偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第10話
人間の里の外れに聖白蓮が住職を務める命蓮寺は建立している。元が宝船だった為に人間からは縁起のいいお寺として人気がある。人気はあるが人間の弟子は限りなく少ない。白蓮はあらゆるものが平等であるという主義の下、寺院を運営しているのだがなぜか集まるのは妖怪だけという奇妙な寺である。その点で言えば博麗神社といい勝負である。
その命蓮寺の地下に夢殿大祀廟はある。ここで聖徳王こと、豊聡耳神子たちが眠っていた。今は独自の仙境を開き道場を建てて住んでいる。
命蓮寺の門が見える手前に幻想郷では見慣れない人物が立っていた。前掛けのついた凝った意匠の道袍に身を包み羽扇を持っている。宝玉のついた頭飾を被り長く伸ばした髪が僅かに風にそよいでいる。この人物こそ八雲紫の式神を外した人物であった。
「やっぱりここから行くのが楽そうね」
その人物は後ろを振り返ると彼女を遠くから隠れ見ていた封獣ぬえを見返した。気取られる距離ではなかったのに、とぬえは思わず強張った。仮面めいた笑みを貼り付けており底が見えない。ぬえ自身は強力な妖怪である。正体が分からない事は根源的な恐怖であるからだ。
そんなぬえを遠くから見ながら彼女は独り言のように呟いた。
「死んだ女の霊かしら? それとも赤子が泣いているのかしら? あるいはただの虎鶫? はたまた姑獲鳥なのかしら? うふふ。正体なんてなんでもいいのよ。それは見た者が決めるのだから。そうやって恐怖は作られるのね。うふふふふ」
一瞬ほどぬえが目を逸らした刹那、その人物は既にそこにはいなかった。まるで最初からなにもなかったかのように。
「何よ、アイツ。私に気づいていた? この距離で? あの感じ…………神霊廟の奴と似ていた。この胸糞悪い空気といい、何よ全く」
ぬえは悪意が満ちる幻想郷で最大限悪意を拡散しないように単独行動していた。白蓮たちは悪意が降りかかってきてから邪念を払うべく読経を唱え続けている。心に雑念があるからこそ悪意に浸食されるのだと。その集中力は驚嘆に値するがそれについていけるほどぬえは仏門に身が染まった訳ではなかった。二色九階では下四階の修行入位である。
「くそ……。何とかしなさいよ。巫女」
ぬえはその場で座り込み空を見上げた。
◆
豊聡耳神子により作られた仙境にある神霊廟。そこでも悪意は生まれていた。神子は現在人里に出ている。悪意を感じてから神霊廟の事は物部布都と蘇我屠自古に任せていた。そして悪意を払う役目を霍青娥に頼んでいた。
その青娥は神霊廟の一角で冷汗を流していた。悪意に関しては元凶となる者がいる事は推測できていたし、完全にとはいかないが払うこともできる。完全に悪意を退けるのなら自らを封印してしまうのがいい手ではある。
道場には布都と屠自古が陣取っていた。青娥の仙術で常に悪意は払われている。だが神社のように清浄になっている訳ではない。悪意が生まれる度に払っているだけだ。
だが。
青娥の隣に立つ人物によって仙術の行使を中断されている。
「いつ山から下りて来たのです? それもわざわざこんな辺鄙な所まで。あぁ、ええと――――」
青娥は言葉を選び隣に立つ彼女へ訊ねた。
「今は
「緱…………婉……姈?」
「懐かしい名前でしょう?」
ぬけぬけと、と青娥は思った。しかし随分と昔の名前を引っ張り出してきたものだ。
これは相手にするには分が悪い。特に邪仙とはいえ女仙である青娥には。
「できればここには手を出しては欲しくないんですけどね」
「そうねぇ。同じ仙人ですもの。私も気が引けるわ。だけどアラディアには引っ掻き回せるだけ回せって言われているし、月への門を開いてくれるっていうから手を貸しているのよね」
