まごころを、ぼくに   作:赤坂緑語

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レイ、心のこちらに

 

――葛城家――

 

「……驚いた。貴女、本当にミサト? 使徒じゃなくて?」

「この間の使徒の時にも言ってたわね……きちんと本人よ」

 

鉄板ネタになりつつある赤木リツコの台詞。

だが、同じネタを使いまわしてしまうほどに衝撃的な出来事であった。

 

「まさか、貴女が人が食べられる料理を作れるようになるなんて……人類とは絶えず進化し続ける生き物なのね……」

 

感動すら覚えながら葛城ミサトが作ったというお手製のカレーを口に運ぶリツコ。

味は決して悪くない。寧ろ美味い部類に入るだろう。

インスタント食品すらまともに作れなかった女性とは思えないほどの進歩だ。

 

人類補完計画なんていらないんじゃないだろうか。

葛城ミサトの進化を目撃したリツコは一瞬、本気でそう思った。

 

「驚き過ぎじゃない? ……まぁ、あたしも驚いてるけどさ。シンちゃん様々ね!」

「ちょっと、急に抱き着かないでってば……」

 

カレーのお代わりを輸送していたシンジ少年にバッと背後から抱き着くミサト。

迷惑そうな声を上げているシンジ少年だが、言葉ほど嫌がっているようには見えない。

 

(随分と仲がよろしいことで……)

 

久々に飲もうと葛城家に招待され、ミサトの手作りカレーを出されたときにはどうなることかと思ったが、あの少年のお陰でごく普通の食事にありつけている。

 

(変わったわね。ミサト)

 

以前にも思ったが、彼女は明らかにこの1年で変わっていた。

 

「これじゃ、どっちが保護者か分からないわね……シンジ君、お困りのようなら私のところへ来る?」

「えっ」

「ちょっとリツコ~、シンちゃんは私のものなんだから渡さないわよッ!」

「勝手にもの扱いしないでよ……」

 

呆れた様子のシンジ少年を強く抱きしめながら冗談めいた口調で所有権を主張するミサト。

だが、長年の付き合いであるリツコにはミサトが本気で彼を渡したくないという意思が見て取れた。

いや、リツコでなくとも分かるだろう。あんな剣吞な視線を向けられれば。

 

(本当に変わったのね、ミサト……)

 

果たしてそれは好ましい変化と言えるのだろうか。

以前の中途半端で……良く言えば、優柔不断な優しさを持っていた彼女はもういない。

自分の中で明確な優先順位を決め、その為だけに尽力する、鋼のような女がそこにいた。

 

とはいえ、彼女はもとより使徒殲滅に人生を捧げていた。

もともとあった一面がより強調されただけなのかもしれない。

 

(これでシンジ君が殉職するようなことがあれば……考えたくもないわね)

 

頭が回りすぎるというのも考え物だ。

リツコは想像した恐ろしい未来を忘れるようにビールを胃に流し込む。

 

「……だいたい、リツコのところに移るって言ったって、手続きが面倒なのよ。シンちゃん、本部のセキュリティカード、更新したばっかりなんだから」

 

ミサトはリツコが冗談のつもりで言ったことをまだ気にしているのか、必死にシンジ少年を留めておくための言い訳を口にする。

可愛らしいな、と適当に聞き流していたリツコだが、そこで大事なことを思い出した。

 

「あっ、忘れるところだったわ。シンジ君、頼みがあるのだけどいい?」

「なんですか?」

「なによ~」

 

お前には聞いていない。

シンジ少年の肩に顎を乗せながら保護者顔でしゃしゃり出てきたミサトに内心にツッコミを入れながらリツコはセキュリティカードを取り出した。

 

「これ、綾波レイのセキュリティカード。渡しそびれたままになってて……悪いんだけど、本部に行く前に彼女のところへ届けておいてくれないかしら?」

「はい。分かりました」

 

お安い御用だぜと気軽にカードを受け取ったシンジ少年はチラッとカードの写真を眺めてからすぐに自身の財布の中へ仕舞った。

 

「ちょっとリツコ~、気軽にうちのシンちゃんへ雑用押し付けないでもらえる? シンちゃんも面倒だったら断らないと~」

「別にいいよ。ちょうど綾波とは話をしたかったし」

 

