「っはぁ〜……今日はもう歩かなくていいんだ……」
──14:20。
本日の目的地に着いた事で、一気に疲れが身に押し寄せてきた。
だがまだだ。
まだテント設営という重大なミッションが残っていた。そこまでやって初めて気が抜ける。
まだ、雪は降っていた。
「とりあえずザックは軒下に置かせてもらって……、やってる?雲取山荘」
玄関の灯りとか付いてないし、人の気配を微塵も感じない。
しかし玄関付近には雪かきしたであろう痕跡と足跡があるので、まぁ居るのだろう。
よく見ると両開きスライド玄関は隙間が開いていた。
「……ごめんくださーい」
私は戸に手を掛け、恐る恐る顔だけ入る。
私を出迎えたのは、広々としたコンクリート打ちの
左手には何足も収納できる大きな靴棚。
上がり框の向こうには石油ストーブがカンカンと焚かれ、じんわりと暖かさが漂ってきた。
「……」
「……」
そのまま右手に視線を送ると、居た。
受付スペースの向こうから、比較的若めな男性が無言で私を見ていた。
その手前には『アイゼンは外で着脱してください』と注意書きが。
私はスー、と後戻りした。
確かに、アイゼンの爪でコンクリを削ってしまうからな。
危ない危ない。注意書きが無ければ普通にそのまま侵入していた。
でもその注意書き、玄関の中じゃなくて外に出しておかないと一歩分入られちゃわないですか?
私は訝しみながらもアイゼンを脱いでザックの隣に置き、改めて山荘へ。
もう汗はすっかり引っ込んで寒いので、ストーブの暖かさが身に染みる。
「こんにちはー。テント泊したいんですけども」
受付の男性にそう言うと、料金、注意事項を淡々と説明され、許可証を出された。
……なんか、ずいぶんぶっきらぼうな対応だったな。
山荘の利用は初めてなので、山で仕事する人はこんな感じの職人気質なのだろうかと許可証を預かる。
話の傍ら、売店も兼ねている受付の商品ラインナップを確認。
日本酒あるな。テント立て終わったら買いに来よう。
「よし。さっさと立てるぞテント」
外に出てチェンスパを履き直し、本日最後の気合を入れる。
雨よりかはマシだが、雪は変わらず降っているので迅速に立てなければならない。
まずは何処に立てるかだ。
誰も居ないのでイイ場所を選び放題で逆に困る。
「うーん。ここら辺かな」
山荘からは近すぎず遠すぎず、登山道沿いの平坦で頭上はちょっと木々が茂っている場所を選択。
ここをキャンプ地とする!
そうと決まれば早速設営開始だ。
ザックを持ってきてテント道具を取り出し、定めた場所にグランドシートを敷く。
「うお。雪サラッサラだな」
テントポールを通す時、サラサラふわふわな雪がどうしてもテントの細部に侵入してきた。
手触りはたいへん良いが、テント内に雪を入れたくないのでちょっと煩わしい。
「早く早く」
雪が降ってるから……ではなく、ただ早く休みたいから急ぐ。
テントがすでに立っているか否か。
それだけで登山者の心の余裕は天と地ほどの差がある。
最近キャンプをしていなかったせいで設営に少しモタついたが、15時には我が城は完成した。
「ふはは。これで無敵!」
心の余裕を手に入れた。
建設中に結局ちょっと侵入した雪を外につまみ出し、マットを敷いて寝袋を広げ、ザックの雪を払ってポイと中に放る。
よし。後はもうダラダラしてメシ食ってゴロゴロして寝るだけだ。
ちなみにテント設営中に、中年三人組が到着していた。
会釈。けっこう引き離してたんだな。
それと他に、ソロのおじいちゃんもやって来た。会釈。
おじいちゃんは一度山荘に寄ると、私の方に戻ってきてひと区画向こうのスペースにテントを立て始めた。テン泊仲間だ。人口密度上がってきたな。
