今回でユニゾン回は終了です。
何で私、泣いているんだろう?
もう泣かないって決めたのに。
『どうしたんだい、アスカ。新しいママからのプレゼントは気に入らなかったのかい?』
『……いいの』
『何が良いんだい?』
『私は子供じゃないわ! 自分で考え、自分で生きる大人なの!』
“だから、私を見て――!”
『お願い、アスカちゃん』
“だから、私を見て――!”
『一緒に死んでちょうだい』
“だから、私を見て――!”
悲痛な叫びは誰にも届かなくて
「ママ……」
覚醒する意識。
アスカはようやく悪夢から目を覚ますことができた。
眠気が完全に飛んだアスカは、布団の中でじーっと縮こまる。
自分の身を守るように縮こまる。
こうしていれば助けが来る。
もう少しすれば、ほら。
「起きて、アスカ。朝だよ」
「……シンジ」
いつものように彼女を優しく起こしてくれる彼の声が聞こえてくるから。
アスカはホッと胸を撫で下ろして、のろのろと起き上がった。
「ねぇ、シンジ」
「ん?」
「……私、なんか変なこと寝言で言ってなかった?」
「変なこと?」
シンジ少年は首を傾げながら答えた。
「いや、言ってなかったよ」
「そう……」
アスカはまたしてもホッと胸を撫で下ろして……いや、もしかしたらこの少年のことだから気を遣っているだけかもしれないなと思った。
でも、それはそれで何だか嬉しくて。
アスカは悪夢のことなどすっかり忘れて、朝の身支度を整え始めた。
3日目
「アスカ! もっと早く打ち込んで!」
「ッ――!」
昨日と変わらずミサトの檄が飛ぶ。
アスカは歯を食いしばりながらパンチを打つ。
昨日の失敗から学んだのか、アスカのミスは格段に減った。
目標を達成するために強引な手法を取ったとしても、ミスをしてしまえばペナルティが待っているので、結果的にさらに非効率的なことになる。
聡いアスカは早々にこのシステムに気が付き、如何にミスを減らすかという方向にシフトチェンジした。
それに、強引に目標を達成しようとしてアスカがミスをした場合、その犠牲になるのはシンジ少年だ。
もし、焦ったアスカ渾身のパンチがシンジ少年に命中してしまったら。
最悪顔はいいとして(シンジ少年は良くないだろうが)
仮に胸部に当てて彼の心臓にダメージを与えようものなら……アスカは自分がどうなってしまうのか想像もできなかった。
(もう、シンジにパンチを当てちゃダメ……!)
だから、堅実に、一歩ずつ。
目標に僅かに届かなかったとしても、丁寧な動きを心掛ける。
それが、結果としてアスカの拳の精度を飛躍的に引き上げていた。
ミットを持つシンジ少年は急激なアスカの成長に感嘆しながらも完璧に彼女の拳を受け止めている。
リズムよく鳴り響く、乾いた音。
(シンジ……)
(うん)
視線がほんの一瞬だけ交わる。
通じた。
そう思ったアスカは少しだけギアを上げた。
右ストレート、受け止めてくれる。
左フック、受け止めてくれる。
右フック、受け止めてくれる。
左ストレート、受け止めてくれる。
(これ、いいわね……)
アスカは次第に楽しくなっていく自分に気が付いた。
目標を達成することよりも、自分の思考を読み取って拳を受け止めてくれるシンジ少年とのコンビネーションが心地よい。
音楽のように鳴り響くグローブとミットのぶつかり合う音が心地よい。
自分の全てを受け止めてくれる彼の姿勢が、心地よい。
「はい! 終わり! アスカ、惜しかったわね。あと少しよ」
「……えっ?」
もう終わり?
鳴り響くタイマーの音と、ミサトの称賛する声。
アスカは唖然としていた。
自分が目標の存在を忘れていたことに驚いたのだ。
ただシンジ少年と打ち合うことだけに集中していて、他のことを忘却していた。
「アスカ、いい感じだったね」
「え、えぇ……」
褒め称えるシンジ少年の声に生返事をしながらアスカはグローブを脱いでミットを身に着けた。
続いてシンジ少年の番だ。
彼もまた、アスカにパンチを当てないよう精度を高めることを意識しながらパンチを放つ。
一歩ずつ。
確実に。
2人はお互いを思いやりながら目標に向かって前進する。
4日目
「午後からなんだけどね、ちょっと訓練の内容を変えるわ」
「?」
午前中の訓練を終え、遊び心のない筋肉弁当(アスカ命名)を食べ終わってのんびりしている時のことだった。
マットに寝っ転がって昼寝をするシンジ少年の顔をベンチに座って眺めていたアスカは、同じくシンジ少年の寝顔を眺めていたらしいミサトに話し掛けられた。
「実戦に向けて、本来の形へ戻すのよ」
「なによそれ。抽象的すぎてよくわかんないわ」
「ま、詳細はシンちゃんが起きた時に教えるわ。それよりもね、アスカ。私は貴女を褒めたいの」
「……この地獄を耐え抜いていることを?」
割と真剣な表情でアスカがミサトを見る。
これから褒められるというのに、喜びより警戒心が上回っているようだ。
「違うわ。いや、それもあるかもしれないけど……」
ミサトは流石にやりすぎだったかと反省しつつ、笑顔を浮かべた。
「貴女が人と合わせることを覚えてくれたことが嬉しいのよ」
「……なにそれ」
「言葉の通りよ。ここ数日、貴女はシンちゃんに合わせるために色々と我慢してくれていたわよね? それが嬉しくて」
「……なによ。今までの私は協調性ゼロの我儘女だったって言いたいわけ?」