その瞬間、リツコはミサトの表情が僅かに歪んだのを目撃した。

 

(重症ね。歪んだ執着心の発露……シンジ君の方が大人ってどうかしてるわね。まぁ、私が言えた義理じゃないけれど)

 

自嘲しながらビールを煽る。

 

「そ、そう……ま、同じエヴァのパイロット同士、仲良くするのは悪いことじゃないわね」

「うん」

 

人の機微に鋭いのやら、鈍いのやら。

ミサトの変化に気づいた様子のないシンジ少年は、ボクシングのトレーニングによって消費したカロリーを取り戻すべく、大盛のカレーに食らいつくのであった。

 

 

♰

 

 

翌日。

シンジ少年はセキュリティカードの住所に従って綾波レイの家を訪れたのだが……

 

「……本当にここで合ってる?」

 

思わずそう口に出して疑ってしまうほどに、廃れた住宅地であった。

かなりの老朽化が進んでいるのか、所々の設備が壊れかけだし、ゴミも散乱している。

治安が悪いのかとも思ったが、そもそも人の気配が感じられない。

もしかしたら使徒出現の影響で疎開していったのかもしれないなと思いつつ、シンジ少年はインターフォンを押した。

 

「あれ、壊れてる……?」

 

想像していた音が鳴らない。

仕方がないのでドアをノックして呼び掛ける。

 

「もしもーし、碇シンジだけど綾波さん、いらっしゃいますー?」

 

返答はなし。

 

「参ったな……今日、零号機の起動実験だって言ってたし、早くカード渡さないとNERVに入れないよな……」

 

自分が(正確にはリツコだが)渡しそびれたせいで彼女の評価が下がるのは忍びない。

どうしたものかとドアに手を伸ばし、

 

「あれ、開いてる……いや、でも流石に女の子の家に勝手に入るのは……」

 

だが、カードは渡す必要がある。

それに、人の気配がしない住宅地ではあるが、長時間ドアの前で立っていると不審者として通報されかねない。

 

「仕方ないか」

 

さっと入って、事情を説明した手紙を書いてカードと一緒に置いておこう。

そう決断したシンジ少年はそーっとドアを開いて彼女の家に入った。

 

「お邪魔しまーす……」

 

何故か小声になりながら綾波家の廊下を進む。

 

なんだか、寂しいところだな、とシンジ少年は思った。

彼女の家には生活感というものがまるでなかった。

 

色のない部屋。

日光を遮るカーテンも相まって、本当に人が住んでいるのか怪しいほどの空虚感がある。

 

(取り敢えず、事情を説明した手紙を書こう)

 

鞄の中からペンとメモ帳を取り出したシンジ少年はどこか筆記がしやすい場所はないかと部屋を見渡し――

 

「あっ、これ……父さんの眼鏡?」

 

NERVに来たばかりの頃に父が身に着けていた眼鏡を見つけた。

綾波を加熱されたエントリープラグから救出したという話は本当らしく、フレームが熱で歪み、硝子にも罅が入っている。

 

こんなことになってもなりふり構わず綾波を助けたという父。

シンジ少年は――

 

(やっぱり、綾波は父さんの娘で……僕の姉弟なんだ……)

 

勘違いを加速させていた。

 

ふと、後ろに人の気配。

急いで――しかし、傷をつけないように優しくそっと眼鏡を元あった場所に戻してから振り向く。そこには――

 

「あ、綾波⁉」

「……碇くん」

 

真っ裸にタオルをちょっと羽織っただけの姉弟と勝手に想像している職場の先輩がいた。

顔を真っ赤にしながら視界に入れないよう後ろを振り向くシンジ少年。

色々と大人びている彼だが、流石にこういう方面には疎い。

 

「か、勝手に入ってごめん! ただ、カードキーを渡す必要があって、あの郵便箱に入れても気づいてもらえないと思ったから……!」

「そこ、どいてくれる」

「あっ、ご、ごめん……」

 

顔を真っ赤にしながら釈明するシンジ少年だったが、綾波に冷静な声で指摘され、彼女が焦っていないのを感じ取って静かになった。

 

指示通りにタンスの前からどく。

彼女は淡々と着替えを取り出すと、シンジ少年が目の前にいるにも関わらず、堂々と着替え出した。

 

(しゅ、羞恥心ってものがないのかよ! 父さんは娘にどういう教育をしてるんだ!)

