マクギリス、トレーナーになる   作:アグニ会幹部

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30R 黒い刺客

 菊花賞直前。

 予定通りにトレーニングを終え、いよいよ本番を残すのみ──となったライスシャワーを、練習コースの端で見守っていたトレーナーの三日月・オーガスが、タオルと水筒を渡しながら労う。

 

「お疲れさま。……キツいメニューだったけど、やりきったね。すごいよ」

「あ、ありがとう──えへへ」

 

 普段は淡々としている三日月から褒められ、ライスシャワーは破顔する。

 菊花賞でもミホノブルボンに次ぐ評価を得ているライスシャワー──学園内の選抜レースに出ることすら怖がっていた頃に比べれば、随分と成長したものである。

 

「作戦、分かってる?」

「うん。ブルボンさんについてく、だよね」

 

 敵は無敗の二冠ウマ娘、ミホノブルボン。

 彼女さえかわせば、久しぶりの勝利が──初のGⅠ制覇が見えてくる。

 ダービーの時と同じように、逃げるミホノブルボンを徹底マークするのが、ライスシャワーの作戦だ。

 

「……ライス、できるかな。GⅠレースに勝てば、ライスもブルボンさんみたいに、みんなに喜んでもらえるかな」

「うん。きっとできるよ」

 

 自分の手のひらが汚れていないことを確認しつつ、三日月はライスシャワーの頭を軽く撫でた。

 まだ自信は少し足りていないが、ライスシャワーは本当に強くなったと、三日月は思う。今なら、本当にミホノブルボンを倒せるかもしれない。

 

 ダービーの時には届かなかった。

 だが──次はきっと届くと、三日月は確信する。

 

「勝とう、ライス」

「うん……!」

 

 三日月の言葉に、ライスシャワーは笑顔で頷いた。

 

 

   ◇

 

 

『さあ皆様、お待たせ致しました。京都レース場、本日のメインレースはGⅠ『菊花賞』です。

 ミホノブルボンの三冠か、それとも──何にせよ、この一戦で今年のクラシックは幕を閉じ、全てが決着します。決戦の時まで、既に20分を切りました』

 

 11月上旬、京都レース場。

 秋風の吹くターフが、遂に菊花賞の時を迎えた。

 

 外回りの芝3000メートル、右回りコース。

 淀の名物、第3コーナーの坂を二度上る、スピードとスタミナの双方が問われるレース──「最も強いウマ娘が勝つ」舞台だ。

 

 今年は無敗の二冠ウマ娘ミホノブルボンが、最後の三冠目を取るべくして挑む。

 皐月賞で速さを、ダービーで運を証明したミホノブルボンが、この菊の舞台で強さを証明できるかどうか。

 前年に誕生した無敗の二冠ウマ娘トウカイテイオーが、骨折のため菊花賞には出走できなかったということも相まって、ミホノブルボンにかかる期待は非常に大きい。

 

「──無事にこの舞台にミホノブルボンを連れて来ることができて一安心、と言ったところかな? オルガ団長」

「……安心なんてできねぇよ」

 

 スタンドの関係者席。

 微笑を浮かべて言うマクギリス・ファリドに、オルガ・イツカは「気楽に言ってくれやがる」と、少しばかりの恨みを込めて言い返す。

 

「失礼、君を皮肉るつもりは毛頭ないんだ。私もミホノブルボンには期待しているし、何より君に尊敬の念を抱いているのだよ。

 ───私は去年、トウカイテイオーを此処に連れて来ることができなかったからな」

 

 見たことがないほど神妙な表情を浮かべるマクギリスに、オルガは何も言えず、視線をターフに向けた。

 軽快な音楽と共に出走ウマ娘たちは既にコースに姿を現し、ウォーミングアップのため思い思いの方向へ散って行く。

 ターフビジョンには、ミホノブルボンの姿も映し出されるが──オルガの目には、いつも通り調子は良さそうに見え、少しだけ緊張が解ける心持ちだった。

 

