キリトの頼みを聞いた老人は一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐに無表情に戻った。
「…駄目じゃな。…ワシは既に船大工を辞めたんじゃよボウズ」
「そ、そんな…。ど、どうにかなりませんか!?俺たち船がどうしても必要なんです!!」
「……肝心の船の素材がないんじゃよ、水運ギルドの連中が独占してワシらのようなはぐれ者の職人には木材一本も残されておらん。なぜ今更こんなことをするのかギルドに話を聞こうとしても、連中に雇われたごろつきどもが妨害してくるんじゃ」
老人は酒を呑んでため息をつく。本人としてもこの状況は不本意なのかなとキリトが考えていると、アスナは張り切った様子で言った。
「なら、わたしたちが素材を取ってきます!」
「………ほう?」
老人は今度こそニヤリと笑みを浮かべる。
「本当にイチから船を造るつもりか、その心意気は買ってやろう。…まずは南東の熊森にいる熊を狩って、防水処理に使う《熊の脂》を持ってくることじゃ。……じゃが、一つ気を付けるべきなのは……」
「…まさか、《ヌシ熊》か?」
「なんじゃ知っておるなら話は早い。命が惜しいなら戦おうなどと思わず逃げた方がいいじゃろう。……まあ、長年生きているヌシ熊からは最高の脂が取れるじゃろうが…」
家を出たキリトたちはロービアの南東にある森林地帯へと向かう。
「なあ、どうせゴンドラは他の層じゃ使えないしノーマル素材で妥協しないか?」
「嫌よ、どうせなら最高品質のゴンドラにしたいわ!」
「えー…」
キリトはめんどくさそうな顔で地面を見る。ベータ時代はカラッカラに乾いていた森はぬかるみや苔、落とし穴染みた小さな泉が湧いているせいで歩きにくいことこの上ない。
ヌシ熊の縄張りを示すマーキングは樹の上に付けられるため、キリトは頭上に注目して何度も泉に足を突っ込んでいた。
「キリト、いくらなんでも足元の注意はしようよ」
「そりゃお前は俺の肩に乗ってるから楽だろうな…」
そんな軽口をたたきながら、キリトは狙いのヌシ熊についての情報を思い出す。ベータ時代にも存在はしていたらしいが、彼は遭遇できなかったのだ。他のプレイヤーから聞いた話では六人パーティーがあっけなく壊滅するほど凶悪で、あの老人が出会ったら逃げろと警告するのも当然だろう。
「………なあアスナ。どうして最高の船の作成にこだわるんだ?さっきも言ったけど、ノーマル素材で船を造ってと依頼しても断られることはないよ」
「そうね。でも、わたしは一番船を造りたいと考えてるのはあのお爺さんだと思うの。水運ギルドに資材を全部奪われて自棄になってたから呑んだくれていたけど、本心じゃ最高の船が造りたいんじゃないかな…」
「……なるほどな…。それじゃ妥協しようなんてもう言えないか。でも危険だと思ったらおじいさんの忠告通り逃げるぞ!」
「わかってるわよ、いのちだいじに…よね?」
キリトたちがしばらくヌシ熊のマーキングを探していると、ドルモンはそれらしき爪跡を見つけた。
「キリト、アスナ!アレ、ヌシが付けた縄張りの印じゃない?」
「……お!よくやったぞドルモン!」
キリトが相棒の頭を撫でていると、マーキングを見たアスナの顔がこわばった。
「………ねえ二人とも?なんかあのマーキング…
「「………へ?」」
キリトがドルモンが見つけた爪跡の高さをざっくり目測で計算すると、八メートル近い部分に付けられている。キリトも引きつった笑みを浮かべるしかない。
「……あの高さをひっかくことができる熊って何…?」
「ええっと、そりゃ…立ち上がったら八メートルくらいはある熊だろ…」
「それ本当に熊!?そこまで大きかったらアフリカゾウの全長とほとんど変わらないじゃない!!」
アスナがそう叫んだ瞬間、一行の死角で重い地響きが響く。恐る恐る振り向いてみるとそこにいたのは灰色の毛皮の巨大生物だった。確かに姿かたちこそ熊だが、額に黒光りする鋭い角が生えている。
「……うん、コイツは熊じゃないな。角生えてるし」
「ギュグロロロ!!」
巨大獣《マグナテリウム》は熊らしくない唸り声を上げながらその巨体を直立させた。
「……このデカい身体に捕まったらケガで済まなくない?」
「こいつも普通の熊と同じで突進攻撃をしてくるはずだ、木が多く生えている場所までヌシを誘導するぞ!」