 

初心で紳士なシンジ少年は彼女の着替えを見ないよう、背を向けながら怒りを自分の父へ向ける。

 

「えーと、本当にごめんね。勝手に入って、勝手に着替えを見ちゃって」

 

後半は完全に羞恥心に欠けている綾波が悪い気もするが、異性として謝罪をしておく。

 

「いいわよ、別に」

 

何とも思ってなさそうな口調で綾波が答える。

 

(別にいい……それはつまり、僕を異性としていないから。こんなに美しくてかっこいい僕を異性として意識しないってことは……彼女も僕が血縁者であることに気づいているということか?)

 

傲慢極まりない思い込みをするシンジ少年。

最近、ボクシングで男としての自信をつけてきたシンジ少年は、自己採点に“美しさ”の他に“カッコよさ”も追加するようになっていた。

彼が全世界の女性が自分に恋をしていると勘違いする日もそう遠くないだろう。

 

「あっ、そうだ。これが新しいカードキーなんだけど……着替え、終わった?」

「えぇ」

「良かった。それじゃあ、振り向くね」

「……どうして、そんなに気を遣うの」

「どうしてって……」

 

この1年で(といっても、実験の関係でしか接触しかできないので出会った回数は少ないが)彼女に一般常識が欠如していることは何となく悟っているシンジ少年。

だが、それが普通と伝えたところで、彼女が納得して次回から気を遣ってくれるかどうかは分からない。

 

悩んだ末、シンジ少年は答えた。

 

「親しき仲にも礼儀ありって言葉があるでしょ? 基本的に、親しい人の前でも安易に裸を見せるのは礼儀に反している……らしいよ?」

 

真っ向から礼儀知らずと告げるのは憚れたので、何となく濁した感じの回答になってしまった。

肝心の綾波はというと、

 

「そう」

 

いつも通り、素っ気ない反応をするのみであった。

 

今度、綾波と親しいらしい赤木さんに彼女の情操教育がどうなっているのか聞いてみよう。

シンジ少年はそう決意した。

 

 

♰

 

「そういえば今日、零号機の再起動実験なんだってね」

「えぇ」

「その、上手くいくといいね」

「そうね」

 

手渡したカードキーですんなりとNERV本部のゲートをくぐったシンジ少年と綾波は、意味わからないくらい長いエスカレーターを下りながら会話を交わしていた。

いつもは人好きでお喋りなシンジ少年だが、彼女が相手だとどうにも口が上手く動かない。

 

それは、彼女のことを心のどこかで血縁者――家族ではないかと疑っていることからくる、妙な緊張感だった。

 

血の繋がった家族とコミュニケーションを取った記憶が殆ど残っていないシンジ少年にとって、それは未知の感覚だ。

友達でもなく、自分を好いてくれる大人たちとも違う彼女。

未だに正体が良く分からないミステリアスな少女。

 

“綾波レイ”

 

知りたい、とシンジ少年は思った。

彼女のことを知りたい。

彼女が何を考えているのかを知りたい。

彼女と父の関係を知りたい。

彼女の生まれを知りたい。

 

彼女が……自分の血縁者なのかを知りたい。

 

「ね、ねぇ……綾波」

「なに」

 

欲求がシンジ少年の中で大きくなっていく。

どうしてこのタイミングなのだろうか?

それはきっと、彼女と2人きりで……下へと流れるこのエスカレーターがクソほど長いからだろうと、シンジ少年は結論付けた。

 

本当は衝動に理由などなく、ただシンジ少年の感情が勝手に高ぶったことが唯一にして絶対の理由なのだが、“知りたい”という欲求に逆らえる人間などいない。

 

「もしかしたら僕たち、姉弟かもしれないって言ったら驚く?」

 

気が付けば、シンジ少年の口は勝手に動いていた。

 

「……なによ、急に」

 

流石の綾波も奇想天外な発言に一瞬固まる。

 

それくらいに驚きの発言だった。

だって、そんなはずはないのだから。

 

「前から思っていたんだよ。綾波と僕って顔が似ているって。ほら、どこか面影ない?」

 