「……そう言えば、今日は三日月・オーガスは一緒ではないのかね?」

「ミカは下の最前列で見るってよ。今日だけは俺とも敵同士、だからな──」

「なるほど。───複雑、と言うところか?」

「複雑、ってか……何か気持ち悪ぃって言うか、慣れねぇというか……これまでの二冠もそうだったハズなんだが」

 

 実のところ、三日月とライバル同士という実感は、オルガには無かった。

 三日月とオルガは、意見がぶつかり合うこともあまり無かった間柄だ。

 分かってはいるつもりだが、今回はこれまでよりもライスシャワーのことを意識しているからか、腑に落ちない感情がオルガの胸中には多く湧き上がっている。

 

「オイオイ、しっかりしろよ。トレーナーのアンタが気張らなきゃどうすんだよ」

 

 と、表情の曇ったオルガの背を、その隣に座る赤いパーカーを着てフードを被ったもう1人の担当ウマ娘──レガシーワールドが叩く。

 ウマ娘のパワーで背中を叩かれ、座っている椅子から放り出されそうになったのを何とか耐えた後、オルガはレガシーワールドの言葉に頷いた。

 

「──ウォーミングアップ終了。脈拍、心拍数共に平常値を維持。スタート地点へ移動します」

 

 スタンドからの歓声を背中に受けながらターフを軽く走り、身体を解したミホノブルボンは、ゆっくりとスタート地点に向かって歩き始める。

 スタート場所は向正面、上り坂の前。京都レース場を走るのは2回目。臆することはないし、何も問題は無い。

 いつも通りの走りをすれば、先頭のままゴールを駆け抜けることができるだろうと、ミホノブルボンは思う。

 

「今日はキョウエイボーガンが逃げ宣言をしている。ミホノブルボンはどうするつもりだ?」

「──ブルボンがやることはいつもと変わらねぇ。先頭でペースを作って、そのまま逃げ切る」

 

 マクギリスの問いに、オルガはそう答える。

 ──今日の問題点、これまでの二冠と違う点は、ミホノブルボンの他にも先頭に行くことを宣言したウマ娘がいるということだ。

 ミホノブルボンはこれまで、早々に先頭に立って自分がペースを掌握(コントロール)するというレースをしてきた。これまでのクラシック、皐月賞とダービーはどちらもそうだった。

 

 しかし、今日はミホノブルボンが先頭に立てない可能性がある。

 いつもと違うからこそ、自分のペースを知らず知らずかき乱される危険があるのだ。

 

 逃げ宣言をしているウマ娘──キョウエイボーガンは決して能力の高いウマ娘というわけではなく、なおかつスタートが上手くテンの速い(スタート直後の加速が速い)ミホノブルボンからハナを奪おうとすれば、開始時からかなり脚を使うことになるだろう。

 結果として、キョウエイボーガンは最終直線に入る前か、入った直後くらいにはガス欠を起こし、垂れて来る可能性が大きいわけだが───

 

(ブルボンの奴が、どこで捕まえに行くかだな)

 

 と、レガシーワールドは考える。

 単騎で逃げるウマ娘が1人いる場合、2番手のウマ娘は、どこかのタイミングで先頭のウマ娘との距離を詰め、並んでかわして行かなければならない。

 その捕まえに行くタイミングが早すぎると、後ろのウマ娘に差される。かと言って、遅すぎると逃げ切られる可能性もある。

 

 ミホノブルボンがどこで動くか。どこで仕掛けるか。

 今日のレースの勝敗を決定する最大のポイントは、間違いなくここにある。

 

「……逃げて二冠を制したウマ娘が、三冠に挑む。

 メイズイのようになるか、それとも───」

 

 スタンド最上階からターフを見守るシンボリルドルフがそう呟いた直後、場内に菊花賞の発走時刻の到来を告げる関西GⅠファンファーレが鳴り響いた。

 同時に、出走ウマ娘のゲート入りがスタートする。

 

 1番人気は当然、三冠のかかるミホノブルボン。

 2番人気はダービー2着のライスシャワー、3番人気にはマチカネタンホイザが支持された。

 

『ミホノブルボンのゲートインが終わりました、後1人です』

(───7番へのゲートイン、完了しました。発進準備に移行します)

