だがそんなアホは周りにけっこう居た。
数える程度の人数だが、続々と登山口へ吸い込まれていく登山者たち。
私もその流れに入って歩いていく。
すると、登山口を司る木製鳥居の前に白い布地を張ったパイプテント──小学校の運動会なので設立させるアレだ──があり、何やら係員的な人たちが居た。
「保全協力金お願いします」
登山者への注意喚起と、1000円の富士山保全への寄付だ。
下調べでそのことは知っていたので、近付いて気になっていた事を話しかけてみる。
「おはようございます。それは入山料とは違うんですか?」
「あ、おはようございます。入山料は取っちゃダメって決まってるんですよ。あくまで協力金なので、払わなくても大丈夫です。でも納めてくれたらコレが貰えます」
係員が見せてくれたのは、木札だ。
【Mt.FUJI 10th 2023】と刻印された、緑の紐が通された小っちゃなヒノキの木札。
世界遺産登録10周年記念バージョンの協力者証らしい。
元より納める気でいた私は、ふと机の上の機器の存在に気づいた。
「あれ、もしかしてクレカ支払いいけます?」
「いけますよー。タッチ決済も出来ます」
これは非常にありがたい。
山の上では基本、現金払いが主流だ。そこそこ下ろしてきたとはいえ、現金の消費が抑えられる時は極力抑えたいところである。
私はクレカの非接触決済にて協力金を納め、木札をゲットした。
「気をつけて行ってらっしゃい」
ついでに富士登山パンフレットも貰い、係員に見送られて会釈して歩き出す。
目の前には御殿場口と掲げられた木製の鳥居が。
これを潜れば、いよいよ登山スタートだ。
──AM5:20、富士山単独行開始。
出だしは好調だった。
雲が薄っすら漂う青空の下、黒い砂が敷き詰められた坂を歩く。
道の両脇には若々しいイタドリがあちこちに生えていて、登山者を歓迎していた。
(まだ朝だけど、日光がキツいな)
鳥居を通り過ぎてしばらくすると、背の高い木々が消えて太陽光を遮るモノが無くなる。
日焼け止めは塗ったが、確実に肌は焼かれるだろう。
帽子を少しだけ目深く被り直し、歩を進める。
私の前には二人組の男が先行し、その後を付いていく形だ。
途中、後ろから小走りする音が聞こえてきた。
思わず振り返ると、軽装だがひと目見て『ガチ』だということが分かった。
トレイルランニングだ。
体に張り付くような小型のバッグに、全身ピチピチの服装。
歩くのよりほんの少しだけ速い程度の速度だが、重い荷物を持つ私たち登山者を通り過ぎ走り去っていく。
(化け物だな)
登山を始めたからこそ分かる、トレランの凄まじさ。
私なんて歩いているだけでヒィヒィ言っているのに、この坂道を走るなんてとても考えられない。坂道はマジで体力の消耗が激しいからな。
体力、状況確認、計画性……あらゆる要素を極めた者にしか許されないヤバい競技だと思う。
そんな事を考えながら、当の私はえっちらおっちら亀のごとき歩みで登る。トレランはトレラン、登山は登山なのだ。
10分ほど砂地の坂を登っていくと、最初の目印が見えてきた。
「あれが大石茶屋か」
そこそこ大きめの平屋の、土産物店だ。
当たり前だがまだ開店してない。だがそこの屋根付きベンチで一旦休憩と洒落込む。
先行していた二人組も座った。
ザックを下ろし、今一度荷物のチェックをして体を適当に伸ばす。
富士登山はすでに始まっているが、ここからが本当に本番だ。この大石茶屋まではチュートリアルと言っていい。
「……雲海だ」
ベンチに座りながら、今来た道を見返して思わず呟く。
私の頭上には巻雲が薄っすら伸びているだけだが、下界はそこそこ厚い雲に覆われている。
