4月25日、新緑に彩られた京都レース場。
芝3200メートルの長丁場、世界最高峰の超長距離GⅠ「天皇賞(春)」の日が、今年もやって来た。
世間の注目を集めるのは、前人未到の天皇賞(春)3連覇のかかったメジロマックイーン。
天皇賞(春)の3連覇は勿論、同一GⅠの3連覇も、日本では前例が無い。達成されたならば、まさしく大偉業と呼ぶに相応しい。日本は愚か、世界的にも大記録と言えるものになるだろう。
メジロマックイーンがシニア級となって、今年で3年目。こうも長く走っていては、どんなウマ娘にも衰えというものが見え始める頃である。
昨年秋は重い骨折により戦線離脱をしており、そういう意味でも競走能力の衰えも心配されたメジロマックイーンだったが、春の始動戦となったGⅡ「産経大阪杯」を完勝したことで、その心配が杞憂でしかなかったことを証明した。
今日のメジロマックイーンは、勿論1番人気。
メジロマックイーン自身、三度目の天皇賞(春)となれば、何の不安も無い。
「───調子はどう、マックイーン」
「勿論、今年も絶好調ですわ」
パドックから本バ場へ向かう地下バ道。待ち構えていたトウカイテイオーに、メジロマックイーンは余裕の表情でそう返した。
「貴女ともう一度戦うまで、王者であり続けると約束しましたわ。メジロ家の誇りにかけて、貴女との約束にかけて──情けない走りは致しません」
「うん。3連覇、頑張ってね」
「記録は意識しませんわ。
トウカイテイオーが持ち上げた右手に、メジロマックイーンは通りすがりざまに左手を重ねる。2人の手がぶつかると、軽い音が静かなバ道に鳴り響いた。
メジロマックイーンは本当にいつも通り。去年までと何も変わらない、とトウカイテイオーは思った。
3連覇に向かって視界良し、というメジロマックイーンの背中を見届けるトウカイテイオーだったが──ふと、背中に突き刺さるような重圧を受けた。
(───な、何……!?)
冷や汗が流れるのを感じながら、トウカイテイオーが振り向くと──その目には、1人の小さなウマ娘が、一歩ずつ近づいてくる姿が映った。
(……今日も、勝たせてもらいます)
一方、トウカイテイオーと別れたメジロマックイーンは本バ場の入口の前で立ち止まり、一度深呼吸をした。
トウカイテイオーには「記録など気にしていない」と言ったものの、マスコミで散々報道されたり、色々な人に言われる中で、3連覇という重圧は少なからず感じている。
だが、恐れることはない。今まで通り、昨年や一昨年のように走れば、結果はついてくる。間違いなく──
(────ッ!!?)
──と、思っていたメジロマックイーンだったが。
突如、彼女は身体を震え上がらせた。
足音が近づいて来る。
その場を流れる空気が変化する。本バ場の方から聞こえてくる歓声が遠くなっていく。
息が詰まるような重圧──いや、最早それは「殺意」とさえ呼べるものだと、メジロマックイーンは感じた。
何だ。これは何だ。後ろには、何がいる?
