場所は、例によって葛城家。
「……えー、それでは皆さん。お手元のグラスを拝借」
音頭を任せられた葛城ミサトがかしこまった――というよりか、若干やる気のなさそうな様子でグラスを掲げる。
「使徒撃破と、シンちゃ――シンジ君の退院を祝して~乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯」
「……乾杯」
全然揃わないバラバラの乾杯。
嬉しそうなシンジ少年、落ち着いた雰囲気の加持、なにか思うところがありそうなアスカ。
久々のビールを飲みながら、ミサトはどうしてこうなったのかを思い出していた。
♰
「えっ? 僕の退院祝い?」
読んでいた漫画雑誌から顔を上げ、シンジ少年が聞き返す。
入院して5日目のことである。
いつも通り、忙しい合間を縫ってお見舞いに来ていたミサトは頷いた。
「そう。2日後に退院でしょ? その日に使徒撃破の祝いもかねて、どうかなって」
「良いね。メンバーはいつも通りに?」
「いえ。残念ながら、いつメンは今回不参加になりそうね」
「えっ、どうして?」
「ちょっち、忙しいみたい」
今回の使徒戦による被害は甚大であった。
後始末だけであれば作戦課が動く必要はないのだが、問題はエヴァの支援火器の殆どを失ってしまったことにある。
作戦課の面々は新武器の調達で忙しくしていた。
そして技術部の面々も急遽譲渡が決定したエヴァンゲリオン弐号機の件で忙しくしており、とてもではないが、飲み会に誘えるような雰囲気ではなかった。
「……ミサトはいいの? 自分だけ仕事抜け出して」
ジト目で保護者を見るシンジ少年。
「いいのよ」
ミサトは澄まし顔で答える。
「優秀な部下たちが揃っているもの」
色々と割り切った葛城ミサトは部下に仕事を振りまくっていた。
少しでもシンジ少年と過ごす時間を確保するためである。
それが許されるだけの器量とカリスマ――そして、恐ろしさが彼女にはあった。
仕事を振られる日向たちからすればたまったものではないだろうが、これでもきちんと部下の仕事は見ているし、評価もしており、さらに作戦課が成果を上げ続けていることから給与も右肩上がりの為、彼女のやり方に表立って反論する者はいなかった。
もう一点補足するのであれば、ミサトは初号機パイロット、碇シンジのトレーニングコーチ兼、護衛という職務上の権利を行使してここに居た。
これも仕事、というのが彼女の建前である。
私情が9.5割くらい入っているそれを職務と言っていいのかは疑問の余地があるが……。
「私の仕事は彼らの管理と――未来に向けた根回しってところね」
「? どういう意味?」
「そのうち分かるわ」
不敵な笑みを浮かべながらウインクする。
「まぁ、問題ないならいいけどさ……」
「シンちゃんが心配しなくても、ちゃんと仕事はしてるわよ。ほら、今もちゃんとこうやって――」
「見せられても良く分かんないよ~」
ほれ見ろ、と持参したノートパソコンの画面をシンジ少年に押し付けるミサト。
もう仕事しているのは分かったからとシンジ少年は笑いながら漫画雑誌でPCを押し戻した。
「じゃあ、退院祝いって誰を呼ぶの?」
「そりゃあ――」
誰も呼ばずにシンちゃんと私の2人きりよ。
偶には高いステーキでも食べに行って、帰りに映画観ましょうよ。
ミサトはそう言おうとした。
「――面白そうな話をしているじゃないか。俺も混ぜてくれないか?」
2人きりだったはずの病室に割り込んでくる低い男性の声。
ミサトは入り口に立つ男の顔を見て驚いた。
知己であったこともそうだが、そこに
(……いつの間に?)
