偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第14話
ワン・フーから時間を掛けて月の都へ向かう純狐は妙な事に気づいた。警備の玉兎がいないのだ。全くといっていいほど。あまりにも無防備。けれど桃が生っている畑が痛ましい程荒れている。何らかの争いがあったとしか思えない惨状である。
先を行く緱婉姈が何を考えて都を落とすか。神仙と言えどもそれが可能か疑問はある。しかし天厲五残をばらまくと宣った以上、純狐が追い詰めたくらいには攻めるのだろうが。
――――と。
唐突に振り返らずに婉姈が問いかけてきた。
「ねえ、玄妻。罪のない者を裁こうとする事は悪い事だと思うかしら?」
何を意図した質問なのか、流石に純狐も分かり兼ねた。額面通りに受け取るのならそれは、
「罪のないというのは非がない、という解釈でいいのならその者を訳なく裁く事は悪いことでしょう」
と純狐は言う。
それを聞いた婉姈は、そう、そう思うわよね、とくすくすと笑う。今の質問で何かを確かめたのだろうか。自身の答えが完全なる正義とは思えないが非がない者を訳なく裁く、それを擁護することは難しいと純狐は考える。
それからは会話もなくただただ月の都を目指して進む。周りは戦禍の後だけが残っていた。
――――やがて。
絢爛な宮殿が現れる。それでも警戒する玉兎も月の民も誰もいない。やはり夢の世界へ避難したか、と純狐が考えていると誰もいない事は分かっている筈なのに煌びやかな城門の前で婉姈は立ち止まりあろうことか、頭を下げて挨拶をしたのである。
無論、歓迎もなければ門前払いを受ける事もなく静寂なままだ。婉姈はそれを三度繰り返し、三度とも同じ結果であったがそれから門を潜った。外朝には荘厳な楼閣が建てられ、月の都の高貴さを見せつけている。奥に見える内廷の御殿も建築技術の粋を集めて建造された事が一目で分かった。外朝の中心にある一番絢爛な御殿の門へ向かうとそこにようやく人影が見えた。
月の使者の指導者である綿月豊姫だった。
「誰かと思えば純狐ではありませんか。それにそちらの方は初対面ですね? わざわざ三顧の礼をしてまで入ってきたのですから出向いてきましたが、只今立て込んでおりましてね。手短にお願いしたのですが」
豊姫を前に婉姈は改めて頭を下げた。それを見た純狐は思わず目を瞠った。
「心中お察しいたしますわ。このような時期に参ったこと、お詫びのしようもありません。ですがこちらもこの時期でなければ訪れる事が叶わなかったのでその心を汲んで頂ければ幸いですわ」
「それで。貴方は何者なのですか。何用でこの都へ?」
「は。緱婉姈と申します。私がここへ訪れた用はたった一つ。罪を清算しに来ました。ここに罪を犯した者がその罪を償うことなく隠棲していると聞き及びます。それは頂けない。私にその罪人を引き渡して頂きたいのです。その為だけに私はここへ来たのですよ。豊姫様」
「――――罪人」
それが当てはまるのは嫦娥だけだ。豊姫はこの緱婉姈と名乗る仙人が常人ではないことは既に分かっていた。しかし緱婉姈が月で犯した非は何一つない。城門ですら三顧の礼をして礼節を弁えた上で入ってきているのだ。
しかし嫦娥を引き渡す事は難しい。彼女は玉兎の支配者であり玉兎は月の都の運営には必要な存在だ。そもそも引き渡すにも彼女は人の形をしていないのだ。
「なぜ、引き渡してほしいのか、理由を教えて頂けませんか? そうでなければおいそれと引き渡すことはできません。それにあれは玉兎に薬を搗かせており贖罪をしておりますが」
「私がした約束を台無しにしたからです。それが罪。罪には罰が必要でしょう。罰は贖うことで清算される。ですが一向に自ら清算することなく玉兎を使役し続けてこの都で重用されている。もういいでしょう。私は待ちました。待ちに待って決断しました。あれは罪を贖うつもりはないのだと。だからここに来ました」