「な───」
振り向いたメジロマックイーンは、絶句した。
そこにいたのはただ1人。ゆっくりと一歩ずつ、本バ場へ向かって歩みを進める、小さなウマ娘──の、ハズなのに。
「鬼」がいる。
メジロマックイーンは、彼女を見た瞬間、そう思った。
あんなウマ娘は見たことがない。
これまで4年間、メジロマックイーンはトゥインクル・シリーズで走って来て、数多のGⅠに出走して来た。様々なGⅠウマ娘を見て来た。世界のウマ娘とも共に走った。
なのに───何だ、これは。
何を、見せられているのか。今、目の前にいるこのウマ娘は、一体何なのか。
(……あり得、ない)
黒い勝負服に包まれた、小さく細い身体。
しかし──彼女の身体は、極限まで削ぎ落とされていた。
無駄な肉が全く無い。身体の全てが、走るためのモノ。ウマ娘という生物は、あんなにも身体を絞ることができるのか。あそこまで仕上げることができるのかと、メジロマックイーンは恐怖した。
何より、そのウマ娘が纏う雰囲気は、異次元だった。
メジロマックイーンは、彼女の身体を包む青いオーラを幻視した。髪に隠されていない瞳が、煌々と輝いているように見えた。
まるで飢えた肉食獣のようだと、メジロマックイーンは思った。アレは、狩るべき獲物を求めている。闘争の時を待ち望んでいる。
そして───その獲物とは、恐らく。
「──────」
視線が合うこともない。
メジロマックイーンの隣を、その鬼は──ライスシャワーは、ただ静かに通り過ぎて行った。
◇
スタンドの関係者席で、トレーナー達は出走ウマ娘たちの本バ場入場を待つ。
その中で、いつになく緊張した面持ちなのが、メジロマックイーンのトレーナーであるガエリオ・ボードウィン。
「今日は随分と面白い顔をしているな、ガエリオ。メジロマックイーンの菊花賞以来の、吐きそうだという顔だ」
「……仕方ないだろ。3連覇だぞ、3連覇」
茶化してきたマクギリス・ファリドに、ガエリオはほんの少し緊張が解けた様子で返す。組んだ腕の袖は、これ以上ないほど握りしめられていたが。
一方──珍しく緊張した表情を浮かべているトレーナーが、もう1人いた。
「───ミカ。どうした?」
「……オルガ」
ライスシャワーのトレーナー、三日月・オーガス。
いつも飄々としている彼だが、今日は口を固く結び、腕を組んでいた。そればかりか、少し身体が震えていて、汗を流している。
──三日月とは付き合いの長いオルガだが、こんな三日月を見るのは初めてだった。
「……なぁ、大丈夫か? 体調でも悪いのか」
心配した様子で問うオルガ。対して、三日月は無言で首を横に振った。
「そういうことじゃ、ないんだけど───ねぇ、オルガ。
ウマ娘を、怖いって思ったことある?」
「は?」
キョトンとするオルガ。確かにウマ娘は、人間を遥かに超える身体能力を持っている。それを怖い、と感じる者ももしかしたらいるのかもしれないが──
「そんなこと、俺は覚えはねぇが──何なんだ、急に」
「……俺はある。ついさっき、ライスを見て思った」
「───どういうことだよ?」
ライス、といえばライスシャワーのこと。三日月にとっては担当ウマ娘だ。特にこの1ヶ月、三日月はほぼつきっきりで、ライスシャワーのトレーニングをしていた。
その彼女を「怖い」と、三日月は言う。相棒が何を言っているのか、オルガはイマイチ理解できなかった。
「……ライスは、完璧に仕上がったよ。俺はそんなライスを見て、怖くなった。火でも吹くんじゃないかって──近づいたら、噛み殺されるんじゃないかって。
あんなの、戦場でも感じたことなかった」
場内に本バ場入場の軽快な音楽が流れ始め、出走ウマ娘たちの入場が始まった。
それと同時に場内の実況放送が開始され、二度の坂越えに挑むウマ娘たちを1人ずつ紹介していく。
『昨年の菊花賞では、ミホノブルボンを差し切り「無敗の三冠」を阻止。菊花賞と同じ舞台、この淀の地で絶対王者の3連覇をも阻むのでしょうか。
2番人気を背負う、漆黒のステイヤー。打倒メジロマックイーンへ、2枠3番ライスシャワーです!』
拍手に迎えられ、ライスシャワーが本バ場に入った。
三日月は集中して、ターフに出て行ったライスシャワーの姿を見つめる。オルガもそれ以上三日月に話しかけることはなく、固唾を飲んで出走の時を待つ。
『さあ、名優の登場です。昨年はトウカイテイオーを下し、史上初の天皇賞(春)連覇を達成しました。今年は人気も一強体制、復帰戦の大阪杯も制した彼女に、不安は一切ありません。
圧倒的1番人気は8枠14番、メジロマックイーン!』
メジロマックイーンがターフに姿を現すと、場内は一際大きな拍手と歓声に包まれる。
彼女はスタンドに軽く手を振ってから、スタート地点に向かってウォーミングアップとして走り出した。
「───相変わらず、良い走りだ。大阪杯よりも一段上のパフォーマンスを期待できそうだな」
「お前にそう言ってもらえれば、安心するよ」
芦毛を棚引かせるメジロマックイーンの走りを見たマクギリスの言葉に、ガエリオはそう返した。