「月への?」
「そうなのよ。悪意って場所を問わないのね。そこにいる誰かによって発生するわけよ。その悪意をアラディアは掌握しているのね。アラディアに掌握されているからどこで発生しているのか彼女は完全に分かってる。悪意はアラディアを起点に繋がっているから悪意を経由すれば発生した場所へ移動できるのよ。月の結界内の座標を悪意で把握するから移動できるってわけ。全く巫山戯た力よね。原初の悪神だけあるわ」
「それで。月へ行ってどうするんです?」
「ちょっとね。罪も贖わずに月の女神なんて崇められている奴が月で踏ん反り返ってると思うと腹が立って仕方ないのよ。それに月から見下されるのがいい加減気に入らなくなったの。まあ私が甘かった所為もあるからね。だから後始末をつけにね」
「あら。という事は月とやり合うんですか」
「アラディアが悪意で月の民同士を煽ってるからね。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰――――罪源となる悪は特に強力よ。既に月は滅茶苦茶になっているでしょうね。月面戦争が起こっていれば上等。そこへ私が乗り込むわけ。アイツの最期を見れれば十分ね」
「最期?」
青娥は婉姈のその言葉が引っかかった。最期とは一体どういう意味か。
「ええ。だって月は崩壊する予定だからね。――――星落としによって」
「星、落とし」
「そう。ま、これ自体は私がする事じゃないんだけれどね。アラディアの盟友、もう一人の悪神が手を打ってるのよ。私はただ私自身を罠として送り込むだけ。月の幕引きは月の民の手で行って貰わなくちゃね」
緱婉姈の貼り付けたような笑顔に薄ら寒いものを感じた。
「じゃあそろそろ私は行くわ。それとアラディアを裏切るつもりはないから、ここにも悪意は残していくわよ。もっとも深刻にはならない程度のね。それに正体不明の娘に見つかっちゃったから彼女にも面白い悪意を送っておいたわ」
「そうですか。それで済むのなら安いものです」
「ああ、最後に言っておくわね。青娥娘々。邪魔したら貴方でも容赦しないから。ここで大人しくしていてね」
緱婉姈の気配は神霊廟から完全になくなった。おそらく宣言通り月へ移動したのだろう。残された青娥は大きく溜息をついた。それから道場へ向かうと笑えない事が起こっていた。
「なあ布都」
「なんだ屠自古」
「お前さ、割といい女だよな。だからお前でいいや私」
「と、屠自古!? 何を言うておるのか分かっておるのか⁉」
「分かってるよ布都。それにいつも鍛錬してるだけあって引き締まったいい体してるよな。だからさ、お前の体をくれよ」
「屠自古、お主、目が座っておるぞ……冷静になるのだ」
「私は誰よりも冷静だよ。ただお前の体が欲しいだけだ」
亡霊となっている屠自古は尸解仙となる際に布都によって魂が宿っていた壺をすり替えられている。そうして肉体を失って亡霊となってしまった。既に亡霊となっている事は受け入れている。だが、受け入れるにあたって取り返しがつかない事の諦観もあったのだ。代わりに亡霊の長所を見る事で意外と悪くはない、神子と共にいる事には違いないのだし、と納得させていたのだ。
しかし肉体さえあればもっと違った事は事実なのだ。
どうやらアラディアの悪意を緱婉姈は変わった形で残していったらしい。深刻にはならないといったのはこういう事だった訳だ。
「い、嫌じゃ。いくら屠自古でも我の体をくれてやることなどできぬ! わ、我が身は太子様と共にある為にあるのだ! それに我は、我は…………女子に操を捧げる趣味はないのじゃ! お、お主とは長い付き合いじゃが、絶対に嫌じゃ!」
「じゃあ仕方ないな。強引に頂くしかない」