人の気配に敏感なミサトに悟らせない隠形。
別にそれ自体は問題ではない。
管理職になったミサトはそういう方向で現役ではないからだ。
問題は、この男が
いつから話を聞いていたか分かったものではない。
警戒心を強めるミサト。
「えぇ……と、どちら様ですか?」
人見知りしないシンジ少年だが、流石にいきなり知らない人が病室に入ってきて会話に混じってくれば困惑もする。
「おっと、失礼。自己紹介がまだだったな。俺は加持リョウジ。NERVの特殊監査部に所属していてね――」
さらりとNERV職員であることをアピールし、シンジ少年の警戒を解きながら意味深な視線をミサトに向け、
「葛城とは古い知り合いさ」
男臭い笑みを浮かべた。
「久しぶりだな」
「……えぇ。久しぶりね」
整った顔立ちに無情髭。
男性にしては珍しい、一括りにされた長髪。
敢えて着崩されている、洒落たシャツとネクタイ。
シンジ少年とは方向性が真逆の、妙な色気を纏う男性だった。
(カッコいい人だな~)
シンジ少年は初めて見るタイプの男性である加持リョウジを興味深げに観察してから、軽く会釈をして口を開いた。
「加持さんですね。僕は――」
「あぁ、知っているよ。碇シンジ君、だろ」
「はい。そうです。よろしくお願いします」
そう言ってシンジ少年は人懐っこい笑みを浮かべた。
加持が自分の名前を知っていることに驚く様子もない。
だって、彼は自分がNERV本部のアイドルであると自覚していたから。
それに、狙って病院の個室を訪れている時点で彼がシンジ少年の名前を知っているのは当たり前だという考えもあった。
「あぁ、よろしく。今回は災難だったね。身体の調子はどうだい?」
「絶好調ですよ。今すぐにでも退院したいくらいです」
「ハハハ、元気があっていいな。若さを感じるよ。でも、お医者さんの言うことは守らないとな。それに、あと2日で退院なんだろう?」
「あと2日も、ですよ。暇で暇でしょうがなくて……」
「若者にとって暇は何よりも耐えがたい苦痛だろうな。俺で良ければ話相手になるぞ、シンジ君」
シンジ少年の素直な性格と、加持の気さくな雰囲気の相性が良かったのか。
スルスルと会話が進む。
加持は部屋の隅にあったパイプ椅子を手に取り、ベッドの横に腰かけた。
シンジ少年を挟んで、ちょうどミサトと向かい合うような形で。
「――あら、お暇なようなら私が仕事をあげましょうか? 加持リョウジさん」
「おっと。こりゃあ、作戦課の部長さんじゃないか。迂闊な発言だった。今のは忘れてくれ。こう見えても
「ほんとですかー?」
「あぁ、本当だよシンジ君。本当にデキる男はね、忙しい素振りなんて見せないものさ」
「おぉ!」
警戒したミサトがやんわりと釘を刺すが、のらりくらりと両手を上げながら逃げる加持リョウジ。
何も知らないシンジ少年は一目で加持のことを気に入ったのか、キラキラと目を輝かせて楽しそうだ。
(まずいわね……)
昔から人たらしで、人の懐に入り込むのが得意な加持のやり口を知っているミサトは焦る。
と同時に、あっという間に篭絡されそうなシンジ少年への苛立ちも募らせつつ――
「それで、何の用事?」
心なしか低い声で要件を尋ねた。
「あぁ。実はちょっと相談事があってね。アスカの件なんだが――」
「アスカの?」
ミサトが姿勢を正すが、加持はすぐに真剣な表情を崩して言った。
「そろそろチルドレン同士で懇親会でもやった方がいいかと思ってな。ほら、せっかく同い年で同じエヴァのパイロットなんだから、仲良くしておくことに越したことはないだろう?」
「懇親会? 別にやってもいいと思うけど……それを伝えるためだけにここへ来たの?」
「いーや。こっちは副目的で、本来の目的は我らが英雄、碇シンジ君のお見舞いさ。はい、これお土産」
そう言って加持が後ろ手に持っていた袋をシンジ少年に手渡す。
「うわぁ、凄い! これ、巷で人気のプリンじゃないですか! 予約が殺到しているって話だったのに、よくゲットできましたね?」
「言っただろ?