この舞台に立つまで、メジロマックイーンの全てが上手く行ったわけではない。元々阪神大賞典で復帰予定だったものの、一頓挫により回避を余儀なくされた。
結果、2週後の産経大阪杯に急遽出ることになったのだが──それでも余裕を残したまま勝ち、短い間隔の中で仕上げてきた。
(見事な調整だ。他の担当ウマ娘もクラシック本番に挑んでいる中、立て直しながらここまで持ってくるとはな)
と、マクギリスは素直にそう思う。
実況が言った通り、メジロマックイーンに不安は無い。後は、相対するウマ娘たちがどうか──というところだ。
「───ライス……」
スタンドから見守るミホノブルボンは不安混じりの表情で小さく、同期の菊花賞ウマ娘の名を呟いた。
今日まで、ライスシャワーはミホノブルボンすら経験したことがないような、ハードなトレーニングをこなして来た。少し手伝った身でもあるが──後は、立てた作戦がハマるかどうか。
メジロマックイーンがどれくらいの走りをするか、だけだろう───
◇
『白地にグリーンで鮮やかに彩られた、メジロマックイーンの旗もスタンドで振られています。
そのメジロマックイーンのゲートインです、が───』
関西GⅠファンファーレが演奏され、スタンドを埋め尽くした大観衆の喝采が淀の青い空に木霊した。
───しかし、その歓声はすぐ、どよめきに変わった。
メジロマックイーンが、ゲート前で立ち止まったのだ。
「……何、何ですの──!?」
本人も、進まない自分の足に困惑している。自分の尻尾を掴み、自分の身体を前に引っ張るメジロマックイーンだったが、彼女の両足はゲートに進もうとしない。
『これは少し、ゲートを嫌がっているでしょうか?』
『そうですね……彼女がゲート入りを躊躇うのは、珍しいですね。何かあったのでしょうか?』
騒然とする場内。11万人のどよめきを遠くに聞きながら、メジロマックイーン自身も一歩を歩み出そうとしているが、やはり足は言うことを聞かない。
(な、にが──どうして、こんなことは今まで無かったのに……今日は天皇賞ですのよ!? 何故、こんな……!)
「───マックイーン、大丈夫?」
「……っと──!」
心配そうに、メジロパーマーもメジロマックイーンに声をかける。それで我に返ったのか、メジロマックイーンの足は前に出て、つんのめるように彼女はゲートに入った。
『ああ、入りましたね。ようやく気持ちができたのでしょうか、メジロマックイーン。ゲートに納まりました』
他のウマ娘たちも躊躇していたメジロマックイーンを傍目に、次々とゲートに入っていた。
ライスシャワーは既にゲートの中、目を閉じて集中している。メジロマックイーンのことを気にかけながら、メジロパーマーもゲートに納まり、頭を切り替える。
(マックイーン、どうしたのかな──じゃなくて。今日も、爆逃げするッ!)
(さっきのは、一体──いえ、終わったことです。集中しなさいマックイーン、春の盾がかかってるのよ)
メジロマックイーンはゲートの中、気持ちを切り替えんとして軽く自分の両頬を叩いた。──それで、さっきまでの焦りと戸惑いは消えた。
いつも通り、いつも通りの走りを──と、メジロマックイーンは20分前にトウカイテイオーに自分が言った言葉を思い出す。トウカイテイオーのためにも、今日も強いメジロマックイーンの姿を見せると、彼女は決めている。
『15番のキョウワユウショウが入りまして、いよいよスタートであります、第107回の天皇賞!』
出走ウマ娘15人、全員のゲートインが完了。
春のシニア級最強決定戦、3分半の長丁場。険しい淀の坂を二度越えた先に、掴むらくは天皇の大盾───
『ゲートが開いて、15人がゆっくりと飛び出しました! ゆっくりと飛び出しました!
さあ早くも、9番のメジロパーマーが行きます!』
───天皇賞(春)、開戦。
揃ったスタートから、ポーンと飛び出して行く影はメジロパーマー。
昨年は人気薄の中で春秋グランプリ連覇を達成し、今年は前哨戦の阪神大賞典、タフな阪神3000メートルを逃げ切っての参戦である。
今日は4番人気、大方の予想通りに逃げを打つようだ。
『メジロパーマーが行って、ああ外からメジロマックイーン! メジロマックイーン、メジロマックイーンが早くも2番手に上がる構えであります!』
実況が驚き混じりの声を上げる。普段は先行集団でレースをするメジロマックイーンだが、今日はスタートが良かったのか、何とメジロパーマーに並びかける勢いだ。
「マックイーン!?」
「───これは、想定外か?」
トレーナーのガエリオが思っていたよりも、メジロマックイーンの位置が前になっているらしい。驚くガエリオの隣で、マクギリスは冷静にメジロマックイーンを睨む。
『ライスシャワーもマチカネタンホイザもムッシュシェクルも、あんまり行きません! 9番のメジロパーマーの後ろ、メジロマックイーンがつけました!』
(……珍しいな。やはり、冷静さを欠いているのか?)