駐車場より見晴らしがよいので、文句なしに絶景だ。
朝イチの涼しい風に吹かれながら、私は気合を入れて立ち上がった。
「さて、行くか」
ザックを背負い、帽子を被り、暑くなってきたので上着を脱いでサングラスを装着。
高所では紫外線が強くなるのでサングラスは必須アイテムだ。正直私の顔にサングラスは似合わないのだが、目を守るためだ。決してカッコつけではない。
しかし客観的に見ると、今の私は中々にアルピニストな姿をしているな。
服装は当たり前だが意識高そうなアウトドア用品店の装いで固め、ストローハットを被り、サングラス(ドンキ製)を掛けている。
登山半年の貫禄が滲み出ているな。
ちなみにトレッキングポールは持ってきていない。というか持ってない。私はこの二本の足だけで富士山に挑むのだ。
「はぁ……はぁ……ッ」
そして案の定、延々と続く坂道が私の体力を削ってきた。
もう前方は見渡す限り坂だ。木々がないおかげでよーく見える。はるか遠くの
(なんでこんな疲れることしてんだ、俺……)
さっそくネガティブな思考に陥る。
歩き始めて息も上がる頃、私のメンタルは早々に弱音を上げ始めた。
その日でまだ一番元気な状態なのにスゴく帰りたくなるのだ。帰らないが。
「ふぅ。もう休憩しよ」
ちょうどいい感じのブロックがあったのでそこに座る。本格的に疲れる前にちょくちょく休むのが大バテを防ぐコツだ。
「……にしても、なんだこのブロック」
そこは荷揚げ用ブルドーザーの車道と登山道が交差する箇所だった。おそらくこのブロックはブルドーザーへの目印的なヤツなのだろう。
まだブルドーザーが来る気配はないので、酸っぱいグミを噛んで水を飲んでゆっくりする。
もうこのままここで休んでいたいが、そうもいかない。5分くらいで休憩を切り上げ、頑張って登る。
まぁ私は単独なので、好きな時に好きな時間休憩していいのだが、己を律するのは己だというのも忘れてはいけない。
その後も歩いては休み、歩いては休みを繰り返す。
他の登山者を抜いては抜かれを繰り返す。
その内なんだか、あ、さっきの人だという現象が頻繁に起きるようになった。挨拶だけを交わす謎の顔見知りが出来てきた。
景色もほぼ変わらず、人も変わらず、登るのが果てなくツラい。ついでに日差しもキツい。
分かってはいたが富士登山、地獄かな?
賽の河原の石積みのような不毛な行いだ。
地面も砂利が深く、踏み出した一歩が地面に沈み込んで高度が下がる。
この小さな一歩すらまともに歩ませてくれないとは、富士山、ヤバいな。
私が歩くのにすら苦戦していると、たまたま隣を歩いていた女性から声を掛けられた。
「あの……こうやってつま先を砂利に埋めるようにして歩くと、下がるのを少しだけ防げますよ」
「あ……なるほど。ありがとうございます」
つま先を杭にするワケか。
実践してみると、確かに少しだけ歩きやすくなった……気がする。
少なくとも沈み込みを最小限に抑えられるので、いくらかマシだ。
私が足下を確認していると、女の人はグングン先に進んで行ってしまった。スゲェ。
(まぁ、俺は俺のペースで)
そう思いながらも登る。歩く。進んでいく。
この小さな小さな一歩が積み重なり、いつかあの頂へ。
「……霧……いや、雲か」
汗を拭いながら上を見上げると、前方が霧に覆われていた。霧は雲が地面に接したヤツなので、まぁこの際霧でも雲でもどっちでもいい。
ぶっちゃけ霧はありがたかった。
この霧が日光を遮って、私たちに涼をもたらしてくれる。むしろ早く霧に包まれたい。
だが。
(全然辿り着けねぇ!)