そして、華麗なウインク。
「流石加持さん!」
ミサトは頭を抱えた。
シンジ少年、いくらなんでもチョロ過ぎである。
そこら辺、もっとちゃんと教育した方がいいなと育成方針を新たにしつつ、ミサトはシンジ少年から高そうな紙袋を没収して自分の膝の上に置いた。
「お土産ありがとう。私からもお礼を言っておくわ。ところで、加持君この後暇? ちょっと仕事の話があるんだけど」
「葛城のお誘いならいつでも。ただ、その前にさっき話していたことが気になるな。2日後に退院祝いをするんだって? シンジ君」
加持の目的がシンジ少年であることを察したミサトが、自分を餌に何とか2人を引き離そうとするが、加持も敢えて質問の矛先をシンジ少年にすることで粘る。
「はい。そうみたいですね」
大人同士の駆け引きなど知らず、素直に回答するシンジ少年。
ミサトが頭を抱える中、加持は自分の勝ちを確信しながら言った。
「もしよければ、
♰
回想を終えたミサトは、食卓を囲む面々を改めて眺める。
今回の退院祝いの主役であり、メインシェフも務めたシンジ少年。
恐ろしいスピードでシンジ少年に取り入り、意味深な視線をミサトに向けながらビールを飲んでいる加持リョウジ。
そして、懇親会という名目で加持に連れて来られ、現在はチラチラとシンジ少年を見ている惣流・アスカ・ラングレー。
なかなか、混沌としたテーブルだった。
「ちょっと作り過ぎちゃったんで、遠慮しないでドンドン食べてくださいね」
「凄いな。これ、全部シンジ君が作ったのかい?」
「殆ど僕ですけど、そこのアヒージョはミサトですよ」
「葛城が⁉ これまた驚きだな……」
ギョッと驚いた目で加持がミサトを見る。
なかなか美味そうだが、口をつけることは止めておこうとひっそり決意した。
(いい匂い……美味しそうね)
一方、気合いの入った黄色いワンピースを身に纏ったアスカは、初めて目にしたシンジ少年の料理に圧倒されていた。
どれも彩り鮮やかで、美味しそうだ。
彼女用に用意されたフォークを手に取って皿の上に並べられた料理の数々を眺める。
「ねぇ、シンジ。これってフライドチキンよね?」
「ちょっと違うかな。唐揚げっていって、肉に下味をつけてから揚げているんだ。結構自信作だから、食べてみてよ」
「へぇ~」
(
目ざとくアスカの変化に気づいたミサトがビールを飲む素振りで表情を隠した。
ミサトの視線に気づかないアスカは綺麗な色合いのそれをフォークで取り、パクりと一口。
「ん!」
瞬間、口に広がる肉汁と醤油、香辛料のハーモニー。
外はカリッと、中はジューシー。
滅茶苦茶美味だ。
「どう? 美味しい?」
「ぐっ……」
アスカの正面に座るシンジ少年がニコニコしながら尋ねる。
自分の気持ちに素直になることが苦手なアスカは少し言葉に詰まるが、やがておずおずと感想を口にした。
「……美味しい、わよ」
「それは良かった。そういえば、アスカって何の食べ物が好きなの?」
(
いつの間にそんな関係になったんだか。
ミサトは顔を歪める。
誰にでもフレンドリーなシンジ少年だが、意外と人をファーストネームで呼ぶまでに時間が掛かることをミサトは知っていた。他ならぬ彼女に対してそうだったから。
だというのに、1回会っただけでこの距離感。
共闘するエヴァのパイロット同士で仲が良いに越したことはないが……あまり面白くない。
「そうねぇ、Thueringer――こっちで言うところのソーセージとか、ケバブとかよく食べてたわね。あとは、パスタとか」
「肉料理とパスタね。分かった。次来た時はそこら辺をメインで用意するよ」
「別に、無理しなくてもいいわよ。アンタが得意な料理を作ってくれれば」
「無理はしてないよ。ちょうど料理のレパートリーを増やそうと思っていたところだから。まぁ、楽しみにしていてよ」
「くわッ!」
「……変わった返事だね?」
「わ、私じゃないわよ⁉」
「分かってるよ」
クスリと悪戯っぽく笑ってからシンジ少年は声で割り込んできた同居人(鳥?)を手招きした。
「
「うわッ⁉ な、なにこれ……」
先程シンジ少年がアスカと勘違いした(もちろん冗談だが)声の主であるペンペンが懐いているシンジ少年の元へ、ペタペタと歩いてきた。