何かから逃げるような走りだと、マクギリスは感じた。
先頭に立つメジロパーマーが、坂を上って第3コーナーの入口に差し掛かる。そこから1〜2バ身離れたところ、外目をメジロマックイーンは追走している。
『こうなりますとメジロマックイーンのパターンでありますが、内から1番のキョウワハゴロモ、そして真ん中に4番のムッシュシェクルであります。
その外にメジロマックイーン、ちょっと掛かり気味か? 14番のメジロマックイーン。まだ1周目だ、ゆっくり行こうよ。メジロマックイーン、現在4番手』
1周目、第3コーナーと第4コーナーの中間地点。メジロマックイーンは少し勢いを緩め、内から1番のウマ娘と4番のウマ娘を行かせて、外目の4番手に後退した。
(───落ち着きなさい。まだ、焦る時じゃない……)
一息吐いて、メジロマックイーンはいつも通りのポジション──逃げるウマ娘を見ながら、自分から捕まえるために動き出せる位置に入った。
そのすぐ後ろ、右斜め後ろ。左斜め前にメジロマックイーンの芦毛を見ることができる位置、内ラチ沿いに黒い刺客がつけている。
(……ついてく、ついてく───)
『その後ろからずーっと、3番のライスシャワーであります。ライスシャワー、それからアイルトンシンボリ、そして13番のイクノディクタス。
どのウマ娘もちょっと掛かり気味であります』
ペースが極端に遅いわけではないが、開幕から飛ばしていったメジロパーマーとメジロマックイーン、そしてメジロマックイーンが抑えたせいか、折り合いを欠くウマ娘が多いようである。
メジロパーマーも3200メートルとあってか、いきなり大逃げはしない。まずはペースを落とし、息を入れるつもりらしい。
『シャコーグレイドがいました。その後ろでありますが、内からマチカネタンホイザ5番、マチカネタンホイザであります。それからレットイットビーであります、ジャムシード辺りが続きました。
ちょっと縦長、スローペースになりました』
第4コーナーをカーブして、最初のホームストレッチ。第1コーナーまで500メートルにもなる長い直線コースに入っていく。
スタンドの前、大観衆の声援を間近で受ける場所。ここをどれだけ落ち着いていけるかが、もう一度この直線に来た時の伸び脚につながる。
(──そろそろ、離しに行く……!)
逃げるメジロパーマーは、坂が無いこの直線コースで差を広げにかかりたいところである。
後方にはメジロマックイーン、ライスシャワー、マチカネタンホイザと長距離で強いウマ娘たちが控えている。
坂が無い長い直線に入るまでに、どれだけセーフティリードを作っておけるかが、メジロパーマーが最後まで先頭に立ち続けるためのポイントだ。
『さあパーマーが引き離しにかかった、ムッシュシェクルが2番手であります。メジロマックイーンはようやく落ち着いた、ようやく落ち着いて外外を通ります』
当然、メジロパーマーがどういう逃げ方をするかは他のウマ娘も承知の上である。
特に今バ群の外目につけていて、膨大なスタミナを生かしたロングスパートを武器とするメジロマックイーンは、メジロパーマーを捕まえに動くタイミングも図りながら、レースを組み立てて行く。
(───落ち着いて。いつも通り、いつも通りです)
とにかく自分に言い聞かせるメジロマックイーン。
この中では自分が一番強い。いつも通り、昨年や一昨年と同じレースをすれば、今年も勝てる──メジロマックイーンは、大歓声を聞き流しながら平静に努める。