「嫌じゃ! 絶対に嫌じゃ! やめよ、屠自古、我は……我は……うわあああああッ」
神子から神霊廟の事を任されていた布都は屠自古から逃げる一心で飛び出していく。その布都を追いかけて屠自古も神霊廟を後にする。
慌ただしく二人がいなくなった事で一人道場に残された。そこへ青娥のキョンシーである宮古芳香がぎこちなくやってくる。
「芳香は可愛いね。よしよし。怖ぁい悪意はここにはないからね、安心なさい」
芳香を可愛がりながら呟いた。
「緱婉姈……あなたと戦うのは御免被ります。だから私はこの悪意を感じなかったとして傍観させてもらいますよ」
緱婉姈の正体を見破った青娥は神霊廟に籠る事に決めた。月がどうなろうと知った事ではない。そもそも邪仙である己が助ける義理はないのだ。なるようになる。そこに青娥を邪魔立てする脅威がなければそれでいいのだ。
月や幻想郷は悪意に混乱を極めているだろう。しかし結局は己から生まれた悪意でもあるのだ。
芳香を可愛がる青娥は笑顔で締めくくる。
「自分から生まれたものが自分へ返ってくるだけの事。因果は巡る。それが今回は悪意だっただけ。欲望に塗れた者達だけで完結する、なんてことはない異変ね」
もっとも欲望を見出されたという見方が強いけれど、と心の中で付け加える。
さて、これからどうなるか。
邪仙霍青娥は神霊廟から事態を眺める事にした。
◆
月の裏側にあるクレーター、ワン・フーに純狐の姿がある。警戒する玉兎も月の民もいない。一人佇む純狐は月を覆う悪意を感知していたが怨みで純化している神霊の為、そして悪意と相性が非常によかった事もあり、悪意によって己の感情が揺さぶられる事はなかった。
月は穢れのない場所だ。ある種浄土でもある。故に寿命がない。しかし現状はどうだ。悪意は蔓延し、月を覆っている。これは月の民、引いては神や閻魔が捉える不浄とは厳密には異なるからである。悪意は邪気に通じ、長じて不浄であるのは確かであろう。その点で言えば禊祓が通用するのも頷けるし浄化し続けている清浄な空間であれば意識を左右される事はないのだろう。
だが。
生命を穢の象徴として排除している月の民だがそれは不老に於いてという事なのだ。即ち環境と言っていい。月の環境は生と死を認めない環境という訳である。
では悪意は何故蔓延するか。それはこの悪意の根源が心だからだ。言い換えれば簡単である。月という環境に民がいる。心という環境に悪意がある。人の体を一種の領土としてみればそれを支配しているのは心なのだから。
月の環境は身体から生と死を遠ざける穢れがない土地ではあろう。しかし肉体という環境を支配している心を浄化する事はできない。心を浄化すれば残るのは穢れなき肉の塊に過ぎない。
考えない。
喋らない。
意識がない。
息をしない。
それでも生と死がない月では肉体は腐らない。
心なき聖なる肉の塊。
そんなものを人とは呼ばぬ。心があるからこそ人足り得るのだ。だからこそ悪意はこの穢れなき月であっても生まれ出でるのである。
かつて純狐は月の都を何度も襲撃し月の女神である嫦娥を討ち取るべく行動を起こしていたが地上からやってきた霊夢たちと戦い月の都の襲撃の失敗を認めた。その際にしばらく月には手を出さないと宣言したのだが、その彼女が月にいるのは奇妙な人物に呼び出されたからに他ならない。
玉兎の警戒が薄いワン・フーへ来たのはいいがその人物はまだ現れない。謀れたか、と思っていると周囲の悪意が一か所へ集まり目に見えるほどの濃度となっていく。青黒いようなそれは人一人を覆うほどの大きさまで成長すると安定した。すると中から人が現れた。
「やっと到着かしら。居心地の良いものではないわね」