「ダラダラする前に、日本酒買いに行こう」
テントの中に入ったらもう動くのが億劫になること確実なので(疲れ・寒さ・靴の着脱等)、もうやることは全てやる。
山荘に入ると、女性二人組と夫婦が受付に居た。
彼女達の姿はテント設営中に見かけなかったので、おそらく東京側の登山道から来たのだろう。
玄関口で順番待ちしてるのも暇なので、靴を脱いで上がり框に上がってストーブの前へ。
もう体がすっかり凍えていたのだ。
熱源にホッとしながら、売店のラインナップを改めて確認する。
酒の他には……お、カップラーメンがあるな。
食料は十分にあるが、温かくして食べる物は多いに越したことはない。買い、だな。
そうして人が掃けたので受付の男性に購入物を取り出してもらい、支払う段になって気付いた。
「あ。札はテントの中だ」
財布は手元にあるが、この中には小銭とクレカしか入っていない。
札はジップロックで別に分けているのだ。
サコッシュごと持ってきてれば良かったのに、何故か今は財布だけを持ってきてしまっていた。
「すみません。今テントから持ってきます」
せっかく商品を出してもらった手前、少々気まずいがサッサと取りに行こう。
そうして脱いだ靴を履いて歩き出した時、受付の男性に咎められた。
「!、ちょっと。アイゼン履いたまま中に入るなって書いてあるでしょ」
やべっ。すっかり失念していた。
私はアイゼンを装着したまま敷地内に入ってしまっていた。
私が入った時は、受付の仕事をしていて気付かなかったのだろう。
語気を強めて注意してくる。
「まったく。床に傷が付くじゃないですか。他の山荘でそんな事したら出禁ですよ。分かってます?」
「す、すみません……」
完全にこちらが悪いので平謝りする。
謝るのだが、ギャップがすごい。
先ほどまで感情を感じさせない態度が一変して、文字列以上に怒りの籠った声で注意された。
その10分の1くらいでいいから、応対にも愛想を出してほしいと思ってしまう。
私はしょんとしながらテントに戻って札を回収し、山荘前でアイゼンを取り外し、会計を済ました。
「……」
うぅ、睨まれてる気がする……
気まずい。でも酒は買います。
「ふぅ。もう山荘には入れんな」
山荘から出て、我が城テントに戻る。怖かった……
しかしこれでもう、今日は完全にやる事は終了した。
後はひたすらゴロゴロするだけである。
とりま、テント内を快適に過ごすために荷物を整理して……
防寒のためのシートやら衣服やら用意して……
ちょっと寒いけど、軽く濡らしたタオルで体を拭いて……、うーん。明るい内に着替えもしちゃうか。
後はガイロープのテンション具合を確かめたり、山荘付近を散歩したりする。
「トイレはここか」
そうそう、重要なトイレの場所の確認を忘れていた。
山荘の真ん前の、ちょっとした階段を下った所にあった。
少しテント場から遠いな。夜中絶対めんどいヤツだ。
そんな予感を感じている傍ら、割と登山者がやって来る。
でも山荘に入ると皆出てこなくなるので、皆さん山荘に宿泊のようだ。
結局、この日テン泊したのは私とおじいちゃんの二人だけだった。寒いからな。
「俺もテントに籠るか」
結局ずっと雪が降っていて景色は皆無だし、私は大人しくテントへ入った。
湯を沸かして暖を取り、シュラフに包まりながらお菓子を貪って本を読む。
お菓子は行動食兼、テント内でのお楽しみとして割と多めに持ってきていた。
クッキーのアソート。
お徳用ビスケット。
チョコ。
グミ。
沸いたお湯でコーヒーを淹れながら。