『大歓声とともに、もう一度じっくりとメジロマックイーンをご紹介したいところでありますが、これです。14番のメジロマックイーン。
テレビをご覧の皆さんも、メジロマックイーンに充分ご注目頂きたいと思います』
白く目立つ芦毛の長髪が、11万人の注目を一身に集める。その陰に潜むは、漆黒の髪をなびかせるライスシャワー。
『第1コーナー、右にカーブを取りました。ライスシャワーはマチカネタンホイザと一緒に、このメジロマックイーンを見るような展開になりました』
淀に愛され、淀を愛するステイヤーたちが、古都の大地を震わせる大観衆に背を向け、2周目に入って行く。
『第2コーナーにかかります、もう一度15人の位置取りを紹介しておきましょう』
2コーナーをカーブし、坂を前にする向正面へ。
先頭は変わらず、春秋グランプリウマ娘が隊列を淀の坂へと引っ張る。
『9番のメジロパーマーであります、9番のメジロパーマーが先頭。例によってかなり差を広げました、スローペース。
4番ムッシュシェクル、4番のムッシュシェクルが2番手。そして1番のキョウワハゴロモ』
メジロパーマーは大逃げ──否、爆逃げに突入。
4バ身、5バ身とリードを取って、ここからもう一度ペースを落としつつ脚を残したいところだろう。
『外からメジロマックイーン。外からメジロマックイーンであります。紫の髪が新緑に映えています』
少し遠くなった背を見据えるメジロマックイーン。
外外をずっと回されているが、スタミナに自信のある彼女にとっては大した問題ではない。メジロパーマーを捕まえに行くタイミングを、落ち着いて見計らう。
『そして5番手、おお来た来た怖いライスシャワー。
3番のライスシャワーがピッタリと内につけて、イクノディクタスがその外へ行っている。内から5番のマチカネタンホイザ、じーっと我慢している』
メジロマックイーンの背後には、変わらずライスシャワー。内を通って距離ロスを避けつつ、彼女の目が捉えるのはメジロマックイーンの背中のみ。
『その外にシャコーグレイド、そして2番のトーワナゴン。外へレットイットビー、6番のタケノベルベット。11番のアイルトンシンボリがいて、12番ジャムシード。
15番のキョウワユウショウ、7番のゴールデンアイであります』
バ群の先頭から最後方まで実況が洗い直したところで、メジロパーマーがペースを引き上げにかかった。
ここからは第3コーナーの坂。二度目の坂越え。高低差4メートル、「ゆっくり上ってゆっくり下る」べき淀の名物、ウマ娘のスタミナを測る心臓破りの坂である。
『第3コーナーの坂、天皇賞はスタミナ勝負。ここからが勝負になります!』
坂を上る15人。──この坂で、レースが動き出す。
(……行きますわよ、パーマー!)
『さあ、早くもマックイーン! 早くもマックイーン、ムッシュシェクルと一緒に2番手!』
メジロマックイーンが、坂を上りながら徐々にポジションを押し上げていき、2番手のウマ娘ムッシュシェクルに外から並びかける。
ムッシュシェクルからメジロパーマーとの距離はもう1バ身から3バ身の圏内。先頭集団が坂の頂上に到達し、ここからは長い下りにかかっていく。
(────マックイーンさんに、ついてく……!)
さあ、メジロマックイーンが仕掛けた。それ即ち、彼女も──ライスシャワーも動くということである。
第3コーナーから第4コーナーへ。坂の下り、ペースが一気に加速する。
『そして、そしてライスシャワーも来た!
ライスシャワーもずーっと、メジロマックイーンの外へ! メジロマックイーンの外へ!