 

 ゲートに入り、ミホノブルボンは一度だけ深呼吸をする。

 夢にまで見た「三冠」の栄光が、「無敗」の二文字まで付いて今、目の前にある。

 やることは同じだ。ペースを守って走り、後続を振り切る──今の自分なら3000メートルもこなせると、ミホノブルボンは気合を入れ、腰を下げてスタート姿勢を取った。

 

(ブルボンさん──ついてく)

 

 隣の枠のミホノブルボンに一瞬視線を向けた後、ライスシャワーも腰を低くして前を見据える。

 ゲート近くの職員たちの声と一番外のゲートの後ろ扉が閉められる音で、ゲートの中で待機していたウマ娘たちは、全員がゲートに納まったことを察した。

 

『スピードは文句無し、パワー充分。問題はスタミナ、それも坂路で鍛えられて抜かりなし。三冠ウマ娘へ行け、ブルボン。

 18人のゲートインが終わりました、さあスタートです!』

 

 勝負の時。3分と少しで決着がつく。

 菊の栄冠へ──三冠の最後の一冠へと向かうゲートが、音を立てて開かれた。

 

『さあゲートが開いた! おお、ミホノブルボン好スタート!』

 

 一斉に飛び出す18人。ミホノブルボンが良いスタートを切り、スタンドから歓声が上がる。

 今日のミホノブルボンは4枠7番。早くも先頭に躍り出たミホノブルボンは、チラリと外側──自分の左側を見る。

 逃げ宣言をしていたキョウエイボーガンは6枠12番。彼女がどうするのか、彼女に対してどうすべきかを、ミホノブルボンは見極めなければならない。

 

「うおおおおおおおおお!」

『キョウエイボーガンどうするんだ、おお行った行った行った!』

 

 ミホノブルボンと比べると少し出負けしたキョウエイボーガンだったが、初っ端から全力で走り、外側からミホノブルボンに並びかけて行く。

 

(ボーガンさんの加速を確認。私は───)

 

 競るか、控えるか──これまでやられて来なかったことに対して、ミホノブルボンは一瞬判断に迷った。

 

「「迷った」」

 

 その逡巡を見抜き、マクギリスとシンボリルドルフが同時に呟く。

 そして、ミホノブルボンが僅かに迷ったその瞬間、桃色と青の勝負服に身を包むキョウエイボーガンが、ミホノブルボンの左横を抜き去って行った。

 

『かわして行くのか、外からかわして行ったキョウエイボーガンが先頭に立ちました!』

 

 キョウエイボーガンが完全にハナを取り切り、加速したペースを緩めることなく逃げて行く。

 

(───控える、しかないようですね)

 

 こうなっては、もうミホノブルボンは先頭には立てない。

 ただでさえ菊花賞は3000メートル、如何に体力を温存するかが重要なのだ。先頭争いで脚を使い、消耗するわけには行かない。

 一度目の第3コーナーを越え、坂を下りながら3・4コーナーの中間点へと向かっていく。

 

『注目の先陣争いは、キョウエイボーガンの方がかわして3バ身くらいのリードをつけました。

 ミホノブルボン抑えて2番手。これでもハナに立っているんだと同じでありますが、前にウマ娘を見てレースをするのは朝日杯以来、三度目であります』

 

 キョウエイボーガンは暴走とさえ言えそうなほどのペースで、ミホノブルボンからどんどん離れていく。

 2番手に控える形となったミホノブルボンは、「まだ序盤」と思いながら、自分のペースを維持しようと意識して追走する。

 

『キョウエイボーガン先頭、ミホノブルボン2番手。ポツンポツンポツン。

 そして4番のメイショウセントロが3番手で、これなら1周目の第4コーナーに向かいます』

 

 先頭が第4コーナーをカーブし、スタンド前、1周目のホームストレッチへと入る。

 ハイペースでの逃げが転回されていることにより、バ群は早くも縦長になり始めていた。

 

