2022年12月31日の午前11時、アスナとアルゴは《シヤーヤ》という小さな村で温泉を満喫していた。この場所は
「ふへ―――…」
お風呂大好きなアスナにとって、この瞬間は至福の時であると言えるだろう。湯の温度はぬるめだがハーブや果物が浮いていい香りが漂っている。
様々な植物を入れているためか、一緒に入浴しているフローラモンもご機嫌だった。
「ここのお湯いいね…」
「そうね、この二日間大変で疲れが溜まってたもの…。ここで英気を養いましょう…」
アスナは再びふへーと一息ついてから、ぼそりと独り言を呟いた。
「わたしは
そんな呟きが聞こえたのか、同じく脱力していたアルゴが答えた。
「いや、あっちは風呂はあんまり大きくないらしいゾ。どっちかというとメシが美味いっぽいナ」
「
「それが三ツ星レストランレベルの豪華メシらしいんダ。…マ、オイラは黒エルフの方が好きだけどナー。サンキュー、アーちゃん!」
「どういたしまして!」
そう言ってアスナは再びぐでぇ…っと身体を弛緩させる。アスナの脳裏には、二日前に出くわしたモルテと黒マントの台詞が響いていた。
『例のハナシってどうなりましたー?』
『おー、バッチリだぜ。明後日ALSは主力だけ合同カウントダウンイベントブッチしてボスを殺しに行く』
……そう、ALSは今夜行われるらしいカウントダウンイベントとやらをドタキャンしてボスに挑もうとしている。おそらく合同ということはDKBと協力してイベントを取り仕切るのだろうが…。
(…それって、ALSにはDKBとの関係が悪化してでもボスを倒したい理由があるってことよね?モルテたちが両ギルドを潰し合わせたいのは明らかだけど……)
少女がうーむと悩んでいると、近くに寄ってきたアルゴに頬をつつかれた。
「アーちゃん、なに悩んでんノ?」
「な、何でもないですよ!……アルゴさん、少し聞いていいかしら」
「お、どしタ?おねーさんに答えられることなら何でも答えちゃうヨ」
「どうして初見のボス相手に自分とフローラモンだけでデータ取りなんて無茶を?わたしだって
アルゴは穏やかに微笑んでアスナの目をじぃっと見つめた。
「ありがと、アーちゃん。オイラのこと心配してくれてすんごく嬉しいヨ。……正直、オイラも泊まり込みでボスの情報探るのはやりすぎだったかナーって思ってるし。……けど、オレっちには命を賭けてでも情報屋をやる責任ってヤツがあるんダ」
「…情報屋として?それとも…《アルゴ・ノーツ》のギルドマスターとして?」
「………元ベータテスターとして、サ」
「…………!」
アスナは前から思っていた予想が当たっていたことに目を丸くした。キリトとなぜあんなに仲がいいのか、ベータテスターたちとのコネをどうやって手に入れたのか…そういった疑問がすべて解決するからである。
だが、アスナはすぐに言葉を返した。
「そうだとしても、アルゴさん一人でやる理由にはならないわ。わたしやキリト君のことも少しは頼ってほしいの、ベータテスターだって同じプレイヤーなんだから………」
それを聞いてニシシと笑いながらアルゴは目の前に漂ってきたバナナっぽいフルーツを指でつつきながら問いを返す。
「ンー………。アーちゃんがオイラを心配してるのって、非戦闘型ビルドだから…だロ?」
「まあ、それもあるけど…」
アスナはアルゴの装備を思い出す。彼女が護身用に装備しているクローは所詮マイナー武器で、細剣以上に射程が短く手数特化だ。防具も重量を増やさないように布や革が中心でなんとも頼りない。
「いくら素早くても一瞬の判断ミスが危機を招くわ。わたしたちがいない状況でも、フローラモン以外にサポートができる人がいたら安心じゃない…?」
「ン―――…、論より証拠ってヤツだナ。ちょっと遊ぼうゼ、アーちゃん」
アルゴは目の前で漂っていたバナナを握って勢いよく立ち上がる。
「……あそぶ?」
「オウ、チャンバラ!」
アルゴはバナナを器用に回しながらハーブの束をアスナに放ってきた。要するに模擬デュエルの誘いだ。アスナは別に受けてもいいのだが、何も着ていない状態で遊べるほど羞恥心がないわけではない。
「…アルゴさん、恥ずかしいから水着着ましょう」
「ン?オイラは気にしないゾ?」
「こっちが気になるんです!」
「……水着なんか持ってないんだがナ…」
「じゃあ今作るから!」
アスナは白いワンピース、アルゴが黄色のタンキニを着て大浴場の洗い場で向かい合う。ハーブの束を軽く素振りしながらアスナは尋ねた。
「それで、どんなルールでやります?」
「最初にべしっと当てたり、ぺしっと三回当てたら勝ちでどーダ?」
「了解です!…フローラモン、10カウントよろしく!」
「まっかせて!10、9!」
アスナはカウントを聞きながら作戦を考える。
(アルゴさんはAGI特化のスピードタイプ…わたしもAGI型だけど、小柄なアルゴさんの方がトップスピードは速いハズ…!)