「ま、言い方を変えればそうかもね」
「――――」
あっさりと嫌味を肯定され、アスカの頭に血が昇る。
だが、衝動的な怒りはミサトに頭を撫でられることですぐに霧散した。
「ミサト?」
「昔の話よ。今の貴女はそうじゃないって言いたかったの。気を悪くしたならごめんね」
「……別にいいわ。事実だもん」
「そうやって過去のことを認めるようになってくれたことも嬉しいの。アスカ、貴女は今成長しているのよ」
「……」
「そしてこれから先も成長し続けるの。ものすごい勢いでね。だからね、アスカ。自分のことをもっと誇りに思ってちょうだい。貴女はよくやっているわ」
ニッコリと微笑んで、ミサトはアスカの頭をポンポンと優しく撫でた。
「さて、お昼休憩が終わるまであと少しあるわね。シンちゃん見てたら眠くなってきちゃったわ……」
大きな欠伸をしたミサトは悪戯っぽく微笑んだ。
「一緒にお昼寝でもする?」
「えっ⁉」
思わずデカい声で反応してしまったアスカに慌てて「しー!」と人差し指を立てて静かにさせる。
シンジ少年の方を見るが、深い眠りに落ちているのか、目を覚ましているようには見えなかった。
「ほら、あっちのスペースが空いているから。良かったら一緒に寝ましょうよ」
「……」
「それとも、私と寝るのは嫌?」
「嫌じゃない! ……嫌じゃないわ」
再びデカい声を出して、慌てて小声でしっかりと言い直すアスカ。
よく見れば彼女の頬が少し赤いのが分かる。
ミサトはそれに気づいていながら――いや、気づいているからこそ優しくアスカを手招きし、予備のマットレスを引いてその上に寝っ転がった。
「ほら、おいでアスカ」
「――――」
おずおずと、ミサトの元まで歩いていくアスカ。
どこか躊躇しているらしい彼女に痺れを切らしたミサトは、見事な柔道技でアスカをコロッと転がしてがっちりと抱き着いた。
「は、離しなさいよ~!」
「いーや」
ぎゅっとミサトに抱きしめられたアスカは、渋々といった体で力を抜いた。
そもそも、本気で嫌がっているのなら柔道技を仕掛けられた時点で抵抗している。
ミサトが相手とはいえ、何もできずに転がされた時点でアスカの気持ちは明らかだった。
「スゥ――――」
地獄のような日々を過ごしているシンジ少年とアスカだが、ミサトもまた苦しい毎日を過ごしていた。
1日中つきっきりで2人を指導した後は、指揮官として再起動が確定している使徒相手への作戦を考えなければならないからだ。
既に作戦は明確になっているが、万が一ダメだった時のセカンド、サードプランを考え、尚且つ上層部にそれを納得させるためのプレゼンも実施しなければならない。
へとへとの状態の彼女は、ものの数分で深い眠りに落ちてしまった。
(ミサト……)
彼女の腕に抱かれ、その体温を感じながらアスカは頬を緩めた。
何とも言えない心地よさと、幸福感に包まれているのを感じる。
思えば――ずっと、こうして欲しかった気がする。
こうして欲しくて、今まで頑張って来たんだと思う。
アスカはミサトの腕に抱かれながらそっと目を閉じた。
「……気持ちよさそうに寝ちゃってまぁ」
実はアスカの大声でとっくに目が覚めていたシンジ少年は、マットの上で抱き合って眠るミサトとアスカを見て呆れたように呟いた。
言葉とは裏腹に、優し気な表情が彼の感情を物語っている。
そっと毛布を2人に掛けて、シンジ少年は眠気を覚ますために散歩に出かけた。
午後の訓練が始まるまで、あと30分。
♰
「さて、午後の部を始めるわ」
使徒を倒すため、学校も休んで本部に泊まり掛けで毎日訓練を重ねているシンジ少年とアスカ。
ミサトの号令でカチッと意識を切り替えた2人は早速準備を始めた。
身体を痛めないためにストレッチをし、プロテクターとグローブを身に着けていく。
それに加え、アスカがいつも通り重りを手首と足首に装着しようとしたのだが――
「ちょっと待ってアスカ」
ミサトはそれを止めた。
困惑した表情のアスカから重りを受け取り、ミサトはそれをシンジ少年に手渡した。
「さっきも言ったように訓練の内容を変えるわ」
「……というと?」
「本来あるべき形にするのよ。これからは実際のシンクロ率を反映するために
「「……」」
とんでもない無茶ぶりをするミサト。
この3日間、死に物狂いでやって来た己の役割や条件をいきなり逆にしろと言うのだ。
普通であればやる気をなくすか、激怒するかの2択だ。
だが、シンジ少年とアスカは共に冷静だった。
ミサトの無茶ぶりに慣れたということもあるが、それ以上にお互いの連携に自信があったからだ。
「シンちゃん、重りをつけたわね」
「うん」
「それじゃあ、いつも通り2人で横並びに並んでシャドーボクシングを始めて頂戴」
「「了解」」
お互いの顔が見えるミット打ちとは異なり、顔も見えない状態で相棒の呼吸を感じ取りながら動く必要があるシャドーボクシング。
ミサトに決められた動きを2人で呼吸を合わせながらこなしていく。
昨日の練習ではほぼ完璧な動きを披露していた2人だが――
「シンちゃん! 動きが鈍いわよ! アスカは早すぎ! 2人とも呼吸を合わせなさい!」
「「了解ッ‼」」
やはりいきなり環境が変わったことに適応しきれず動きがズレてしまう。
しかし、それも最初のうちだけだった。
