まごころを、ぼくに
きっかけは、些細なことだった。
その日、小学五年生だったシンジ少年は学校に忘れ物をしてしまい、急いで教室に取りに帰っていた。
お世話になっている“先生”の家は忘れ物に厳しくて、怒る時はとことんシンジ少年を責めるものだから、彼は怒られないために必死で脚を動かす。
(あれ、だれかいる……)
教室前まで戻って来たシンジ少年はそのままドアを開け――ることはできず、慌てて制止してドアの近くで身を隠した。
教室の中には複数の女子たちがいた。
シンジ少年は彼女たちのことが些か苦手だった。
五月蠅くて、強い言葉を使っていて、いつも集団で行動している。
おまけにシンジ少年に対してちょっかいのようなものを掛けてくることもあった。
もう少し彼の精神年齢が成長していれば、「好きな子ほどいじめたくなる」という、素直になれない子供のコミュニケーションであったことが分かっただろうが、今のシンジ少年にはそのような余裕はない。
苦手な女子たちが教室でたむろしているという状況にシンジ少年は泣きそうな顔になった。
もう忘れ物を回収するのは諦めて、先生に怒られるのを受け入れた方がいいのだろうか。
この教室のドアを開き、彼女たちに散々いじられるよりはそちらの方がマシに思えた。
「――ていうか、碇君ってさ」
(えっ、しかも僕の話……⁉)
もう教室に入れないのは確定した。
シンジ少年はすぐさまその場を立ち去ろうとし――それが出来なかった。
単純に気になったのだ。自分が彼女たちにどう思われているのか。
傷つくかもしれない。いや、きっと傷つくに決まっている。
それでもなお、心のどこかで人を求めているのが碇シンジという少年であった。
聞きたい。
聞きたくない。
逃げたい。
逃げちゃダメだ!
内心で葛藤が起きる。
だが、女子会のトーク速度はシンジ少年の優柔不断さを待ってくれるほど低速ではない。
クラスのリーダー格である気の強そうな女の子は言った。
「かわいいよね」
(……えっ)
情けないとか、おどおどしているとか、そういう罵倒が飛んでくると思っていたシンジ少年の思考が止まる。
かわいい……彼女は確かにそういった。
だが、驚いているのはシンジ少年だけだったらしい。
「わかる、わかる!」
まさかの同意するような声。
しかもそれは、リーダーの言葉に従うだけの相槌ではなかった。
「ね、この前もからかったら顔真っ赤にしてた!」
「女の子みたいに可愛い顔してるよね!」
「いじりがいがあるよね~」
「でも、あいちゃん、碇くんに嫌われてない?」
「え~? そう?」
「うん。絶対避けられてた」
「マジで……」
(いや、避けては……避けてたかもしれない)
これまでの自分の行動を思い返して反省するシンジ少年。
だって、ずっと嫌われていると思っていたから。
かわいいと思っているのなら。
嫌いじゃないなら、そう言ってくれなきゃ分からないのに……
「どうしよう、素直に仲良くしてって言った方がいいのかな?」
「え~、でも恥ずかしくない?」
「分かる。だいたい、そういうのは男子の仕事だよね」
(マジで……?)
自分の仕事なの?
碇シンジ、カルチャーショックを受ける。
だが、彼女の口から素直に仲良くしたいという言葉が聞けたのは非常に大きかった。
大きすぎるほどに大きかった。
その後のシンジ少年の人生を――そして、世界の運命を大きく変えるほどには。
♰
あの後も女子会は長時間続いた。
教室の扉の向こうで赤裸々な女子会トークを聞き続けたシンジ少年は色々な意味で脳みそが沸騰しそうだったが、何とか堪え、忘れ物をこっそり回収してから家に帰って来た。
帰りが遅かったことから、「どこをほっつき歩いていたんだッ!」と“先生”には鬼のように怒られたが、不思議と頭の中は冷静だった。
きっと、盗み聞きした内容があまりに衝撃的だったからだろう。
「……ぼくって、かわいい?」
帰って来た先生の家で鏡を見ながらポツリと呟く幼きシンジ少年。
無論、鏡の中の自分は答えない。
しかし、教室での会話が脳裏に蘇る。
『かわいいよね』
「……かわいいんだ」
かわいい。その言葉を言われると昔を思い出す。
『かわいい。シンジ』
プールの帰り。
溶けだしたアイス。
無条件にその言葉を彼に注いでくれた――
「おかあさん……」
ジワリと涙が浮かぶ。
封印していた記憶の一部がシンジ少年に語り掛ける。
『かわいいね』
シンジ少年は嬉しかった。
幼くして愛情を奪われたシンジ少年は自分を肯定してくれるその言葉が心の底から嬉しかった。
じーっとシンジ少年は鏡を見つめる。
「そうか……ぼくって、かわいいんだ。顔が」
この日、彼は史上最強のメンタルを作る第一歩――
自己愛に目覚めた。
♰
人知れず自己愛に目覚めたシンジ少年は、暇なときによく鏡を見るようになった。
前までは自分の顔になど興味はなかったが、あれだけ執拗に「かわいい」と連呼されたのだ。きっと、本当にかわいいのだろう。
自分は信じられないが、他人の言うことなら信じる気になれる。
他人に評価基準を任せるという、実に彼らしい思考回路だった。
日がな自分の顔を眺め続けていたシンジ少年だが……やがて、別のものに興味が湧いてきた。他人の顔である。
これまでシンジ少年がこういった形で人に興味を持つことなど殆どなかった。
ただ、自分の顔だけを眺めていても分からないのだ。
何がかわいいのかが。