ペンペンを抱き上げたシンジ少年は立ち上がり、テーブルを回ってアスカの元へと行く。
「可愛いでしょ? 温泉ペンギンだよ。名前はペンペン。餌、あげてみる?」
「餌って、何食べるの?」
「Thueringer」
「嘘ついてんじゃないわよ!」
「バレた?」
「当たり前でしょ! で、本当は?」
「焼き魚とビタミン剤」
「……なんでビタミン剤?」
「本当は生魚を食べる生物なんだけど、何故か焼き魚しか食べてくれなくてさ……仕方なく不足している栄養をサプリで補っているんだ」
「くわッ!」
「えっ、なんて?」
「だから! 私じゃないわよ! ……鳥の癖に、贅沢な奴ね」
じーっと見つめ合うアスカとペンペン。
その間に台所へ戻って餌を回収したシンジ少年が戻って来た。
「はい。これ、焼いた魚とビタミン剤。あげてみる?」
「……噛まないわよね?」
「噛むための牙がないよ」
「あぁ、そっか。それじゃあ――」
「あっ、でも気を付けないと嘴に指を挟まれるかも」
「痛ったーい! ちょっと! 噛んできたじゃない!」
「こらペンペン! ダメでしょ! 大丈夫? アスカ」
「くわ……」
「くわ?」
「いい加減にしなさいよ! 私はペンギンじゃないっての!」
わいわい、キャッキャッ。
ペンペンを挟んで何やら盛り上がっている。
「楽しそうだな。あんなにはしゃいでいるアスカは久々に見たよ」
「……」
「葛城?」
「……ごめんなさい。なに?」
「いや、あの2人、相性良さそうだと思ってな」
「そう……かもね」
微笑ましそうに見守る加持に対し、ミサトの表情はお世辞にも穏やかとは言えなかった。
グイっといつもより早いペースで一缶飲み干す。
久々のビールなのに、ちょっと味気ない気がした。
♰
その後も、シンジ少年とアスカはペンペンを囲みながら色々とはしゃいでいた。
ペンペンも餌を貰い、たくさん撫でてもらえてご満悦の様子。
極めて近い距離で顔を突き合わせて話す2人の間にミサトが懸念するような雰囲気はないが、いつそうなってもおかしくないような気はする。
「ほら、2人とも早く料理食べないと冷めちゃうわよ」
気が付けば、ミサトは2人に声を掛けていた。
ペンペンの嘴を2人がかりで撫でていたシンジ少年とアスカが顔を上げる。
「せっかく私が腕を振るったんだから、食べていきなさいな」
アヒージョが入った器をコンコンと叩く。
「おっと、そうだった。アスカ。ミサトのアヒージョ、結構美味しいよ」
自分の料理を食べて欲しがっていると勘違いしたシンジ少年はペンペンを解放して立ち上がり、自分の席に戻った。
「アヒージョなんて久しぶりね……バゲットは?」
「はい、これ」
シンジ少年は料理が多すぎてテーブルに収まりきらなかったため、台所に避難させていたパンが入った籠をアスカに手渡した。
「Danke」
「おっ、今のドイツ語?」
「そうよ」
「意味は?」
「……自分で調べなさいよ」
恥ずかしそうにそっぽを向くアスカ。
シンジ少年は首を傾げつつ、確かに自分で辞書を引く方が覚えやすいのかもしれないなと納得した。
2人の様子をじっと観察していた加持は、シンジ少年のコミュニケーション能力の高さに驚いていた。
とにかく、人と接するのが上手い。
それでいて、素直だ。
素のまま人に関わって、それで好かれる。
それがどれほど難しく、そして稀有な才能か。
嘘で塗り固められた生き方をしている加持だからこそ、彼の在り方は眩しいものに映る。
自分の気持ちを誤魔化すようにグイっとビールを煽った加持は、酒のつまみに少し盛り付けが雑なポテトサラダを口に入れた。
「おっ、シンジ君。このポテトサラダも美味いよ」
「ありがとうござ――あっ、言い忘れてた。それもミサトが作ったやつです」
「葛城が⁉」
加持は滅多に出さない大声を出した。
それくらい衝撃だったのだ。
アヒージョはまだ何となく許容範囲内だった。
多分、シンジ少年の全面サポートがあったであろう色合いと盛り付けだったから。
(それでも口をつける気にはなれなかったが)
だが、このポテトサラダは違う。
どうにもシンジ少年らしからぬ味付けと盛り付けだと思っていたが――まさか、あの葛城ミサト作だったとは。