黒い勝負服のライスシャワーが襲いかかります!』
ライスシャワーはメジロマックイーンの真後ろに付け、メジロマックイーンと一緒に上がっていく。
メジロマックイーンが2番手に上がったということは、ライスシャワーも3番手に上がったということである。
それからライスシャワーはコーナーを曲がる遠心力に身を任せ、バ群の外に出て行って、メジロマックイーンよりも更に外へと付ける。
「───ここまでは、作戦通りです」
ライスシャワーの走りを見つめるミホノブルボンは、冷や汗を頬に一滴垂らしながらも、良しと頷く。
「後は、ライスのスタミナ次第──マックイーンか、ライスか……」
少し彼女に助言したトウカイテイオーも、ここからどんな結末が待ち受けているのか、分からない。
ライスシャワーがメジロマックイーンを倒すための作戦自体は、去年トウカイテイオーが取った作戦と同じだ。
メジロマックイーンをピッタリとマークし、メジロマックイーンにひたすら追随する。
ロングスパートにも構わず付き合い、絶対に離されないように、置いて行かれないようにする。
絶大なスタミナを生かしたロングスパートで後続をすり潰すのが、メジロマックイーンのレースだ。
他のウマ娘がバテて止まる中、メジロマックイーンは止まらない。だから1着になる。彼女は自らが仕掛けるタイミングによって、他のウマ娘も含めてレースそのものの流れをコントロールし、支配する。
長距離のスタミナ、中距離のスピード──その両方を問われる京都芝3200メートル、天皇賞(春)の舞台において、メジロマックイーンの能力はずば抜けている。
ウマ娘の最高速度には限界がある。中距離GⅠでも通用するスピードを持ち、脚を最後まで使い続けるメジロマックイーンを、後方一気の末脚で追い抜くのは難しい。
距離を離されたら終わり。逃げ切られる。
だから離されないようにマークし、メジロマックイーンが仕掛けたなら自分も一緒に仕掛け、無茶と承知でついて行かなければならない。
しかし、自分のロングスパートに付き合ってくれるのは、メジロマックイーンにとっては願ったり叶ったりのことである。
大半のウマ娘は、メジロマックイーンに比べてスタミナの絶対量で劣る。メジロマックイーンと同じタイミングでロングスパートを仕掛けたとしたら、メジロマックイーンより先にバテて、勝手に垂れていく。
メジロマックイーンをマークし、絶対に離されないようついて行くというのは、メジロマックイーンを倒すために必要な作戦でありながら、同時にメジロマックイーンが得意とするレースにマトモに付き合うということでもある。
メジロマックイーンを倒すために、メジロマックイーンが望む形のレースをする。
矛盾しているようだが、天皇賞(春)という舞台でメジロマックイーンを倒すにはこうするしかない。
京都芝3200メートルの彼女は完璧である。隙が全く無い。
だからこその絶対王者、だからこそ成し得た連覇。
この場所で彼女を下すには心身共に、全てにおいてメジロマックイーンの性能を上回るしかない。
要するに──この作戦を成立させられるのは、メジロマックイーンと同等以上のスタミナを有している者だけ。
「……けど、今日のライスなら───」
三日月は半ば祈るような気持ちで、第3コーナーから第4コーナー──そして、最後の直線に入らんとしているウマ娘たちに注目する。
『さあムッシュシェクルは一杯になった、パーマー先頭! パーマー先頭、そしてマックイーン! マックイーンが2番手、外からライスシャワー! マチカネタンホイザはまだ来ないのか!
間もなく第4コーナー、マチカネ来た! マチカネタンホイザも差を詰めた!』
「くッ……!」
メジロパーマーのリードはもう潰されていた。メジロパーマーの左横には、涼しい顔のメジロマックイーン。
その更に外からライスシャワー。こちらは俯いていて、メジロパーマーから表情は見えず。
マチカネタンホイザもメジロパーマーの真後ろに上がってきていて、先頭集団は団子状態のまま、スタンドを正面に迎える。
先頭はメジロマックイーン。
そのすぐ後ろにライスシャワー。
『さあマックイーンの独走になるか!
外から、外からライスシャワーッ!!』
京都外回りコース、内ラチが無い直線入口。メジロマックイーンとライスシャワー、白と黒のステイヤーが並ぶ。
───さあ、ここから弾けるのはどちらだ。
王者メジロマックイーンか、刺客ライスシャワーか。
「……
後350メートル。最後の20秒。
先にラストスパートをかけたのは、突き放しにかかった名優。メジロマックイーンの方だった。
「もう一度、あの盾を──そして、王者としてテイオーと走る!!」
残りのスタミナ、全てを使い果たすメジロマックイーンの豪脚。
『さあマックイーン、スパートした!! 今年だけ、もう一度頑張れマックイーンッ!!』
これまで他のウマ娘を叩き潰し、突き放してきた王者の飛翔──だが。
ライスシャワーはまだ、メジロマックイーンと並んでいる。
「───なっ!!?」
横を見るメジロマックイーンの視界から、ライスシャワーが消えない。そのことに、名優は驚嘆する。
いや、彼女だけではない──メジロパーマーも、必死にメジロマックイーンに喰らいついて来ている。
「負けるもんかあああああああッ!!」
振り切れない。振り切れるはずの、他のウマ娘を。
おかしい、とメジロマックイーンは思う。そして焦る。
(な、何故──どうして……!?