歩いても歩いても、その霧にまで到達できない。単純に私の歩みが遅いのだ。
そんなことをしている内に霧は無くなった。晴れてしまった……
振り返れば、雲海もいつしか疎らになっていて切れ間から下界が望めた。畑や家屋が遠目によく見える。
「良い天気だなぁ……っ」
スポーツドリンクを飲んでこの乾きを潤わす。
というかマジで暑い。標高はすでに2000mを超えているのになんでこんなに暑いんだっ。
地面が黒いからだろうか?なんにしてもこの暑さはマズい。
普段、汗をかきにくい私でも服に汗が浸透してきてるくらいだ。水分補給・エネルギー補給は欠かせない。
酸っぱいグミを食べ、唾液も使って喉を潤す。
酸っぱいモノは登山に良い。
唾液が否応なく出るし、酸っぱさは元気を出す。必需品と言っても過言ではなかろう。
「ふぅ……はぁ……息しづらっ」
歩きながら食べていたので、大量に分泌された唾液でたいへん呼吸がしづらい。何をやっているんだ。
溢れる唾液に溺れそうになりながら歩いていると、ふと周囲が薄暗くなった。
「おぉ!霧が戻ってきてくれた」
念願の霧(雲)が再発生したのだ。
日光が遮られ、辺りが途端に涼しくなる。天然のクーラーだ。
(このままずっと霧に包まれていたい)
視界は悪いが、今は涼の方が嬉しい。悪天候のもたらす霧ではないので、存分に涼しさを堪能する。
だが吹きさらしの山肌に、霧は留まらない。
ものの数分で霧は晴れ、美しく遠い山頂が再び見える。暑さも一瞬で戻ってきた。
アクエリをひと口、口を付けないようにして飲む。
(……なんか、無性に牛乳が飲みてぇなぁ)
何故か分からないが、そう思った。
喉の乾きはこうして潤しているのだが、何かが満たされない。
多分だが、動物性タンパク質を体が欲しがっているようだ。
しかし流石に牛乳なんて持ってきていない。腐る。なにか代わりになりそうなモノは……あるな。
私はイイ感じに座れる岩場で腰を下ろし、ザックをガサゴソと漁る。
カロリーの高い菓子パンや諸々の菓子類を退かして取り出したるは、カルパス。おやつカルパスだ。
「持ってきてよかった、おやつカルパス」
なんか肉的なのが欲しくなるだろうなと思い、麓のスーパーで購入していたのだ。
ビーフジャーキーも検討したのだが、手軽さを考慮した結果カルパスを選んだ。
「あぁ〜……うめぇ」
肉汁(?)を噛み締める。
さっきまで甘い飲み物と食べ物ばかりだったので、この塩っぱさがマジで旨い。
やはり肉。肉は正義。
正直、まだ少しだけ牛乳欲が晴れないが、とりあえず満足したので再び歩き出す。
しかし何故こんなに牛乳が欲しいのか。
栄養的に優秀な牛乳を欲するのは何となく分かるのだが、あまりにも飲みたすぎる。
山から下りたら絶対飲もう。
頭の中を牛乳で埋め尽くされながら、牛乳の飲めない方へ向かう。やっぱ拷問だろコレ。
「はぁ……はぁ……」
こんな感じで幾度となく休憩を挟んでいるのだが、歩き始めると直ぐに息が上がる。
酸素が薄い……からではなく、単純に坂道だからだ。
登山を始めて、身に染みて実感する。重力って重いんだなと。
登山に限らず、登るという行為は重力に逆らって進むという事だ。
普段は全く気にしない事象であるが、登山ではコイツが重く重くのしかかってくる。すでに足はパンパンだ。
富士山を登ると決めてから、この重力に抗うために普段の筋トレでも特にスクワットに力を入れてきた。
動きはゆっくり目に、呼吸を意識しながら50回。
しかし50回を達成したその時よりも、今の方が足がキツい。もしかしたらあまり意味が無かったのかもしれん。
ご飯だっていっぱい食べてきた。
最近個人的ブームの中華屋巡りで、一昨日しこたま食い溜めしたのだ。桃まん美味しかった。
「……あー、……なんか建物見えてきた」
中華エネルギーを糧にひたすら登っていくと、土と岩以外のモノがようやく見えてきた。
山小屋──新六合目の半蔵坊だ。
とりあえずアソコに辿り着いたら長めに休憩しよう。
そうと決まればゆっくり歩く必要はない。
速く行こう。
はやく、早く休憩したい。
っだが全然辿り着けない……!
力を振り絞って歩いているが、まるでスピードが上がっていないのだ。というか上げられない。
(疲れ100%だわ……)
平地の杖付き老人くらいの歩調である。これが限界。これ以上頑張れない。
そんな感じでヒィヒィ言いながら、ようやく半蔵坊へ到着。
人工芝が敷かれた物流パレットの上にザックを下ろし、自分も尻を置く。
もはや座るではなく置く、だ。
周囲には私と同様に疲れきった登山者たちが座り込んでいた。これがホントのお疲れ様です。
ひと息ついた私だが、そこで驚きの光景を見た。
なんやかんや同じペースでここまで歩いてきた女性が、休むことなくそのまま進んで行ったのだ。
バカな……!?この休憩ポイントとでも言うべき場所をスルーだと!?
