ふと目が覚めた。
目を開けても暗闇の中、枕元に置いた裏返しのスマホをチラリと持ち上げる。
時刻はAM3:00だった。
「うーん……まだちょっと早いな……」
眩しい画面を再び裏返して置き、一度体を起こす。
時間的に日が昇っているはずは無いが、何だか外の明るさが気になってカーテンの隙間から外を覗いた。
半袖短パンだと肌寒い気温。
案の定、外はまだ真っ暗だった。
「もうちょい寝るか」
隙間を閉じて再びの暗闇の中、ベッドに戻る。
視界が無い中、感覚を頼りにベッドに腰掛けようとして……──
「うおっ!?」
あと半歩足らなかった。
ケツがベッドを空振りし、右前腕の尺骨側の皮膚を木枠のカドでガリガリ削って、私はドスンと床に尻もちをついた。
しばし呆然とする私……。
「……っ、イッテェ……。クソ、何やってんだ俺……」
尻もちのダメージは無いが、腕がジンジン痛んだ。痛い。
血こそ滲む程度だが、表皮がズタズタである。まるで私の腕から鰹節を削り出したみたいだ。マズそう。
「あーあ。登山前に何やってんだよ。
私はふて寝した。
〰️〰️〰️
──AM4:30、目覚ましが鳴る。
二度寝した事で、より気だるさの増した眠気。
それを振り払うように、ベッドの上をしばらくゴロゴロしてから私は起き上がった。
「あー……、山登らなきゃか……」
直前になると、どうもやる気が削がれる私である。
しかし登らないワケにもいかないので、渋々起き上がった。この旅のメインイベントなのに大丈夫か。
登山着に着替えて部屋から出ると、すでに民宿のおじいさんがリビングに居て作業していた。
テーブルには焦げ目の付いた小ぶりなロールパンと、湯気を漂わせるコーヒー……
「おはようございます。パンとコーヒーだけですけど、朝食いかがですか?」
まさか朝食まで用意してくれているとは思っていなかった。
私は面食らいながらも「是非ともいただきます」と返した。
昨日スーパーで朝食用にと購入していた、水とパンをその隣に置く。
「おはようございます。その前にちょっとトイレと顔洗ってきますね」
「はい。食べ終えて準備が出来たら言ってください。登山口まで送りますから」
やはり宿泊客は皆、開聞岳を登山をするのだろう。慣れた口調でおじいさんはテレビを見ていた。
用を済ませ顔を洗い、私もテレビの天気予報を見ながら食べる。
本日の天気は良好。登山日和に申し分ない。
ロールパンの中身のバターが溶けてクリームのように滴るのを、零れないようひと口で食べる。
自前のパンも食べ、コーヒーをゆっくり啜り、5:10。
「ご馳走様でした。それじゃあお願いします」
「はい。じゃあ行きましょう」
席から立ち上がり、部屋からザックを引っ張ってくる。
いよいよ開聞岳に突入だ。
ちなみにもう一人の宿泊者であるオジサンだが、まだ寝てるのかもう出発したのか、まったく気配がなかった。
夕食時に軽く言葉を交わしていたが、どうやら彼は開聞岳に登るわけではないらしい。ただの宿泊者だ。ただ泊まるだけっていうのも気楽で良いな。
外に出ると、ぼんやりと明るい空に涼しい風が肌を撫でた。
霧のような薄雲が立ち込めていたが、まぁ許容範囲だ。明るくなれば晴れてくるだろう。
助手席に失礼して、車は出発する。
車でものの5分ほどの道のりを行く。
「あー、意外と距離あるっスねぇ」
「そうでしょう。使える足は使った方がいいですよ」
ものの5分ほどだが、コレを歩くとなると15分くらいは掛かるだろう。
体力もその分消耗するし、少々格好つかないことを除けば送迎には感謝しかない。
登山口手前にある公園にはキャンプ場があった。窓の向こうには数組のテントが建っている。
「本当は最初、このキャンプ場を利用しようと思ってたんですよ。でもそしたらタイヤに刺さったネジはそのまんまでしたね。多分、気付けてすらいないです」
「発見できて良かった。登山し終わる頃には修復も終わってると思いますよ」
「いやもう、本当にありがとうございます」
本当に、民宿のおじいさんを筆頭に車屋の人、民宿を予約した過去の私に頭が上がらない。
もし気付かないままだったら、帰りの道のどこかでバーストしていたかもしれない。改めて昨日の道中はよく平気だったな。
「はい、到着。ここが登山口だよ」
そうこうしている内に車は登山口へ辿り着いた。
公道から直で『開聞岳登山口』の標識が出ている。
さっそく車から降りようとすると、成人男性が一人、横切って行った。彼はそのまま登山口へ突入していく。
まさかの平日の今日、私以外に登山客が居るとは……っ。
