時は、菊花賞の1週間前に遡る。
春の骨折が癒えたトウカイテイオーの目標は、秋シニア三冠──まずその一冠目となる東京芝2000メートル、GⅠ「天皇賞(秋)」に定めた。
私の目から見て、「無敗の三冠」「生涯無敗」を掲げていた頃に比べると、いささか覇気が欠けるような気もするが、トウカイテイオーの持つ能力が素晴らしいことに間違いは無い。
その上、この府中の2000メートルという舞台は、間違い無くトウカイテイオーにマッチする──と考え、調整を進めていたのだが。
「ゴホッ、ゴホッ……うう、何でこんな時に……」
その途中、トウカイテイオーは熱を出し、寝込んでしまった。
季節の変わり目で体調を崩しやすい時期だ。実際にこじらせてしまった以上は致し方無いが──病気というほどでもない、あくまで単なる風邪だったとはいえ、これによりトレーニングは一時中断。
数日で全快する程度のモノだったが、これによってレースに向けてのトウカイテイオーのコンディションの調整には、狂いが生じることになった。
『さあ、天皇賞(秋)の本バ場入場です!』
一時は回避も検討することになったが、メニューを調整して何とか立て直した結果、トウカイテイオーの姿は今日、ターフの上にある。
しかし──ハッキリ言って、万全の状態ではない。
トウカイテイオーへのファンの期待は大きい。トウカイテイオー自身、それに応えたいということで、この天皇賞(秋)への出走を決断したわけだが───
「───背水の陣、というヤツだな」
ターフビジョンに映る、トウカイテイオーの走る姿を確認しつつ、私は呟いた。
やはり今日のトウカイテイオーは、100パーセントの能力を発揮できる状態にない。
しかし、その名から「帝王」なる異名を取り始めた「無敗の二冠ウマ娘」トウカイテイオーが、この舞台でこれ以上の醜態を晒すことは許されないだろう。
天皇賞(春)は距離不適で敗北を喫したが、この天皇賞(秋)は知り尽くした東京レース場であり、距離も一冠目の皐月賞と同じ2000メートル。
トウカイテイオーの得意とする距離である。
メジロマックイーン不在の今年の秋シニア三冠路線において、トウカイテイオーは中心的存在だ。春には2000メートルのGⅡ「産経大阪杯」を圧勝してもいる。
次走、日本ダービーと全く同じ条件で争われるGⅠ「ジャパンカップ」のためにも、未だ誰も成し遂げていない秋シニア三冠制覇を達成するためにも、秋の盾は掴み取っておきたい。
「……ただ、相手も一筋縄では行かん」
1番人気はトウカイテイオーだが、彼女以外にも注目のウマ娘は多い。
「───今日こそは……!」
怪我から復帰し、前哨戦である東京芝1800メートルのGⅡ「毎日王冠」を叩きつつ、この天皇賞(秋)に出走して来たナイスネイチャが2番人気。
昨年の菊花賞で掲示板に載り、有馬記念でも3着という中長距離実績と安定感が、ファンの目には魅力的に映っているようだ。
「アゲてこウェーイ!」
3番人気はダイタクヘリオス。
毎日王冠をレコード勝ちしての参戦である。
昨年の京都芝1600メートルのGⅠ「マイルチャンピオンシップ」を制していることから、本質的にはマイラーと考えられ、それ故にナイスネイチャよりも評価を落としているものの、今日逃げて自分のペースを作るであろうウマ娘の一人だ。GⅠ勝ちがある、というのは侮れない。
この他にもコンスタントに出走し続けて重賞戦線で活躍する、本日4番人気のイクノディクタス。
春のグランプリGⅠ「宝塚記念」を逃げ切っており、ダイタクヘリオスと共にレースを引っ張ると見られるメジロパーマーなど、秋の盾を争うに相応しいメンバーが顔を揃えた。
「今日のレースは、思っているよりも厳しいレースになるやもしれんな───」
自分の表情が固くなっていることを自覚しつつ、私は関東GⅠファンファーレを聞き届けるのだった。
◇
『さあ天皇賞のファンファーレが、この満場の東京レース場に響き渡っています!