「……驚いた。お前、本当に葛城か?」
「はいはい。どうせ料理ができる私は人間じゃなくて使徒ですよ。……なによ、どいつもこいつも」
そっぽを向きながらミサトが拗ねる。
「い、いやすまない。あまりにも衝撃だったから……昔の葛城を知っている分、余計にな」
「そういえば、加持さんはミサトと古い知り合いだって言ってましたよね? いつ頃から知り合いだったんですか?」
「大学の頃だな。もう、7~8年も前のことだ。懐かしいな、葛城」
「そうね……もう、そんなに前になるのね」
時が進むのは早い。
それも我武者羅に生き急いできた分、ミサトには(或いは加持も)随分遠い過去の話に思えた。
感傷に浸る中、加持は不意に
「葛城。今、付き合ってる奴いるの?」
そんな質問をした。
「どうしたのよ、急に……いないわ」
ミサトは淡白に、不機嫌そうに答えた。
何となくだが、シンジ少年の前でそういう話をするのが嫌だったのだ。
「そういう加持君はどうなの? ドイツに恋人いるの?」
「残念ながらいないよ。それに、俺は本部付きになったからね。ここで探すことにするさ。凛々しくて、仕事のできる美人をね」
そう言ってウインクする色男。
葛城ミサトを狙っていると暗に告げるサイン。
無論、シンジ少年以外の全員が気づいている。
アスカなど嫉妬で顔を歪ませているが、当のミサトは――
「そう。見つかるといいわね。応援しているわ」
何とも冷たく切り捨てた。
「なんだ、つれないな。今、付き合ってる奴、いないんだろ?」
ヘラヘラと笑いながら加持が追及する。
だが、表情とは裏腹に彼の内心は動揺していた。
病室で会った時から思っていたが、明らかに以前の彼女とは違う。
「残念ながら、私のことを言っているならお門違いよ。私、仕事できないもの。この間も大事なパイロット2人を作戦ミスで死なせかけたわ……」
そう言ってミサトはアヒージョを食べていたシンジ少年の頭を撫でる。
シンジ少年はきょとんとした後、珍しく少し怒ったような表情を浮かべた。
「ミサト、まだ言ってるの? 使徒のことなんて何も分かってないんだから、そんな思い詰めることないのに」
「そうは言ってもね……十分に考えられる可能性を考慮しなかったのは、私の責任なのよ」
作戦課を取り仕切る者として、ミサトはそこを譲るつもりはなかった。
「だからね、アスカ。あなたも気に病む必要はないのよ。あれは私の責任だから」
「……別に、気に病んでなんかいないわよ。反省はもうしたし、そこのバカシンジも気にしてないみたいだし」
「そう……ありがとう。貴方たちがエヴァのパイロットで本当に良かったわ」
ミサトは嬉しそうに微笑む。
まるで、聖母のような慈愛に満ちた微笑。
それから彼女は再び黙々とアヒージョを食すシンジ少年の頭を撫でまわす作業に戻った。
呆気に取られる加持。
一方、アスカはその光景をどこか羨望の眼差しで見ていた。
♰
ひとしきり撫でて満足したのか。
ミサトの手がシンジ少年の頭から離れたのを見計らって加持は口を開いた。
「2人は随分と仲が良いんだな……シンジ君は葛城と1年前から同居しているんだっけ?」
「はい」
加持はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「彼女の寝相の悪さ、相変わらずかい?」
「なっ――」
爆弾発言に凍り付いたのはアスカだ。
なにせ、意中の人が先程から目の前で一人の女性を堂々と口説き、さらに過去の関係をチラつかせているのだ。
ミサトに対しては極めて高い評価を持っていたアスカだったが、その評価が嫉妬で下落してしまいそうだ。
男女関係の機微に鋭いアスカに対し、そういうのに滅法疎いシンジ少年は首を傾げた。
「うーん、どうでしょう? 最近は
「んー? どうかしら……普通じゃない?」
真面目に回答するシンジ少年と、どうでも良さそうなミサト。
二人の態度は置いておくとして……ちょっと待ってほしい。
なんか、エグイ発言があった。
((えっ、一緒に寝てたの……?))
29歳の成人女性と、14歳の少年が?
特に血の繋がりもない2人が、一緒に寝ていた?