しかも先を越されてしまった。私なんて車使ってきたのに。
私は彼を追うようにして車外に出た。
「それじゃあありがとうございました。行ってきます」
「はーい。頑張ってね」
挨拶もそこそこに、おじいさんの車は見えなくなって行った。登山者を送り出すのに相当慣れてるな。
ポツンと独りになる。
「……さて」
先に一人先行されてしまったが、恐らくその他には人は居ないと思われた。
目の前には鬱蒼と茂る森。
ゼロ距離で相見える開聞岳は、森の坂道だった。
──AM5:30、開聞岳登山開始。
「いやマジで森だな」
差しかかる夏が拍車をかけているのだろう、濃い緑がそこら中を支配していた。
そんな元気よく育ったシダ植物を、ガサガサかき分けて進む。
だが相手は緑だけではない。
「石もだいぶ転がってるな」
ゴロゴロと地面に寝そべる、
コイツらも厄介だ。足をぐねらないよう気を付けなければ。
気を引き締めていこう。この山行は見た目よりも厳しい。
たかだか900mちょいの山と侮るなかれ。
この開聞岳の登山口は、海抜0mスタートなのだ。
つまり、平地から900mの高さを丸々、フルで歩く。そんな延々と続く坂道を登り続けるのである。
登山道は管理されてるとはいえ、上記の通り自然はほとんど剥き出しの状態で行く手を阻む。
「いいね。これぞ登山だ」
私はこの苦行をするために、わざわざ海を渡って陸を移動し、バイクにネジが刺さっても遥々やって来たのだ。
こうして書き出すとヤバい人だな。
黙々と歩を進めていく。
「うわっ。ジブリ映画に出てくるちっちゃい虫かよ」
草木の隙間から、節や羽が異様に長いカゲロウのような虫がフワフワと無数に飛んできた。
遠目から見る分には幻想的だが、虫にそこまで思い入れのない私は彼らを避けて動く。
「うーん。虫の楽園だな」
優雅に飛び回る虫たち。
見上げれば蜘蛛の巣。
地面にも小さな虫が蠢いている。
登山というより森の探検だ。
しかし道は一定の勾配が果てしなく続く。体力が無ければとても登れないだろう。
「はぁっ、はぁっ、まったく……っ。鹿児島までやって来てやる事か?これが」
本望なのだが、登山中はつい愚痴りたくなってしまう。矛盾した心理。
少し息が上がりながらも順調に高度を上げていく。
視界の開けた場所に出た。展望台がある。
「お、五合目か。けっこう早く着いたな」
──6:00。
ポイントである五合目に到着した。
ここはテラスのようなしっかりした造りの展望台があり、木々も開けて休憩にピッタリだった。
まだそんなに疲れていないが小休憩しよう。
「もうこんなに登ってきたのか」
切り払われた木々の向こうには麓の町と海が望めた。
曇り時々晴れといった天気で遠くの景色はあまり見えないが、そこそこの高度感だ。イイ眺めである。
「……さてと。さっさと行くか」
のんびりするのは頂上だけと決めていた。下山後にはまた大移動が待っているので。
水を一口飲んで立ち休憩を終え、再び歩き出す。
「石が岩になってきたな」
転倒注意の浮き石たちのサイズ、それが見るからに大きくなってきた。
……ここからが開聞岳の本番のようだ。
周囲は変わらず新緑が萌えているし、先程の展望台以外は景観が皆無。
ただ黙々と歩くのみ。
初心者向けと言われる開聞岳だが、その評価は地味に詐欺ではなかろうか。
確かに、地図上の登山道を見るとメッチャ簡単そうなルートに見える。
しかし実際に歩いた身として、その認識は大いに間違っていると言わざるをえない。
「もう普通に岩場だな」
岩石から岩石の上をヒョイと飛ぶ。
もはや一般人が想像するような道は消え、岩が乱立する地帯に突入していた。
登れば登るほど岩の数が増え、サイズもデカくなっていく。さすがは活火山だ。
大きい岩を眺めていると、背後から足音が。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
またもやソロ成人男性が私を置い抜いて行った。
マジかよっ。私もそこそこ遅くないペースで登っているのだが、それを追い越すか。
これで現在、この山には3人の人間が居ることになった。
登山口で私より先に行った人より早く山に入った人は確実に居ない。そんな人が居れば中腹地点を越えた私と下りですれ違うはずだ。
まぁずっと山頂に留まっていればその限りではないが……
「皆、歩くの速いなぁ」
私は自分のペース(ちょっと速めモード)で歩く。
登山はレースではないのだ。自分のペース・予定で行動すればいい。
それに、もう……
「お。これが洞窟か」
仙人洞と呼ばれる溶岩ドームが、ポッカリと口を開けていた。
