7戦7勝!!』
レースは普段通り、ミホノブルボンが逃げてライスシャワー以下の後続を完封した形。
秋になってもミホノブルボンの優位は変わらず。ファンがミホノブルボンにかける「三冠」への期待は高まる一方である──が。
「勝利しました、マスター。これで、三冠へ……自信を持って、挑めます」
「───ああ。ご苦労さん、ブルボン」
引き上げて来たミホノブルボンが、肩で息をしていることに、オルガは気がついた。
休み明け、久々のレースの分か。今回レースを走ったことで、次の菊花賞では、ミホノブルボンの体調はまた上がって来るハズだ──と、オルガは見ている。
(……クソ──何なんだよ、この不安は)
ミホノブルボンは夏合宿も経て、更にその能力に磨きがかかっているハズだ。
決して向いているとは思えないが、今のミホノブルボンならば3000メートルのレースもこなせるハズだ。
ミホノブルボンならば菊花賞を勝てる。
無敗の三冠を達成できる──オルガはそう信じている。信じなければならない。
だが──何とも言えない不安感が、オルガの胸中には残り続けていた。
次走「黒い刺客」