そして今日のペースなんですが、恐らくメジロパーマーが行くことになるんでしょうか。逃げ宣言をしてますが、細江さん』
『いえ、行くのはダイタクヘリオスだと思います。やはり短距離ウマ娘ですから、テンの速さは彼女に軍配が上がるのではないかなと』
ゲート入りがスムーズに進んで行く中で、実況解説がレース展開の予想を述べている。
強力な逃げウマ娘が2人もいるレースだ。マイルを主戦場とするダイタクヘリオスが、テンのスピードの差でハナを取りきり、メジロパーマーがその後ろを追走する形になるだろう。
『そうなると、かなりペースが速くなるんじゃないかと思いますが』
『そうですね。50……8秒くらいにはなるんじゃないかなと思います。このハイペースで、他のウマ娘がどうするかが、レースのポイントになりますね』
東京レース場の芝2000メートルは、ただでさえポジション争いが熾烈になるコースだ。
理由は簡単──スタート地点から最初のコーナーまでの距離が、極めて短いからである。
ゲートは1コーナー奥のポケット地点に設置され、第2コーナーまでは実に100メートル程度しかない。長く思えるかもしれないが、ウマ娘の脚ならば5秒で走破できてしまう距離だ。
『今、テイオー入りました。トウカイテイオー、今日は7枠15番からのスタートです』
加えて第2コーナーをほぼ直角にカーブして行くことになるため、外枠のウマ娘は内枠のウマ娘に比べると距離ロスがかなり大きい。普通に走っているだけでは、カーブの際にポジションを1列か2列は強制的に下げさせられる。
前目につけたい先行ウマ娘が外枠に入った場合は、スタート直後から脚を使って、かなり積極的にポジションを取りに行かなければならない。
そこでスタミナを消費した分、最後の長い直線で苦しくなってしまうので、外枠は基本的に不利。枠順による有利不利が顕著に出るコースとも言えよう。
かと言って最内枠が絶好かというと、必ずしもそうではない。
スタート地点からの距離が短い分、最初のコーナーにウマ娘が横並びに近い状態で殺到することになるので、出遅れた場合──いや、出遅れとまでは行かずとも出負けした場合、包まれてポジションを下げざるを得なくなる。
『問題は第2コーナー、去年の悪夢が脳裏に蘇りますが──さあ、スタートしてからの2コーナーまでが問題だ!』
昨年は外枠のメジロマックイーンが先行するためにポジションを取りに行った結果、玉突き事故のように内側のウマ娘が不利を被り、1位入線のメジロマックイーンが進路妨害で降着という事態になった天皇賞(秋)。
要点は最初のコーナーまで、わずか5秒のポジション争い。そして、ダイタクヘリオスとメジロパーマーという2人の強力な逃げウマ娘が、前半1000メートルをどれくらいのペースで行くのか───
『秋の天皇賞、今スタートが切られました!』
2分の決戦、秋の盾を懸けた一戦が開幕する。
トウカイテイオー、ダイタクヘリオス、メジロパーマーなど先行勢は良いスタート。有力どころも流石の好スタートを決めている。
『さあ行く行く、二コーナーここが問題! 第2コーナーここが問題!
トウカイテイオーは一気に4番手、3番手、一気に2番手まで行くのかトウカイテイオー現在4番手!』
4秒足らずの先行争い。やはり行くのはメジロパーマーとダイタクヘリオス。
トウカイテイオーはその直後くらいにつけ、バ群が団子状態のまま2コーナーを直角に曲がり、長い長い向正面へと向かって行く中で、隊列が整って行く。
「爆逃げーっ!! 行くのはあたしだーっ!!」
「ウェーイ!! 行くよズッ友ーッ!!」
『さあ向こう流しに入って行く! メジロパーマーが行く、ダイタクヘリオスが行く!
そして黄金の髪トウショウファルコ、15番のトウカイテイオーは4番手! トウカイテイオーは素晴らしい位置取り、4番手!』
後先考えず爆走して行く爆逃げコンビの背を見る位置、内側の単騎4番手の位置にトウカイテイオーは収まった。
先行ウマ娘として完璧な、ある種理想の位置取り。ゴチャついた第2コーナーに外枠から入りながらも、トウカイテイオーは上手く内に入り、内ラチ沿いの経済コースを確保した形だ。
(負けられない──今日勝って、ボクは『最強無敵のウマ娘』の名を取り返す!)
