嵐山隊の沢田フゥ太が嵐山隊を脱退する。
その噂は瞬く間にボーダー組織全土に広がり、食堂にラウンジ、個人ランク戦ブース、自販機前の休憩椅子には泣きじゃくる女子隊員が溢れ返った。
それだけならまだ良かったのだろう。
問題なのは、嘆き悲しむ彼女たちの姿を見た男子隊員が、嵐山隊からの脱退ではなく、ボーダー隊員を辞めるのだと勘違いしたことによって、嵐山隊の沢田フゥ太が除隊するという噂が広がってしまったことだ。そこからは地獄の伝言ゲームの始まりだ。近界民と命がけで戦う組織であるから、除隊は珍しいことではないけれど、A級隊員、それもボーダーの二大広告塔の片割れとなれば話は別だ。家族で他県に引っ越す、恋人から安全を心配して泣きつかれた、悪質なストーカーに身の危険を感じた、はたまた広報の仕事に嫌気がさしたのではないか。
いくつもの噂が錯綜した。何が真実で何が嘘かわからぬ状態は隊員たちの不安を煽り、嵐山隊の隊室に直撃する猛者まで現れた。が、それでも噂は収まらない。
このパニックが一般市民にまで広がってはいけないと、メディア対策室から正式な文書を出すことで、ようやく事態は収集の兆しを見せたのであった。
これは余談だが、隊員の脱退でメディア対策室が動いたのはこれが初めてだ。
「嵐山隊を脱退して自分のチームを作る」
この正式発表で燃え上がった噂は鎮火したけれど、新たな火種となることは想像に容易い。
沢田フゥ太は一体誰を自分のチームメイトに選ぶのか。
その関心は主に、選ばれたい女子隊員と、嫉妬に狂う男子隊員と、お祭り騒ぎを見物する一部の隊員から寄せられた。ランク戦ブースを通れば団子のようにかたまるC級隊員の噂話ばかりが耳に入る。
「あ〜もう! うるさいんだけど!」
自分の隊室に足を踏み入れるなり、香取葉子は我慢の限界だと声を上げた。
「沢田先輩が誰を選ぶかなんて話はね、まずはB級に上がってからしなさいよ!」
ふんっ! と鼻を鳴らして、コンビニで買ってきた煎餅の袋を乱雑に開ける。そこで飲み物を買ってくるのを忘れたことに気がつくも、外には興味のない噂話が充満している。耳障りなそれと飲み物なしを天秤にかけ、香取は後者を選択した。喉が渇けばその時に買いに行けばいいのだ。
香取が大きな溜息をつくと、珍しくオペレーターの染井華が「そういえば──」と口を開いた。彼女が不機嫌な香取に話題を提供するのは稀である。
「先週の入隊式に沢田先輩の弟と妹がいたって話は聞いた?」
「知らないけど」
バリっと音を立てて煎餅をかじる。すると、二人の話に興味を持ったらしい若村麓郎と三浦雄太も話を切り上げ顔を上げた。
「それでもうB級に上がったって」
「嘘でしょ、なにそれ! どういうこと!」
「弟さんが三日、妹さんが五日だったかな。すごい早さでB級に上がったから噂になってて」
「三日に五日? おいおい嘘だろ!」
「じゃあ、沢田先輩関連の噂が再熱してるのはそれが原因なのかな」
そんな早さでB級に上がった話など聞いたことがない。
「それ本当なの?」
「綾辻先輩経由だから間違いないはずよ」
綾辻遥とは嵐山隊のオペレーターだ。新しいチームを作るはずがボーダーからの除隊ということになってしまってから、嵐山隊はA級とB級には自ら正しい情報を流すように動いていた。沢田というありふれた名字できょうだいだと特定できたのも、情報発信があったのだろう。
「噂の沢田先輩の隊員だけど、その弟さんと妹さんらしいわよ」
「じゃあ何よ、身内でチームを組もうっての?」
香取は開いた口がふさがらなかった。
「はじめて聞いたよ」
「今までそんなこと考える奴いなかったよな?」
三浦と若村も困惑に顔を歪めている。
「別になんでも良いけどさ、身内贔屓の仲良しこよしチームで何ができるのかは見ものね」
新しく作られたチームは原則B級下位からランク戦スタートとなる。元A級隊員がいようとその実力は関係ない。つまり、いつかは香取隊とも戦うことになるのだ。
喉の渇きを無視できなくなった香取は、のろのろと重い腰を上げて自販機を目指した。若村に頼むつもりが、三浦と個人ランク戦に出かけてしまい、これなら煎餅を開ける前に買いに行けば良かったと数十分前の自分に苛立つ。
ついでにトイレも行こう。それなら飲み物を買う前がいいと、自販機を通り過ぎたのが間違いだった。隊室近くでトイレを済ませて自販機に行けば良かったのに。