(シンジは今、私がつけていたあの重りをつけているんだから、動きが遅くて当然。
(アスカ、こんなに重いのをつけていたのか。今の彼女は重りがなくなって拳がかなり軽いはず。
アスカはこの3日目耐えてきた重りの辛さを知っているが故に、シンジ少年の状況を思いやりながら速度を調整する。
シンジ少年はアスカが体験していた条件の悪さを自分が実感しつつ、彼女の動きに追いつくためにギアを上げる。
お互いに思いやる心。
それが、一つに交わる。
右ジャブ
右ジャブ
右ストレート
右ストレート
左フック
左フック
左ストレート
左ストレート
一糸乱れぬタイミングで2人が同じ動きをする。
それは、まるで元は同じ人間が分裂したかのようなユニゾンだった。
(これ、この感覚――)
アスカはふわふわとした感覚で思った。
(――凄く、いいわね)
シンジ少年のことが分かる。
2人で一緒に戦っている感じがする。
2人の心が重なっている感じがする。
「「シュッ――」」
短く息を吐き、最後に繰り出した右ストレートが重なる。
シンジ少年とアスカは肩で息をしながらお互いの顔を見た。
(アスカ……)
(シンジ……)
「2人とも悪くないわ。改善すべき点はまだあるけれど、意外と上手くいっているわね」
パン、と手を叩いて称賛してくるミサトの声で我に返る2人。
「あ、当たり前でしょ! これくらいフツーよ!」
「その意気よ。さ、2人とも構えて。もう一度行くわよ」
「「了解‼」」
訓練は続く。
若さと精神力を武器に、2人の少年少女は日が暮れるまでその拳を振るい続けた。
5日目
「打ち込んでアスカ!」
「ッ――!」
重りを外されたアスカの軽やかな拳がシンジ少年が持つミットへ打ち込まれる。
完璧に制御されたその拳は決してシンジ少年を傷つけることはなく、確実に目標までの数値を積み上げていく。
「もっと素早くよ! シンちゃん!」
「ッ――!」
逆に1日前に重りをつけられたシンジ少年もまた奮闘していた。
急な負荷と理不尽な目標設定に不満を覚える心を完璧な精神力でコントロールし、ただ淡々とパンチをアスカが持つミットに打ち込んでいく。
シンジ少年の呼吸を感じ取り、アスカはそれを完璧に受け止めていく。
1つのミスもなく2人は課題だったミット打ちを終えた。
筋肉弁当と恒例のお昼寝を挟んでから午後。
昨日の時点で少し課題が残っていたシャドーボクシングも完璧にやり終えた2人の連携はミサトをして「何も言うことはない」というレベルにまで達していた。
その後に行われたシミュレーションの模擬演習も完璧に終えた2人に対し、ミサトは満面の笑みを浮かべた。
「2人とも合格よ! あなた達の連携があればあの使徒にも勝てる。そう確信したわ」
これまで必死に頑張って来た2人の頭を同時に撫でまわしながらミサトは今の2人にとって一番嬉しいであろうことを告げた。
「今日の訓練はこれで終わりにするわ。明日の午前中に軽く全体の流しをして、午後から本番の予定だから、明日に備えてゆっくり休みなさい」
♰
「――って言ってたくせにさ。今日もこの筋肉弁当なわけ?」
「どうせなら最終日くらい豪華なもの食べたかったよね……」
いつもよりも早めに訓練を終えられた2人は意気揚々と部屋に帰宅し、ちょっと早いが晩御飯を食べようと弁当の容器を開いて――軽く絶望した。
不満たらたらのアスカと、少なからずそれに同意するシンジ少年。
だが、ミサトが一度決めたことは曲げないことをよく知っている2人は文句を言いながらも淡々と弁当を食べ終えた。
その後、特にやることもないのでいつものソファーに並んで座ってボーッとテレビを眺める2人。
「ねぇ、シンジ……」
「ん?」
「暇ね……」
「そうだね……いつもこの時間は訓練ばっかりしてたから」
そして、訓練が終わって帰ってきたら黙々とお弁当を食べてからシャワーを浴びて、寝る。
こうして振り返ると何とも色気がないというか。
大会前のプロアスリート並みにストイックな生活を送っていたことを思い知らされる。
「ねぇ、シンジ」
「うん?」
「私たち、頑張ったわよね」
「……うん。間違いなく。やれることは全てやってきたはずだよ」
ハッキリと断言できる。
シンジ少年とアスカはこの5日間、死ぬ気で努力を重ねてきた。
「頑張って来た私たちにはご褒美が必要よね」
「うん……うん?」
「アイス買いに行かない?」
「……今から?」
「
「あり」
2人は同時にソファーから立ち上がった。
跳ね起きたと言ってもいい。
新たな娯楽を見つけた2人は財布を持って退屈な宿舎を後にした。
♰
24時間稼働しているNERV本部には当然のようにコンビニのような売店が存在している。
そこでお気に入りのアイスを購入した2人は宿舎に戻るべく、ライトアップされた夜のジオフロント内を歩いていた。
基本的に葛城家で暮らしているシンジ少年にとって、夜のジオフロント内を散歩するのは随分と久しぶりのことであった。
思い出すのは1年前のあの日。
ミサトから過去を打ち明けられ、エヴァンゲリオン初号機に乗るかどうかの選択を迫られたあの日だ。
あの日から色々な――本当に色々なことがあって、今のシンジ少年が存在している。
14歳ながら人生の数奇さを身に染みて感じているシンジ少年は、自分と同じく普通ではない人生を歩んでいるであろう少女を見た。
(……なに?)
