偽書 第18.8弾 東方禍福宴~The world of justice and evil. 作:加賀アスナ
第16話
太陽の畑は緩い傾斜の草原地帯である。季節柄、今は一面に向日葵が咲き乱れている。その光景は圧巻の一言に尽きる。真夏の夜にはプリズムリバー三姉妹のコンサートが連日開かれている。
その太陽の畑はたった二人によって目も当てられない惨状を呈していた。
花を操る力を持つ幽香は散っていく花弁を中空にばら撒く。須臾の中を移動する輝夜にとってはたった一枚の花弁でさえ不動の障害となる。それが幽香を中心に舞っているのだ。
これを打開する為に輝夜は火炎を纏って焼き尽くす。サラマンダーシールドの応用である。
植物に火は厳禁だ。燃える花弁を目の当たりにした幽香は愛でている向日葵を蹂躙され激昂している。
「うふふふふッ! 可憐に燃える姿は美しいでしょう!?」
「ああ、なんて果敢ないのかしら? 健気な花の一生がこんな終わり方をするなんて」
燃え堕ちる花弁ですら幽香は操り輝夜へと差し向ける。己が生み出した炎が輝夜へと牙を剥く。そこへ追い打ちをかけるように極光を放つ。
須臾を利用して躱した輝夜の出現位置を見定めていた幽香が自ら踏み込み拳を振りぬく。
風見幽香はスペルカードルールではあまり戦わない。
強大な妖力、妖怪としての肉体こそが彼女の本領と言える。そもそも花を操る力そのものは妖怪というより妖精に近い。その彼女が肉体の力に物を言わせて殴りかかったのだ。
――――しかし。
相対する輝夜もまた高い身体能力を持っている。金閣寺の一枚天井を軽々と持ち上げるほどである。幽香の拳に合わせて己の拳を打ち放つ。
拳と拳が衝突しその衝撃波が周囲を震わせる。同時に向日葵の花弁が舞い散る。
「ああ、なんて楽しいのかしら?」
「うふふッ、同感ね。貴方とはいいお友達になれそうね?」
「ええ、そうね。貴方を植えたらいいお花になりそうだもの。ちゃんと愛でてあげるわ」
「貴方、幻想郷で唯一枯れない花なんでしょう? 私、お花に水をあげるのは得意なの。しっかり飾ってあげるわ」
膠着する二人に向かって火の鳥を象った焔が襲い掛かる。
妹紅の放った鳳翼天翔である。
瞬時に察知した幽香と輝夜はそれぞれ飛び退く。二人の距離が開いたところへ妹紅が割り込み輝夜へと肉薄した。
「悪いがここからは私が相手だ」
その刹那、須臾の時間が発動する――――が。
「悪いわね、少しお邪魔するわよ?」
「なッ?」
輝夜と同じく時に干渉する力を持つ咲夜が須臾を移動する輝夜へナイフを投擲する。
体を翻して躱した輝夜は口の端を吊り上げる。
「そう、そうなの。貴方も時へ干渉することができるのね?」
「ええ、少し嗜む程度だけれど」
須臾の時間を終わらせた輝夜へ妹紅が突っ込む。飛ばされた輝夜へ更なる赤い波動が迫る。
「輝夜様! 今からお助け致します!」
間髪容れず繰り出された襲撃にさしもの輝夜も逃げきれず防御の構えを取る。鈴仙の波動を受けた輝夜は受け止めた腕を擦っている。
「――――うふふ。やっぱり妹紅は来てくれるのね。そうじゃなきゃ殺しちゃうもの。――――それにそう。鈴仙も私を選ぶのね? そうよね、あの女じゃなく私を選ぶのね? それならいいわ。遊んであげる」
「もともと、何考えてるのか分からねえ奴だったが汚染されちまってますます分かんなくなったな。あの女ってのは、永琳の事か?」
妹紅が永琳の名前を口にした瞬間、輝夜の表情が暗くなる。
「あらやだ、妹紅。今なんて言ったの? 誰を呼んだのかしら?」
「はぁ?」
「お師匠様となにかあったのでしょうか?」
「ねえ鈴仙。貴方は私を選んだのでしょう? どうしてあの女を師匠なんて呼ぶのかしら? お仕置きが必要ね」
輝夜の周囲に五色の光球が浮かぶ。ブリリアントドラゴンバレッタにて放つ龍の弾丸である。虹色の閃光と共に撃ち放たれたそれは迸る奔流の如く、大地を削り、草木を消し飛ばし、その熱量から目を焼くほどの発光が向日葵を猛火に包む。
妹紅は不死に物を言わせて真正面から光球を喰らう。それによって開いた隙間を縫って咲夜が飛び込む。援護は鈴仙に任せ、輝夜の意識を刈り取る事だけに専念する。時止めを使い、龍の弾丸も何もかもが止まる。
――――しかし。
「――――少しばかり時間を扱えるからといって得意にならないで。貴方には永遠の何たるかを教えてあげるわ」
咲夜の時止めに永遠をもって介入した輝夜に咲夜は奇妙な感覚を体感する。
――――何、これは?