「ふぅ……。至福」
やっぱゴロゴロするのはサイコーです。
ちょっと寒いのがネックだが、こんな山奥にまで来て家で過ごすのと大差ないこの背徳感。
と同時に感じる非日常感。
そして後はもう食べて寝るだけという無敵感。
「勝ったな。ガハハ」
冬山のテント内で独り悦に浸る、中年に差しかかる独身男性の図である。
夜の帳が落ちてくる。
「……メッチャ冷えてきたな。もうメシ食って寝るか」
17時頃。
テント内が薄暗くなってきたので、本をパタンと閉じた。
食っちゃ寝読書をしていた私の体は、すっかり冷えきっていた。ジッと本を読んでいるからである。
これは早急に温かいご飯を摂取しなければならない。
「今回の夕飯は、ちょっとオシャレにミネストローネです」
私にしては珍しく、ラーメン以外の汁物をチョイスだ。たまには趣向を凝らしたかったのだ。
天井に吊るしたヘッドライトの明かりを灯す。
「レッツクッキング」
コッヘル(大)にたっぷりのお湯を沸かし、ミネストローネのパウチをドボンと沈める。
クッキング終了。
……はい。まぁレトルトです。あっためるだけカンタンの文明の利器バンザイです。
そんなグラグラ煮えるパウチの周りに、麓のコンビニで調達したソーセージも投入。同時にボイルする。
さすがにミネストローネだけだと物足りないので。
「温まってきた」
まだ食べてないのに温かくなってきた。
狭いテント内にもうもうと充満する水蒸気が、ベンチレーターから冬空へと抜け出していく。
ぐつぐつと煮立つ音。
ゴー、と火を吹き続けるバーナー。
食卓とシュラフ以外の空間には、ザックから取り出された物品が散乱していた。
中身を抜かれたぺちゃんこのザックは、シュラフの足下で転がっている。
それらを照らす、テントの天井で揺れるヘッドライト。
ご飯を待つ私。
風は、ない。穏やかな時間だ。
「よし。もうそろそろイイかな」
お湯から取り出したパウチミネを、コッヘル(中)にブチ撒ける。
零したら色々悲しいことになるので、細心の注意を払って。
パウチのゴミはテント外のゴミ用ビニール袋へと捨てる。
テントの前室空間、好き。基本、靴とゴミ置き場だけど。
熱々のミネストローネに、これまた湯気を立ち上らせるソーセージを入れていく。
これが今日の夕飯、ソーセージ入りミネストローネだ(茹でただけ)。
「よぉし。んで食べる前に……」
湯煎に使っていたお湯を、水筒とマグへ注ぐ。
貴重なお湯だ、捨てるなんてもったいない。
……──だがこの水筒に詰めたお湯が、後に悲劇を起こす。ヒント、ソーセージ。
「いただきます。ッあつ、うまっ」
テントの中で食べるメシはなんでもうまい。
トマトの酸味が疲れた体に染み渡り。
ホフホフハフハフと、パリッとソーセージの肉汁が弾ける。あっちぃ。
「そういえば、山の中で肉食うのは初めてだな」
パン・米・麺は食べたが、肉はおやつカルパスくらいだ(肉か?)。
ナマモノはちょっと保存がな……。保冷アイテム持ってないし。
その点、今回は冬山テン泊なので大丈夫だろうと思ったのだ。買ったのも麓だし。
「肉最高。酒も飲んじゃお」
私はさっき購入した本醸造酒『雲取山』四号瓶のキャップを開ける。
ミネストローネには多分合わないが、気にしない。私はアテが甘味でも、ビールや清酒を流せる悪食だ。
フフフ。私は日本酒を好んで飲むので、こういう時のためにクッカーの中におちょこを忍ばせてあるのだ。
これで乾杯……しようとしたのだが、あれ?そういえばおちょこが見当たらない。
ガラス製の、私の好きなアーティストのロゴが入ったヤツなんだが……
「……どうやら忘れてきたらしいな!」