冷静にアルゴと周囲を見据える。御影石で作られた床は濡れていていかにも滑りやすそうだ。こんな場所で全速力を出せばまず間違いなく足を滑らせるため、お互い足を止めてのチャンバラになるだろう…と、そこまでアスナが考えた時。
「アーちゃん、一個アドバイス」
「……ん?」
「…あんま考えすぎると隙ができるゼ?」
「3、2、1…0!!」
アスナの視界から
「………え!?」
これまで対峙してきた敵全てが蝸牛だったのかと錯覚するほどに、アルゴの全速力は速かった。微かに水溜まりを踏む足音が聞こえたアスナは咄嗟に身体を捻るが、左腕にピシッと叩かれた感触があった。視覚すら置き去りにする程の速さで突っ込んだアルゴは壁側まで移動している。
「〜〜〜っ!!なんて速さなの!?」
「そりゃこっちのセリフだヨ、アーちゃん。最初の一発で決めてやろうと思ってたのにまさか避けられるなんてナ…」
「アルゴ、ぺしっ一回ね!」
フローラモンはお風呂に浮いている果物を一つ桶の中に入れた。
「こんな感じで当たったら果物とハーブを桶に入れるよ!頑張ってね!」
「……それじゃぁ」
「オウ、チャンバラ続行ダ。トコトン楽しもうゼ、アーちゃん!」
アスナの心臓が跳ね上がる。恐怖ではなく、それどころか楽しいと思えるくらいの高揚感から来るものだ。
(……正直今のを見られただけでもチャンバラの甲斐はあるけど、驚かされてばっかりじゃ駄目よね!スピードじゃアルゴさんには勝てない。なら…わたしはこの環境を味方に付ける!)
アスナは離れた場所にいるアルゴから目を逸らさず、ジリジリと浴槽のある左側に近づいた。浴槽は掘り下げ型のため洗い場との境目にでっぱりはない。さらにお湯が少しずつあふれているので水面もよく見ないと分かりにくいのだ。
(……!浴槽のカド見っけ)
浴槽と洗い場のギリギリに立ったアスナは、さらにそのまま左足をスライドする。アルゴに気づかれないよう慎重に、されど大胆に全体重を右足に集中させたアスナはそのまま待ち構えた。
(………さあ、来い!)
一方のアルゴはピョンと軽く跳ねながらアスナを観察していた。
(……
何かを企んでいるか、それとも攻めあぐねているのか。
「マァ、深く考えなくていいカ!行くゼ!」
アルゴは全速力でアスナに向かって突っ込んだ。アスナの懐に潜り込もうとしたその時、アルゴの右足が浴槽に深く突っ込んだ。
「んナァッ!?」
バランスを崩したアルゴは混乱しながらも脳をフル回転させて何が起こったのかを考察する。
(……そうか!アーちゃんは左足を水面ギリギリに乗せて、あたかもそこに床があるとオイラに錯覚させたのカ……!!)