キリトたちが武器を構えると、ヌシ熊はテリトリーに入ってきた侵入者に威嚇する。
突進が来ると判断したキリトの目論見は、マグナテリウムの喉奥に瞬いた火の粉であっけなく崩れた。
生きとし生けるもの全てを焼き尽くし灰にする、火炎ブレスの前兆だった。
「じょ、冗談だろ…!?」
キリトはアスナの手を取って水たまりへと走る。火炎属性のブレスは雷ブレスと異なり障害物を回り込むために木の後ろに隠れてもこんがりと焼かれてしまうからだ。
「飛び込むぞっ!」
キリトたちが水たまりに飛び込んだ瞬間、炎ブレスが迸った。水面が真っ赤になるのを、三人は湖の底で見た。
火炎は五秒近くも荒れ狂い、凍えるほど冷たい水温を熱めのお湯くらいまで熱した。ブレスが終了したと同時に、キリトたちは水面から出た。
「ぷはぁっ!…クソ、この水たまりってそういうことかよ!?」
「あ、あんなの絶対熊じゃない!!」
「こんな森の中で火を吹くとか火事をおこしたいのかアイツ!!」
水たまりの周囲は残り火で燃えたり焦げ炭になった木ばかりだ。直接受ければ即死級の攻撃に、キリトの表情は硬くなる。
「……どうする?いったん退くのも勇気だぞ」
「………うーん、もうちょっと行動パターンを見てから逃げてもいいんじゃない?なんか情報も無しで帰っちゃうのもシャクだし…」
「まあ気持ちはわかるけど…」
ドルモンもアスナと同意見らしく、濡れた身体をぶんぶん振ってからヌシをにらみつけた。
「キリト、オレあの熊やっつけたいぞ!なんかいい考えない?」
「その前に水たまりが複数ある場所を探そう、この威力だと次にブレスがきたら避けられない…」
キリトたちは走ってマグナテリウムから距離を取ろうと試みるが、ヌシ熊の脚は想像よりもずっと速い。
「ギャグロロロ!!」
「クソ、ならコレはどうだ!?」
急な方向転換を行い、ヌシを大木に激突させる。これで
「じょ、冗談でしょ!?直径二メートルはあったわよ!?」
「………あの、アスナさん?熊の天敵とか苦手なものってなんかある…?」
「あれは熊じゃないけど、現実世界の熊は天敵なんていないわよ?」
「うへぇ…じゃあ弱点は?」
アスナはちょっと考えてから自信なさげに答えた。
「……昔、何かの本で鼻筋が弱いって読んだような…」
「ハナスジ………。鼻筋か…」
キリトは肩に乗っかるドルモンと目線を合わせる。八メートルの巨体を誇るマグナテリウムの鼻は剣で狙うには遠すぎるが、鉄球で遠距離攻撃できるドルモンならば狙撃が可能だろう。
そんなことをキリトが考えていると、アスナにコートの袖を引っ張られた。
「ねえ、あのヌシ…ブレスを吐いたり木を倒した後、ちょっとの間動かなくなるみたい」
「……その隙にとっとと逃げろってことかな…」
彼らは遠くからヌシ熊がフゴフゴ喉声を漏らしているのを観察する。そうしているとドルモンはへし折れた木の近くになにかが落ちていることにに気づいて目を細めた。
木の幹の一部…丸太だ。
「……アイツの近く、なんか落ちてない?」
「……ホントだ、アイテムかな?アスナ、アレ取ってこれるか?」
「ストレージ容量には結構余裕あるけど?」
「なら、俺とドルモンがヌシを引き付けておくから、その隙に丸太を回収してくれ。……いけるか?」
アスナはコクリと頷く。その会話が終わった瞬間大熊はのそりと緩慢に、しかし確実に動き出した。
「(木への激突で五十秒、ブレス使用後は二十五秒程度動きが止まるのか…。逃げるだけなら難しくはなさそうだな…)こっちだ熊擬き!」
「オレたちが相手だー!」
「ギュグロッ!!」
マグナテリウムは挑発してきたキリトに接近し、右前脚を大きく振りかぶった。そのまま二人を叩き潰そうとするマグナテリウムの一撃を、キリトは《スラント》で迎え撃った。
「ぐ、ギギギ…この野郎!」
思いのほか強い重圧にキリトは吹き飛ばされるが、なんとかガードには成功する。鋭さと丈夫さがともに+4の《アニール・ブレード》でぎりぎりの手ごたえなので、それ以下の剣では最悪へし折られていた可能性がある。
「こりゃ、本気でやらないとな!」
「グロロロロォッ!!」
マグナテリウムはブレスを吐くために口を大きく開ける。キリトは水たまりに逃げるのではなく、ヌシに向かってダッシュした。
灼熱のブレスが生み出す熱風がキリトの背中に容赦なく浴びせられたが、足を止めれば熱風どころか炎で丸焦げになることはキリトもわかっている。