自身も相手も周囲の何もかもが止まって見えるのだ。意識だけは在るのに全てが不変の世界。それなのに輝夜の声が届く。
「うふふ。気が遠くなるでしょう? それが永遠よ。さあ、貴方の時を返してあげる。――――永夜返し」
何もかもが静止した中で咲夜の体感する時だけが恐ろしい速さで過ぎていく。それは咲夜のみが感じる時止めの中で止められていた世界の時間をとんでもない速度で襲い掛からせているのだ。
常人が感じるには発狂するほどの時間が咲夜を襲っていた。それでも意識を保っていられるのは時を操る者の力ゆえだった。
「須臾と永遠を感じられるなんて、滅多にできない経験よ」
時が流れない世界での攻防は輝夜に軍配が上がった。
そして――――時は動き出す。
輝夜へと肉薄していたはずの咲夜が膝をつく。全身の毛穴から尋常ではない汗が吹き出る。輝夜の姿が二重にぼやけて見えるあたり、普段なら時を操る側の咲夜が輝夜の永遠に絡めとられた事を把握する。
――――しまった。受け損なった。何たる失態か。
「――――ぐッ! あぁ……!」
「おい! 十六夜!」
「咲夜さん!」
「やだ、妹紅。私以外を心配なんて殺したくなっちゃうじゃない?」
「ああもう汚染っていうのは本当に厄介だな……! 十六夜をやらせるかよ! パゼストバイフェニックス!」
瞬間、妹紅の姿が焼失し咲夜の体に不死鳥が宿る。これは本来なら宿った相手を攻撃するものだが妹紅はそれを反転して纏わせていた。つまりこの状態の咲夜には不死の守護がついた事になる。
「輝夜様、今の貴方は汚染されているんです! 二人はやらせません!」
「鈴仙。貴方もおいたが過ぎるわよ。それともやっぱりあの女の味方なのかしら?」
「私は――――私は家族を助けたいだけです! 輝夜様も! お師匠様も! てゐも! みんな家族だから!」
鈴仙の脳裏にレミリアの言葉が蘇る。
――――貴方は貴方の守りたいものの為に頑張りなさい。
鈴仙は今、彼女が大事だと思う家族の為にこの場に立っていた。そう、大切な家族の為に。
◆
妹紅の鳳翼天翔によって距離を取った風見幽香の側へ割り込んだ美鈴が周囲の惨状に嘆きの声を上げる。彼女は紅魔館の庭の花畑の管理も任されている。綺麗に咲いていた向日葵に憐れみを向けていた。
「ああ、せっかくの向日葵が……」
「美鈴! 今は幽香に集中しなきゃ!」
楼観剣と白楼剣を構えた妖夢がゆっくりと立ち上がる幽香を見据える。
二人の背後を小悪魔とてゐが守る。
「そう。せっかくの向日葵だったのに。ちょっとは楽しまないと消し炭損じゃないの」
輝夜との激闘に割り込まれた幽香は、それでも嗤っていた。
「――――それで? 貴方達は十分楽しませてくれるのかしら?」
「こう見えてもですね、私。武道は達人の域なんですよ。満足させてあげますよ、幽香さん」
「美鈴!?」
「妖夢さん、ちょっと私。本気でいきますね……! ですので隙があれば加勢をお願いします。てゐさん、こあ、援護は頼みますよ!」
腰を落とし構えた美鈴は幽香の一挙手一投足を見逃さない。
ゆっくりと足を踏み出す幽香に合わせて美鈴が地面を蹴って肉薄する。その膂力で地面は穿たれる。勢いそのままに繰り出された蹴りは、けれど幽香に止められる。
「いいわよ。紅魔館の門番さん。こういう手合いも悪くないわ」
受け止めた足を幽香は掴み力任せに投げ飛ばす。そこへ妖夢が斬り込んでいく。
だが。妖夢が踏み込むその直前。幽香は地面へ放り投げていた傘を爪先で蹴り上げて、柄を掴む。
刹那の早業をやってのけ――――切り込んだ楼観剣と切り結ぶ。
「そんな、傘で!?」
「いいでしょう? 唯一枯れない花は折れもしなければ千切れもしないのよ」
切り結ぶ妖夢を足蹴にして押しのける。そこへてゐの放った赤と青の弾丸と小悪魔の放った弾幕が幽香に炸裂する。
周囲を巻き込んだ弾幕に土煙が上がる。これで少しでも幽香へダメージが通っていれば、そう思ったのも束の間、土煙が収まるとそこには傘を広げて身を守った幽香が立っていた。
「なかなかやるじゃない。そうじゃなきゃ面白くないわ」
弾幕に傷一つついていない傘を閉じてゆったりと突き出してくる。挑発のつもりらしい。楼観剣の柄を力強く握り締め歯噛みする妖夢に美鈴が静かに耳打ちする。
「挑発に乗っては駄目ですよ。私達の役目は飽く迄幽香さんを引き付ける事です。咲夜さん達の戦いに邪魔が入らないようにするのが仕事です。いいですか、妖夢さん」