忘れたというか、多分準備中の私が省いたのだろう。
ほんの少しでも荷物を軽くする登山の鉄則に従ったようだ。雲取山はただでさえ歩行距離が長い。
「しょうがない。直で飲むか」
マグには白湯をなみなみと注いでしまったし、他におちょこを補えるレベルの器がない。
下品だが、せっかくの清酒をラッパ飲みだ。
ドヴォン、と気泡が瓶の底に移動する。
「うお。うまっ」
雲取山で飲む雲取山は、テン泊の雰囲気も手伝ってかメチャクチャに旨かった。
いやホントにウマいな。水みたいにゴクゴクいけるぞ、このポン酒。
ミネストローネを食べ、清酒をゴクゴク。
たまに菓子も貪る。
「宴だな……!」
酒は良い。
元より楽しんでいれば、さらに全てが楽しくなってくる。
狭いテント内。照らすライト。雪降る外。
ほぼ山頂。ほぼ一人。
この瞬間がいちばん楽しいまである。
「テントってあれだな。秘密基地感あるよなやっぱ」
見知らぬ土地に設置できる、自分だけの空間。
それが山奥とかなら
しかも人がほぼ居ない。
今日は理想的だ。
お隣さんがおじいちゃんだけで。
雪は降ってるがそこまでの量はなく。
特筆すべきはなんてったって無風。
好条件過ぎる。風がイチバンやばいからな。
「あら。もう終わっちゃった……」
楽しい酒盛りはあっという間だ。
元々飲みきりサイズをガブ飲みだし、美味しかったし。
私は酒瓶を置いた。
「ふぅ。それじゃぁ〆に粉末スープを入れてと」
ミネストローネの汁が残ったコッヘルにスープの素を投入。
お湯を垂らして雑なわかめスープが出来上がる。
「っあ〜……。あったけぇ汁最高……」
結局熱い汁物を飲むのがイチバン温まるな。
これを飲み干して、最後にただのお湯でコッヘルをクルクル回し、また飲む。
最後にトイペで軽く拭く。
「洗い物完了」
潔癖な方には信じられない事かもしれないが、これが山での食器洗いである。
水が貴重だし、洗剤なんて論外だ。臭いがしなきゃ大丈夫だろの精神だ。
「さて……寝るか」
コッヘルやバーナーたちその辺に避け、寝床を整える。
まだ体が温かい内に寝ないとな。
いくらテント内とはいえ、標高2000mの真冬だ。当然寒い。
食事をしていた今は比較的薄着だったが、寝る前に厳重に着込む。
上着を着込み、レギンスを履いたままズボンを履く。
予備の靴下を出し、ネックウォーマーも……、はいいか。枕元に置く。
ちなみに枕は余った衣類を入れた防水袋だ。着替えた服も含まれる。
ちょっと高さが物足りなかったので、中身を服を畳んだり本を敷いたりして調整。
寝床の準備が整った。
「よし。じゃあ最後にトイレ済ませて寝よう」
できれば夜中に催したくないので、ここで出し切る。
ヘッドライト(2個目)を装着し、せっかく温まった体を寒空に晒す。うぅ、もう寒い。
それにもう真っ暗だ。
私のテントとおじいちゃんのテントの灯り、それと山荘周りがぼんやり光るだけで他は何も見えない。
「雪積もったなぁ。夜中大丈夫かなコレ」
バイオトイレの臭いに顔を顰めながらも用を済ませ、テントに戻ってきた私。
雪はパラパラ降り続いている。今日は一日中降り続けたな。
ヘッドライトが照らす世界は白一色で、テントはキメ細かい雪でデコられていた。
まぁ今更ボヤいても仕方ない。仮に寝てる間、メチャクチャ積もられたらもはや私一人ではどうしようもないと諦めよう。
……実際そうなったらどうするんだ?
私は考えるのをやめた。
テントに付いた雪を一度払ってから、私は棺になるかもしれないテントの中へと入った。
明日無事に朝日を拝める事を祈って、おやすみなさい(ダメな現実逃避)。