「あっつーい!!」
「我慢しろ相棒!!」
キリトは熊の股下をくぐり抜け、ヌシの尻尾に《ソニックリープ》を叩き込む。
「ギャルンッ!?」
「……しゃぁッ!クリーンヒットだ!!」
「追撃だ、《ダッシュメタル》!!」
ドルモンも鉄球で相手の尻尾を狙い撃つ。マグナテリウムは悲鳴をあげながらいつの間にか回り込んできた敵に強い敵意を向けた。
そのHPは少量だが確かに減っている。
「……あなた、時間稼ぎするんじゃなかったの?」
アイテムを回収して戻ってきたアスナは、呆れた顔でキリトを見ていた。キリトは苦笑いして成果を聞いてみる。
「それで、何が落ちてたんだ?」
「えっと、《銘木の心材》ってアイテムだったわ」
「あー…なるほど。多分それもゴンドラの素材になるヤツだな」
「……そっか、船の素材全部取られてるって言ってたもんね」
アスナはうーむと頭を悩ませた。マグナテリウムとの戦いに集中するべき場面で木材集めまでするのは難しいだろう……と、そこまで考えてふと気づく。
「……銘木ってことはこの丸太レア素材よね」
「そうだな。多分高級なのは伐採スキルで一定以上の大きさの木からゲットできるんだろう。…ただ、あのデカい熊の突進なら大きい木をへし折れるのはさっきも見た通りだ」
「……どっちにしても誘導する必要があるってことだ、結構危険そうだけど頑張ろうね!」
キリトたちは三十分かけてヌシ熊を誘導し《銘木の心材》を手に入れた。
「……じゃあ、一旦街にもど……るつもりはなさそうだな」
「まだ脂取ってないじゃない。……普通の熊の脂で妥協しろ、なんて言わないわよね?」
「…へーい」
アスナは既にマグナテリウムをこの場で倒す気満々だった。
午後十一時を回るころ、船大工の老人は自らの前に立つボロボロの若者たちを見てため息をついた。
「「「……………」」」
「……おぬしらヌシ熊に挑んだか。なに、アレに挑んで散っていった狩人は多い、生き延びたことを喜びこそすれ落ち込むことはあるまい………」
「じいさん、コレなーんだ?」
キリトはにやりと笑いながら《幻の熊脂》を老人に見せる。マグナテリウムを討伐した戦利品に、老人は驚愕で手に持った酒瓶を床に落とした。
「…っ!!この臭い、かつて嗅いだことがある!まさかヌシを討ち取ったか!!」
「へっへーん、オレたちすごいでしょ!」
ドルモンはどや顔で尻尾を振っている。
「……なるほど、本気でワシに船を造らせたいようじゃな。じゃが、前にも言ったが水運ギルドが素材を独占しとるせいで木材がない。もう一度南東の森に行って木材を切り出すことじゃな…」
「大丈夫ですよ、そう言われると思ってあらかじめ取ってきましたから!」
「………なんじゃと?」
アスナとキリトはストレージから《銘木の心材》を引っ張り出す。老人は口をあんぐりと開けて驚いた。
「こ、これはチーク!木こりでもない若造がどうやってこれを…?」
「ヌシを誘導してへし折らせたんだ」
「………そ、その手があったか…!」
老人にゴンドラの材料を全て渡すと、彼はようやく椅子から立ち上がった。船匠はそのまま散らかった部屋を横切り、扉を開ける。
そこでは、よく手入れされ使い込まれた大工道具たちが今か今かと出番を待っていた。
「……感謝するぞ。ワシにもう一度こいつらを握らせてくれて…」
「……これからもっと忙しくなるぜ。今、ロービアには船が欲しい連中がたくさん来てるからな!」
「ほう…?それはいいことを聞いたわい!」
老人はテーブルにスクロールを広げ、にやりと笑う。
「では、造りたい船の仕様を決めてくれ」
クエストが進行し、キリトたちの前に紫のウィンドウが開く。ゴンドラの設計仕様書にはキリトとアスナの名前が書かれており、ゴンドラはパーティ所有扱いになるのだろう。
アスナはウィンドウを見て目をキラキラ輝かせている。
「わー、なんかけっこう色々決められるんだねー」
「……やる?」
キリトが微笑ましいものを見る目でアスナを見つめると、彼女はちょっとだけ悩む素振りを見せた。
「やりたいけど、ちょっと待って!船の色はどうする?」
「…RGBサークルで自由に決められるんだな。別に俺は何色でもいいんじゃないかって思うが」
「駄目よ、このゴンドラはわたしと君のものなんだからちゃんと相談しましょ!」
キリトはうーむと悩んだ。そしてそう言われたならば好きな色をリクエストしてみた。
「じゃあ、黒…」