冷静な美鈴の声が頭に血の上った妖夢を静めてくれる。そうだ、ここで挑発に乗ったら相手の思う壺だ。力んで握る刀では太刀筋など容易に見切られてしまうだろう。もっと自然に。握った刀が己の手の延長であるが如く操らねば。まだまだ未熟な己を認めその上で最善を尽くさねば届かぬ相手だ。
「ありがとう、美鈴。傘で受けられて動揺してた。大丈夫、やる事はわかってるよ」
妖夢の肩を軽く叩き美鈴は再び幽香の前に立つ。
美鈴の息遣いは周囲に溶け込むかのように自然で闘気すらも感じられない。傘を向ける幽香へゆらりと湖面に触れる花弁のように静かに、早く、誰も気付かぬうちに距離を詰めて彼女の懐へ潜り込む。
それは道教では縮地と呼ばれる距離を縮めて移動する仙術に近いものだった。
美鈴の套路は完璧だ。秘門まで極めた彼女の所作に無駄なところなど一切ない。幽香との距離を詰めたのもその歩法に寄る所であり武道の神髄のさらに上を行く妙技をやってのけたのである。
「言ったでしょう? 楽しませてあげますと」
寸勁を熟知している美鈴は拳に気を乗せて潜り込んだ幽香の懐へ炸裂させた。虹色へ見えるほどの凝縮された気は彩光蓮華掌のそれと同じである。
隙の無い流れる所作から受け身すら構えられなかった幽香はその威力をもろに喰らう。後ろへ仰け反り後ずさる彼女へ美鈴は手を緩めない。
静の動きから剛の動きへ。震脚でさらに踏み込んだ美鈴の拳には並みの相手であれば一撃で意識を刈り取る威力がある。
容赦のない連撃。防ぐ事もままならず受けるがままの幽香へ腰だめの体勢から踏鳴を行い浮かせる。そこへ全身をばねとして追撃の蹴りを放つ。飛ばされる彼女へ美鈴は小悪魔とてゐへ追い打ちを指示する。さらなる弾幕に晒された幽香は地面へ強烈に叩きつけられた。
「――――がッ! ――――ッう……!」
さしもの幽香でも今のは効いたらしい。呻きをあげて悶絶する。
――――けれど。
ごう、と花弁が視界を覆い尽くさんばかりに舞い、幽香を包む。それは瞬きをする一瞬だった。その刹那よりも短い時間。
浅い呼吸を繰り返しながらも立ち上がった幽香は先ほどまでと異なり、肩口の長さだった髪の毛が背中まで伸びてチェック柄のスカートだったそれはズボンに変わっていた。まるでより戦闘がしやすい服へ変えたように。
「やってくれるじゃない。貴方はちょっと――――虐めてあげるわ」
今までが遊びであったとでもいうように妖夢達の前に立ち塞がる。
「なるほど、聞いた事があります。幽香さんは幻想郷でも最古参の妖怪だそうですね? 夢幻とよばれる世界に屋敷を構えている、と」
「それを知っていて私の前に立つのね? いいわ。面白いわ貴方、夢幻館で雇ってあげる」
「生憎と間に合っておりますので、辞退させて頂きます」
「つれないわ。貴方はいい門番になりそうね。くるみとエリーに新人がきたと教えてあげないとね」
「行きませんよ!?」
軽口を叩きつつも幽香から発する闘気は肌で感じられるほど濃い。
仕切り直された戦いは次の段階へと進む。
幽香と対峙しながら妖夢は背後に感じる咲夜達の戦闘に気を向ける。まだ決着は遠いらしい。美鈴の言葉を反芻し自分たちの役目をよく肝に銘じる。幽香を輝夜と引き離しておくこと。確かに幽香は幽香で脅威だが幻想郷に於ける危険度というなら永琳と輝夜が優先されるのは分かっている。
それに。
妖夢の目的である幽々子を救う為に取れる最善の方法はまずは永琳と輝夜を捕縛する事だ。そうすれば幽々子救出に手を貸してくれる者もいるはずだ。紫は幽々子の友人であるし、輝夜の脅威がなくなれば妹紅だって手が空くはずだ。咲夜達はレミリアの事があるから難しいかもしれないが鈴仙達は手伝ってくれるかもしれない。隠岐奈や神奈子は分からないがこの状況に手を拱いている筈はない。
幽々子はまだ大丈夫だ。根拠はない。根拠はないがそう信じている。例え映姫たち閻魔が幽々子を捕らえたとしても即、断じられる事はないはずだ。犯した罪を検められそれに応じた罰が下される。さらにいうならこの悪意に晒されている幽々子なら情状酌量の余地は間違いなくある。
であるならば。間に合わないはずがない。
――――だからこそ。
そう、これが妖夢の最善の方法。
◆
さて。
この悪意が蔓延する幻想郷に於いて幸か不幸か悪意に汚染されず、それどころか悪意にすら気づいていない者が存在していた。
妖怪の山のさらにその上空に天守閣が地を向き石垣が天を向いた逆しまに浮かぶ城がある。かつて強欲に溺れた小人族が秘宝である打ち出の小槌を使い築城した輝針城だ。
打ち出の小槌の魔力を湯水の如く使い造り上げた輝針城の内装は華美絢爛で金色の屏風、凝った意匠の灯篭、透かし模様の入った障子、雰囲気を崩さない質のいい調度品を並べ、その偉容を見せつけている。全体的に豪華でありながら下品にならない風情を醸し出していた。