「約束を台無し、とはそれは一体なんの話なのでしょうか? それを信じて引き渡せというのですか? 緱婉姈殿。それでは筋が通らないのではないですか?」
筋が通らないという言葉に婉姈の表情が歪んだ。嗤っているのだ。
純狐はことここに至ってこの緱婉姈の正体に気づいた。
月の都は純狐の宿敵が悠々自適に暮らす場所だ。だが、最初から緱婉姈が語っていた通り、緱婉姈にとっても筋の通らない相手でもあったのだ。これを相手にしている豊姫に流石の純狐も同情をした。これは罠だ。悪を為させる罠だ。
「豊姫様は筋が通らないと申される。では先に申し上げておきますが。この月は今、未曽有の危機に晒されていますね? ですが事、これに関して私はなんら関与しておりません。私はただ道があったから来ただけです。それに月に穢れも持ち込んでおりません。私は仙人ですから。私は先ほど申し上げた通り、罪人の引き渡しをお願いしたくやってきただけなのです」
その言葉は悪意がある事を純狐は見抜いている。だが嘘ではないのだ。悪意を広めたのはアラディア・アーリマンであり、その悪意の道を勝手に使っただけなのが緱婉姈なのだ。具体的に緱婉姈は月に敵対する行動を何一つとっていない。ただお願いをしているだけだ。そこで気づいた。道中純狐に問いかけられた事の意味を。非のない者を裁く事は悪である、という事を。
「流石にこの蔓延している悪意には気付いていますか。そうです。この悪意によって月の民は争いを始めました。ですが無駄に殺生して血を流すのは相手の思う壺です。だから今は別の場所へ隔離しています。ですから月にいるのは現在私だけなのです。分かっていただけたならばお引き取りを願いたいのですが」
「豊姫。依姫はどうしました?」
隣で聞いていた純狐が訊ねた。
「依姫も今は別の場所です。誰かがここに残って管理しなければならないので私が残っているのです」
「一人ですか。さぞ大変でしょう。しかし私も退けないのですよ。引き渡して頂きましょう――――嫦娥を。それとも――――✕✕✕✕と言えば伝わりますか?」
緱婉姈は地上人には発音できない言葉で嫦娥を呼んだ。それを見た豊姫はただものではない仙人を敵対する仙人だと認識した。
「貴方、そう。敵対する事も辞さないと」
豊姫は手にもった扇子を緱婉姈へ向けた。それは一瞬で大浄化を齎す風を起こす扇子だ。
けれど緱婉姈は怯まなかった。それどころか純狐から制止が入った。
「やめるべきね豊姫。ここでこの女を浄化するのは月の都の終焉を意味します」
「何?」
「私もようやくこの女の正体に至ったわ。胡散臭い仙人だとは思っていたが大言を吐くだけの事はあるようね」
純狐は豊姫を一瞥して緱婉姈に向き直った。
「微かに覚えのある名だとは思った。しかし豊姫への言い分で確信した。お前、蟠桃園の女仙ね? よもや違うとは言わせない」
「ええ。最初から私は私自身を名乗っていたわ。嘘は言っていないのよ」
「食えぬ女。お前、豊姫を態と挑発しましたね? それで自身の体を浄化させれば復活する際に見えぬ体で都を滅ぼすつもりであった、そうでしょう? ――――天厲五残をばら撒く。自分では一切手を汚さずに月の民の手で終わらせるつもりだった。どうです?」
蟠桃園の女仙。
豊姫は目の前にいる仙人――――神仙の女神に向けた扇子を降ろした。正面切って戦うのであれば豊姫に軍配は上がるだろう。無論、相手は正真正銘の不老不死の神女である。復活はする。だが、天厲五残をばら撒くという純狐の言葉に戦慄した。
天の厲――――疫病。
五の残――――刑罰。
この女仙の体はまさにそれで出来ている。もし扇子で浄化したら復活の際にそれが月の都を覆った事だろう。