だが、シンジ少年の勘違いは止まらない。

何故なら、誰も止めてくれないから。

 

どこからか取り出した手鏡を綾波に見せながら横に自分の顔を並ばせて「ほら、似てるでしょ!」と嬉しそうに語る。

 

「……顔が似ているからといって、兄妹とは限らないでしょう」

 

ごもっともなツッコミを入れる綾波。

だが、シンジ少年は止まらない。

何故なら、彼は思い込んだら一直線だったから。

 

「顔以外にも証拠はあるよ。例えば、誰にも心を許していないっぽい父さんが綾波には凄く優しいでしょ? あのコミュ障があんなに人に優しくできるなんて、それはもう実の娘くらいしか考えられないよ!」

「……あなたは? あなたも碇司令の子供なんでしょ」

 

流れに押され、さり気なく自分が碇ゲンドウの子供であることを(本当は違うけど)肯定しながら綾波が尋ねる。

 

「世間一般的に、父親は息子に厳しいらしいよ? 反面、娘は甘やかす傾向にあるとか」

「そう……」

 

シンジ少年は胸を張って例の一般論を口にする。

父に愛されない理由を一般論に求めたシンジ少年と、常識が殆どないが故、素直に一般論とやらを受け入れた綾波。

割と深刻だったはずの愛情問題をさらっと解決した2人の勘違いは加速する。

 

「父親違いの……とはどういう意味?」

「僕は先生――父さんがお世話になっていた人なんだけど、その人によく“母親に似ている”って言われていたんだよね。そして、綾波はそんな僕とよく似ている。つまり、綾波と僕は同じお母さんから産まれた可能性がとても高いんだ」

「……」

 

碇シンジと綾波レイは、碇ユイ(をベースにして)から産まれた。

 

色々と細かい要素を省き、大雑把に表現すればその通りと言えなくもない事実がある為、シンジ少年の意見を綾波は否定できない。

否定できるだけの語彙力がなかったともいう。

 

ずっと一人で抱えていた考えを口にできてスッキリできたのか。

シンジ少年は堰を切ったようにべらべらと自身の推測を語る。

 

そのどれもが彼の推測に過ぎず、一部の真実を知っている綾波からすれば間違いだらけだったが、それでも彼女は何故か否定する気になれなかった。

 

理由はただ一つ。

彼女も知りたかったからだ。

 

エヴァンゲリオンでしか人と繋がることを許されなかった彼女に、エヴァンゲリオン以外の繋がりが出来た時、彼女は何を思うのか。

 

そして――

 

「……私があなたの姉弟だったとして、あなたはなにを思うの?」

 

彼は何を思うか。

 

シンジ少年は考える。

 

静かで、淡々としていて、無感情――に見えて、普通に感情があって、エヴァに乗ることが全てと語る彼女。

恐ろしいほど空虚な家に住んでいる彼女。

父と仲がいい彼女。

一般常識が欠如している彼女。

 

“どういたしまして”と言って下手くそな微笑を浮かべた彼女。

 

そんな彼女が――綾波レイが姉弟だとして、シンジ少年は何を思うのか。

 

「嬉しいよ」

 

満面の笑みで彼は答える。

心の底からの感情を。

 

「君と姉弟なら、とても嬉しい」

 

嬉しいに決まっている。

妖精のように無垢な彼女。

昔のシンジ少年のように――どこか寂し気な彼女。

でも、表し方を知らないだけで、本当は感情がある彼女。

表に出ないだけで、本当は優しい彼女。

 

シンジ少年は、彼女が姉なら嬉しかった。

 

「な、何を言うの……」

 

綾波は急に恥ずかしくなって顔を背けた。

 

動揺している。

あの綾波レイが。

顔を赤く染めている。

あの、綾波レイが。

 

だが、綾波は確かに想像してしまったのだ。

彼が自分の弟で、ただ一人の変わりがいない綾波レイを姉として慕ってくれる光景を。

 

それは、とても温かいことのように思えた。

 

きっと、碇ゲンドウがこの場に居たら激昂し、無理やりにでも綾波とシンジ少年を引き離していたに違いない。

だが、幸いにもと言うべきか、今この場には2人きりだった。

ガードも2人がゲートをくぐった時点で監視を解いている。

 