その輝針城の一室に賑やかな声が響いている。
一人は輝針城の城主、少名針妙丸。
一人は天界の天人くずれ、比那名居天子。
一人はそのお目付け役、永江衣玖。
一人は不運が義務付けられた貧乏神、依神紫苑
一人はその妹にして不幸が義務付けられた疫病神、依神女苑。
天子は本来天界に住んでいるのだが、天界の退屈な生活に嫌気が差し十日ほど前から幻想郷へ降りてきていた。輝針城は幻想郷での天子の宿泊地なのである。衣玖はその付き添いでここにいる。そこへ天子が幻想郷へいると聞いた紫苑が会いに来た。天子は紫苑の不運が効かない稀有な存在なのだ。紫苑が輝針城へ向かったので女苑もやってきた訳だ。紫苑が訪れた事で輝針城をねぐらにしている鬼人正邪は城を飛び出していった。
すでに十日も輝針城で飲み食いと惰眠を貪っている天子だったが流石に飽きがきたらしい。地上に降りてみるかと呟き始めている。天子にしてみれば輝針城は奇々怪々の場所であるので多いに暇を凌げるのだ。内装もさることながらそれらが全て逆さになっているのだからいつ見ても驚嘆に値する建物なのである。城内を歩いているだけでも見応えは十分だ。
それに付き合わされる衣玖は大変だった。確かに輝針城の不可思議さは目を瞠るものがあるが三日もすれば慣れるのだ。天子のように細部までしげしげと観察する気もないしどうしても飽きがくる。だが依神姉妹がきてくれたお陰で話し相手には困らない。それに堀川雷鼓がプリズムリバー三姉妹と九十九八橋と九十九弁々を呼び大座敷でセッションをしているので顔を出すと即興で何かしら披露してくれるのだ。雷鼓はミスティアと幽谷響子のユニット、鳥獣伎楽も呼ぶつもりがあったらしく対バンライブの企画を考えているようだった。九十九姉妹にオープニングアクトを任せプリズムリバーウィズHと鳥獣伎楽がダブル・ヘッドライナーを務める。構想は練っていたものの残念ながらミスティアは八目鰻の屋台経営に時間を割いているようで掴まらなかった。ミスティアがいないし幽谷響子だけを呼ぶのも気が引けたので今回は軽い企画説明を兼ねたセッション会として集まったようだった。
この一見平和に見える輝針城だが悪意に晒されていない理由は何を隠そう依神姉妹のお陰なのである。彼女たちは悪意に対していつもより気が滅入る程度に感じてはいたが厳密には分かっていなかった。しかし紫苑と女苑が来た際に輝針城は憑かれているのだ。貧乏神と疫病神の効力によって悪意から身を守られているとは針妙丸、天子と衣玖、雷鼓らもさすがに気づいていなかった。飛び出していった正邪だけが悪意に汚染されるという不幸を見事に成し遂げているのは貧乏神と疫病神の面目躍如だった。
輝針城は人知れず安全地帯となっていたが暇を持て余した天子には関係なく天守閣まで下りて行き廻縁から地上を眺める。何か目ぼしいものがあればそこへ退屈凌ぎに首を突っ込む腹積もりだった。
目を引いたのは一目瞭然のレミリアの紅霧だ。赤い霧が輝針城からはよく見えた。時折り閃光が迸り何かが起こっているのは間違いない。他には妖怪の山で天狗がいつもより多く飛び回っていることと、時たま太陽の畑と呼ばれる地帯から極光が放射されることくらいだろうか。博麗神社はどうかと目を向けると何やら大所帯になっている事は分かった。
――――何故か。
背筋に悪寒が走った。何かの虫の知らせだろうか。現在、博麗神社には八雲紫が居座っている。それに気づいたわけでもないだろうがそれとも天子の本能が見せた危機回避だったのか、博麗神社へ降りる事は選択肢から外れた。
となると面白そうなのはやはり紅霧だろう。なんだか分からないが派手なのはきっと楽しい事に違いない。
「いいねぇ。あの霧が新しい異変解決ごっこの異変ってわけね。私抜きで楽しもうだなんて、なんてズルいのかしら。ふふん、私を満足させてくれる異変ならいいんだけど、ね!」
そう言って天子は廻縁から飛び出し浮遊する要石に乗り移る。
「さあ、今度は私が解決側ってわけね!」
そのまま紅霧に向かって墜落していく。それを見ていた衣玖は溜息をついた。一旦針妙丸へ天子が飛び出していった旨を説明し追いかけるのでこの場を辞させて頂きます、と礼を含めて伝える。対して針妙丸は快く送り出してくれた。
天子が出て行ったのを知った紫苑は女苑へ追いかけようと提案するが女苑は嫌そうな顔をして姉さんだけ行ってくれば、と相手にしない。女苑にしてみれば輝針城にいれば衣食住に困らないのだ。何が悲しくて面倒ごとに顔を突っ込む天人のお供をしなければならないのか。針妙丸も針妙丸で正邪が帰ってくるかもしれないし待ってるからいいよ、と女苑が輝針城に残るのを良しとしている。