小学校に通うシンジ少年は、クラスメートの顔を観察することが趣味になった。
顔色ではない。顔面である。
無論、気づかれないようにそーっと。
バレそうになったらすぐに教科書に視線を移すという小癪なスキルを向上させながらシンジ少年はクラスメートの顔面審査を続けた。
やがて、彼は一つの結論にたどり着く。
あっ、ぼくってかわいいんだ。マジで。
何をもってしてかわいいと判断するかは人それぞれだろうが――それでも観察し続けたシンジ少年の主観は告げていた。
三十人ほどのクラスメートの中でも自分がダントツで整った顔立ちをしていることを。
眼の大きさ、まつ毛の長さ、唇の大きさ、鼻の形。
そして何より――それら全体のバランス。
彼は碇ユイ遺伝子大勝利の美形であった。
「……下ばかり見ていたから気が付かなかったな」
シンジ少年は自然と顔を上げられるようになった自分自身に驚きながら新しく開けた世界を眺めていた。
そうか。
そうなんだ。
何もないと思っていた。
自分が悪いと思っていた。
お母さんがいないのも、父に見捨てられたのも、先生の家で無視されるのも。
それは自分が何も持っていないからだと思っていた。
もしくは、何か持っているとしても、それは悪いものだと決めつけていた。
でも、そんなことはなかったのだ。
シンジ少年にもちゃんと誇れるものがあった。
ボーッと帰って来た家で鏡を見つめるシンジ少年の口元に笑みが浮かぶ。
こうして自分の顔を眺めるのが趣味になったシンジ少年だが、学校ではそういうわけにもいかない。
何度かバレないように手鏡を持参したことはあるが……ある日、小学校でこんなことがあった。
『あー、なんだお前! なんで学校に鏡持ってきてんだよ!』
『返して! 返してよ!』
『なんだ? お前、自分の顔にチューしてんのか? ぶちゅーってさ! アハハ!』
『うわあぁぁぁぁぁぁん‼』
ちょっとおませさんな女子が手鏡を持参していた時のことだった。
田舎で育ちの悪いガキ大将のような少年が彼女の持っていた手鏡を取り上げ、からかったのだ。
女の子はギャン泣き。少年は教師にマジギレされ、早い段階で女性に手鏡が必要という事実を認識したのだった。
自分の容姿を確認することは決して悪いことではない。
それは男子も女子も関係なく、寧ろ相手に敬意を持つ意味でも手鏡で容姿を確認することは大事なのだ。
しかし、シンジ少年は手鏡を持参した自分があのガキ大将にからかわれる未来を幻視した。
『おいお前! 男の癖に鏡持ってきてんのか! そんなに自分の顔が好きなのかよー』
『か、返してよ!』
『鏡ならそこら中にあるだろうが、シンジちゃーん? ぎゃははは!』
「……」
シンジ少年は人前で鏡を見ることを自重した。
せいぜい、トイレに行ったときに確認するくらいだ。
やや物足りない感覚はあったが、仕方なしと割り切っていた。
それよりも、だ。
シンジ少年は自分が以前と比べて俯瞰的にクラスを観察できるようになったことに気が付いた。
別に口に出したところで意味はないどころか反感を買うだけだが、自分がこの中で一番可愛いという事実(主観)が彼に自信と冷静さを与えていたのだった。
クラスの会話が聞こえてくる。
クラスメートたちの関係性が見えてくる。
クラスの人気者がどういう動きをしているのかが分かってくる。
常識が蓄積されていく。
何も分からず、分からないものだらけで怖かった世界のシステムが見えてくる。
それは、一種の
この世界でも随一の頭脳を誇っていた碇ユイ、そして凄まじい頭のキレで秘密結社内を上り詰めた碇ゲンドウ。
2人の遺伝子をしっかりと受け継いだ碇シンジの眠っていた脳細胞が、強い知的好奇心をきっかけに覚醒したのだ。
彼は学んでいく。
自分のルックスを誇示し過ぎるのは良くない。
人を容姿で貶めてはいけない。
美形は得。
可愛いは正義。
可愛ければ人に好かれる。
可愛いは外見で凄まじいアドバンテージを得ることができるが、外見だけでは限界値がすぐにくる。
人に好かれれば寂しくない。
好かれるのは難しいけれど――不可能ではない。
何故なら、碇シンジは、かわいいから。
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……一歩踏み出すんだ。大丈夫。僕は、可愛いんだから」
シンジ少年は蓄積した知識と、自分がもっとも自信を持っている顔、そしてテレビやクラスメートの仕草を観察して手に入れた完璧な笑顔を武器に、一歩を踏み出した。
そうして、時が経つこと2年。
小学6年生を終え、無事に卒業式を迎えることになったシンジ少年は笑顔だった。
偽りのそれではなく、心からの――満面の笑みであった。
もちろん、最初のうちは失敗もあった。
恥ずかしい思いもした。
傷つきもした。
だが、人との触れ合いを重ねる中でシンジ少年は成長していった。
元来より人が好きなのだ。
好きこそものの上手なれ。
事前準備も功を奏した。
シンジ少年は積極的――とまではいかずとも、これまでと比べたら遥かに能動的に人と繋がるために動き、そして成功した。
笑顔のクラスメートたちに囲まれ、可愛いともてはやしてくれる大人たちに囲まれ、シンジ少年は至極幸せであった。
『来い』
ウキウキで中学に進学するための準備を進めていた中、見捨てられたはずの父から手紙が届くまでは。
イレギュラーにより、原作開始の1年前にネルフ行きのシンジ君。
理由は次回で説明します。