ここまで来れば頂上直下だ。登頂までもう少しである。
「あ」
洞窟を覗いていると、その頂上の方から人が下りてきた。
服装的に、さっきの第一登山者だ。
私と彼はペコリと会釈し、彼は颯爽と下界へ消えていった。
あまりにも速い下山。
「……俺もさっさと登るか」
やっぱり人がいると、なんやかんや影響を受けてしまう私である。
洞窟に別れを告げ少し歩くと、木材で造られたデカくてそこそこ長めの梯子が現れた。
これを登って、岩だらけの中を登るようにして進むと、ついに辿り着いた。
──7:15。
日本百名山の標高第99位、開聞岳924m、踏破。
「おー。清々しいほどに360°の景色だ」
山頂は木々がスッキリと
その代わりと言ってはなんだが、人の半分サイズくらいの岩が積まれるように重なっていて、足場こそ狭いが空間は広い。
岩の上からの景色は壮観の一言に尽きた。
南側には広大な太平洋が望め、北には巨大な湖、池田湖がぽっかりと口を開いている。
他にも
「……メッチャ良い山じゃん、開聞岳」
登りに来て、よかった。
惜しむらくは薄雲が全方位に漂っていて、あまり遠くの景色を見渡せない事か。微妙な天気である。
まぁ落ち込んでもしょうがない。雨が降らないだけヨシとしよう。
私を追い抜いた先程のソロ男性に会釈し、ザックをそこら辺の岩に預ける。
中から食べ物を取りだし、身軽になった私は岩の上にぴょんと登って早朝のおやつタイムと洒落込んだ。
「やはり山にはおにぎり」
昨日スーパーで買った梅おにぎりを頬張る。
ちょっとしなしなだが、梅の塩気が丁度いい。歩き続けて火照った体に染み渡る。
「そういえば、こんなに海近いのに潮の匂いがしないな」
山頂だからだろうか。
いや、民宿に泊まってる時からまったく海辺の気配はなかった。
恐らくこの開聞岳と、裾野に広がる森が壁の役割を果たしているのだろうか。
「北海道の黄金道路はエグい塩っぱい臭いだったのに、北と南でこうも違うのか」
九州の地で北海道に思いを馳せながら、おにぎりを食べ終え、今度は菓子パンを食べる私。
朝のパン2個じゃ足らなかった。
「わー。頂上だ〜」
「お疲れー」
のんびりしていると、登山道から人の声がしてきて二人組の後続がやって来た。結構すぐ後ろに人が居たんだな。
この人達と入れ替わるように、私を追い越したソロ男性が出発していった。そうだな、私ももうそろそろ下りるか。
食事を終えて水を飲み、最後に一番高い岩の上から360°の景色を動画に収める。
そんな事をしているとまた新たな登山者がやって来たので、山頂を充分堪能した私はザックを背負った。
「忘れ物、なし。いい所だったぜ開聞岳」
私は他の登山者に会釈しながら、頂上を後にした。
そんな下り始めて、直ぐ。視界の端に何かチラリと朱いモノが目に映った。
「ん?何だ……奥の方に鳥居?」
山頂へ至る登山道からほんの少し外れた所、茂みに覆われた向こうに小さめな鳥居があった。
なんだなんだと覗いてみる。
「御獄神社?枚聞神社じゃなくて?」
鳥居の中央に拵えられた文字には御獄神社と書いてあった。
そういえば昨日参拝した麓の枚聞神社は、この開聞岳を御神体として祀っているらしい。奥宮か。
「期せずして両方とも寄れたわけか。拝んどこ」
まだ神社仏閣にそこまでの興味関心は無いが、何となく厳かな雰囲気に手を合わせる。
日本人は信仰心無いクセに妙に信心深い。私もそんな感じだ。
「よし。さっさと下るか」
後はもう来た道をそのまま戻るだけなので、観光の時間を少しでも伸ばすために最速で下山する。もちろんケガには気を付けて。
しかし下り始めると、結構な人数の登山客とすれ違った。
「こんにちはー」
「早いですね。もう頂上から下りてきたんですか?」
「荷物すごいねえ。もしかして山頂でテント張った?」
私はフル装備──マットをザックに外付けていたので(民宿に置いとけばよかった)、山中でテント泊した人間だと勘違いされたようだ。張れるような場所無いですよ、開聞岳は。
それにしても登山客が多い。
男三人しか居なかった早朝が嘘のようだ。
そしてその最後の三人目が8:40──、開聞岳から無事下山した。
「はいお疲れさん。……さて、バイクの末路はどうなったか」
下界に下りた事で一気に現実に引き戻される。
昨日の話ぶりではネジが刺さってる事はそこまで深刻ではないらしいが、私としては初めてのトラブルなので些か不安だ。
私は民宿まで真っ直ぐ伸びる道のりを、気持ち急ぎ足で進んだ。
24.6/3、開聞岳
曇りのち晴れ
歩行距離:6.7km
所要時間:3:48