つまり、2人の勘違いと勢いを止められる者はいなかった。

 

「……まぁ、これが全部僕の勘違いの可能性もあるけれど、僕は本当に綾波が妹――いや、父さんと母さんは再婚だろうから、姉(・)か(・)。君が姉なら嬉しいな」

 

実は、ずっと姉弟が欲しかったんだよね、と照れ臭そうに笑うシンジ少年。

 

シンジ少年の姉を(勝手に)自負しているミサトが知れば、嫉妬で怒り狂いかねない発言だが、それだけ彼の中で“血の繋がった家族”という要素は大きかった。

 

与えられて失い、渇望しても与えられなかった分、余計に。

 

「……本当に血が繋がっているかなんて分からないわ」

「うん。だから、これからも僕独自で調べてみるよ。分かったら教えるね」

「……もし、わたしがあなたの姉じゃなかったとしたら?」

 

自然体ではなく、意識して無表情を維持している綾波にシンジ少年はとびっきりの笑顔で言った。

 

「今までと何も変わらないよ。綾波はエヴァの先輩で、同じ学校の友達」

「友達?」

「えっ、違った?」

「……言われたことなかったから」

「そっか。じゃあ、今言ったから友達!ってことでいいかな?」

「……ええ」

 

シンジ少年の流れに乗せられ、頷く綾波レイ。

だが彼女自身、決して悪い気はしなかった。

 

思わず無表情が崩れそうになるくらいには。

 

♰

 

 

『ちょっとレイ、集中しているの?』

「はい」

『ならいいけれど……今度は失敗が許されないの。気を引き締めてちょうだい』

「分かりました」

 

赤木博士の厳しい指摘が飛ぶが、言葉とは裏腹に綾波レイの心はどこか浮ついていた。

零号機にようやく搭乗出来たというのに、上手くシンクロ出来ていないのがその証拠だ。

 

考えるのはあの少年のこと。

 

彼女のことを先輩として慕い、いつも笑顔で、優しく、そして血の繋がりがあると主張するあの少年。

 

(あれ、私……)

 

ふと、綾波は自分の顔を触って驚いた。

赤木リツコたちはシンクロ率のデータに集中していて彼女の顔など見ていない。

だが、見ていればきっと驚いただろう。

 

(笑っている……?)

 

“笑えばいいと思うよ”

 

初めてお礼を言われた1年前のあの日。

彼はそう言って綾波にアドバイスをしてくれた。

あの時の自分は上手く笑えていなかった。

 

だけど、今は笑えている。

どうして?

 

少し考え、綾波は理解した。

 

(そう……私、嬉しいのね。あの子と繋がりが出来て)

 

繋がり。

エヴァンゲリオン以外の繋がり。

それが、今日だけで2つも。

 

澄み切った水面のようだった綾波の精神に揺らぎが生じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてそれは、致命的な揺らぎだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「こ、これは……⁉」

「シンクロ率、極めて不安定です! 今のところ暴走の危険はありませんが――」

「これ以上リスクは冒せないわ! ただちに実験を中止! エントリープラグ排出!」

「了解!」

 

バタバタと騒がしくなる実験室。

赤木リツコが血相を変えてコンソールを叩く中、様子を見に来ていた葛城ミサトは冷静だった。

動き続ける脳みそで、無情な現実を受け止めていた。

 

あぁ……零号機はもうダメなんだな、と。

 

暴走したわけではない。以前よりも遥かに低く、不安定なシンクロ率に技術部(主に赤木リツコ)がヒステリーを起こしているだけだ。

だが、一度暴走したという前科がある以上、易々と零号機を使える状況ではなくなってしまった。

 

折角初号機の負担が減ると思って期待していたのに、これではまたシンジ少年を一人で戦わせることになってしまう。

こうなったら零号機は解体して、その分の装備や装甲を初号機に与えるべきではないだろうか。

 

――と、初号機のことばかり考えていたミサトは自分を冷笑した。

 

(冷たいわね、私。レイの気持ちも考えず……いえ、冷たくなれたのね。シンちゃん以外の人間に)

 