「私は月の民に何一つ狼藉は働いておりませんよ、豊姫様。私は私が羿に渡した不老不死の霊薬を嫦娥が盗んだ事を罪だと申し上げているのです。私は羿と約束を交わしました。しかし嫦娥は霊薬を盗み、一人で天へ昇ろうとした。それが罪。罪あるものが我が霊薬を服用することはできません。もっとも小賢しい嫦娥はあらゆる薬に精通する者へ我が霊薬と違わぬ秘薬を作らせたと聞き及んでおります。ですが罰は下った。豊姫様。嫦娥が姿を見せないのは、未だ――――蟇蛙だからですね?」
「当事者相手では沈黙も答えでしょう。その通りです。あれはずっと蟇蛙のままで玉兎に贖罪をさせているのです。我らであっても気の遠くなるほどの時間を経てなお」
「――――蟇蛙……嫦娥が……蟇蛙」
宿敵が蟇蛙であった事に流石の純狐も衝撃を受けた。
「改めて問いましょう。豊姫様。嫦娥を引き渡して頂きたい。それが出来ぬのであれば――――」
「出来ぬのなら、どうするのです?」
「時が来るまで私はここに残るだけです。根競べですね。それに――――豊姫様の力で私をどこかへ遠ざけるなら、次は夢の世界へ現れましょう。夢の世界で天厲五残をばら撒く。月に住む者がいなくなれば原始の月に戻せばいいだけですわ。ご存知の通り、原始の地球では空気すら猛毒でした。酸素など吸っただけで即死でした。それは何も地球だけではないのですよ。この月も同じこと。月には月の環境があり月の妖精がいたのにも関わらず、ましてや月の妖精を殲滅して浄化された世界を人為的に作ったのは月の民です。本来あるべき姿に戻して何が悪いのです? それとも自分達がした事をやられるのは我慢ならないと? 流石傲慢な月の民です。穢れがなくとも心は汚泥に塗れているようですね。悪意が充満するはずです。よろしいですか、罪を抱えた嫦娥を擁するのなら――――連帯責任です。月の民全ての存在を持って罪を贖って頂きましょう」
「時が来るまで根競べ――――巫山戯ているのですか!」
「まさか。貴方は聡明な方だ。豊姫様さえよければ我が蟠桃園へ転居して頂いても構わないくらいですわ。妹君の依姫様も歓迎しましょう。ですが、嫦娥を庇うのなら仕方ありません。先ほども申し上げましたが連帯責任です。私は何もしませんが、時が来れば月の都は滅ぶでしょう。それまで豊姫様を見張るのが私の役目という事ですよ。同時に豊姫様は私を監視できるわけです。今、豊姫様ができるのはここで私と向き合い続けるか、一人で逃げるか、私もろとも別の場所へ飛ばすかの三択です。私だけを飛ばすなら夢の世界が終わりますからね」
緱婉姈のそれは言うまでもなく恫喝だった。しかし現時点ではやはり緱婉姈は何一つ危害を加えてはいない。あくまで被害者の立場にいるのだ。夢の世界を滅ぼすにしても豊姫が別の場所へ送った場合のみと宣言している。豊姫の選択は反対に緱婉姈の選択でもあるのだ。
「最後まで己が手を汚さないつもりですか。緱婉姈、お前のやり方は真、気に喰わない」
月の民のような手合いは内側から崩す。緱婉姈は最初にそう言ったのだ。それを実行してみせた。みせたが、これは余りにも卑劣なやり方だった。
手を一切汚さず戦いすらせずに終わらせる。知恵比べですらない。非のない罠だ。これは都落としではない。ただの禅譲だ。
緱婉姈に提示された選択肢を前に豊姫は大きく息をついてその場に座った。
「待ちましょう。根競べ、大いに結構。時がくればと言いましたがそれはこちらも同じこと。月の民を舐めないで頂きたい。いずれ我が妹がこの局面を変えるでしょう。それまで私は待つ事にします」
豊姫につられるように緱婉姈も座った。純狐にも座るように促す。わざわざこんな場所に座らなくても、座敷にあげてくれればいいのに、と純狐は内心思ったが、豊姫のここから先には通さないという意思表示もあったのだろう。仕方なく座って緱婉姈を見る。彼女は仮面めいた笑みを浮かべていた。
「根競べと来ましたか。では焦らず待ちましょう、豊姫様。気が変われば私ごと別の場所に飛ばして頂いて結構ですので」
まるで他人事のようにいう。
ここに至って純狐はやはり一度は殺しておくべきだったかと思い返していた。