『10番のマチカネタンホイザが4番手でありますが、ミホノブルボンが差をつけて参りました。

 漫然と行ったキョウエイボーガン先頭であります、キョウエイボーガン先頭。2バ身くらいの差がありましょうか、ミホノブルボンが2番手。

 ミホノブルボンが2番手であります。これが2番手のミホノブルボンで、場内から大歓声が上がります』

 

 スタンドの注目の大半は2番手を進むウマ娘、ミホノブルボンに注がれている。ミホノブルボンは無数の視線を感じながらも、前のウマ娘を見ながら走る。

 

『メイショウセントロ3番手、マチカネタンホイザ。ライスシャワーは5番手。

 おおっと今、ちょうど59秒くらい!』

 

 先頭を爆走するキョウエイボーガンがスタートから1000メートルの地点を通過し、そのタイムにスタンドからどよめきが上がる。

 最初の200メートルを除き、ここまでの1ハロンの通過タイムは全て11秒台。全くペースの落ちる部分が無いまま、行程の3分の1が終わろうとしていた。

 

『1000メートルは59秒から1分というところで、まずまずではないかと思いますが、18人は非常に縦に長い! 縦に長ーーいレース展開になりました!』

 

 ペースの速い逃げウマ娘に引っ張られ、バ群は非常に長く広がっている。

 ペースの落ちない逃げ、というのはミホノブルボンもやっているが、流石にそのペースが速すぎる。これは、ミホノブルボンが経験したことの無いレースだ。

 

「……アイツ、大丈夫かよ。今日はちょっと、掛かってやしねぇか……?」

「───ブルボン、落ち着いて行ってくれ……!」

 

 表情を曇らせるレガシーワールド。祈るように拳を握り合わせるオルガ。

 マクギリスは眉を僅かに(ひそ)め、スタンド前を横切って行くミホノブルボンとライスシャワーを見送った。

 

『第1コーナー、右にカーブを取ります。

 キョウエイボーガンが先頭。いつミホノブルボン、いつ2番手のミホノブルボンがこのキョウエイボーガンをかわして行くか。7番のミホノブルボンであります。

 今日は一人旅にはなりません、2番手であります。

 そして3番手は依然としてメイショウセントロか、マチカネタンホイザが4番手。

 その後ろに、その後ろにライスシャワーが続いています。ライスシャワーであります、5番手であります』

 

 第1コーナーから第2コーナーを過ぎ、バックストレッチへ入る。ここから第3コーナーの坂を目指し、それが過ぎればいよいよ最終直線だ。

 

(ペースは維持、できているハズですが───)

 

 ミホノブルボンは自分のペースを守ろうとしながらも、これまでとは違うレース展開に、ほんの少し平静を欠いていた。

 それに加えて、ミホノブルボンの思考はペース以外のところにもリソースを割かれていた。

 

(いつ、前を捕らえるか──序盤のペースから考え、ペースを落とすタイミングが存在すると想定。

 そこで差を縮めるか……それとも坂を上り終わり、垂れて来ることを待つべきでしょうか)

 

 前を捕まえに行くタイミングを、ミホノブルボンは見計らわなければならない。

 

 これが早くても遅くても上手くない。

 息を入れさせるタイミングを作らせたくはないので、前のウマ娘には気配を感じさせ、圧をかけたいところでもある。道中ペースを落としての逃げは、ミホノブルボンの普段通りの逃げではないからだ。

 捕まえに行こうとして自分のペースを乱すのもまずいので、そこも上手くコントロールしなければならない。

 ──と、非常に微妙で難しい駆け引きを、ミホノブルボンは強いられていた。

 

 一瞬の判断が勝敗を分ける。

 そして、その一瞬には「無敗の三冠」がかかっている。

 

 かくして、頭の中でそうしたことを考えていると、自分のペースへの意識が疎かになる。

 皐月賞とダービー、春の二冠でのミホノブルボンは自分の刻むペースに全神経を注ぎ込むことができた。

 だからこそ正確なラップタイムを刻み、後続に脚を溜めさせない「逃げ」を打つことができたわけだが──この菊花賞は違う。

 今日はミホノブルボンが考えなければならないことが多い上に、それがまた非常に難しいのである。

 