頭が混乱するアスカだが、平然としている2人を見ると、間違っているのは自分な気がしてくる。
「えぇ……と。シンジ君、一緒に寝てたっていうのはどういうことだい?」
「どうって言われても……普通に同じ布団で寝ていただけですけど」
2人で一緒に住むことが決まり、初めてこのマンションに来た日のことである。
急遽同棲が決まったため、ベッドの購入も搬送も間に合わず、2人は仕方なくリビングに敷布団を引いて寝たのだった。
そしてその翌朝――
流石にシンジ少年も驚いた。
目が覚めたらちょっと離れて寝ていたはずのミサトに抱きかかえられるようにしてがっちりとホールドされていたからだ。
人と一緒に眠った記憶が殆どないシンジ少年だが――決して悪い気はしなかった。
『ご、ごめん……迷惑だった?』
目を覚ましたミサトに平謝りされたシンジ少年は、「いえ、全然」と素直に回答。
寧ろ、何だか胸が温かくなるような、そんな気持ちだった。
『そう……』と何やら思案顔の彼女は次の日、真面目な表情で言った。
『ねぇ……もしよかったら一緒に寝ない?』と。
彼女は顔を赤くしながら色々な理由を述べた。
子供と一緒に寝ることは健康に良いだの。
アニマルセラピー的な効果を感じるだの。
寝顔が可愛かっただの。
まぁ、要するになんかシンジ少年が可愛くて、癒されたから一緒に寝たいらしい。
(まぁ……僕って可愛いし。仕方ないよね)
愛されることに不満などあるはずもない。
シンジ少年はあっさりと許した。
『うん。別にいいよ』
そして暫くの間、ミサトはシンジ少年を抱きしめて眠った。
シンジ少年は、ミサトを抱きしめ返して眠った。
それは、驚くほど心安らぐ日々だった。
それぞれの部屋にベッドが導入されてからもミサトの気まぐれで一緒に寝ることはあったが、使徒襲来が始まってからは(部下をフル活用しているとはいえ)ミサトも忙しく、ここ最近は一緒に寝る機会が減っていた。
「そ、そうか……」
どんどん明らかになっていく葛城ミサトと碇シンジのちょっとヤバめな関係。
特にミサトの変化があまりにも急過ぎて、情報戦のプロである加持もついていくのでやっとだ。
(生きるっていうことは……変わるっていうこと、か)
自分が持っている哲学を脳内で呟く。
――ただ、それにしたって変わりすぎじゃないか?
グイっと飲み干したビールが、やけに苦かった。
♰
衝撃事実暴露のハプニングこそあったものの、飲み会は概ね楽しい雰囲気で盛り上がっていた。
素直になれないアスカと、素直すぎるシンジ少年との間で絶妙にズレているようで噛み合っている会話があったり。
加持がミサトにちょっかいを掛けては軽くいなされ、かと思えばシンジ少年に話を振って(主にミサト関連の)爆弾発言が飛び出したり。
他にもアスカとミサト間で会話があったり、ペンペンに興味を持った加持とシンジ少年の会話があったりと、それぞれ思い思いのことを話しながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。
そうして飲み進めていると、飲み物が切れるのも当然のことで。
「おっと」
瓶からビールを注ぎ足そうとした加持は、殆ど中身が残っていないことに気づいた。
「あっ、新しいの持ってきますよ」
すぐに気づいたシンジ少年はスッと立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
「おっ、ありがとう! 気が利くね~」
純粋に喜ぶ加持。
一方、ミサトは何かに気が付いたようにジーっとシンジ少年の挙動を観察している。
その視線に気が付かず、新しいビール瓶を持ってきたシンジ少年はサクッと慣れた手つきで栓を開けた。
「加持さん、注ぎますよ」
「いいのかい? では、お言葉に甘えて」
加持のご機嫌を取っていると思ったアスカが胡乱な視線を向ける中、シンジ少年は見事な塩梅で加持のグラスにビールを注いだ。
「いえいえ、それほどでも」
そして、そのまま空いているグラスにビールを注いだシンジ少年は、流れるような動作でそのままビールを口に運ぼうとして――