「───内に入れた。流石だな、トウカイテイオー」
ポジション争いは100点満点だ、とマクギリスは満足げに頷く。
夢破れた後、マクギリスはトウカイテイオーのモチベーションに不安があった。しかし、積極的なポジション取りから「勝ちたい」という気持ちを感じ、マクギリスは安心を覚えることができた。
───ただ、問題はこの後だが。
「……あの2人に、マトモについて行く選択をしたか。前半のペースがどうなるか───」
スタンド上階で見守るシンボリルドルフは、トウカイテイオーのポジションは良いと感じながらも、少し速いのではないかとも思っていた。
競り合うように逃げるメジロパーマーとダイタクヘリオスは、直線で垂れることも厭わず、先頭でトバしている。ただでさえ直線が長く、差し・追込が決まりやすい東京コースで、このハイラップがレース展開にどう影響してくるか。
『トウカイテイオーの後ろ、8番のイクノディクタスが控えています。そして11番のナイスネイチャはここ。
7番がヤマニングローバル、カリブソングがいて、ミスタースペイン。その後ろが17番のジャニス、16番のオースミロッチ。
縦長の展開になりました!』
向正面、バ群が縦に長く広がる。
前が速いが故の光景だ。やはり相当なハイペースになっていると見て間違いない。
『さあ、その後方は若干開いておりますが、5番のツルマイナス。そしてホワイトストーンがここ、後方からはレッツゴーターキン。
14番がメイショウビトリア、そしてタニノボレロ、12番のムービースターは後方から。
そしてヌエボトウショウも後方待機、こんな態勢で3コーナーの坂を既に下っております十八人!』
第3コーナー、高低差1メートルと70センチの坂を上って下りながら、バ群が向正面から3・4コーナーの中間地点──東京レース場の名物、大ケヤキへと差しかかる。
と、ここで残り1000メートルの標識をダイタクヘリオスとメジロパーマーが通過し──場内から、大きなどよめきが起こった。
『注目の前半1000メートルは──57秒5!!』
実況も驚きとともに、狼狽えながら電光掲示板に表示された通過タイムを読み上げた。
2000メートル戦における前半1000メートル通過の平均タイムが大体1分くらいなので、それより3秒も速い異常な通過タイム。やはり超ハイペースになった。
「───まずいな」
マクギリスの頬に冷や汗が垂れる。これはまずい。
先行ウマ娘にとって最悪の展開。ハイペースにマトモに追走した先行勢の脚が鈍った瞬間、後方脚質のウマ娘たちが突っ込んで来る流れだ。
バ群も縦に長く広がっている。後方を走るウマ娘たちの通過タイム自体はそんなに速くない。恐らく、脚は溜まっているだろう。
『さあ、先頭はここでダイタクに代わったか! ダイタクヘリオスが先頭に立った、メジロパーマーは2番手に下がった! メジロパーマーは二番手に下がった!
さあ、そしてトウカイテイオーは、そしてトウカイテイオーは一体どんな位置取りを取るんでありましょうか! 4番手がトウカイテイオーであります!』
3・4コーナー中間地点、スタンドを正面に見ながら、トウカイテイオーは息を吐く。
右斜め前を走るメジロパーマーが少し苦しくなったように見えているが、未だ背中しか見せないダイタクヘリオスは余力を残していそうである。
背中ではナイスネイチャやイクノディクタスの視線を感じ取りながら、トウカイテイオーは仕掛けどころを考える。
(ペースが速い気がするけど、300メートルくらいであの子を捕まえて、押し切って勝つ──!)
3番手を走っていた金髪のウマ娘がスタミナ切れで下がって来たことを合図に、トウカイテイオーはジワジワとポジションを上げていく。
開いている最内を通って、3番手のウマ娘をかわして2番手のメジロパーマーに並びかける。
『インコース、インコース。トウカイテイオーはインコース。トウカイテイオーは早くも2番手に上がっている、後続の各ウマ娘も一気に襲ってくるか!
さあ17万の大歓声、第4コーナーをカーブして直線コースに入って来た!』
先頭はダイタクヘリオス、2番手にトウカイテイオーが上がって来て、縦に長いバ群が詰まって来た状態で最終コーナーをカーブする。
眼前には東京レース場の直線コース、525メートルを残すのみ。盾の栄誉まで30秒を切った。
『さあ先頭はダイタクヘリオス! ダイタクヘリオス先頭、ダイタクが先頭だダイタクが先頭だ!
まだか、テイオーはまだかテイオーはまだか! テイオーは2番手! トウカイテイオーは2番手!』
「任せてパマちーーーん!!!」
メジロパーマーがズルズルと下がっていく一方、先頭で逃げ粘るダイタクヘリオス。
トウカイテイオーは焦るな、と自分に言い聞かせながら、ダイタクヘリオスをかわしに行くタイミングを見計らう──が、一方で自分の脚が少し、重いことを感じていた。
『外の方から懸命にナイスネイチャが突っ込んで来ている、ホワイトストーンもやって来た! 更にはヤマニングローバル!
さあインコース、懸命にトウカイテイオーだ! トウカイテイオーがインコースから!!』
「外は、無理──だけど!」
トウカイテイオーが脚に力を込め、全力で蹴る。
外に進路を切り替えていては最後まで持たない、とトウカイテイオーは直感的に判断して、狙ったのは最内。
ダイタクヘリオスと内ラチの間、1人分だけ開いているスペースに、トウカイテイオーは突っ込んだ。
『先頭ダイタクヘリオスに、最内からトウカイテイオー! さあ、2人の対決になるのか!