「───いつもの走りができていない」

 

 マクギリスがそう断じる。

 オルガもミホノブルボンが平然としていないことが見て分かるので、厳しい表情を浮かべた。

 

 考えることが多く難しいが故に、ミホノブルボンは自分のペースが乱れていることに気づいていない。

 そして、長距離の菊花賞──京都の芝3000メートルにおいて、これは非常にまずい。

 中距離ならば多少の乱れが起きても、ミホノブルボンほどの能力があれば押し切れるかもしれないが、この長距離でそれが通用するかどうか。

 

 それほどの圧倒的な能力──三冠ウマ娘に相応しい能力を、ミホノブルボンが有しているのかどうかが問われる。

 

(ブルボンさんに、ついてく……!)

 

 一方のライスシャワーはミホノブルボンの背中だけを見据え、自分のペースを刻みながら追いかける。緊張は少ししているが、頭は冴えていて、落ち着いている。

 目標はミホノブルボン。ハッキリしている。ライスシャワーが見るべきはミホノブルボンだけだ。

 

『18人が縮まって、ミホノブルボンまだ2番手。満を持している感じであります。ミホノブルボンは2番手、満を持している感じ』

 

 バ群が第3コーナーに差し掛かった。

 縦長だった隊列が詰まって来て、一時は3バ身から4バ身あった先頭キョウエイボーガンと2番手ミホノブルボンの間隔も、1バ身あるか無いかというくらいになった。

 同じように、ミホノブルボンとライスシャワーの距離も縮まっている。

 

 二度目の坂を上り終え、いよいよ下り──と、ここでレースが動いた。

 

『さあ身体を合わせに行く、ここでかわしに行ったミホノブルボン!』

 

 3・4コーナーの中間、ミホノブルボンが少し外に出て、前を走るキョウエイボーガンに並びかけて行った。

 これが早いか遅いか、ミホノブルボンには迷いも残されていたが、キョウエイボーガンがバテ始めているのも見えていた。一瞬の判断で「ここだ」と、ミホノブルボンは踏み切った。

 

(このまま下り坂を利用して加速し、ゴールまで逃げ切ることがベスト──と演算します……!)

 

 坂の下りを発射台(カタパルト)にし、坂の無い直線コースに入り、後続の追撃を凌ぎ切る──と、ミホノブルボンは決断した。

 まだ余力は残っている。坂を下る勢いも利用すれば、充分に逃げ切りは可能なハズだと。

 

『ようやくここで、ミホノブルボンが先頭に立った!

ミホノブルボン先頭で、第4コーナーをカーブする!

 後400メートルだ! どこからでも、何でも来いという感じかミホノブルボン!!』

 

 最終コーナーを曲がり、再びホームストレッチへ──最後の直線、京都外回り400メートルへと入って行く18人。

 先頭はミホノブルボン。後続へのリードはほぼ無いが、ミホノブルボン自身にも脚はあった。

 

「逃げ切り態勢に移行──三冠へ、吶喊します!!」

 

 ミホノブルボンがスパートをかけた。

 ようやくいつも通りの景色、いつも通りの展開になった。後は何も考えず、死力を尽くしてゴールまで脚を伸ばし続けるだけだ。

 

「───ライスも、ライスだって!」

 

 そして、その背を追うは小さな黒い影。

 ミホノブルボンの真後ろから、黒い刺客が末脚を爆発させる。

 

『ミホノブルボン、ライスシャワーが襲いかかって来る!! 外からライスシャワー!! 外からライスシャワー!!』

「逃げろ!! 逃げ切れブルボン!! ミホォォォッ!!!」

「───行け、ライス……!」

 

 オルガが絶叫し、三日月も拳を握る。

 スタンドから地面が震えるほどの歓声が湧き、ミホノブルボンが僅かに先頭を守ったまま、残り200メートル地点を迎える。

 

『200を切った!! さあミホノブルボン逃げる逃げる!!