「ちょっとシンちゃ~ん? なに、してるのかなぁ~?」
「ぐっ⁉」
スーッと気配なく後ろに回っていたミサトの右手にグラスを持った右腕を掴まれ、さらに彼女の左腕で喉元をがっちりとホールドされていた。
「み、ミサト……」
「もう。未成年の飲酒禁止って言ったでしょ? 隙あらばすぐ飲もうとするんだから……」
艶やかな笑みを浮かべながらシンジ少年の耳元で囁く。
豊かな乳房が背中に押し当てられ、彼女の吐息が首筋にあたってこそばゆい。
だが、シンジ少年はそれどころではなかった。
「く、首しまってる……!」
「お仕置きよ。懲りない悪戯小僧への、ね」
「ぎ、ギブ……! ギブアップ!」
ミサトの左腕をタップしながら白旗を上げるシンジ少年。
ボクシングで鍛えているとはいえ、そもそもの体格差が大きい上に、軍人上がりで今なお鍛え続けているミサトの怪力に敵うはずもなかった。
「……しょうがないわね」
もう少しじゃれていたかったが、シンジ少年も病み上がりだからとミサトは腕を離して彼を解放した。
「ゴホッ! はぁ、はぁ……なんでそんなに厳しいのさ」
「なんでそんなに飲みたがるのよ」
“懲りない”とミサトが言ったように、シンジ少年は以前より隙あらばビールを飲もうとあれやこれやしていた。
その度にミサトに注意されてきたのだが――懲りる様子がない。
もっとも、ミサトの外出中に冷蔵庫のビールが減った形跡はなく、シンジ少年としてもミサトとじゃれて遊んでいるだけの感覚なのだが。
「何でって言われても……いつもミサトが美味しそうに飲んでいるから」
「これは大人の特権よ。大人になるまで我慢しなさいな」
「えー……」
シンジ少年とて、年頃の男の子である。
当然、いつまでも子ども扱いされるのは気に食わない。
だから、言ってしまった。
「大人になれるかどうかも分からないのに?」
「――――」
空気が、凍った。
(あっ、しまった)
すぐに己の失言を悟ったシンジ少年だが、もう取り返しはつかない。
「……なんてこと、言うのよ……」
ぶるぶると震える声でミサトが言う。
(ヤバい! 年に数回ある、マジでヤバい失言だ……!)
シンジ少年とて完璧な存在ではない。
普通にミスはするし、失言もする。
「い、いや……違うんだよミサト! 今のはその、言葉の綾で――」
急いで弁明しようとするシンジ少年。
だが、最後まで言い訳させてもらうことは出来なかった。
「み、ミサト……?」
「そんなこと、言わないでよ……」
パッと正面から飛びついてきたミサトに抱き着かれたからだ。
最近はよくハグされるなぁ、と思いつつ、真剣に耳を傾けるシンジ少年。
ミサトは震える声で続ける。
「……この間の使徒の時、本当に怖かったのよ? 心臓が止まって、目が覚めなくて……」
「うん」
「でも、シンちゃんが信じろって言うから、私は信じたのよ……?」
「うん」
「だけど、肝心のあなたに生きる意志がなければ、信じることもできないじゃない……!」
「……うん」
「もう二度と、そんなこと言わないで。貴方は、素敵な大人になるんだから」
「……うん。分かった。ごめんね」
「それから――もう、無茶はしないで」
「うん。分かった」
頷くシンジ少年。
だが、ミサトはそれが叶わぬ願いだと分かっていた。
彼自身は無茶をしている自覚などないのだろう。
本当に、
しかし帰りを待つ身からすると、
勇猛果敢なその姿は、あまりにも危うい。
碇シンジと葛城ミサト。
心が通じ合っているはずの2人の間には、悲しいまでの認識の違いが横たわっていた。
「ごめん。もうちょい、このまま」
「いいよ」
ままならぬ現実に嫌気が差し、シンジ少年の胸元に顔を埋めたままミサトが言う。
もう加持のことも、アスカのことも頭にはない。
今、彼女にとってはシンジ少年と2人きりでいる感覚だった。
シンジ少年はそんなミサトを受け入れつつ、しょうがないなぁ、という感じの優しい目で彼女の頭を撫でる。
“あぁ――”
その光景を見ていた加持は思った。
“まるで、残酷な天使みたいだ――”と。
人を魅了する美貌。