た、だろうか。
(───本当に、いつもの走りをできていた……?)
あのゲートは何だ。あの最初の掛かりは何だ。
メジロマックイーンは本当に、いつも通りの走りをできていたか──?
「否だ」
マクギリスは断言した。ガエリオはその横で、2人のウマ娘に挟まれるメジロマックイーンを呆然と見ている。
道中の無駄な動作、外外を回り続けるレース──いつも通りの走りを、と思うこと自体、いつも通りの彼女ではなかった。その結果が今、ここに来て現れた。
これが超長距離。これが天皇賞(春)。
わずかなロスが体力を削り、最後の直線の伸びを欠く。
王者メジロマックイーンとてウマ娘。例外ではない。
無論、メジロマックイーンが末脚を伸ばせていないわけではない。
しかし、今日はそれ以上に───
「……ライスは、
ポツリと、小さな黒い影が呟く。
自分を鼓舞するように。最後の勇気を貰うかのように。
「────
ライスシャワーが最後のスパートをかける。
メジロマックイーンを、ライスシャワーが躱して行く。
(───そう、ですか)
完全に横並びになった、ほんの一刹那。
メジロマックイーンは再び幻視した。ライスシャワーを包む鬼気としたオーラ。青く、帯を引いて輝く双眸。
ライスシャワーが見据えるのは、正面のみ。
彼女はもう、メジロマックイーンを見ていない。
歯を食いしばる小さな頑張り屋。
その眼を見た時、メジロマックイーンは悟った。
(私は今日、
本バ場入場の前、ライスシャワーを見た時から。
いや、もっと前──この天皇賞(春)の舞台へ向かうための、一日一日の積み重ね。勝利に懸ける想いで、メジロマックイーンはライスシャワーに敗北していた。
『しかし、ライスシャワーだ!! ライスシャワー躱した!! ライスシャワー躱したか!!
ライスシャワーだ!! 昨年の菊花賞でも、ミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワーだ!!』
ライスシャワーが抜け出す。メジロマックイーンは粘っているが、やはり動きが悪い。粘りに粘るメジロパーマーとの2着争い。
『ライスシャワー完全に先頭!! 2バ身から3バ身と開いた!! ライスシャワーだ!!!
ライスシャワー、1着ッ!!!』
メジロマックイーンを突き放し、ライスシャワーは決勝線に飛び込んだ。
決着。第107回の天皇賞、その勝者はライスシャワー。
『黒い刺客、ライスシャワー!! 天皇賞でも圧倒的人気の、メジロマックイーンを破りました!!
昨年の菊花賞でも、昨年の菊花賞でもミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワー!! 春の天皇賞では、メジロマックイーンの大記録を打ち砕きました!!!』
メジロマックイーンは2着。
ライスシャワーから2バ身半離されてのゴール。
名優の天皇賞(春)3連覇はならず。
そして───
『レコードタイム、3分17秒1ッ!!!』
走破タイムはレコード。
イナリワンが計時した3分18秒8のレコードを一秒七も更新する、文句無しの記録となった。
「はぁ、はぁ、はぁ……やっ、た───!」
ライスシャワーは息を切らしながら、着順掲示板を見上げて笑みをこぼす。
───場内は、まだ静まり返っている。
(───でも、マックイーンさんの3連覇は……ライスが、阻止しちゃった……)
ライスシャワーには、その沈黙が落胆によるものだと思われて、少し俯いた。
……振り向くのが、怖かった。みんなは、どんな顔をしているだろうか。旗まで作って、メジロマックイーンを応援している人もいた。そんな人たちの夢は叶わなかった。
その時──小さな拍手が、ライスシャワーの耳に届いた。
恐る恐る、ライスシャワーが振り向くと──そこに立っていたのは、メジロマックイーン。
彼女はどこか晴れやかな顔をして、ライスシャワーに称賛の拍手を贈っていた。
「───マックイーン、さん……?」
振り向いたライスシャワーに、メジロマックイーンはただ笑顔で、言葉は要らないとばかりに拍手を続ける。
それを見たメジロパーマーも拍手を始めて、他の出走ウマ娘たちからも同じように拍手が起き、やがてスタンドへと拍手の波は広がっていった。