ここまで深く足を突っ込んでいては、いざという時の《奥の手》も使えない。アルゴは嬉しそうに呟いた。
「………完敗だヨ、アーちゃん」
「ていやぁ!」
ハーブの束がアルゴの頭にびしっと音を立てながら振り下ろされる。
「……勝負ありーっ!!」
フローラモンは風呂桶にハーブを纏めて三本投げ入れた。
「ニャハハハハ!イヤー、負けた負けた!」
「え、えっと…勝ったの?」
困惑するアスナにアルゴとフローラモンは頷いた。
「うん、今のは間違いなくべしっ!だったからね。アルゴ、見事な沈み方だったよ!」
「褒められてるような気がしねぇナ…。にしても中々やるじゃんカ、アーちゃん!面白いモンを見せてくれた礼に、こっちも良いモン見せてやるヨ!」
「良いものですか?」
アルゴは突然浴槽に向かって走り出す。普通ならそのままドボンとお湯の中に落ちるのだが、アスナが見たものはとんでもない光景だった。
彼女は走るスピードそのままに水面を走り出したのである。右足が沈む前に左足で水面を蹴り、左足が沈む前に右足で水面を蹴る。そのまま四歩ほど走ったアルゴは顔からお風呂に突っ込んで楽しそうに笑っている。
アスナは超人技を見せたアルゴに呆然としながら聞いた。
「………す、すっご…。今のってスキルの効果ですか?」
「うんにゃ、これは
「あー、あの水面歩行の」
「アレ、中々楽しくてあちこち走り回ってたんだケド、慣れた頃にうっかり装備せずに水の上を歩こうとしちゃったんダ。もちろん沈んだんだけど、その時一歩だけ水面を歩けちゃってサー。アーちゃんも覚えがない?《右足が沈む前に左足を前に出せば水面を走れるんじゃないか理論》」
「前にテレビでダイタランシー現象で白い液体の上を走ってる芸能人は見たことあるけど…」
「オイラ思ったんだよナ、SAOの物理演算ならこの理論普通に出来るんじゃネ?……って。そこから暇さえあれば毎日川とかお風呂で練習してたら四歩まではどうにか走れるようになったってわけダ」
アスナは一瞬呆れるか感動するべきか迷ったが、とりあえず質問してみた。
「それってわたしにもできる?」
「ンー…システム的には可能だと思うヨ。思うケド……小型軽量アバターのオレっちが毎日頑張っても四歩しか走れないってことを考えると厳しいカモ」
「そっか……」
「……にしても、さっきのチャンバラはしてやられたヨ。即興であんな仕掛けを考えつくなんて、アーちゃんも中々戦い慣れてきたってことかナ」
アルゴはニャハハと笑う。そんな様子を見て、アスナはふと気づいた。先ほど見せてくれた水面歩行を使えば、アルゴはアスナの攻撃を回避出来ていたはずだ。
「アルゴさん。チャンバラでどうしてさっきの水面歩行を使わなかったの?アレを使えばまだ勝負はわからなかったのに……」
それに答えたのはアルゴではなくフローラモンだった。
「簡単な話だよアスナ。使わなかった、じゃなくて使えなかったんだ」
「使えなかった?」
「…………フローラモンの言う通りだヨ。あん時は思いっきり右足を浴槽に突っ込んで水面歩行する暇なんてなかったからナ!あの罠は参考にさせてもらうネ」
「あ、どーぞどーぞ。ご自由にアレンジして大丈夫です」
三人がしばらく笑い合ってから、アルゴは次の話題を切り出した。
「……ネー、アーちゃん。
「………ん。といってもキリト君と一回やっただけなんだけど。………そもそもわたし、あの時は全然動くことも出来なかった…」
数日前の氷のように冷たい感覚が甦り、アスナはブルッと震える。しかしアスナは頑張って正確にアルゴに当時の心境を伝えようと試みた。
「……キリト君やドルモンが怖かったってわけじゃないの。あの二人は真剣だったけど、威嚇的ではなかった。そもそも最初に
「……怖くて身体がすくんじまった…カ。わかんなくもないけどナー。やっぱチャンバラと
「……………アルゴさん。どうやったらHPが減っても怖くなくなるんでしょう?」
「……………………そうなっちまったら人間オシマイだヨ。オイラだって怖いモン、HPが減るの」
「……え?」
アスナは意外そうな顔でアルゴのネズミヒゲが描かれた顔を見た。
「だってそうだロ?もしHPが0になっちまったら自分の脳みそをナーヴギアにレンチンされてぶっ殺されるんだからサ。一番生き延びられる可能性があるのは大手ギルドに入ってSTR極振りのタンク……いや、そもそも始まりの街に引き篭もる方が遥かに簡単で利口ダ。けどな、オイラにとってはただ生き延びる事より今やってる事の方がちょびっとだけ優先度が高いのサ」
「それって…元ベータテスターだからですか?」
「……残念だけど、それじゃ100点満点は与えられないナー。……ま、もしわかった気がしたらいつでも答えを聞かせてくレ。そうだ、アーちゃんには最高の風呂に誘ってくれたお礼がまだだったナ。……特別に、タダで一つ情報をあげるヨ」
アルゴはウィンクしながら微笑んだ。
「さっきアーちゃん、一人で危険な偵察をする必要はないって言ってただロ?同じギルドの仲間である自分やキー坊を頼ってほしいって」
「う、うん…」
「でもさ、キー坊がオレっちの作ったギルドに入ったのは危険が減るからとかそんな理由じゃないヨ…多分だけどナ」
「………!?そ、そうなんですか!?」
アスナはかなり衝撃を受けた。ならばどうして彼はアルゴ・ノーツに加入したのだろうとアスナは頭をフル回転させるが、納得できる答えは出てこない。
「ど、どうして…?」
「そりゃ、決まってるだロ。……アーちゃんと一緒にいたかったからサ。自分のきもちに嘘をつけなかったから、キー坊はソロをやめたんダ」