 しかし外からライスシャワー!!』

 

 ミホノブルボンとライスシャワーが並ぶ。

 全く横並びになった2人は、全く同じように、時間が止まったような感覚を覚えた。

 

 一度も敗北しないまま、此処までたどり着いたミホノブルボン。

 何度も敗北し、重賞勝ちすら無く此処まで来たライスシャワー。

 

 全く対称の2人。それでいて、トライアルからずっと一緒に、クラシック戦線を走って来た2人。

 1着と8着、1着と2着。一冠目、二冠目と2人の差は縮まり──そして今、三冠目で2人は並んだ。

 全く横に並んで、このまま永遠に続くかとさえ思われた一瞬。

 

 しかし───2人が並んだのは、ほんの一瞬だけだった。

 

 

『外からライスシャワーがかわしたか!! ライスシャワーかわしたか!!

 ああライスシャワー、先頭に立った!!』

 

 

 

 ライスシャワーが、ミホノブルボンを抜き去った。

 

 

 残り100メートル地点。

 三冠まで残り100メートル。三冠まで残り10秒という地点で、ミホノブルボンとライスシャワーの間には、決定的な距離適性による差が開かれた。

 

『ミホノブルボンは三冠にならず!!

 ライスシャワーです!!!』

 

 菊花賞、決着。

 

『ああーっ、という悲鳴に変わりましたゴール前!! ああーっ、という悲鳴に変わりましたゴール前!!

 昨年のレオダーバンと同じように、ダービーの2着が菊花賞を制しました!!』

 

 1着、ライスシャワー。

 2着、ミホノブルボン。

 

 ミホノブルボンの三冠の夢は、ほんの僅かな──しかし、決定的な1と4分の1バ身という差を以て、確かに潰えた。

 

『勝ち時計3分5秒0はレコード!! ホリスキーが出しました、3分5秒4のレコードタイムを破りました!! 8番のライスシャワー!!』

 

 静まり返ったレース場に、電光掲示板に点った「レコード」の赤い文字を見た実況の声だけが響く。

 ミホノブルボンもまた、この菊花賞をレコードタイムで駆け抜けたにも関わらず──その前には、漆黒のステイヤーが走っていた。

 

 ミホノブルボンには間違いなく、三冠を達成し得る実力があった。

 ただ、この世代にはたった1人、史上でも屈指のステイヤーがいた───これが、クラシック三冠の壁である。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……や、やった……!」

 

 ライスシャワーはGⅠ初制覇。

 彼女は汗を拭い、息を整えながら、笑顔でスタンドに目を向けるが───

 

「────あれ……?」

 

 歓声は無い。スタンドは依然として、静まり返ったままだ。

 目の前で三冠の夢が潰え、観客の多くが、落胆し肩を落としていた。

 

(ど……どうして───)

 

 その光景に、ライスシャワーは胸を締め付けられるような苦しさを覚えた。

 どうしていつもと違うのか。GⅠを制したウマ娘は、大歓声によって讃えられるのではないのか───

 

(ライスが、ブルボンさんの三冠を、阻止しちゃったから……? ───みんなは、ブルボンさんが勝つのを見たかっただけで……ライス、ライスは…………)

 

 息が詰まり、呆然と立ち尽くすライスシャワー。

 パラパラと少しずつ発生し、やがてスタンド全体から湧き起こった拍手も、ライスシャワーの耳には届いていなかった。

 

「───負け、た……」

 

 僅かの差で、初の敗戦を喫したミホノブルボンは、肩で息をしながら天を仰いだ。

 夢が終わった。ミホノブルボンが抱いた三冠の夢は今、叶うことなく打ち砕かれた。

 

 ただ、不思議なことに──ミホノブルボンの心は、どこか晴れやかだった。

 

 負けたことはとても悔しい。

 本当に目の前まで迫っていた三冠を逃した、人生でたった一度のチャンスが消えたことは、非常に残念である。

 だが──ここまでやって、万全の状態で挑んで、それでも負けたのなら、悔いは無いとも思えた。

 

 今日はライスシャワーの方が強かった。

 

 それだけのことだと素直にそう思い、彼女の健闘を讃えようと、ミホノブルボンはライスシャワーに歩み寄った。

 