がやがやと、たむろする女子特有の気配に香取は機嫌を悪くした。ボーダーだろうと学校だろうと、女子はつるむものだ。それも弱い者ばかりが周りを威嚇するように集団で行動するのだ。香取はどこにでも見られる女子の習性が嫌いだ。自分も同じ女子だと思うとますます嫌いになる。
「ねぇ、だからさ、ちょっと沢田先輩に紹介してくれたら良いんだって」
「できません。困ります」
「だったらランボ君でもいいからさ。私たちのこと先輩だって紹介してよ。それくらいならいいでしょ」
これだから嫌いなのだ。女子という生き物が。
「何度言われても答えは同じです。声かけるなら自分で行ってください」
トイレの出入り口をふさぐのも香取が心底嫌う女子の習性のひとつである。邪魔で仕方がない。それも、連日のように香取を不機嫌にさせているC級隊員が一人を囲んでいる構図も、いじめのようで腹立たしい。
「ねえ、そこ、邪魔」
若村から高圧的だと指摘され、三浦からは勘違いされちゃうよ、と心配される、香取自身自覚済みの仁王立ち。そこに隠すつもりもない不機嫌を前面に押し出せば、ほとんどの女が怯んで逃げていく。
「こんなとこで何やってんのよ。集団で一人を囲んで馬鹿じゃないの。男漁りするためにボーダーに入ったんなら今すぐ辞めなさい。邪魔だから」
ここに香取隊のメンバーがいたら慌てて止めに入っただろうが、生憎とストッパーになる者は誰もいなかった。
C級隊員は「あ」とか「うぅ」と言葉にならぬ声を上げたけれど、B級で隊長を務める香取のわかりやすい苛立ちになす術なく、逃げるように立ち去った。
「あーあ、やんなっちゃうわ」
言いながら、香取は初めて囲まれていた少女を見た。
アジア人の顔立ちをしているけれど、どことなく純日本人でないことがわかる。眉上の前髪からのぞく広めの額、真黒な眼、黒髪。おさげに結った二本の髪でそれぞれ輪を作るヘアスタイル。上背は香取より少し高いくらいか。
見たことがない少女である。彼女の身を包む黒いミリタリー調の隊服も知らないものだった。
「あなたまさか、沢田先輩の妹?」
香取はもう一度、上から下まで、まじまじと少女を見た。
「はい、沢田イーピンといいます。助けてくれてありがとうございます」
頭を下げる礼儀正しさと、溌剌とした声色が好意的だ。そしてやはり、彼女も兄のように日本列島の大半を占める大和民族ではないらしい。
「イーピン、こんなところにいた。フゥ太が待ってるよ」
「ごめん、ランボ。いま行くから」
不意に声をかけてきたのは、少女とそろいの隊服を着た、これまた外国の血を引いていることがわかる顔立ちの少年だ。香取はとっさに口を押さえた。香取は面食いだったのだ。
少女と少年は香取に会釈してロビーに向かって歩いて行った。
トイレを済ませ、自販機の前に立ちながら香取は想う。
男漁りは他所でやれと言った手前、大声では言えないが、ランボと呼ばれた少年の顔立ちは見事なものだった。たまにニュースなんかで報道される海外の美少年特集に出てきてもおかしくない。柔らかそうな巻き毛の黒髪と、血管が透けるような白い肌、輝く緑色の瞳。わずかに顔を合わせただけでその造形美を香取の網膜に焼き付けたのだ。同期入隊した者達が必死に関心を向けるのもわかる。
イーピンと同じ隊服を着ていたということは、彼が噂の弟君というわけだ。
香取よりも高い身長に見合った長い手足、頭も小さく、黒眼が印象的だったイーピンもスレンダーな美少女と言っても過言ではない。
男女問わず目の保養を好む香取は、アイスティーのボタンを押しながら、人知れず小さく唸った。香取の本命は烏丸京介だけれど、美しいものは美しい。人は美しいものを愛でるものだ。
隊室に染井の悲鳴が響いたのは、それからわずか数日後のことで、ソファでくつろいでいた香取は飛び起きた。今日は防衛任務もなく何となく来ていたから換装していないのがいけなかった。体を起こした拍子にテーブルに脛をぶつけた。痛みが怒りとなって、けれどもまずは染井の元へ駆けつけねばならない。香取が涙目で作戦室の入り口を目指すと、そこには予期せぬ光景が広がっていた。
「綾辻から聞いているよ。いつも嵐山隊を応援してくれてありがとう」
「ひぇっ──あ、は、はい──!」
物静かで勤勉な染井には、その性格からあまり知られていないけれど、実のところ憧れてやまない男がいる。それこそが今、染井の手を取ってにっこりと素晴らしい笑顔を向けている、嵐山隊の隊長を務めるボーダーの顔、嵐山准なのだ。