中途半端な八方美人はもう止めてしまった。

そこに使うべきエネルギーは全て、一人の少年に向けられていたから。

ただ一人、ただ一つの、彼女の執着に。

 

(もとから計画していたことではあるけれど、もっと早く弐号機を呼んだ方がいいかもしれないわね。それまでに使徒が来ないといいけれど……)

 

そんなミサトの願いも虚しく――

 

その日、使徒は現れた。

 

 

♰

 

 

「――というわけで、現在使徒は芦ノ湖上空。NERV本部目掛けて進行中よ」

『……』

 

初号機への搭乗を完了させたシンジ少年に状況を伝えるミサト。

しかし、肝心のパイロットはどこか上の空の様子。

 

「ちょっと、初号機パイロット。集中なさい。使徒が目の前にいるのよ」

『す、すみません。集中します』

 

使徒相手に油断は命取りに繋がりかねない。

すぐに彼の様子に気づいたミサトは集中力を取り戻させるべく、厳しい口調で注意した。

 

「あら、大丈夫かしらシンジ君。レイと同じことにならなければいいけれど」

 

赤木リツコの発言が毒々しいのは、先程の零号機再起動実験の失敗が影響しているのだろう。

 

「赤木博士。余計なことは言わないでください。パイロットに聞こえると困ります」

「失礼。技術顧問として集中力の欠如がエヴァの暴走に繋がる可能性について指摘しただけのつもりです」

「ご指摘ありがとうございます」

「……」

 

冷たいミサトの返しを受けて少しは冷静さを取り戻したのか、赤木リツコは白衣を翻して後ろに下がった。

彼女も色々と大変なのだ。零号機の設計について0から見直す羽目になり、ストレスが溜まっているのだろう。

 

煙草吸いてぇ~、そんな顔をしている。

憂さ晴らしは他所でやって欲しいものだと思いながら、ミサトはモニターに映し出されている使徒を睨みつけた。

 

「もう一度さっきの映像見せてくれる? 航空隊が撃墜された時のやつ。初号機にも共有してね」

「了解」

 

日向がコンソールを叩き、映像が映し出された。

 

青く半透明な――まるで巨大な宝石のような外見をしている使徒。

 

これまでの使徒よりもどこか無機物的で、圧倒的に美しいビジュアル。

だが、強固なATフィールドでミサイルを防ぎ、カウンターの荷粒子砲で航空部隊を蹴散らす様は全く美しくない。

 

「頑丈な防御に大出力の荷粒子砲を備えた攻防一体のカウンター型。まさに空中要塞ね」

「固定砲台による連続の砲撃も実施しましたが、殆どインターバルなしで迎撃されています」

「中距離で戦うには危険な相手ね。ATフィールドも強力だし、できれば接近戦を仕掛けたいところだけど……」

 

チラリと初号機のエントリープラグ内に視線を向ける。

そこにはモニターを注視しつつも、(ミサト目線では)相変わらず上の空なシンジ少年がいた。

 

「……まずいわね」

「どうされたんですか?」

「いえ。取り敢えず、シールドとスピアの準備をしておいて」

「了解」

 

着々と上官が使徒との戦闘に向けて準備を進める中、シンジ少年の心は乱れに乱れまくっていた。

理由はただ一つ。

 

(綾波……まさか、僕があんなことを言ったせいで変に動揺しちゃったんじゃ……)

 

綾波レイのことである。

 

シンジ少年は珍しく後悔していた。

証拠も何もない話で彼女の心を乱し、これ以外ないとまで言い切っていたエヴァまで奪ってしまったかもしれないのだ。

 

凄まじい罪悪感が心を襲う。

 

だが、状況は彼に心の整理を許してくれない。

 

『初号機パイロット』

「はい」

 

表面上は集中力を取り戻したように見えるシンジ少年が上官からの呼び掛けにすぐ反応する。

 

『作戦が決まったので通達します』

 

厳格な口調で告げると同時に、画面上に分かりやすい図式が表示された。

 