(別に)
瞳だけで会話をするほどまでに距離が近くなった彼女。
強気で、プライドが高くて、賢くて、でも意外と隙だらけで、おっちょこちょいで、思いやりの心もある素直じゃない女の子。
1年前の自分に、金髪碧眼のドイツから来た美少女と一緒に共同生活を送ることになると言ったら信じるだろうかとシンジ少年は想像する。
(多分、信じるだろうな。僕のことだし)
自意識が服を着て歩いているような少年だ。
君が世界を救うと言われても「やっぱりね」なんて言ってドヤ顔をするに違いない。
ただ、間違いなく想像していたことではなかった。
ミサトとの共同生活も、
家族かもしれない綾波レイとの出会いも、
心臓が止まるほど危険な戦場も、
惣流・アスカ・ラングレーとの出会いも。
その全てが予想できるようなものではなかった。
だからこそ、人生は面白いとシンジ少年は思う。
恵まれた人生だなとシンジ少年は自分の運命を嬉しく思う。
「ねぇ、シンジ」
「んー?」
軽く微笑みながら人生について考えていたシンジ少年を現実に引き戻す声。
横を向くと、アスカが帰り道とは別の方向に続いている道を指さしていた。
「この道はどこに繋がってるの? さっき見た標識には“lake”って書かれてあったから湖だとは思うんだけど」
「アスカの言う通り、湖だよ。大きな地底湖が広がっているんだ」
「ふーん」
興味深げに頷いたアスカは悪い笑みを浮かべた。
あっ、嫌な予感。
「シンジ。
「勝負?」
「えぇ。ここから湖まで全力ダッシュして、先に着いた方が勝ち。勝った方は負けた方に何でも質問が出来るの。負けた方は正直に答えなければいけない」
「……僕、アスカに聞きたいことないよ?」
アスカはシンジ少年の頭にチョップを食らわせた。
「痛っ⁉」
「いい? 勝負は平等に行われる。後から言い訳はなしよ」
「いやいやいや! 僕、アイスが入った袋持ってるんだよ! 明らかに僕の方が走りにくいじゃないか! こんなの平等な勝負じゃ――」
「よーい、スタート!」
「ちょっ――せこくない⁉」
シンジ少年の言い分を無視し、優れた瞬発力を持つアスカが理不尽なスタートダッシュを切った。
呆れながらも全力でその背中を追うシンジ少年。
湖までの距離は500mといったところだろうか。
長い脚と優れた身体能力を持ち、さらにフライング気味にスタートダッシュを決めたアスカが現状圧倒的に有利だ。
一方、出遅れたシンジ少年はというと、運動能力は高いものの、スタミナメインで鍛えていることからアスカほど短距離に強くはない。
さらに、先程彼が言及したようにその手には買ったばかりのアイスの袋が握られている。
全力で腕を振ろうにも、せっかくのアイスを壊すわけにはいかないという彼の配慮が本来の力をセーブさせていた。
圧倒的に不利な条件のシンジ少年が勝てるわけもなく――
「やった! 私の勝ちね!」
「ず、ズルいよ……ハァ、ハァ、……マジでズルい……」
「敗者は言い訳ナシって言ったでしょ? ほら、早くアイスを寄越しなさい」
「……仰せの通りに。お姫様」
それでもいいところまで追いつきかけたシンジ少年のガッツは見上げたものだが、勝負は勝負。
アスカはご機嫌な様子でシンジ少年が大事に持っていた袋からアイスを受け取って草むらに腰かけた。
荒い息を整えながらシンジ少年がその隣に腰を下ろす。
彼も取り出したアイスを黙々と食べ始めた。
月光は――地底湖のため届いていないが、それでも地上の人工物から発せられている明かりが夜の湖を美しく照らしていた。
こういう風景を見ながら頬張る氷菓子もまた乙なものだ。
2人は黙々と美しい景色を眺めながらアイスを食べ進める。
先に食べ終わったアスカは無言で「外れ」と書かれた棒を差し出す。
アスカの方を見ることなく察したシンジ少年が差し出した袋に食べ終わった棒が投下される。
小腹も満たされ、全力疾走の疲れも回復して、少しぬるい風とアイスの冷たさが身体に心地いい。
満たされた空間にいる中、ふとアスカは口を開いた。
「勝者の権限を使用することにするわ」
「あぁ、何でも質問できるってやつ?」
「そう。アンタは絶対に正直に答えなければいけないの。嘘ついたら承知しないわよ。いい?」
「……なんでもどーぞ」
投げやり気味なシンジ少年が食べ終わったアイスの棒を袋の中に投下しながら答える。
アスカは視線を湖に固定したまま、
「あんた、ファースト――」
慌てて言い直す。
「綾波レイと、どういう関係なのよ」
ずっと気になっていたことを尋ねた。
「どういう関係って……この間答えたじゃないか。友達だって」
「アンタ、私のことを見くびりすぎよ。あんな露骨になんかありますって態度を取られて、はいそうですかって納得できるわけないじゃない」
「……」
「教えなさいよ。……人に言えないようなことなら、黙っておくから。約束する」
アスカの青い瞳がシンジ少年の黒い瞳を真っすぐに見つめる。
その瞳に宿る真摯な光を見たシンジ少年は――お手上げだと両手を上げた。