緱婉姈である。彼女は純狐の姿を認めると仮面のような笑顔を綻ばせながら歩み寄ってくる。
「お待たせしたわね、玄妻」
そう。
純狐がここにいる理由はただ一つ。己を玄妻と呼ぶこの女に興味が湧いたからだ。もはや忘れて久しく己が何だったのかすらも不必要になっていた純狐に懐かしい思いを抱かせた名前。
「――――緱婉姈。私に何をさせたい?」
「貴方には証人になってもらいたいのよ。この月の最期の、ね」
婉姈の言葉に眉を顰めて純狐は訊ね返す。
「月の――――最期?」
「貴方はそれを見る資格がある。私は知っているから。ねえ玄妻。后虁はいい男だったわ。伯封も聡明な子だったから大きくなれば立派になった事でしょう。愚かな羿と賢しい嫦娥は私にとっても負の遺産なのよ。羿は貴方が始末をつけた。未だ月の女神として踏ん反り返る嫦娥は私が始末をつける。それが私の筋のつけ方。そもそも月があったからこんなことになった。だから月の歴史を白紙に戻すのよ。星落としによってね」
まただ。
懐かしい響きがこの女の口から紡がれる。
后虁。伯封。
知っていた、と思う。だが、一体何だったのか。もう思い出せない。ただ己は嫦娥を討ち取らんという思いだけでここまでなったのだ。
以前に幻想郷の巫女と約束した。月には手を出さないと。けれど目の前の女は己に月の最期を見る証人になれという。その資格があるという。
「――――星落としが何かは存じません。この悪意もお前らが用意したのでしょうが、この私が落とせなかった月をどうにかすると? 肩腹痛いわ」
「ふふん。玄妻。貴方は確かに強いわ。怨みから純度を高めるなんて並大抵じゃないのは分かる。けれどね月の連中がいかに賢しく尊大であるかは貴方ならよく分かっている筈よ。そんな連中に正面突破は私でも厳しいもの。だからああいった手合いを相手にするときは内側から崩すのが定石なのよ。この悪意を利用して、ね」
「これで何が起きると?」
「もう起きてるわ。ワン・フーは玉兎の警備が薄いけれど全くないわけじゃなかった。なのにただの一人も気配すらない。差し詰め綿月姉妹が手を打ったのでしょうね。あるいは――――」
「稀神サグメがドレミ―・スイートに命じて夢の世界を使った、か」
純狐の襲撃を潜り抜けた夢の月の都である。
もっとも起きているのは月の民同士の衝突なのだが。
「それならそれで都合がいいのよ。星落としはここにある月そのものが重要なのだから」
「何を成すのかは知りませんが、私を証人として呼び出したのです。これで何もなかったというのなら私がお前を八つ裂きにしてやる」
「ええ。いいわよ。できれば、の話だけれどね?」
「口の減らぬ女だこと」
「貴方も知っての通り女の恨みは恐ろしいのよ。私がここでやるのは悪意に汚染されたこの月に天厲五残を拡散させる事だからね。嫦娥ともども月の民には罰を受けて貰わないと」
「よく言いましたね? ならば緱婉姈の都落としを見せてもらおうではありませんか」
純狐は緱婉姈が何者かを考える。天厲五残をばらまく、そう女は答えた。疫病と刑罰。
生と死を嫌い、生命の象徴である妖精すらも忌避し穢れと称する月の民。そこへ疫病と刑罰をばらまくという。考え方は純狐のやり方に近い。純狐の場合は妖精を送り込んだのだが。
――――この女、殺した方がいいかもしれない。
と、脳裏にそんな考えが過る。しかし緱婉姈は死穢の匂いが全くしない。ただの仙人ではないのは確かだ。にも拘わらず蓬莱人と同じ雰囲気もある。それでいて神を感じさせる格がある。となると。
――――神仙か。
そうなるとこの力に裏打ちされた発言にも納得がいく。
この女が何をするのか見極める機会を得たのは僥倖だったかもしれない。
婉姈の後に続きながら純狐は他人の都攻略がいかなるものか徹底的に観察することを決めた。