「ライスさん。おめでとうございま───」

「ご、ごめんなさい……!」

 

 しかし、ライスシャワーはミホノブルボンに声をかけられた瞬間、逃げ出してしまった。

 そのまま一番近くの地下バ道への入口に、ライスシャワーは消えて行く。──勝者は普通、スタンド前の入口から帰って行くのだが。

 

「───どうして、貴女がそんな顔をするのですか」

 

 一瞬見えたライスシャワーの表情。それが不可解で、痛々しくて──ミホノブルボンはライスシャワーが消えて行った地下バ道の入口に向かって、小さく呟くのだった。

 

 

   ◇

 

 

 ミホノブルボンが三冠を逃し、関係者席にも少なからず落胆のため息が広がっていた。

 特に担当のオルガは、頭を抱えてしまっていた。

 

「……あのさ、大丈夫か?」

 

 両手で頭を抱え、俯いたまま動かないオルガに、普段は口調が丁寧とは言えないレガシーワールドが、真面目に心配して恐る恐る問う。

 しかし、オルガからの反応は無い。

 

「───大方、もっとやれたことはないのかと考えているのだろう。分かるよ。そういう葛藤は、私にも覚えがある。

 だが、時は戻らない。数分間の一発勝負、それがトゥインクル・シリーズだ。レースがやり直されることはない。

 どんなに残酷なモノであっても、結果は、現実はただ黙して受け入れるしかない」

 

 オルガに対し、マクギリスは言う。そして続ける。

 

「そういう考え方は、何より勝者に失礼だろう。この菊花賞、京都芝3000メートルという舞台では、ミホノブルボンよりもライスシャワーの方が強かったというだけだ。

 それに──過去を悔やめるほど、我々は暇なのか? そうではないだろう、オルガ団長」

 

 オルガの肩が、僅かに動く。

 

「ミホノブルボンがこれで引退するわけではない。

 我々が考えるべきは、次のレースで担当ウマ娘を勝たせるためにはどうするべきかということだ」

 

 確かに、クラシック三冠はトゥインクル・シリーズにおける一つの大きな目標だ。

 だが、クラシックだけがトゥインクル・シリーズの全てではない。あくまで一部、通過点でしかないとも言える。

 クラシック三冠に全く関係ないところで活躍するウマ娘や、クラシック三冠が終わってから勝ち上がって来るウマ娘、クラシック三冠が終わってからも活躍するウマ娘などは非常に多いのである。

 

 無敗で二冠を制し、唯一落とした三冠目でも勝者と差の無いレースをしたミホノブルボンが、今後の活躍を熱望されるウマ娘であることに間違いは無い。

 ライスシャワーとの再戦もそうだが、メジロマックイーンやトウカイテイオーなどシニア級のウマ娘たちを相手に、どのような走りを見せるのか──次に楽しみにすべきはそこだろう。

 

「ミホノブルボンは走り続ける。ファンはこれからもミホノブルボンを応援するし、彼女の走りに夢を見続ける。

 ウマ娘が万全の状態でレースに挑めるよう、彼女たちをサポートすることが我々の仕事だ。

 情けなく頭を抱え、担当ウマ娘に不安を抱かせるような無様を晒しているようでは話にならん」

 

 マクギリスの言葉に、オルガは自分の両頬を叩いた後、顔を上げた。レガシーワールドは少し驚きつつ、オルガがいつも通りに戻ったことに笑みを浮かべる。

 

「そうだな、次また勝てば良いんだ。行くぜ」

 

 オルガは立ち上がり、ミホノブルボンの下へ行こうと歩き出す。それに着いていくレガシーワールドの背中を見届けて、マクギリスは空の彼方を見据える。

 

「───そうさ。次また勝てば良い」

 

 マクギリスが思うのは、自らが担当する去年の無敗の二冠ウマ娘、トウカイテイオーのこと。

 先週のシニア級GⅠ「天皇賞(秋)」で復帰し、復活を期すトウカイテイオーが次の目標とするGⅠ「ジャパンカップ」は、早くも今月末にまで迫っていた───




次走「波乱の天皇賞」
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