「絶対に誰にも言わないでね」
「えぇ」
「……綾波は、もしかしたら僕の姉弟かもしれないって言ったら驚く?」
「はぁ?」
シンジ少年はアスカのことを信用し、説明した。
綾波レイとの出会い。
彼女と自分の顔立ちが似ていること。
父の綾波に対する態度。
そして、葛城ミサトが危険だと感じ取った消去済みのデータ。
何か良からぬことをシンジ少年の父が――つまり、NERV本部の総司令が企んでいるかもしれないから、人には言えなかったことを。
ミサトと同じくきな臭さを感じたアスカは、この件を誰にも話さないことを改めて誓いつつ、しかし同時に安堵していた。
「なるほどね。つまり、アンタはアイツが自分の本当の姉かもしれないから、あんなに構い倒していたわけだ」
「そういうこと」
(良かった……)
これで実は秘密の恋人でしたとか言われた時には自分がどうなっていたか、アスカには想像できなかった。
しかし、同時に気になることがある。
「――で、綾波レイがアンタの実の姉だとして、アンタはどうなるのよ」
「どうもならないよ」
「どうもならないって……」
「ただ、嬉しいだけだよ。僕って一人っ子だからさ、ずっと欲しかったんだよね。血の繋がった姉弟が。いや――それだけじゃないな」
自分の発言を訂正しながら、素直な気持ちでシンジ少年は言った。
「多分、血の繋がった家族と仲良くなりたいんだ、僕は」
「……パパはどうなのよ?」
「残念だけど、あんまり僕のこと好きじゃないみたい。こっちに来てから色々話しかけようとはしているんだけどね」
「そう……」
何でもないことのように言っているが、彼の身に纏う空気はどこか寂し気だった。
「こんなに可愛いのにね」
「……自分で言ってちゃ、世話ないわね」
少し重くなった空気を変えるように吹っ切れたような明るい笑顔を浮かべるシンジ少年。
こういう奴と割り切ったアスカが呆れながら笑った。
「アスカのお父さんは?」
「……さーね。あんまり興味ないわ」
幼かったアスカにとって、父は早々に母を見限って別の女とくっついた他人でしかなかった。
そんな薄情な人に好かれても嬉しくはない。
だから、彼女が必死に追いかけていたのはただ一人。
「……ねぇ、シンジ」
「うん?」
やや躊躇して、
「アンタの……ママは?」
「小さい頃に死んじゃった」
「……そう」
“私と同じね”
囁くような声でアスカが言う。
彼女は思った。
本当にシンジ少年は自分と同じなのだと。
それが嬉しくて、でも何かが違う気がして。
不意に、彼女の脳裏にシンジ少年を満面の笑みで抱きしめるミサトの顔が浮かんだ。
「でもアンタ……アンタにはミサトがいるじゃない。本当のお姉さんみたいな人がいるじゃない」
「うん。そうだね。ミサトは良いお姉さんだと思うよ」
「それで、まだ姉を欲しがるの?」
アスカには理解できなかった。
葛城ミサトみたいに朗らかで、優しくて、愛情深いお姉さんがいれば他に家族なんていらないだろうに。
アスカの理想を体現するミサトの愛情を独占するシンジ少年に嫉妬心を募らせる中、シンジ少年は答える。
「欲しいよ」
ハッキリと。
「僕は血の繋がった家族が欲しい」
「……欲張りね、アンタ」
「かもね。でも、欲しがらないと始まらないよ?」
欲しがって、手に入れることが出来なかったアスカの顔が歪む。
「欲しがったからって……手に入るとは限らないじゃない」
「そうだね。でも、思うんだ。僕なら何とかなるって。僕なら全部叶えられるって」
「なによ、それ。何を根拠にそんなこと思ってるのよ」
「さぁ?」
「さぁってアンタ……自意識過剰よ」
「そうかな?」
首を傾げながら、それでもやはり力強い瞳でシンジ少年は言う。
「なんだかよく分からないけど、僕ならいける気がするんだ」
それは、根拠のない自信かもしれない。
だが、シンジ少年は心の底から碇シンジ、という人間の価値を信じていた。
自分なら何でもできると、強く信じていた。
この数日、文字通り片時も離れず過ごしてきたアスカはシンジ少年のことをよく分かっていた。
分かっているからこそ、彼が嘘でも何でもなく、ただただ根拠のない自信で自分を信じていることが分かる。
“羨ましいな――”
アスカはそう思った。
本当に羨ましい。
だって、アスカはそんな根拠のない自信を持てるほど自分のことが好きじゃなかったから。
でも、同時に思った。
もしかしたら、と。
この少年と一緒にいれば、もしかしたら自分もこうなれるかもしれないと。
それは、この地獄のような5日間を過ごしたからこそ身に着いた自信であった。
「……ねぇ、シンジ」
「なに?」
「実はね、私も欲張りなの」
「……いや、言われなくても知ってるけど」
「うるさいわね」
怪訝そうな表情を浮かべるシンジ少年の額にデコピンを食らわせてから、アスカは続ける。
「だから、欲しいものは何が何でも手に入れるのよ」
「……具体的には?」
「今は秘密よ」
「そう」
言うつもりがないのであれば仕方ない。