この暑さと疲れの中で、なんというタフさ……
とてもマネ出来そうにない。私は疲れたのでゆっくり休むとしよう。
8:30──新六合目、半蔵坊へ到着。
靴紐を緩め、腕を肩からグルグル回してストレッチ。ザックから解放された肩の、なんと軽いことか。もう背負いたくない。
水分を取り、お菓子を頬張り、ボーッと景色を眺める。
上にも下にも雲が浮かんでいる。またあの中に包まれたいものだ。
太陽は完全に昇り、山肌のついでに私も焼いていく。風は涼しいのだが、太陽光がメチャクチャ暑い。
帽子とサングラス、そして日焼け止めクリーム様様だ。これらが無かったらだいぶキツい環境である。
(……動く気力が湧かない)
現在地は頂上から逆算して、大体3分の1くらいだ。
この3時間の道のりをもう2回味わわなければ頂きに到達できないのか……
そんな感じでこの先の工程を憂いていると、下の方からゴオオオ……と地鳴りが聞こえてきた。
「お、ブルドーザーだ」
岩と砂の斜面をゆっくりと上がってくる、荷揚げブルドーザー。
人間の小走り程度のスピードだが、登山者である我々に比べればはるかに速い。
あっという間に半蔵坊までやってきたブルドーザーは、そのまま止まることなくブルドーザー用の道を突き進んで行った。ここには荷を下ろさないのか……
正直、あの荷台に乗っていきたい。
目の前でこんな車両に通過されて、羨ましく思わないハズがない。絶対他の人も思ってるだろう。
だが、いくら嘆いても自分の足で登るしかない。
天気は良好。
コンディションも悪くはない。愚痴をいっぱい垂らしているが、まぁ元気の裏返しだ。
「はぁ、行くか……!」
気温は上昇中、熱中症は常に要注意。
もう一度全身の汗をタオルで拭き、よっこいしょとザックを背負う。
ブルドーザーを見送るという区切りでなんとか踏ん切りをつけ、歩みを再開した。
「……」
ここら辺からようやく無我の境地に至る。
私の登山スタイルは、歩き始めは「帰りたい」「なんでこんな辛いことを……」とネガティブな思考からスタートし、徐々にそれらが削がれていく。
そして疲れも極地に至った先に、何も考えない状態になるのだ。そこからが本番。
とはいえ、本当に無我というワケではない。
機械的に歩けるようになる、と言えばいいのか。
思考してもしなくても、体は前に進み続ける。
「はぁ……はぁ……」
とはいえ、疲れは蓄積していく。
これを少しでも和らげるために、私はとある行動を取った。
笑み。
ワザとらしく口を三日月にして、ニヤニヤニコニコしながら登山する。
……ちょっと異常な行動だとは理解している。だが待って欲しい。こちらもマジメなのだ。
どこかで聞きかじった知識だが、辛い状況でも笑顔を作ると苦痛が紛れるらしいのだ。
もちろん、異常行動なのは重々承知しているので間違ってもほかの登山者にこの顔を見られるワケにはいかない。
ここまで登ってきて、もはや見慣れた絶景など見るために振り返る人など皆無。
私がどんなに変な顔をしていても見られる確率は低いというワケだ。
という事で山行を笑顔で練り歩く男の爆誕である。登山ハ楽シイ。楽シイゾ登山。
笑顔を心がけ、動きながら食べ、這うような速度で進む。
御殿場ルートはトレッキングポールが推奨されているが、その理由が分かろうというものだ。
二本の足だけで登る事の、なんとキッツい事か。本音は杖が欲しい。周りのみんな使ってるし。
まさか「それ貸して」なんて言えるわけもなく、スクワット50回の太ももを信じて動かすしかない。
(自分の選んだ道ィ……っ!)
自信があるわけではない。
ただ、無ければ無いで踏ん切りがつくだけだ。
そして9:45──
(3000m……!)
足下にポツンと、小さな案内板に【標高3,000m】の文字が。
なんの情緒もない、ただ事実として記されただけの標識。
周囲にはこの標識以外、砂と土と高山植物しかない。なんとも味気なさすぎる。
硬派だ。こんな所だからこそ、必要最低限の情報しか取り扱わないのだ。うん、カッコイイ。
3000m記念に写真を撮る。
さて、ここからは呼吸をもっと意識して歩いていこう。
一番の懸念である高山病対策だ。
今のところ全く問題ないが、用心に越したことはない。
呼吸を意識すると言っても、そこまで大仰な対策でもない。
ただ息を深く吸って、口を少しすぼめて細く長く息を吐くだけだ。
理屈としては肺胞がウンタラカンタラだが、正直私もよく分かってない。腹式呼吸ってどうなってたら正解なんです?
そんな付け焼き刃の浅い知識で七合目を超える。
ここまで来ればもう、1泊2日の富士山の初日目標地点に到達する。
「アレが、今日の宿……!」
AM10:30、七合目五勺地点の山荘に到着した。