しかし、外から一気に後続が押し寄せて来た!!』
ダイタクヘリオスに並びかけ、かわして行こうとするトウカイテイオー。
しかし、やはり前半のハイペースが響いているのか──その伸び方はジリジリとしていて、爆発力が足りていない。脚が溜まっていない、がそれでもトウカイテイオーは、意地で先頭へと躍り出んとする。
「もう、負けられないんだあああッ!!!」
残り200、標識の横でトウカイテイオーがダイタクヘリオスを競り落とし、先頭に立った。
しかし、後続のウマ娘も殺到していて、バ群は横に広がった。誰が抜け出すのか分からない、完全な横並び。トウカイテイオーのリードはアタマ差ほど。
『一気に後続が押し寄せた!! 一番外からレッツゴーターキン!! レッツゴーターキン!!』
余力は無いが、根性で粘り込もうとする最内のトウカイテイオー──とは対照的に、バ場の外に出して末脚を炸裂させたウマ娘たちが、凄まじい勢いで抜け出して、内で悶えるウマ娘たちを置き去りにして行く。
(そんな───)
右斜め前、勢い良く抜け出すウマ娘たちの背を見たトウカイテイオーは──呆気なく、沈んで行った。
『レッツゴーターキン!! ムービースター!! ヤマニングローバル、ヤマニングローバル!!
レッツゴーターキンだッ!!!』
そのまま、天皇賞(秋)はゴールの時を迎えた。
『なんとびっくりレッツゴーターキン!! そして2着にムービースター!!
レッツゴーターキンやったッ! レッツゴーターキン、大外一気に駆け抜けた!! 1分58秒6!!
勝負はインコースの2人ではなかった!! 外から伏兵レッツゴーターキン、ムービースター!!』
勝者は11番人気、レッツゴーターキン。
2着は5番人気ムービースター、15番人気のヤマニングローバルが3着。
4着にナイスネイチャが粘ったものの、結果は実績上位のウマ娘の総崩れとなり、大波乱の幕引き。
トウカイテイオーは7着。
デビューして初めて、掲示板を外してしまった。
「───また、負けちゃった……」
呆然と、トウカイテイオーは着順掲示板を眺める。
自分の番号が掲示板に表示されないのは、初めての経験だった。
「……勝たなきゃ、いけなかったのに。もう、負けられなかったのに───」
絶対的な王者に、初めての超長距離に挑んで敗れた春の天皇賞とはわけが違う。
2000メートルの東京レース場──トウカイテイオーにとって、絶好の舞台であったハズなのに、7着。
1番人気だったことを考えれば、「惨敗した」と表現して差し支えない結果である。
「……テイオー」
項垂れるトウカイテイオーの小さな背を見て、シンボリルドルフは眉尻を下げる。
ちょうど、シンボリルドルフが経験した天皇賞(秋)と似たような形になった。最内で粘っているウマ娘が、大外から差し切られる──大外から飛んで来て、自分を差し切ったウマ娘の姿を思い返し、シンボリルドルフは拳を強く握りしめた。
「強いマイラーウマ娘が出走していたことも、内で粘り込むことも、大外から伏兵に差し切られることも同じ───何の因果なのだろうな、これは……」
ポツリと、シンボリルドルフはそう呟く。
シンボリルドルフが敗北した舞台で、トウカイテイオーも敗北する──負け方まで同じとは、どういう運命の悪戯なのかと、シンボリルドルフは思った。
「───体調、枠順、展開。言い訳はできるが、そんなことに意味は無い。負けは負けだ」
眉間にシワを寄せて、マクギリスは険しい表情を浮かべたまま、着順掲示板を凝視する。
トウカイテイオーはこれで2連敗。
春秋の天皇賞で辛酸を舐めたことになる。
(スケジュールが狂った時点で、ジャパンカップを最大目標に定めたとはいえ──こんな負け方では、そんなことも言えんな)
現役最強のウマ娘として、次こそは本当に負けられないレースだ。
何せ、GⅠ「ジャパンカップ」の舞台は東京芝2400メートル──日本ダービーと、全く同じ舞台なのだから。
「ジャパンカップまで1ヶ月──私の手腕も試されるが、君の真価ももう一度、問われることになる」
意気消沈、という雰囲気で内バ場側の地下バ道の入口へと消えていくトウカイテイオーの背を、マクギリスは厳しい視線で見送った。
次走「夢のために」