『まず、今回の作戦は――いえ、今回も初号機だけで作戦を実施します』

「はい」

『敵は例によってここを狙っているから、この要塞都市へ誘導します。この第5区画まで誘導後、敵の背後よりエヴァンゲリオン初号機出撃。それと同時に、反対方向から生きている砲台で使徒を牽制します。初号機はその間にATフィールド全開でシールドを前面に押し出しつつ、使徒に接近。敵の荷粒子砲は強力だけれど、貴方のATフィールドと突進なら一度は耐えられるはず。懐まで飛び込んだ後はスピアでコアを貫く。難しいようであれば都市迎撃システムで気を引きつつ、撤退。これが今回の作戦よ。意見があれば言ってちょうだい』

「ありません」

『そう。……もう一度言うけれど、気を抜いてはダメよ。今回は、強敵よ』

「了解」

 

シンジ少年は力強く頷く。

それを見た発令所の職員たちは安堵した。

 

ただ一人、険しい表情の葛城ミサトを除いて。

 

 

♰

 

 

 

エヴァンゲリオン初号機、出撃。

――と、同時に逆方向からのミサイル攻撃。

 

青く輝く使徒は可視化できるほど強力なATフィールドを展開しながらミサイルから身を守っている。

そんな使徒の反対側から現れた初号機は、同時に展開されてきたシールドとスピアを受け取るべく、動こうとする。

その瞬間のことだった。

 

「目標の中に高エネルギー反応!」

「砲台への攻撃ね」

「いえ! エネルギーの収束先は、初(・)号(・)機(・)の(・)出(・)撃(・)方(・)向(・)で(・)す(・)!」

「ッ⁉」

 

罠に引っ掛からなかった。

それを悟った瞬間、ミサトはシンジ少年に向かって叫んだ。

 

「拘束具を破壊して構わないわ! 横へ転がって避けなさい!」

 

だが、忠告も虚しく――初号機は間に合わなかった。

 

放たれる、無慈悲な荷粒子砲。

出撃直後で身体が固定されている初号機は避けることが出来ない。

 

『ぐぅ……あァァァァ……!』

 

身を焦がす熱と激痛。

何とか声は漏らさまいと意地を張るシンジ少年だが、耐えきれず苦痛に満ちたうめき声が漏れてしまう。

 

耐えようとして、耐えきれない。

それほどの激痛。

隠そうとしたからこそ、そのうめき声は悲痛な叫びとして発令所を凍らせる。

 

「シ(・)ン(・)ジ(・)君(・)ッ!」

 

ミサトがパイロットよりも悲痛な表情で叫ぶ。

“シンちゃん”ではないことから、辛うじて彼女の指揮官としての理性は保たれているが、このままでは長くは持たないだろう。初号機と同じように。

 

「迎撃中止、エヴァ初号機緊急回収!」

「ダメです! カタパルト融解! 作動しません!」

 

(役立たず……!)

 

心の中で強烈な罵倒をお見舞いしながらミサトは画面に向かって叫ぶ。

 

「シンジ君! 防御よ! 防御の姿勢を取ってATフィールドを強化しなさい!」

 

さながらボクサーに寄り添うセコンドのようなアドバイス。

辛うじてミサトのアドバイスが聞き取れたシンジ少年は激痛に耐えながら使徒を睨みつける。

 

(防御……防御ッ!)

 

強烈な意志力で無理やり動いた初号機が腕の拘束具を力づくで破壊し、両腕を立てて顔の前で構えた。

ボクシングにおけるディフェンスの構えだ。

より鮮明に防御をイメージしやすくなったことから初号機のATフィールドが力を増す。

 

「ぐうッ!」

 

今度は腕が燃えるように熱い。

だが、ギリギリで耐えられている。

問題は初号機の肉体だった。

 

「初号機の特殊装甲が融解していきます!」

「爆砕ボルトに点火! 初号機緊急離脱!」

「了解!」

 

限界だと判断したミサトによる指示。

点火されたボルトが爆発し、初号機は強制的に区画ごと収納された。

 

三度目の使徒戦。

その前哨戦は、手痛い敗北で終わった。

 

 

♰

 

 

パァァ――――――ン!