「却下、縁起悪い」
「……ハイ」
キリトは速攻で却下されてしょんぼりする。その様子を見たドルモンは慌ててフォローした。
「お、オレは好きだよ黒!」
「ありがとな…。………うーん、船はストレージには入らないだろうし、降りた場所に係留されると思う。その時に見つけやすい明るい色…とかがいいんじゃないかなぁ…」
「そっかぁ…。じゃあ、白系がよさそう?普通の純白もちょっと風情がないし、だいたいこのくらいかなー」
アスナはRGBサークルを操作し、上品なアイボリーホワイトを指定する。その下に山ほどある船のサブメニューを見たキリトは、面倒臭いので彼女に全部任せることにした。
「……んじゃ、後よろしく…」
「んもう、しょうがないなぁ…。それじゃ、後はわたしがやっちゃうからね!」
言葉と裏腹にアスナはうっきうきしながらウィンドウを操作している。キリトが丸椅子に座って待っていると、近くで羊皮紙を広げていた老人は低い声で唸った。
「……何故か昔から決まっとるんじゃ、若いおなごの船造りは時間が三倍かかるものとな」
「なるほど…勉強になります…」
老人の言葉にキリトはただ頷くしかなかった。
結局アスナの船造りが終わったのは日をまたいで午前一時を回ったころだった。だがアスナは船の仕様を決めるのがよほど楽しかったのか元気いっぱいだ。
「よし!後は船の名前を決めるだけね!」
「……名前かぁ」
キリトは悲しいことにネーミングセンスに自信がなかった。
「俺、ネーミングセンスないからアスナに任せるよ」
「生まれたばかりの生き物に期待しないでね」
「…実は、思いついたことがあって。このゴンドラにキズメルの妹さんの名前を付けたらどうかなって」
アスナの提案にキリトは微笑んだ。
「いいんじゃないか?……たしか、ティルネルって名前だったかな」
「ティルネル…、すごくいい名前ね!綴りはこれで合ってる?」
アスナはゴンドラの名前の欄に【Tilnel】と記入し、キリトに見せてきた。キリトは頷いて…首をかしげる。ウィンドウの欄が、一つだけ空欄になっていたからだ。
「あれ?アスナ、ここだけ未入力だけどいいのか…?」
「あー、ソレ?だってなんの選択肢も出てこなかったし…」
「ん……。ちょっと俺も見てみていいか?」
「どうぞどうぞ」
キリトが空欄になっている《オプション》を突っついてみると、たった一つだけ選択肢が出てきた。
「……《炎獣の
「…衝角って、海戦で敵の船を沈めるのに使うツノのことよね?なんでそんなものがオプション装備に…?」
「わからない…。特殊な素材アイテムがないとそもそも出てこないみたいだしな…。………んじゃ、ちょっと聞いてみるか」
キリトは老人…《船匠ロモロ》に問いかける。
「……あの、ロモロさん。このオプションの衝角って必要なものなんです?」
「……ん?………むぅ、なんと言えばいいやら。……必要でもあり、無用の長物でもある…とでも言っておくかの」
「…それって、町の外でモンスターと戦うから?」
ドルモンの疑問に、ロモロは煙草を吸いながら答えた。
「……
「…………ど、どうする?」
老人の意味深な言葉にアスナはキリトに助けを求めた。
「……うーん、付けても付けなくても結局後悔はすると思うな。付けたらせっかくのゴンドラに武器を装備することになっちゃうし、付けなくて外に出てモンスターに沈められることになっちゃっても悲しいし…」
「……そうね」
「それに、衝角自体は水中に隠れて目立たないと思う。……じゃあ衝角アリに設定して…」
キリトが決定ボタンを押すと、老人の持つ羊皮紙に船の三面図が浮き上がる。一番上には黒いインクで【Tilnel】と書かれていた。
「それでは、ワシは工房に籠らせてもらおう。完成したときに知らせてやるからそこで待っとれ」
老人はそう言い残し道具置き場に消えると、ガコンという重い振動音が聞こえた。キリトは目を丸くして驚いた。
「……アレ、エレベータだったんだ」
「これからどうするの?船ができるまで待つ?」
「そうだな…、じいさんにここで待ってろって言われたし今宿を探すほど元気ないし…この部屋で休もうぜ」
「ん…たしかにもう深夜だしねー…」
アスナは船の設計が終わって満足したのか大きくあくびをする。
「おやすみ、アスナ」
「おやすみー」
「ふぁー…今日は疲れたなぁ」
こうして、キリトたちの忙しい一日は終わったのだった。