そしてその愛らしい性格で誰からも愛される天使のような少年。
純粋で、素直で――
だからこそ簡単に人を絶望に陥れる。
無自覚に、残酷なことをしてしまえる。
その証拠に、天使に抱かれるミサトは幸せそうだが、それ以上に苦しそうだ。
(どうする……引き離すべきか? この少年と一緒にいるのはあまりにも酷だ)
一瞬、真剣に考えて――すぐにそれは無理だと悟った。
もう葛城ミサトは手遅れだ。
完全にこの少年に入れ込んでいて、無理やり引き離そうとすれば、加持が相手でも彼女は容赦しないだろう。
首元から外されたロザリオがそれを物語っている。
自分のよく知る葛城ミサトがもういないことを知った加持はいつも通り笑おうとして――少し、頬が引き攣っている自分に気が付いた。
一方、優しい目でゆっくりとミサトの頭を撫でているシンジ少年の姿を見たアスカは、
“いいなぁ……”
その光景に憧れていた。
この2人の全てが羨しくて、妬ましい。
シンジ少年は、葛城ミサトからとびきり愛されている。
それは明白だ。
彼女はこの少年に愛を注ぎ込んでいる。
ただご飯を美味しそうに食べているだけで頭を撫でてもらって、じゃれつきながらふざけあって、一緒に寝て、エヴァで死に掛ければ半狂乱状態で取り乱し、生きていると分かれば涙を流して喜び、強く抱きしめる。
何をしていても、ずーっと見守っていてくれる。
そして、シンジ少年もまた葛城ミサトのことを愛しているようだった。
普通だったら鬱陶しくなるくらいにベタベタ引っ付かれても気にせず、ミサトがすることの全てを信頼している。
“いいなぁ……”
アスカは焦がれる。
“いいなぁ……”
何故か泣きたくなるほどの孤独感に襲われる。
そして思った。
葛城ミサトみたいなお母さん、或いはお姉さんが欲しかった、と。
碇シンジみたいに、誰からも愛されるような、そんな存在になりたいと。
そして、自分も愛情込めて頭を撫でて欲しいと。
アスカは、どうしようもなくこの2人のことが羨ましくて――妬ましかった。
♰
シンジ少年の胸で泣くミサト。
ミサトの頭を撫でるシンジ少年。
泣きそうな顔で2人を見つめるアスカ。
三者三様に思いが交錯する、混沌としたテーブル。
一人取り残された心地の加持は、雰囲気を変えるためにグラスを持ち上げて口を開いた。
「まぁ、まぁ。湿っぽいのはこれくらいにして、楽しく飲もうじゃないか。葛城もそんなに厳しくしないでさ、ちょっとくらい飲ませてやればいいじゃないか。俺が口付けたので良ければ飲むかい? シンジ君」
「―――加持君? 私の話、聞いてた?」
敢えておチャラけた感じで空気を変えようとした加持だが、シンジ少年の胸元から顔を上げたミサトが尋常ではない殺気をまき散らしながら、睨んでくる。
(それが元カレに向ける視線か……?)
空気を変えようとするのは悪いことではないが、ワードチョイスとタイミングが良くなかった。
加持らしくないミス。
だが、彼は気づいていなかった。
俯瞰して事態を眺めていた筈の彼もまた、動揺しているという事実に。
「ありがとうございます加持さん。でもやっぱり――大人になってから飲むことにします」
「……そうか。じゃあ、君が大人になった時、一緒に飲もうじゃないか。その時が楽しみだよ」
「はい!」
元気よく頷くシンジ少年。
加持は嘘でも何でもなく、本当に楽しみだった。
この子は素敵な大人になるだろうから。
(大人になれたら、だがね)
口には出さず、心の内で呟く。
この先も使徒は来る。
だが、敵は使徒以外にもいる。
ゼーレのシナリオ。
人類補完計画。
そして、碇ゲンドウ――
その全てを退け、生き延びることができるのか。
天使のように純粋な心で、この先に待つ残酷な真実の数々に立ち向かえるのか。
加持は、本当に楽しみだった。
予告
エヴァの支援火器を探すミサトは、日本重工のジェットアローンに目を付ける。
だが、肝心のジェットアローンがまさかの暴走。
初号機が使えない中、ミサトは弐号機の出撃を命令。
アスカとミサト。
複雑な心境を持つ2人の任務が始まる。
次回
アスカ、人の造りしもの