紫苑は頬を膨らませて女苑を睨んだのち、天子を追って地上へ降りた。天子と衣玖には紫苑が憑き、針妙丸ら輝針城組には女苑が憑き、二手に分かれても貧乏神と疫病神の加護が憑いた事で悪意を防ぐ事になったのは偶然か、はたまた奇跡か。何にせよ、悪意汚染によって意識を保っていられるのは幸運と言えた。
◆
要石に乗ってさながら隕石の如く落下し紅霧を突き抜けた天子にレミリアとフランは気づいていた。要石が通った所だけ紅霧に切れ間が出来ておりそこを衣玖と紫苑も通過する。
霧の湖の外周に落ちた天子へ紅霧の中、激闘を繰り広げていたレミリアの真紅の双眸が向けられる。
悪意に気づいていたレミリアは事前に周到な対策を練っていた。それがスカーレット姉妹を除く全ての紅魔館の住人の完全避難であった。しかしフランドールだけはレミリアの対策の範囲外だった。そもそも地下から出る気がないのだ。後で知ったことだが摩多羅隠岐奈の口車に乗せられて旧血の池地獄で起こっていた異変の解決に赴いていたことは流石に驚いた。どのような気まぐれでフランが隠岐奈に従ったのかは分からないが、考えられるのは好きに暴れていいだの、やりたい放題破壊していいだの、その手の類で唆されたのだろう。ただしそれはフランをその気にさせる魅力があったからだ。今回の悪意の対策としてフランに協力を求めたとしても上手くはいかなかっただろうことはレミリアも重々承知していた。
で、あるならばフラン以外を紅魔館から退去させそのフランの対処を行う者が残れば、大きく見積もっても紅魔館を含めた周辺くらいでの範囲で被害を抑えられると算出したのだ。
こんな訳の分からない悪意に汚染されて欲望のままに暴れられては吸血鬼の名折れである。暴れるのなら暴れるだけの筋の通った崇高な理由がいる。それがレミリアの吸血鬼としての誇りだ。紅霧異変とて吸血鬼の活動の内、半日を阻害される日光を遮断する為に行ったのだ。
吸血鬼は弱点も多い種族だ。流水であったりにんにくであったりイワシの頭であったり折った柊の枝であったり炒った豆であったり。
だがそのほとんどは自ら回避する事ができる。しかし日光だけはそうはいかない。どうあがいても日は昇る。日照時間は活動に制限が嫌でもつく。種族を理由に半日も活動ができないなどとは納得がいかないのだ。それ故に吸血鬼であっても一日活動できるように。半日という時間を奪われないように行ったのが紅霧異変なのだ。
なのにこれはどうだ。
悪意によって増長した欲望で突き動かされたフランの姿は余りにも痛ましい。誰がどのような目的で悪意を齎しているのかは知らない。知らないが落とし前はつけてもらう。既に咲夜へ首尾よく解決しろ、と言いつけてある。ならば己はソファにでも踏ん反り返って事後報告を聞けばいい。わざわざ自分の手を煩うまでもない。忠実な自慢のメイドの手際を思い知るがいい。
それまでは姉妹仲良く待っているだけでいい。自分は姉だ。妹の面倒を見るくらい訳はない。紅霧の中でなら何百年だって姉妹喧嘩できる。
だが。
邪魔が入ってしまった。フランの意識をレミリアだけに向くようにしていたのだ。レミリアにしてもフランへ向くように悪意対策の一環で調整してきたのだ。それは一対一で向き合うという前提があった上での話だ。紅霧を突き抜けてくる輩など想定外だった。
それが地面にクレーター状の被害を出しておきながら悪びれもせずに揺らめく刀身の緋想の剣を向けてこちらを見ている。
以前咲夜とパチュリーに聞いた事がある。揺らめく刀身を向けているのは確か天人の比那名居天子だ。博麗神社を倒壊させた前科者。隣の羽衣を身に着けているのは永江衣玖と言ったか。天子のお目付け役だ。それからなぜか。貧乏神の依神紫苑がいる。
衣玖と紫苑はともかく緋想の剣を向ける天子は敵対の意志があるとみていいだろう。何しにきたのかまでは分からないが。
――――と。
そこへ遠くから走ってくる人影が一つとそれを追いかける浮遊しながら疾走している影が一つ。
物部布都と蘇我屠自古だった。
布都は神霊廟を飛び出していた間、ずっと屠自古から逃げ続けていたのだ。その逃げる布都を屠自古も追い続けていた。
布都は人里や妖怪の溜まり場を避けて人気のない山野を通っていたが時折り屠自古に追いつかれ接触戦闘を行っていた。雷撃を得意とする屠自古の猛攻で焼け焦げた個所がいくつも見られた。
――――なんだあれは?