まだ、歓声は起きない。しかし、誰もがライスシャワーの素晴らしい走りに、賛辞を贈っていた。
(────────)
ライスシャワーは、拍手に応えるように一度だけ、深々とお辞儀をした。
◇
「───裏切りましたわね、テイオー」
レース後。控室で、メジロマックイーンは訪ねて来たトウカイテイオーに、開口一番そう告げた。
丸椅子に深く座り、扉に背を向けて顔を見せてくれないメジロマックイーン。「裏切り」に若干思い当たる節があるトウカイテイオーは、横に視線をズラしながら返す。
「な、なんのこと……?」
「とぼけないで下さいまし。ライスさんのあの作戦──アレは、貴女の入れ知恵でしょう?」
メジロマックイーンの後ろにピッタリと付き、直線で並びかけ、差し切る───今日のライスシャワーの走りは、去年トウカイテイオーがやろうとして失敗したことだ。
「『ボク以外に負けないで』と言っておきながら、ライスさんを差し向けるなんて──やってくれたものですね?」
「そ、そんなつもりじゃないよ! ボクはちょーっと、アドバイスをしただけだし……?」
最初は「天皇賞に出たくない」と言っていたライスシャワーの説得に、トウカイテイオーは関わった。
その流れでトウカイテイオーは、対メジロマックイーンの経験があり、どうすればメジロマックイーンを倒せるかという研究をしたことのある有識者として、少し助言を求められていたというわけだ。
「───冗談ですわ。それに、今日のライスさんの勝利は、ライスさんの努力の結果でしょう。どうあっても、
と、メジロマックイーンは明るい声音で語る。
それが少し、トウカイテイオーには意外だった。
「……悔しいとか、ないの?」
「悔しいですわ。勿論、ものすごく。本当に悔しいです。
ですから、そう落ち込んではいませんし、落ち込んでもいられませんわ」
言いながら、メジロマックイーンは椅子を回転させ、トウカイテイオーに振り向いた。
「何せ、次の敵は貴女なのですから」
その顔は、心底から楽しみだと言わんばかりの笑顔。
メジロマックイーンの次走になるであろう、春のグランプリ──GⅠ「宝塚記念」。
阪神芝2200メートルの舞台は、トウカイテイオーが復帰戦として目下の目標にしているレースでもある。
「───そうだね。今日のライスみたいに差し切ってあげるから、覚悟しといてよ」
トウカイテイオーも、負けじと好戦的な笑顔を返す。
灼熱のグランプリは「TM対決」第二幕の舞台となる。
◇
本バ場を後にし、地下バ道から控室に戻るライスシャワー。そんな彼女の前に、1人のウマ娘が立った。
「───おめでとうございます、ライス」
ライスシャワーと同期の二冠ウマ娘、ミホノブルボン。
微笑みを浮かべて立つ彼女の姿を見て、ライスシャワーは唇を噛みしめる。
「……また、大勢の人の夢を、壊してしまいました」
スカートの裾を握りしめるライスシャワー。
そんな彼女に、ミホノブルボンは静かな声で言う。
「レースとは、そういうものです。勝つのは1人だけ。誰かが勝って、誰かが負ける──夢といえば、出走するウマ娘の全員が背負っています。しかし、叶う夢は一つだけ。
私たちは──ウマ娘は、勝つたびに誰かの夢を壊す。特にGⅠウマ娘は、多くの夢の屍の上に立っている」
ヒーローが勝つのではない──勝った者こそが、ヒーローなのである。
「───胸を張って下さい。貴女は今日、誰しもが納得する、誰しもが認める素晴らしい走りをしました。
スターは、初めからスターだったのではありません。走り続けたからこそ、スターになるのです。
今日の静寂がいつか、歓喜と祝福の声に変わる日も、必ず来ます」
だって──と言いながら、ミホノブルボンはライスシャワーに歩み寄る。
右手を差し出し、ライスシャワーの目元に滲んだ涙を拭いながら、ミホノブルボンはライスシャワーの俯いた顔を上げさせた。
「貴女の名前は、ライスシャワーなのですから」
悪夢か、奇跡か。
彼女の名はライスシャワー。
全ての人を幸せにする、祝福のウマ娘。
「…………うん」
少女は小さく、けどしっかりと、笑って頷いた。
次走「三度目」