アスカならその時が来れば教えてくれるだろうとシンジ少年は思った。
「手に入れられることを願ってるよ」
「ありがと」
サラリと感謝の気持ちを口にしながら、湖を見つめる。
(そっか……そういうことだったんだ)
どこか穏やかな気持ちで自分と向き合うアスカ。
(私は、ただ欲しかっただけだったんだ)
アスカは自分に素直になった。
今ならハッキリと言うことが出来る。
惣流・アスカ・ラングレーは――
葛城ミサトが欲しい。
彼女に姉になって欲しい。
彼女に見て欲しい。
彼女に大事にしてほしい。
彼女と一緒に遊びたい。
彼女の役に立ちたい。
そして――
「シンジ」
「なに?」
こちらを向く純粋な瞳。
美しい顔立ち。
天使みたいに笑う人。
純真な心。
欲しい、と思った。
惣流・アスカ・ラングレーは、碇シンジが欲しいと思った。
今なら分かる。どうしてあんなに綾波レイとの関係を邪推していたのか。
どうして話したこともない彼女に憎悪を向けていたのか。
彼にこっちを向いてほしい。
自分だけを見ていて欲しい。
自分だけを大事にしていて欲しい。
彼の役に立ちたい。
彼と、恋人になりたい。
総じて、アスカは碇シンジと恋人になって、葛城ミサトを自分の姉にしたいと思っていた。
そのためには色々とクリアしなければならない課題がある。
このお子ちゃまに恋を意識させるとか、シンジ少年にベタ惚れのミサトと彼を巡って喧嘩にならないよう気を付けながらも彼女に好かれるようにしなければならないなど。
前途多難だ。
だが、自分の正直な気持ちに気づいたアスカはスッキリしていた。
欲しいものは分かった。
後は、手に入れるために努力するだけだ。
これまでと何も変わらない。
アスカはそうやって、今の地位を手に入れたのだから。
湖に視線を戻し、諸々の想いを抑え込んでアスカは言う。
「……明日、勝つわよ」
「もちろん」
力強く頷くシンジ少年もまた湖に視線を移す。
ふと、アスカはシンジ少年と初めて出会った日のことを思い出した。
お互いのエヴァンゲリオンと共に出会ったあの夜。
(そうだ、確かあの夜は――)
「月……」
「うん?」
「月を見たいから、やっぱりジオフロントは好きじゃないわ」
「……じゃあ、明日は戦いが終わったら上にご飯を食べに行こうよ。うちのベランダからなら月も見えるんじゃない?」
「いいわね、それ」
最高よ。
アスカはそう呟いて微笑んだ。
♰
訓練開始から6日目。
そして、使徒活動停止より7日目。
予定通り、使徒は現れた。
「目標は強羅防衛線を突破!」
「来たわね……2人とも行くわよ」
『『了解‼』』
威勢よく、同時に返事をするパイロット両名。
その力強い返事を聞き、ミサトは頷いた。
「エヴァンゲリオン両機、発進ッ!」
ついに地獄の5日間の訓練の成果を活かすとき。
発進したエヴァンゲリオン両機は出撃後、目の前に現れた使徒に対して即座に突進を仕掛けた。
武器は持っていない。
ただ、自分たちの拳だけを信じている。
馬鹿正直に突進してきたエヴァに対し、使徒は両機を纏めて始末するべく怪光線を放った。
連射性能に優れ、(零距離の発射ではあったが)シンジ少年の心臓も止めた攻撃が両機を襲う。
だが、2人に動揺はなかった。
初号機は優れたステップワークと反射神経を駆使して避け、
弐号機もまた急所を守りながら的確に攻撃を避けていく。
中距離では埒が明かないと察した使徒は、接近戦へ移行することを決断した。
それが2人の術中であるとも知らず。
或いは、使徒といえども慢心があったのかもしれない。
自分たちが分裂すれば敵などいないと。
使徒の思惑に敢えて乗る形で弐号機が先制攻撃を仕掛けた。
プログナイフによる一刀両断である。
優れた操縦技術に加え、ここ数日の地獄レッスンでさらなるスピードを得たアスカの攻撃は鋭く、使徒の身体はあっさりと真っ二つにされた。
さて、本番はこれからだ。
2体に分かれる使徒。
初号機は無言で拳を構えた。
プログナイフを仕舞った弐号機もまた無言で拳を構える。
言葉は不要だった。
同時に駆け出す初号機と弐号機。
それを迎え撃つ使徒は、鋭い爪を振った。
あっさりと上体の動きだけでそれを躱す初号機と弐号機。
攻撃を透かされた使徒は今、隙だらけだ。
ボクサーとして訓練を重ねた2人の強烈なカウンターが使徒の顔面に突き刺さった。
エヴァンゲリオンはイメージで動く兵器だ。
この5日間、ひたすらに拳を振るい続けた2人のイメージと実感は完璧で――思わぬ強打に使徒の身体が大きくのけぞった。
(シンジ……!)
(アスカ……!)
2人の心が重なる。
チャンスだ。
エヴァンゲリオン2機は強烈な連撃を叩き込み始めた。
右ジャブ
右ジャブ
右ストレート
右ストレート
左フック
左フック
左ストレート
左ストレート
一糸乱れぬタイミングで2人が同じ動きをする。
それは、まるで元は同じ人間が分裂したかのようなユニゾンだった。
(そう! これよ、これ!)