布都と屠自古が単なる追いかけっこをしているように見えたレミリアは悪意が覆っている現状で何をしているのか理解ができなかった。
しかし布都にしてみれば協力を仰げるかもしれない相手と出会ったのだ。人里や妖怪たちの溜まり場を避けたのはより悪意の濃度が深い所を避ける名目があったからだ。
布都の姿を認めた衣玖と紫苑へ呼びかけた。天子はレミリアとフランに夢中だ。
「おーい! た、助けてほしいのじゃ!」
本来なら布都も悪意に汚染されるはずだった。だが緱婉姈が細工した所為で布都から生じた悪意であっても屠自古へ吸収されるように歪められていた。それが布都の悪意汚染が進まなかった原因だった。それはそれで幸運だったわけだが。そしてもう一つの幸運は声を掛けた衣玖たちが汚染者ではなかった点だ。度重なる屠自古の雷撃に堪えていた布都は衣玖たちが汚染されているのかどうかを確かめる事をしなかった。とはいえ風水を操る彼女は逃げながらも運気の風向きが自分に向くように仕向けていた。それがこの場で衣玖たちと出会えた要因だった。
「総領娘様、あちらは如何致します?」
「もちろん任せる!」
嬉しそうな表情の天子が緋想の剣の刀身を見ると――――緋想の剣は気質を見極める能力があり、必ず相手の弱点を突く――――眩い光の刀身へと変わっていた。レミリアとフランは吸血鬼である。その最大の弱点は日光である。緋想の剣は太陽の性質を帯びて光の刀身へと変わったのだ。日光を放射する対吸血鬼特化した剣になっていた。
天子は要石を空中にいくつも浮遊させた。剣を振るうには十分な踏み込みができる足場がいるからだ。レミリア達がいる所よりやや低いが空中戦闘を行うのに十分な足場を作った。
「よーし、行くわよ!」
日光を纏う緋想の剣を手に要石へ飛び乗り上昇していく。空中に浮遊させた要石郡と同じ高さまでくると緋想の剣を振り下ろす。勇気凛々の剣の応用で日光の属性を持った斬撃を打ち放ったのである。
大振りの斬撃は避ける必要もなかったが斬撃が過ぎた後の紅霧が消滅していた。レミリアとフランには当たらなかった訳だが、天子の放った斬撃、それを打ち出した緋想の剣が日光の力を放つ事を吸血鬼姉妹は読み取った。
――――天人風情が私の対策を台無しにした事、その身をもって贖ってもらうわ。
神槍グングニルを手にレミリアは天子へと滑空する。先に天子へ攻勢をかける事でフランの目を引いておく算段もあった。つられて天子へ突っ込んでくれれば御の字だ。紅魔館周辺から飛び出されるのが最悪のシナリオとなる。
しかし流石はフランの姉だった。レミリアが攻勢をかけた事に見事につられたフランが続いて天子へ突っ込んだ。
先に天子へ肉薄したレミリアが神槍を振るう。合わせてきた天子の緋想の剣と切り結ぶ。けれど接近した事でレミリアは白兵戦を挑んだ事が間違いだったと気づく。緋想の剣は日光の属性をもった斬撃を飛ばすのではない。剣そのものが日光を放射しているのだと。鎬を削る間に肌が焼けていく。しかし下手に引けば追撃をもらう。だが、そこへ僅かに遅れて魔槍レーヴァテインを構えたフランが突撃してくる。二人を相手にするのを避けた天子が別の要石へ飛び移る。これで天子と距離を取れたが、近距離戦は悪手であるとレミリアもフランも感じ取っていた。
吸血鬼は身体能力に優れており再生能力も備えている上位種族
だ。鬼に次ぐ力と天狗へ迫る速さを兼ね備えたオールラウンダーである。速さで翻弄し力で捻じ伏せる事が得意と言える。
だがこの天子を相手にするには分が悪かった。特に接近戦では緋想の剣からの直射日光が厄介な事この上ない。
一旦、紅霧の中へ引いたレミリアだったが狙いを大まかに定めて数撃ちゃ当たるが如くの天子の斬撃乱舞には参った。当たりはしないが紅霧そのものを消滅させているのだ。
「狙っているのか、それとも無暗矢鱈に放っているのか、どちらにしても勝手に顔を突っ込んだ挙句、面倒な事をしてくれるわね……」
ちら、とフランの様子を見る。レミリアが思っていた事はフランも思っていたようで面白くない表情で天子を見下ろしている。
また天子が楽しそうにしているのがますます気に入らないようだ。
吸血鬼姉妹が似たような事を考えている中、同じく天子が楽しんでいるだろうことを察していた衣玖は溜息をついて助けを求めてきた布都から現在、幻想郷で起こっている事を聞いて二度目の溜息をついた。
「……悪意、ですか」
「うむ。太子様が仰っていたから間違いない。我は本当なら神霊廟を守っていなければならなかったのだが、不覚をとってしまったのだ」
「それが彼女、という訳ですか」
衣玖は屠自古を見据える。両腕に雷を纏っている。
「私の前に立つってのは、敵ってことでいいんだよな?!」
黄色の矢の雷撃が放たれ、それは九十九折りのような軌道を描き衣玖と紫苑、布都へ迫る。
――――だが。
「全く。落ち着いて話もできないではないですか」