推しの来訪に赤面しているだろう親友の後ろ姿に心の中で「おめでとう」と「頑張れ」というエールを送りながら、香取はもう一人の客人と嵐山が並ぶ絵面に思わず眼を細めた。
ボーダーの顔、嵐山准。そしてつい最近に嵐山隊を脱退し自分のチームを組んだ男、沢田フゥ太。見慣れない格好と前髪を上げたヘアスタイルに一瞬だけ迷ったが、間違いない。イーピンとランボとそろいの真黒なミリタリージャケットは、今まで赤い隊服を着こなしていただけあって見慣れないが、無骨とも言える隊服までもが似合ってしまうのは、その顔の造形が素晴らしいからか。
「香取、良かった。君に会いに来たんだ」
二度目になるが、香取の本命は同学年の烏丸だ。だというのに、輝くような微笑みは問答無用で面の良さをアピールしてくる。圧が強い。嵐山といい、彼といい、誰もが認める美男子であり、広報部隊としてそれの使い方を心得ているからこそ、まるでドームを埋めるトップアイドルがそこにいるようで、あった。
奥の部屋のテーブルを慌てて片付けた二人は、そこにフゥ太と嵐山を招いた。というのは、フゥ太が鹿のやのどら焼きを持ってきてくれたからだ。香取は知らなかったが、オペレーターの間では有名な『いいとこのどら焼き』らしい。
染井が手早く入れたお茶──来客用の茶葉など用意していないから染井が自分用に持ち込んでいるティーバッグ──とどら焼きを並べると、二人はどら焼きは是非隊の皆でと言ってお茶にだけ手をつけた。広報部隊は市民からの差し入れをたくさん貰うと聞くから、食べ飽きているのだろう。
「香取、この前は僕の妹を助けてくれてありがとう。イーピンから話を聞いて、今日はそのお礼に来たんだ」
たしかに女子トイレの前で囲まれている少女を香取は助けた。だからと言って、こんな菓子折りを持って挨拶に来るだろうか。それも自分達よりランクが低い相手に対して。
「別に、邪魔だったから邪魔だって言っただけですよ。それにあの子、自分でどうにかできたはずだし」
捻くれたことを言ってしまうのが香取葉子という女なのだ。それをよく知る染井が、なんとも言えない視線を送ってくる。
「そうだね、イーピンはしっかりしているから。それでも、たとえ偶然でもイーピンは君に助けられた。兄として礼を言わせてほしい。どうもありがとう」
目の前でとろけるような微笑みを浮かべる男の顔を、香取は染井の影響で眼にする機会が多くあった。嵐山と彼は単体での仕事も多いが、セットで使われることも他の隊員よりは多くあって、染井が「嵐山さんが今日もカッコいいの」と見せてくる雑誌やテレビのトーク番組で、それこそアイドルのような完璧な笑顔を振り撒き、時に三門市の未来を語る真剣な表情を香取は知っている。が、今こうして向けられるのはそのどれとも違う、兄の表情で、それだけで彼がきょうだいを心の底から愛していることが伝わってくる。
「きょうだい仲が良いんですね」
「そう見えるかな。あいつらもそう思ってくれてたら嬉しいよ。僕たちは里子同士のきょうだいだから」
里子──という言葉は、香取の人生にとって縁のないものではない。この三門に暮らすならば、あの魔の日曜日から急激に耳にし、目にするようになった。だからその単語に怯みはしない。それは両親を失っている染井も同じで。
「いいんですか、私たちに話してしまって」
染井が慎重に尋ねるも、フゥ太は「どうせ皆が疑問に思うことだから」とあっけらかんとしている。
同じ民族を思わせるランボはともかく、イーピンの顔立ちはアジア人だ。きょうだいだと言われたら違和感を覚えずにはいられない。
「助けてもらったのにこんなお願いをするのは図々しいとはわかってる。でも、もしもまた僕の眼の届かない場所でイーピンとランボが困っていたら手を差し伸べてやってほしい。香取、染井、頼まれてくれるかい?」
「俺からも頼むよ。親友のきょうだいだからな」
なんて狡い男たちだろう。嵐山は染井が頷くとわかっていて口を挟んだ。フゥ太は、香取が染井に弱いことを知った上で嵐山を連れてきたに違いない。流石は広報担当なだけはある。無償の微笑みと見せかけてとんだ策士だ。
「もちろんです、嵐山さん」
「はあ、まあ、見かけたらですよ」
香取は腹立たしさと同時に、自分たちのような格下にまで手回しをするフゥ太の、嵐山にも引けを取らない家族愛に、一種の関心を寄せずにはいられなかった。
──もしもこの場に未来視のサイドエフェクトを持つ男がいれば、顔を合わせるたびに寄ってくるイーピンを可愛がる香取を視たことだろう。