アスカは歓喜した。
シンジ少年と訓練を重ねる中で目覚めていった新しい感覚。
お互いがお互いのことを感じ合うことで初めて成り立つ攻撃。
一方で、シンジ少年もまたその感覚に歓喜していた。
ミサトとは心が通じ合っている彼だが、それでもパイロットとしての彼はずっと孤独だった。
殆ど1人で戦場に立ち続けていたのだ。
そんな中、彼女が現れた。現れてくれた。
自分がこうするから、彼女もこうするはず。ほら。
右のフックが同タイミングで使徒を捉える。
肉眼で確認するまでもない。
今までにない感覚にシンジ少年は夢中になっていた。
いつもは忌避している初号機とのシンクロに違和感を覚えてないほどに。
35%
40%
45%
50%
「初号機パイロットのシンクロ率が急上昇! まずいです! 連携が乱れます!」
焦ったマヤの報告が発令所に響き渡る。
だが、指揮官のミサトは眉一つ動かさなかった。
「大丈夫よ」
「しかし――!」
「あの2人なら、大丈夫だから」
彼女が見つめる画面の向こうでは、急なシンクロ率の上昇によって打撃の速度が上がった初号機と――それに完璧に合わせる弐号機が映っていた。
「えっ――」
「報告を」
「は、はい! エヴァンゲリオン2機の動き、完璧に一致しています! 1秒のズレもありません! 信じられない……」
「当然よ」
ミサトはちょっとだけ面白くなさそうな表情で呟いた。
「あの子たちは、相手の苦しみをよく知っているもの」
♰
急速なシンクロ率上昇に伴う初号機の打撃速度の上昇をシンジ少年とアスカ共にすぐに感じ取った。
だからこそ、即座に修正に掛かる。
シンジ少年は拳の速度を意図的に落として、アスカは少しだけ上げる。
シンジ少年が少し速度を落としすぎたなと反省して上げれば、アスカが少しだけ下げる。
アスカが少し下げ過ぎたなと思ったら、シンジ少年が少し速度を上げる。
絶妙な調整が、僅か数秒の間に実行される。
2人は圧倒的な集中力と共有力であっという間に最適な感覚を見つけた。
後に、葛城ミサトは述懐する。
あの時の2人は、完全に
(これ、いいなぁ)
シンジ少年の急なシンクロ率上昇に何も言わず、ただ反射的に自分から速度を合わせに行ったアスカは言いようのない全能感の中にいた。
いつまでも戦える気がする。
いつまでも一緒にいられる気がする。
動きをなぞるだけじゃない。
お互いが自立しながらも、目標は同じに、心は一つに動き続ける。
“このまま、ずっとシンジと一緒にいられればいいのに”
エントリープラグという隔たりを超えて、2人は繋がっていた。
間違いなく心が重なっていた。
アスカは思った。
終わりがあると分かっているからこそ思った。
“ねぇ、シンジ”
なに
“この瞬間だけなんてもったいないじゃない”
そうかもね
“だから”
だから?
“ずっと、心、重ねていて――”
だが、完璧なユニゾンはその完成度故に戦いをすぐに終焉へと導く。
初号機の右アッパーと弐号機の右アッパーが同時に使徒の頭部を下から強打し、短期間で蓄積された膨大なダメージから使徒は分裂の維持が難しいと判断した。
1つの姿に戻ろうとする使徒。
分離していたコアもまた1つになろうとする。
チャンスだ。
初号機と弐号機が同時に拳を引き絞る。
アイコンタクトすら必要ない。
深い踏み込みと共に放たれる渾身のストレート。
それは0.01秒のズレもなく使徒のコアに同時に突き刺さり――
エヴァンゲリオンは大苦戦を強いられた分裂使徒をあっという間に撃破した。
初号機と弐号機は同時に突き出した拳をぶつけあう。
「帰りにステーキ食べて帰りましょ」
「仰せの通りに。お姫様」
♰
翌日。
シンジ少年とアスカは久々に登校していた。
といっても、登校は一緒にしているわけではないので、アスカが登校してきたときには既にシンジ少年は教室にいたのだが。
「あれ、アスカ?」
「久しぶり、ヒカリ」
すっかりファーストネームで呼び合う仲になった友人が久々に登校してきたのを見た洞木ヒカリは目を丸くした後――全力ダッシュでアスカに詰め寄った。
「アスカ! 久しぶりじゃないわよ! 一週間も学校を休んで……家に行っても体調不良の一点張りで追い返されちゃうし、私心配してたんだから!」
真摯な友人からの心配を嬉しく思う一方で、申し訳なさも感じたアスカは慌てて頭を下げた。
「ごめん、ごめん。ホント、色々あってさ。ヒカリに説明する暇もなかったのよ。ホントにごめんね……」
どこか雰囲気が柔らかくなったアスカの真剣な謝罪を受け、ヒカリは再び目を丸くした。
アスカってこんな人だったっけ?
彼女の前でだけ素を曝け出していた友人の変化に戸惑いを隠せない。
「ま、まぁ……元気そうだから良かったわ。体調は本当に大丈夫なのね?」
「えぇ。もう何ともないわ」
地獄のトレーニングも終わったし。
アスカは心の中だけで呟いた。
「それは良かった。でも、無理はしないようにね」
「えぇ」
「……ところでさ、碇君と何かあったの?」
「なんで?」
「だって、同じ期間一緒に休んでいたんだもん! クラス中で良からぬ噂が立ってるみたいよ」
「えっ」
言われてから慌てて周りを見ると、確かに何名かの女子生徒――のみならず、アスカを狙う男性陣もどこか意味深な視線を飛ばしてきていた。
(あちゃー、そういえば確かにシンジと全く同じ期間休んでいたのか。疑われて当然ね)
それを意識することがないほど近くにいたので気が付かなかったとアスカは反省する。
「流石に2人一緒に体調を崩すなんて考えにくいじゃない? それに、もし同じタイミングで風邪を引いたとしたら、それって一緒にいたってことになるし……それにさ、最近アスカと碇君が一緒に帰っているっていう噂もあってね……アスカ?」
「ごめん。後で説明するから」
やはり委員長としてしっかりしているように見えても根はゴシップ好きの女の子だ。
あれやこれやと矢継ぎ早に探りを入れてくるヒカリにひらひらと手を振ってアスカはシンジ少年の方へ向かった。
件のシンジ少年は登校してきたアスカに気づかず、いつも通り綾波レイと楽しそうに話している。
(相変わらず、綾波レイに熱中か。理由は分かったけど、この私が登校してきたんだからこっち見なさいよ)
“だから、私を見て――!”