衣玖が手を翳し円を描くように体を回転させると屠自古の雷撃を自身に纏わせていた。
「い、衣玖殿、それは一体」
「こう見えて空気を読むのに少し心得がありましてね」
「それは、い、痛くないの?」
心配気に紫苑が訊ねると衣玖は笑顔で平気ですよ、と答える。しかし納得がいかないのは屠自古の方だった。まさか己の攻撃を捉まえるとは思いもしなかった。
「おいおい、なんだよそりゃあ!?」
「いきなり物騒じゃありませんか。こんなのが当たってしまったら酷い怪我を負いますよ」
「お前、舐めるなよ!」
屠自古は続けて雷撃を放つ。さらに雷鳴すら轟く落雷を衣玖目掛けて落とした。
直撃すれば被害は衣玖どころか布都と紫苑も巻き込む範囲だ。焼身で済めばマシでこの周囲一帯が炎上する可能性すらもある。
――――しかし。
それすらも衣玖が手を翳した瞬間に直撃するはずだった雷は落ちることなく身に纏っていた。さらにそれが五芒星の形へ変化し衣玖の周りで回転し始めた。
「人に向かって放つのですから、自分が受ける覚悟は当然ありますよね? これはお返しですよ」
屠自古の雷を利用した五爪龍の珠を撃ち放つ。回転して直進したそれを辛うじて躱した屠自古は苦々しい表情を浮かべている。
まさか己の起こした雷を捉まえるのみならずそれを反撃に使用するとは思いもよらなかった。
今の攻防で布都は屠自古と衣玖の相性を読み取った。
屠自古の起こす雷は脅威的な威力を持つがその雷を操れるのが衣玖なのだ。正確には空気を読む能力が雷の操作もできるという事なのだろう。
「紫苑殿。貧乏神のお主に頼むのもおかしな話ではあるが、我にも憑りついてもらえぬか。我はまだ未熟故、己で悪意を払う事ができぬ。神を信じるのはやめた我だが、悪意に左右されぬようになるには加護が必要なのじゃ。頼めるだろうか」
「え、それは、いいけど」
突然憑りついてくれと言われた紫苑は面食らって衣玖へ顔を向ける。果たして憑りついていいものか迷っているのだ。すると衣玖からは総領娘様の運気が相殺するから大丈夫ですよ、と返ってきた。その言葉に安心して布都へ憑りつく。憑りつかれた布都は気が滅入るくらいは覚悟していたが流石の天子の運気である。共に行動している限りは紫苑の不幸を受けることはなさそうだった。貧乏神の加護を得た事で悪意は気にしなくてよくなり、衣玖と二人でどうにか屠自古を取り押さえるべく行動を起こす。紫苑は衣玖の傍にいた方が安全なので布都だけが回り込んで挟み撃ちの形を取る。
「散々付け回してくれたの、屠自古。しかし衣玖殿が味方になってくれた以上、もうなにも怖くはないぞ。今こそ年貢の納め時! 覚悟せい! 大人しゅうなるがよい!」
かっこよく見得を切った布都に紫苑は、
「全然、かっこよくないよ……」
と、少し呆れていた。衣玖は何処か引っかかるところがあったのがくすくすと笑みを溢していた。
「では。あれだけ頼りにされているのですから役に立ちましょうか」
羽衣をはためかせ僅かに地面より浮いて屠自古へと疾走する。
向かってきた衣玖へ雷撃をもって迎撃する屠自古だが今度は羽衣を翻され雷撃を受け流された。それを目の当たりにしても屠自古は手を緩めない。むしろより威力を増大させて撃ち放ってきた。入鹿の雷だ。赤と黄の矢めいた雷が逃げ場を封じるほどの範囲に広がり衣玖を追い詰める。それでも衣玖は焦らない。
「竜宮の使いを甘く見ない事です」
襲いかかる雷撃が衣玖の周囲で球状に圧縮され、無数の雷の玉を形成する。
――――衣玖が用いるスペルカードに竜宮の使い遊泳弾というものがある。
屠自古の雷を能力によって操作しそれを遊泳弾へ利用したのだ。五爪龍の珠の再現ではあるが遊泳弾は入鹿の雷と同じく広範囲を狙える術だ。衣玖は屠自古に対し似た効果のある遊泳弾を用いる事で意趣返しをしたのである。
二度も己の雷を利用された屠自古も流石に認めざるを得なかった。衣玖を相手にするには分が悪いと。しかし屠自古とて雷の扱いは慣れたものである。いくら利用され撃ち返されようと雷撃に当たって感電するなどという初歩的な失敗などありえない。
背後に迫る布都との距離を逆算し遊泳弾が布都へ当たるように立ち回る。仲間同士で相打ちしてくれるのなら願ったり叶ったりだ。倒れた方の体を頂けばいい。遊泳弾を躱しながら屠自古は布都へ迫る。それを見越してか布都は炎の風を巻き起こす。霧の湖の外周の草木は屠自古と衣玖の雷撃と布都の炎によって焼野原の様相を呈している。
遊泳弾と炎風で屠自古を追い詰めたと確信した布都、逆に遊泳弾の流れを読み切り相打ちへ嵌めきったと信じる屠自古。
互いに互いを討ち取ったと思った瞬間である。
布都の炎風は突然の高波に飲み込まれ鎮火し屠自古もそれに晒される。衣玖だけは能力を駆使して高波に切れ間を作りそこから中空へ脱出する事ができた。
が、残された布都と屠自古は導電性のある水を被った事により遊泳弾の雷の玉と閃光に感電した。
一体今の一瞬に何が起こったのか。それを衣玖は空から確認した。