 

 

乾いた音がパイロットの更衣室に響く。

じんじんと痛む真っ赤な頬を押さえながら、しかしシンジ少年は真っすぐに顔を上げる。

同じく真っ赤になった右手を押さえながらミサトは低い声で問う。

 

「……なんで叩かれたのか、理由は分かるわね」

「はい」

 

先に言っておくと、今回の件でシンジ少年を責める人間などいなかった。

作戦通りに出撃した直後を狙われたのだ。

誰もがあれは避けられないと判断し、寧ろ苦痛を味わったシンジ少年に同情していた。

 

そう。誰もがシンジ少年はミスなどしていないと認識している。

だから、ミサトが叱るのだ。

 

だって、彼のことを良く知るミサトには分かっていた。

本来の彼であれば、あの程度の砲撃は避けられていたと。

 

「……敵を前にボーッとして、何をしているの? あなた、死ぬところだったのよッ⁉」

「……すみません」

「謝って済む問題じゃないわよ!」

 

怒鳴り声が響き渡る。

彼女は本気で怒っていた。

それはもう、心の底から激怒していた。

 

だって、誰よりも愛しい少年が激痛を味わい、死に掛けたのだから。

 

「み、ミサト……」

「うるさい。黙って……」

 

抱きしめさせなさい。

ミサトは強く彼のことを抱きしめた。

生きていることを確かめるように。

 

「……慢心するなって、言ったでしょ?」

「うん」

「……なんで私の忠告、無視したのよ!」

「ごめん……考え事してたんだ」

「それは大事なこと?」

「うん」

「……綾波、レイのこと?」

「……うん」

「そう……」

 

抱きしめられているシンジ少年には見えない角度でミサトの顔が歪む。

だが、問い詰める時間はなかった。

少なくとも今は。

 

「……この戦いが終わったら、聞かせて」

「うん」

 

だから、約束をして今回のところは見逃してやることにする。

2人の身体が離れる。

 

ミサトは指揮官としての顔に戻った。

 

「初号機は急ピッチで修復させているわ。幸い、これまで一度も被弾していないお陰で予備パーツは余っているから、そこまで修理に時間は掛からないそうよ。指示は追ってするから、今は待機室で休息しておくこと」

「はい」

 

厳しい口調で告げ、ミサトは背を向ける。

そのまま立ち去るかに思えたが、表情を見せないまま彼女は言った。

 

「……無事でよかった」

「うん。ありがとう、ミサト」

 

 

♰

 

 

「葛城一尉!」

「敬礼は結構。細かい話は置いておくとして、一つだけ聞かせて。私たちに残された時間は?」

「現在の敵の進行速度からして、最終装甲板が破られるのは20時間後です」

「そう……」

 

状況は最悪だった。

零号機はシンクロ率が極めて不安定でATフィールドも張れず、さらに再暴走のリスクがある。

頼みの綱の初号機も先程中破したばかり。

 

「……」

 

作戦室に集められたのは各分野のエキスパートたちだ。

だが、その表情は一様に暗い。

恐らく、これまでの使徒戦が上手く行き過ぎていたのだろう。

これまで彼らを守ってきた初号機の敗退は、彼らの中に大きなショックを与えていた。

 

「白旗でも上げますか」

「……」

 

場を和ませようと日向がジョークを放つが、組んだ両手の上に額を乗せて考え込んでいるミサトは答えなかった。

別に彼のことが嫌いで無視したわけではない。

ただ、思考の中に埋没していただけだ。

 

考える。

考え続ける。

 

敵の能力は割れている。

近接戦のリスクが高すぎる以上、取れる手段は一つだけ。

 

どうする?

間に合うのか?

 

自問自答する。

答えは明確だった。

 

間(・)に(・)合(・)わ(・)せ(・)る(・)し(・)か(・)な(・)い(・)。

 

「……ドイツ支部と回線を繋いで」

「ドイツ支部と? 何をされるつもりなんですか?」

 

ありとあらゆる手段を使って勝つと誓った。

自分の復讐の為に。

あの少年の為に。

 

決断し、顔を上げた葛城ミサトは告げた。

 

 

「エヴァンゲリオン弐号機とそのパイロット、惣流・アスカ・ラングレーを緊急招集します」

 




  予告

再起動実験に失敗したエバー零号機。
使徒を前に初の敗北を喫したエバー初号機。
追い詰められたミサトは、最強のチルドレン招集を決断する。

緊急輸送されるエヴァンゲリオン弐号機。
そして、ドイツから紅蓮の少女がやってくる。


   次回
アスカ、緊急来日



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