不意に、昔の記憶を思い出した。
数日前に夢でも見た、封印したはずの辛い過去だ。
“だから、私を見て――!”
何がいけなかったのか考えた。
次第に考えるのがとても苦しくなって、考えなくなった。
段々と記憶を封印するようになって、後に残ったのは、ただ寂しがり屋で素直になれない頑固な女の子だけ。
「シンジ!」
「なに?」
アスカに呼ばれたシンジ少年が振り返る。
彼は呼べば答えてくれる。絶対に。
それだけじゃない。
(急にどうしたのさ、アスカ)
(……そこにいなさいよ。話があるから)
言葉にするでもなく、お互いの意思が通じ合う。
それにくすぐったさと心地よさを感じながらアスカがシンジ少年の前にたどり着く。
ふと、耳を澄ませば教室がざわついているのが分かった。
当然だ。アスカは謎の美少女転校生として猫を被り続けており、謎のプライドでシンジ少年との接触を避けていたのだから。
急にフランクな様子で名前を呼び出せば驚きもする。
ヒカリが言っていた噂も相まって、色々と気になるのだろう。
被り続けている窮屈な猫の皮。
鬱陶しい興味がない男子たちからの告白。
教室中に蠢くシンジ少年を狙うライバルたち。
(ま、ちょうどいいかもね)
アスカは、決めた。
「――ねぇ、シンジ」
「うん?」
熱に浮かされた青い瞳がシンジ少年を捉える。
「アンタ、初恋もしたことないのよね」
「急にどうしたの? まぁ、ないって言ってもいいと思うけど……」
教室がさらに一段とざわつく。
先週までどこか他人行儀だったくせに、今日久々に登校してきたと思ったら初恋の話だ。
しかも、アスカの口調がいつもの丁寧な感じじゃない。
クラス中の女子たちがヒソヒソと話をしている。
クラス中の男子が困惑した表情で2人の様子を見守っている。
アスカの気分は最高潮。
多分、後で恥ずかしさで脳が爆発することになるんだろうけど……今は無視。
アスカは笑って――猫のようにするりとシンジ少年の横まで擦り寄った。
「ガキね、アンタ。お子ちゃまよ。ガキシンジね」
「……どうしたの、急に?」
怒るよりも先に、アスカの瞳に挑発の意図がないことを悟ったシンジ少年が困惑した表情で尋ねる。
自分の機微を読み取っているシンジ少年との心のリンクと、それでも一番大事なところを悟ってくれない鈍さに苛立ちを感じつつ、アスカはさらに距離を詰める。
「アンタ、どういう子がタイプなのよ」
「タイプ? タイプって言われてもな」
何でも即決即断、ハッキリと物を言い切るシンジ少年だが、流石に明確になっていない価値観を言葉で表現することは難しい。
悩んだ末、シンジ少年は素直に答えた。
「やっぱり、僕のことを好きでいてくれる人かな」
恋愛的な意味ではないが、真っ先に浮かんだ女性はやはり葛城ミサトだった。
だが、それと同時に地獄のような5日間を共に過ごした目の前の彼女から目が離せない。
一方、アスカは相変わらずな少年のスタンスに呆れつつも、その条件なら簡単だと安堵していた。
「じゃあ、私のタイプを教えてあげる」
「どんな人なの?」
心なしか、興味がありそうなシンジ少年が尋ねる。
アスカはニッコリと微笑んで自分の耳に手を当てるジェスチャーをした。
「あんまり大きな声じゃいえないわ。ほら、耳を貸しなさい」
「どれどれ……」
アスカに指示されたシンジ少年が素直に左耳をアスカの方へ差し出す。
顔を寄せたアスカはそっと囁いた。
「アンタよ」
耳元で甘く囁かれた言葉にシンジ少年が驚いてアスカを見る。
慌てた様子のシンジ少年が口を開くその前に、アスカはその唇を自分の唇で塞いだ。
触れるだけの、軽いキス。
「私はアンタが好きで、アンタは自分が好きな人が好きなんでしょ? 条件は一致してるわよね」
「――――」
何も言えない様子のシンジ少年にアスカは告げる。
「だから、アンタ、私だけ見ときなさいよ」
だから、私を見て。
幼く、脆かった過去の自分が過ぎ去っていくのを感じながら、アスカは自信に満ちた笑みを浮かべた。
教室が悲鳴と絶叫で混沌に陥る。
綾波はよく分からない様子で首を傾げ、
ケンスケは涙目になり、
トウジは腰を抜かして、
ヒカリは両手で顔を覆っている。
シンジ少年は――顔を赤くしてアスカを見ていた。
なんだ。
まだ、心、重なってるじゃない。
アスカは自分も顔が真っ赤になっていることを自覚しながら、満面の笑みを浮かべた。
予告
自分の気持ちに気が付いたアスカ。
戸惑うシンジ少年。
そして、新たなるエヴァンゲリオン確保の為に暗躍する葛城ミサト。
青春と陰謀がひしめき合う中、孵化直前の使徒が発見された。
初の使徒捕獲作戦に極地仕様の弐号機が挑む。
次回
マグマダイビングスクール【前編】