霧の湖から何者かが顔を出している。果たしてそれは――――わかさぎ姫だった。彼女の湖のタイダルウェイブをまともに受けた事で布都も屠自古も感電し完全に麻痺していた。
しかしこの場合、被害者は己の棲む湖の周囲を炎上させられたわかさぎ姫だったろう。
彼女は生来大人しく人間に対しても敵対心のない妖怪である。妖怪とされてはいるが寓話的な伝説の生き物としての認識の方が人間には強い存在である。無論、彼女にも不満に思う事はあり、打ち出の小槌の力に影響された際には暴れてしまった過去もあるにはあるのだが。
今回の幻想郷に於いて悪意の影響を被った妖怪の中では比較的軽度と言える彼女だったが――――湖で暮らす彼女には外敵となる存在は陸上から齎される場合が多く、水中にいる限りは悪意を受けても増大することがなかったのが幸運といえた。だがそこへ要石を派手に墜落させた天子に、屠自古と布都が戦いを持ち込み、それも湖に落ちたら被害を受ける雷の属性を持つ屠自古と衣玖がすぐそばでやり合っているのである。おっとりした彼女でも自分の棲み処を脅かされるとあれば穏やかではいられなかった。じっと湖から戦いの様子を見ながらここぞという時に攻撃を仕掛けたのだ。普段なら声を掛けるところだが攻撃手段に訴えたのは悪意の影響を受けた証左でもあった。それはタイミングでいうのなら完璧だった。衣玖と紫苑を除き、布都と屠自古の二人を撃沈した戦果は十分といえよう。
けれど不意打ちだからこそ打倒しうることができたともいえる為に空へ逃げられた衣玖へ視線を向けるが不利なのはわかさぎ姫である事は明白だった。となれば残された手は交渉しかなかった。
「あのぅ……」
「貴方は人魚ですね? なるほどここが貴方の棲み処だったと。これは失礼致しました。周囲を騒がせてしまった事、お詫びいたしますわ」
声を掛けると同時に衣玖にかぶせられそれも先に謝罪をされてしまった。続けて言うべき言葉を失ってしまい、わかさぎ姫は衣玖を見返すことしかできなかった。
「そこの二人は回収しておきますので安心なさってくださいね。ああ、それと空で総領娘様が遊んでいますが湖には被害は出ないと思いますので大丈夫ですよ」
天子が相手をしているのは吸血鬼だ。湖に流入する水は妖怪の山から来ているものである。流入口の近い場所へいれば流水を嫌う吸血鬼は大丈夫だろう、と衣玖はわかさぎ姫へ告げた。
軽度とはいえ悪意の影響を受けているわかさぎ姫だったがそれでも相手との相性の悪さは把握できていたし何より謝罪を申し入れてきたのだ。それに関しては悪い気は全くなかった。
ゆっくりと頷いて衣玖へ了解した旨を伝えるとわかさぎ姫は流入口へ移動していった。それを眺めてみていた衣玖は安堵した。謝罪を口にしたのも先に謝れば事なきを得られるか、と思っての事だったし無論、わかさぎ姫は被害者なので謝罪を受ける権利があるのだがこの悪意が満ちている状況ではわかさぎ姫と一戦交える可能性もあるかと考慮していたのだ。どうやら相手は納得してくれたか水中へ潜り見えなくなったので衣玖は今だ麻痺している布都と屠自古へ近づき羽衣で二人とも拘束した。屠自古は悪意の影響があるから仕方ないが布都はわかさぎ姫が見ているかもしれないと考え見せしめに拘束したのである。それを終始見ていた紫苑が近づき口を開いた。
「なんか、悪い事しちゃった気分」
「まあ、人魚の彼女に非はありませんからね。戦いを持ち込んだのは総領娘様とこの二人です。責任はとってもらいませんとね」
紫苑の言葉は実は布都へ向けられた言葉だったのだが衣玖にはわかさぎ姫への気遣いだと受け取られてしまった。確かにわかさぎ姫には気の毒なことだったのは間違いないが。
「……私達は?」
「もちろん私達も巻き込まれた側ですから、気にする必要はありません。いいですか、責任者というのは責任を取る為にいるのですよ」
笑顔で答える衣玖に紫苑はこれが衣玖の処世術なのだと思った。なにせあの天子のお目付け役として傍にいるのだから生半可な精神ではやってられないのだろう。紫苑は衣玖にできる女の像を見出した。強かに生きる処世術を学べば貧乏神でもちょっとはマシな生活ができるかもしれない。ところで責任者とは天子の事だろうか、と脳裏を過ぎるがアレが責任を取るタイプだったか紫苑は疑問符を浮かべざるを得なかった。
「しかし。どうしたものでしょうか。総領娘様があれでは」
天子と吸血鬼姉妹の戦いは未だ終戦する気配がない。周囲を見渡した衣玖は羽衣で拘束した二人を引き摺りながら紅魔館へと足を向けた。
「しばらく戦いは続くでしょう。少なくとも総領娘様が飽きるまでは。それまで少し宿を借りるとしましょう」
紫苑は頷いて衣玖の後へ続いた。無人の紅魔館に侵入するのは非常に容易い事だった。見晴らしのいいテラスに腰を落ち着け天子と姉妹の戦いを見守りに入った。そして気の毒な事に布都は何故自分が拘束されているのか理解ができなかった。